吉田義男さん死去 阪神元監督、初の日本一 91歳[2025/02/05 日本経済新聞 朝刊 34ページ 656文字 PDF有 書誌情報]
プロ野球の阪神タイガースで名遊撃手として活躍し、監督としても球団初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日午前5時16分、脳梗塞のため死去した。91歳だった。阪神球団が4日、発表した。(評伝をスポーツ面に)
京都府出身。1953年、立命館大を中退して阪神に入団した。新人から遊撃でレギュラーの座をつかみ、66年まで14シーズンにわたって定位置を守った。身長167センチ、体重56キロと小柄ながら抜群の運動センスを誇り、「牛若丸」の異名で人気を集めた。
守備範囲は広くて強肩、俊足。走塁、バントの名手としても知られた。67年に二塁手に転向し、69年に現役引退した。
現役引退後、75年からと85年からの各3シーズン、97年から2シーズンの通算8季にわたり阪神の監督を務めた。85年にはバース、掛布、岡田の強力打線を擁して21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに日本シリーズで西武を破って日本一になった。
89年から7年間は渡仏し、パリでクラブチームと、フランス・ナショナルチームを指導した。
現役時代は54年、56年に盗塁王、55年に最多安打。セ・リーグのベストナイン遊撃手には9回選ばれた。通算2007試合、1864安打。背番号23は阪神の永久欠番。監督通算484勝511敗56分け。85年に正力賞を受賞し、92年に野球殿堂入りを果たした。
また、日仏友好の功績をたたえられて94年に外務大臣表彰、97年にフランス・スポーツ大臣賞を受賞した。
2008年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
一条ゆかり(5) 貸本デビュー 高校2年で自作が掲載 「生きていていい」喜びに浸る(私の履歴書)[2025/02/05 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1378文字 PDF有 書誌情報]
「こんなポンチ絵なんか」
幼い頃から母に何度こう言われただろう。中学生になって、ますます漫画に夢中になった私を、母は全く認めなかった。
母にとって、漫画家など最底辺のさらに下の職業だった。1960年代は漫画が「悪書」と公然と批判されていた。私が育った岡山県玉野市のような田舎では、都会以上に、漫画家を職業として認めてもらうのは難しかったと思う。しかも母は、瀬戸内の名家に生まれ、以前は裕福だったからなのか、プライドが高く、差別意識も強かった。
母の機嫌を損ねないためにも、優等生でいようと頑張った。勉強もスポーツも、成績はよかった。何かひとつでもミスをすれば、すべて「漫画のせい」と言われたからだ。
「デザイナー」という私の漫画に「私がなりたいのは常にトップよ それ以外なら最低も同じだわ」というヒロイン、亜美のセリフがあるが、これは母の言葉がもとになっている。トップ以外は認めない。そんな人だった。
高校受験が近づいた。地元の進学校である県立高校に入れそうな成績で、母と教師と私による1度目の三者面談では「県立」で意見が一致した。しかしその後、この高校に進んだ優秀な先輩の話を聞くと「宿題以外に毎日3時間は勉強しないと授業についていけない」。困った。それでは漫画を描く時間がない。
人生でこんなに悩んだことは無いというほど悩んで、私は漫画を選択した。2度目の三者面談で「私1人で大丈夫」と母をだまし「藤本さんは県立よね?」と確認する教師に「商業高校に行きます」。
私は勝負に出た。「2つ上の兄が商業高校に通っていて、あと1年たって卒業したら岡山を離れます。残りの1年間を大好きなお兄ちゃんと同じ学校で過ごしたいんです!」「でもお母さんは?」「はい。母も承知しています」。堂々とをついた。
事の次第を知った母の怒りは私の想像を超えていた。「もし落ちたら、児島に行きなさい」。児島というのは、学生服の工場がある町。そこで働けということだ。
受験に失敗したらどうしよう。人生で、これ以上ないというくらい追い込まれたけど、無事合格。入学後は学校には失礼だが、授業中ももちろん漫画を描いた。一応、教科書やノートで漫画原稿を隠したり、教師の死角に入りやすい、教壇の真ん前の席に座ったりしていたが、バレバレだったろう。教科書も学校のロッカーに入れて、通学カバンの中は弁当と漫画の道具だけだった。
貸本屋にも毎日通った。この頃、若木書房という出版社が貸本専用の漫画誌を出していて、一冊の後半部分に新人の作品を載せていた。そこに原稿を送ったら「ページ数を調整して、ココとココを直して再度送ってください」と連絡があり、その通りにしたら、見事掲載。高校2年の時「風車」という本に、本名の藤本典子の名で初めて自作が載った。「雨の子ノンちゃん」というタイトルだった。
何も持っていなくて不安だった自分が、ある日突然「君は生きていていいんだよ」と世間に存在を認められた気がした。うれしくて、うれしくて、うれしくて、ご飯を食べながら本を開き、寝る前にもまた開いた。原稿料は確か5000円。50ページ近い漫画にかけた労力を思うと、とても食べていけないと思った。それでも、漫画家になるという決意はブレなかった。
(漫画家)
【図・写真】貸本に初めて載った自作(明治大学現代マンガ図書館蔵)
吉田義男さんが死去、91歳 阪神で名遊撃手・監督で日本一[2025/02/04 17:52 日経速報ニュース 645文字 画像有 ]
プロ野球の阪神タイガースで名遊撃手として活躍し、監督としても球団初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日午前5時16分、脳梗塞のため死去した。91歳だった。阪神球団が4日、発表した。
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京都府出身。1953年、立命館大を中退して阪神に入団した。新人から遊撃でレギュラーの座をつかみ、66年まで14シーズンにわたって定位置を守った。身長167センチ、体重56キロと小柄ながら抜群の運動センスを誇り、「牛若丸」の異名で人気を集めた。
守備範囲は広くて強肩、俊足。走塁、バントの名手としても知られた。67年に二塁手に転向し、69年に現役引退した。
現役引退後、75年からと85年からの各3シーズン、97年から2シーズンの通算8季にわたり阪神の監督を務めた。85年にはバース、掛布、岡田の強力打線を擁して21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに日本シリーズで西武を破って日本一になった。
89年から7年間は渡仏し、パリでクラブチームと、フランス・ナショナルチームを指導した。
現役時代は54年、56年に盗塁王、55年に最多安打。セ・リーグのベストナイン遊撃手には9回選ばれた。通算2007試合、1864安打。背番号23は阪神の永久欠番。監督通算484勝511敗56分け。85年に正力賞を受賞し、92年に野球殿堂入りを果たした。
また、日仏友好の功績をたたえられて94年に外務大臣表彰、97年にフランス・スポーツ大臣賞を受賞した。2008年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
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一条ゆかり(4) 空気を読む子 母の「お気に入り」へと努力 先生の失言に吹っ飛ぶ畏れ(私の履歴書)[2025/02/04 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1328文字 PDF有 書誌情報]
幼いころ、長屋や小さなアパートでの家族8人での暮らしは、貧しくても険悪ではなかった。皆温厚で、怒鳴り合いのけんかはなかったが、こんな環境は私を早々に「空気を読む子」にしたと思う。
全員が同じ部屋にいるので、身の安全のために機嫌の悪い人からできるだけ離れ、機嫌のいい人のそばにいるようにした。一番の安全地帯は家族のボスである母の傘下なので、私は母の「お気に入り」になろうと努力した。
自分などいない方が、食いぶちが減っていいのかもしれない。そんな風にも感じていた私が、初めて人から褒められたのが、絵だ。
自宅の前の道路に絵を描いていたら、褒められた。小学校でも同級生が「すごいね、また描いて」などと喜んでくれた。うれしくて調子に乗って、努力してまた上達した。
漫画も読み始めた。貧乏なのに、母は兄たちと私に月1回のぜいたくとして漫画雑誌を買ってくれた。私は「なかよし」を買ってもらった。兄の少年誌も読んだ。やがて、手塚治虫さんの「リボンの騎士」や、手塚さんと同じ「トキワ荘」で暮らした唯一の女性漫画家、水野英子さんの「星のたてごと」などのファンになった。
子供向けの海外文学全集も読んだ。欧州の貴族や、世界をまたにかけるようなグローバルな物語が好きだった。岡山の田舎の貧しい現実から逃れたかったのだ。水野さんはこの頃から、海外の神話や伝説をもとにしたスケールの大きな物語を描いていた。
やがて、学校の授業で描く絵までが漫画風になった。風景を写生すれば、自分が醜いと思うものは省く。男性の石こう像を、細い首のイケメンに描いて嫌みを言われ叱られた。美術教師にとって、漫画は絵画ではなく底辺の落書きなんだろうなと思うと、悔しかった。
自意識過剰でウジウジした子でもあった。万が一、違っていたら恥ずかしいと思い、授業中に手をあげることができない。教師から「藤本さん」とあてられれば仕方なく答える。正解だったのでホッとすると先生から「分かっているのになぜ手をあげないの?」と言われ、黙る。
もし間違っていたら、先生はこう言うだろうなどと推測できるので言いたくない。小学校低学年の私にとって先生は怖くて立派な存在で、逆らってはいけないと思っていたのだ。
そんな私に転機が訪れる。
小学5年の時だ。先生に用を頼まれて、イヤイヤ職員室に入ったら、男性教師2人のひそひそ話が聞こえた。若い先生と、中年の先生の声だ。私が常に周囲の様子に注意をはらう子供だったから、聞こえた声だと思う。
「いいケツだなあ」。そんな言葉が耳に入った。エロチックな女性の写真が載っている雑誌を見ていたようだった。職員室で、教師が、いいケツ……はあぁ……。
神聖な存在である教師のイメージが、ガラガラと崩れた。「なあんだ、先生だって、普通の男と同じなんだ」
以来、先生にもハキハキ意見を言えるようになった。大人が怖くなくなって、徐々に生意気になった。
また、この頃になると、絵を描いて漫画雑誌にカットを投稿すると、百発百中というくらい、載せてもらえるようになった。「私って絵がうまいんだな」「漫画家になれるんじゃない?」。徐々に調子に乗った。
(漫画家)
【図・写真】小学生の頃。姉が晴れ着を着せてくれた
一条ゆかり(3) 一変した生活 誕生前後に差し押さえ 姉らと異なる「おしん」な日々(私の履歴書)[2025/02/03 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
私が生まれて2カ月後に「家中に赤い紙が貼られていた」と、10歳上の長姉、泰子は記憶している。借金で財産が差し押さえられていたのだろう。私の誕生と前後して裕福に暮らしていた家を、夜逃げ同然に出たと聞いた。母は私を堕胎することも考えたが、祖母が止めたという。
私は1949年9月19日、岡山県玉野市で生まれた。姉姉兄兄兄と続く兄姉(きょうだい)の末娘で、典子と名付けられた。本名は藤本典子。
貧しくなったとはいえ、私の最初の記憶は楽しいものだ。母方の祖母が暮らす海のそばの小さな二階屋に家族で身を寄せた。海で遊んで、スイカを食べて、真っ黒に日焼けした。五右衛門風呂に入って、やけどをするから風呂釜にもたれてはいけないと注意されたのに、うっかりやってしまって「アチチ」となったのもいい思い出だ。
それにしてもなぜ、父は財産を失ったのか。祖父が死んで、第2次世界大戦が起きたことが大きい。戦況の悪化で日本軍は国民に金属などを供出するように求めたが、父は正直すぎるほど協力した。
加えて父親(私の祖父)の2人目の妻と折り合いが悪く、すったもんだの末、あろうことか財産を放棄した。借金の保証人にもなったという。お人よしのボンボンで、いつも人にたかられていた。自分は少ししか飲まないのに、酒の席ではどんどん人が集まって、全員の酒代を払った。
裕福だった頃、長姉と1つ下の姉、嘉子にはそれぞれねえやが付いていたらしい。ねえや……ちょっと書いてて腹が立ってきた。家にはピアノもあった。当時の玉野でピアノを持っていたのは我が家ともう1軒、あとは学校だけだったという。
桃の節句の写真が残っている。母の膝の上にいる姉より大きな人形が飾られている。背後のひな人形や、天井からつるした飾りも豪華だ。何もなかった私のひな祭りとの違いにびっくり。漫画「有閑倶楽部」にある、主要キャラクターの一人の美童が市松人形に襲われるエピソードは、この写真からイメージした。
さて我が家は、祖母の家の次に長屋に越した。よく時代劇に出てくる長屋と同じ造りで、細長い家の両端に共同の水道があって、部屋は6畳と2畳、そして小さな台所。ここで父母と6人の子供、計8人が暮らした。
母はいつも働いていた。結婚前は教師で、日本舞踊や三味線やピアノもできたから、それらを人に教える仕事や、行商などもやっていた。加えて家事もあった。子供時代、母が横になっている姿を見たことがない。
そして私は「おしん」になった。NHK連続テレビ小説「おしん」の子供時代である。長屋から平屋のアパート(6畳と2畳と2畳)に引っ越した小学生の頃から、母の下働きとして、1人でマキを割って釜でご飯を炊いた。姉たちは帰りが遅く、兄たちは家事をしない。母に抗議すると「男は台所に入るもんじゃない」。
保育園を2年通い、友達は幼稚園に行くのに私は行けなかった。幼稚園は下校時間が早いため、保育園を3年行けと言われ嫌だった。結果、引きこもりを選び、家族の誰かが帰ってくるまで1人、家の前の道路で、ろう石で絵を描いた。すると徐々にギャラリーが増えて「上手!」「お姫様描いて」などと褒められた。これが、後に漫画家になる私の原点かもしれない。
(漫画家)
【図・写真】裕福だったころのひな祭りでの母と姉
一条ゆかり(2)父は王妃様 世間知らずのお金持ち しっかり者の母が支える(私の履歴書)[2025/02/02 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1361文字 PDF有 書誌情報]
「父はマリー・アントワネットみたい」と、私は思っていた。
裕福な家に生まれたらしい。瀬戸内海に面した、今の岡山県玉野市。旧三井造船の創業の地である。祖父がここで造船関連の会社をおこし、大きくした。父、藤本清はその長男だった。
祖父は仕事も遊びもガンガンのエネルギッシュな人だったという。関西各地の花街へ豪遊の旅に出ることもしばしば。父もハイカラで、英国の生地でスーツをあつらえ、靴はオーダーメイドだったとか。モダンボーイである。15の時から芸者遊びをして、マージャンとビリヤードが上手だった。いかにも100年前の日本の富裕層である。
東京の立教大学を中退。後継者である息子がお人よしで世間知らずであることを不安に思った祖父は、しっかり者の嫁を探した。おめがねに適(かな)ったのが母、薫だ。旧姓は村上。中世の瀬戸内海で一大勢力を誇った海賊、村上水軍の末裔(まつえい)だという。
母も革靴を履いて自転車に乗り、テニスもやるモダンガールだった。お茶やお花、三味線、日本舞踊に都々逸、ピアノなども習い「娘の武芸十八般を身につけたわよ」と豪語していた。岡山の師範学校(現代の教育大学)を出て、結婚前は小学校の教師をして、株で財産を失った家族の生活を支えていた。一方で、若くして目を患い、視力が弱かった。
見合いの席は料亭で、父は白い麻の三つ揃(ぞろ)いにパナマ帽。すらりと背の高い父を、母は一目で気に入った。ともに明治末期の戌(いぬ)年生まれ。お金持ちのボンボンと名家の娘の結婚は、地元で新聞記事になるほど話題だったそうだ。
父は、祖父の会社でボーッとしているだけなのに、かなりの給料をもらえたらしい。働けよ。
しかしそんな暮らしがやがて一変する。私が物心ついた頃には、我が家は借金漬けで、今日の食べ物を心配するありさまだった。母は、自分の着物など売れるものは何でも売った。そしてよく大量のそうめんを買ってきた。私を含めて6人の子供に食べさせるには、当時、米を買うより安上がりだったのだ。
周囲も心配したのか、近隣の少し裕福な家から、2歳上の兄を養子にしたいという話があった。1人では寂しいだろうから、妹(つまり私)も一緒にどうかと。母は断った。養子に行けば今よりマシと期待していた私は母に「え~何で断ったの?」。殴られた。母にぶたれたのは、これを含めて人生で2度だ。
こんなこともあった。ある日、母が「お金が無い。どうしよう?」と焦っていた。すると父は平然と「金が無いなら銀行に行けばいいだろ」。
何もないのに銀行に行けばお金を引き出せるとでも思っているのか? この頃5~6歳だった私はすっかりあきれた。私が父を王妃マリー・アントワネットだと思うのは、この日の記憶からだ。
誤解のないように言えば、子煩悩で優しい人。友達にするには最高の人だが、夫にするには正直事故物件レベルだと思う。
後年、家の中で唐子(からこ)の描かれた豪華な大皿を見つけた。これは何かと母に尋ねると「端が欠けていて売れなかったのよ」。ほかにもパーコレーターというのか、コーヒーを淹(い)れる道具があった。「当時は田舎でそんなものを使う人がいなくて、やっぱり売れなかった」と母。苦労がしのばれた。(漫画家)
【図・写真】父母(奥)、祖母(手前右端)と姉・兄たち
一条ゆかり(1) 真面目な不良 少女漫画 ギリギリを攻め 性描写もアクションも描く(私の履歴書)[2025/02/01 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
バイクの免許を取ったのは高校2年の時だった。漫画を描いて徹夜をした明け方、よく瀬戸内の海岸にバイクを飛ばした。この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かにつけて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。
何が何でも漫画家になる。その一心だったけれど、団塊の世代の最後の年に生まれた私が幼い頃は、漫画は悪書扱いで、母をはじめ、周囲の大人は「漫画家になりたい」と言うと「何言ってるの?」「バカじゃないの?」という反応だった。
でも漫画家は、学歴も性別も年齢すら関係なく、実力で勝負できる。私には何もなかったから、そういう仕事につきたかった。そして一過性のヒットメーカーではなく、長く生き残る存在になりたい。死ぬまで漫画家でいるにはどうしたらいいのかと、デビュー前から考えていた。
とはいえ編集者の言いなりは嫌。100%、自分自身の考えを世に出して、それを認められたかった。「真面目」「いちず」「けなげ」な少女が出てくる、昔ながらの少女漫画は嫌いで、もっと不良性を帯びたものが描きたかった。女であっても、気に入らなかったら相手を殴るくらいのキャラクターにしたい。
少女の夢物語より、貧しい青年が犯罪に手を染めてのし上がるピカレスクロマンに引かれた。
中学生の頃、好きな小説で読書感想文を書く課題で、私が選んだのはドストエフスキーの「罪と罰」。高校時代の同じ課題ではスタンダール「赤と黒」だ。アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」も大好き。そして好きな映画の1、2、3位は「風と共に去りぬ」「ディア・ハンター」「アラビアのロレンス」。さらに、子供時代は見ることもできなかった貴族の世界を感じられるヴィスコンティ監督作……。
こうした昔の洋画の世界を、少女漫画で表現したかった。「かわいい女の子さえ描けばいいんでしょ」とバカにされていた少女漫画に、風景や建物、家具、車やバイクなど背景を精密に描き込んだ。光や影、アングルなども工夫した。私は1人で、映画のにおいのする漫画を作りたかったのだ。
結果「あなたが少女漫画の世界を広げた」と言ってもらえるならうれしい。「不良」「性描写」はもちろん「同性愛」「近親相姦(そうかん)」も1970年代から描いている。20年以上も連載し、累計発行部数が3000万部に及んだ「有閑倶楽部」はアクション・コメディだ。昔の少女漫画ではNGだったものを、じわじわと、ギリギリの際を攻めるように描いてきた。
私自身も不良っぽく振る舞ってきたが、恥ずかしながら、根はとても真面目。バイクに乗っていたのは、車酔いがひどく自動車が苦手だったからでもある。学校の成績は良かったし、家事全般は一応、何でもできる。自分中心ではなく、自分以外を中心にしても考え、行動できる大人になりたいという目標も持っていた。半面、このような真面目さを、人に見せるのはかっこ悪いとも思ってきた。いわば「真面目な不良」なのだ。
真面目に漫画を頑張りすぎて、重い腱鞘(けんしょう)炎を患い、緑内障も悪化、今は漫画の仕事は控えているが、私の人生は漫画に捧(ささ)げたと思っている。そんな私のこれまでを、振り返ってみよう。(漫画家)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
岡藤正広(30) あの日の約束 「日本一」と誇れる会社に トップ15年、最後の仕事(私の履歴書)終[2025/01/31 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
こういうのを虫の知らせと言うのだろうか。ふと、かつての戦友のことを思い出した。私に営業のイロハを教えてくれた峠一さんだ。
「そういや、峠さんはどうしてるんやろう」。共通の知人に聞くと、その人が大阪にある峠さんの自宅を訪ねてくれた。空き家になっていたという。お隣さんに聞くと、峠さんはすでに亡くなっていた。晩年はご家族とも疎遠になり、孤独死だったという。私が2010年に社長になって1年近くたった頃のことだ。
「俺はいつか日本一の商社マンになってみせる」。そんな夢を峠さんに語った若き日から40年余り。伊藤忠商事を率いてがむしゃらに駆け抜けてきた。不安でいっぱいだった就任当初を思えば、よくがんばったものだろう。
それでも思う。私はあの日の、峠さんとの約束をかなえたと言えるだろうか。
伊藤忠のトップを拝命して15年。当初は社長を6年やって後任にバトンを託そうと考えていたことを思えば、ずいぶんと長い時間が過ぎた。日本経済新聞の担当記者からは毎年のように「いつまで現役を?」と聞かれるが、私の仕事はまだ完結していない。
業績や市場からの評価では財閥系と伍するところまできた。だが、私は伊藤忠をもっと良い会社にしなければならない。そう心に誓ったのが20年7月のことだ。苦労を重ねて私と弟を育ててくれた母が息を引き取った。最期に手を取ると、もう私の手を握り返す力も残っていなかった。
今でも後悔している。最期にたったひと言でいい。おふくろに感謝の思いを伝えたかった。新型コロナウイルスのため5月に迎えた93歳の誕生日を家族で祝ってやれなかったことが心底悔やまれる。
飲んだくれのオヤジが転落する中で一家を支えてくれたおふくろ。街に住友銀行(当時)の独身寮ができると近所でちょっとした話題になり、エリートたちが暮らす立派な建物をうらやましそうに眺めていた姿を思い出す。
私たち兄弟に「将来は大企業に行ってな」と言うようになったのはあの頃からだ。借金取りに追われるような生活からは抜け出してほしいという、切なる願いだった。
伊藤忠をどんな会社にしたいか。その尺度は業績や株価だけではない。それより社員たちが家族や世間に誇れるような立派な会社にしたい。
あの時のおふくろに「少しは恩返しできたでしょ」と胸を張って言えるような。最期に手を握った時、伝えられなかった感謝の言葉に代えられるような――。その高みには、まだ達していない。
もちろん、いつまでも現役というわけにもいくまい。後継者はまだ決めていないが意中の人は複数いる。若い人が割って入る可能性も大いにあるし、期待したいところだ。
ビジネスの世界では厳しい競争が待っている。より良い明日をつかむために、我々は勝たなければならない。だから後継者には商売の勝負勘を持ち、勝ちグセを身につけているかを問いたい。
だが、それだけでは不十分だろう。社員たち一人ひとりを思いやれる寛大さを持つ人に、この会社のバトンを託したいと思っている。
かつて峠さんに「日本一の商社マンになる」と約束した。経営者となった今はどうか。伊藤忠を社員たちが誇れるような、天国の母に誇れるような日本一の会社にしてみせる。それこそが私にとっての約束であり最後になすべき仕事だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
=おわり
あすから漫画家 一条ゆかり氏
【図・写真】私には胸に秘めた目標がある(東京都港区の本社)
岡藤正広(29) 恩返し デサント買収強行の内幕 ビジネスに禁物の私情が交錯(私の履歴書)[2025/01/30 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
ビジネスに私情を持ち込むのは禁物だ。だが、やはり人間がやること。完全に私情を捨て去ることができないのもまた、事実ではなかろうか。あの時の私もそうだった。
2019年1月31日。早朝7時に開いた臨時取締役会で、私はこう宣言した。
「これは飯田さんの弔い合戦や。飯田さんの無念を晴らすためにも、私は命をかけてこれをやり抜く」
有無を言わせない口調だったと思う。実際、反対意見は出なかった。こうして前代未聞と言われたデサントへの敵対的買収が決まった。
伊藤忠商事とデサントは長年、関係が深かったのだが1980年代にデサントの経営が行き詰まった。米ゴルフブランドが不振で大量の在庫を抱えたことが原因だった。
支援を求められた伊藤忠は85年、再建のためにエースを送り込んだ。私が師と仰ぐ飯田洋三さんだ。私の新人時代の課長だった。駆け出しの私が取引先とトラブルを起こしたと聞けば、一緒に出向いて真っ先に頭を下げてくれるような上司だった。
本来ならいずれ伊藤忠を背負って立つ器の人だったと思う。飯田さんがデサントに送り込まれると聞いた時は、驚きを禁じ得なかった。
飯田さんは文句も言わずに尽力された。「3年で再建する」という宣言通りに、3年で巨額の赤字から見事に黒字転換を果たされた。工場閉鎖や人員削減など苦しい決断の連続だったと思う。
その後も引き留められてデサント社長となった飯田さんを襲ったアディダス・ショック。売上高の4割、利益の8割を占める独アディダスから契約を打ち切られる危機も飯田さんの陣頭指揮で乗り切った。飯田さんこそがデサントの中興の祖だ。私のひいき目ではあるまい。
業績が持ち直すと、飯田さんは相談役に退いた。経営が軌道に乗れば伊藤忠は不要とばかりに古参幹部たちが創業家を担ぎ、2013年に伊藤忠出身の社長が突然解任される騒動があった。筆頭株主の当社には「3年だけ社長をやらせてほしい」と打診があり、認めたのだがその後も居座ることに。しばらくすると再び経営不振に陥った。
その件について私が問いただすと、なんと隠しどりされた音声が週刊誌に持ち込まれた。その少し前にはデサントは突然、ワコールホールディングスとの提携を決めた。社長解任時と同様に緊急動議。つまり不意打ちだ。
筆頭株主としてもはや看過できないと考えた。飯田さんが再建した会社をもう一度立て直すためにも。
冒頭の取締役会で私が居並ぶ役員陣に覚悟を示したのは、こんな事情が背景にあったからだ。その直前、飯田さんにお会いしに行った。
「僕は飯田さんのためにも命をかけてやります。必ず仇(かたき)を取りますから」
まるで任侠(にんきょう)映画のセリフのようだが、飯田さんは達観されたものだった。「無理するなよ。中小企業をいじめていると誤解されないようにな」。こんな忠告をいただいたが、情だけでなく利も伴うため買収を押し通した。
こうして成立したデサント買収。報告に行くと飯田さんはいたく喜んでおられた。その表情を見て、少しは恩返しができたのかなと思った。
繰り返す。ビジネスに私情は禁物だ。特に私は多くの株主からの期待に応える責任を持つ上場企業の経営者だ。ただ、あの敵対的買収の裏にこんな個人的な思いがあったこともまた偽らざる事実だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】飯田洋三さん(右)と(2019年3月)
岡藤正広(28) 孫さんの提案 「真の総合商社」の試金石 ファミマの可能性を思い知る(私の履歴書)[2025/01/29 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1406文字 PDF有 書誌情報]
あれは2017年末のことだ。ある方の紹介でソフトバンクグループ社長の孫正義さんと会食した際に、孫さんから社外取締役への就任を打診された。「光栄ですが、ちょっと今は余力がありませんので」と丁重にお断りした。すると、孫さんからすかさず二の矢が飛んできた。
「うちと50%ずつでファミリーマートをやりませんか」
折半で共同買収しないかということだ。「なぜ携帯会社のソフトバンクがファミリーマートを?」。これには思わずポカンとしてしまった。だが、孫さんの話に耳を傾けるうちに合点がいった。
孫さんはインターネットを主戦場にしてきた。そこで生まれるデータをどう押さえるかが、ネットビジネスの勝敗を決める。そもそも携帯電話に参入したのも、モバイルでネットが使われる時代を見越してのことだったという。
モバイルは使う場所を問わない。スマホでの決済を通じて、これまでネットが行き届かなかったリアルの世界のデータにまで手が届くようになる。どんな人たちが、いつ、どこで、どんなものにお金を払っているのか――。そういう視点で見ると、全国に店を持ち老若男女が24時間訪れるコンビニは膨大な購買データを集めるプラットホームということになる。
今振り返れば、孫さんの提案はソフトバンクがスマホ決済のPayPayを始める直前のことだ。ファミリーマート共同買収の狙いは、決済を通じてリアルのデータを取ることにあったのだろう。やはり考えることのスケールが大きいとうならされる。
それと同時に、ファミリーマートの持つ力を理解しているつもりで、そうではなかったと思い知らされた。我々には見えなかったコンビニの価値が、デジタル産業のビジョナリーには見えていたのだ。
そう考えるとオチオチしていられない。コンビニに興味を持つのは孫さんだけだろうか。ここはもっと深く、ファミリーマートの経営に関わるべきだと考えた。
2018年に出資比率を50.1%に高めて子会社化し、20年には残る全株を取得して完全子会社にした。投じた資金は総額で7000億円になる。実は、いずれやるべきだと思っていたのだが私の背中を押したのは、あの時の孫さんの提案だった。
こうして伊藤忠の川下ビジネスの柱として手元にたぐり寄せたファミリーマート。その力を引き出せるかは、未来の伊藤忠にとっての試金石になると考えている。
当社は「総合商社」と言われる。確かに手掛ける事業の範囲は相当なものだ。ただ、そのひとつずつが有機的に連動しているかと言われれば、そうとも言い切れない。専門家集団の集団と言えば聞こえは良いかもしれないが。
言うまでもなくコンビニは我々の身の回りで必要なものが、限られたスペースにぎゅっと詰まったビジネスだ。そこで試されるのが、本当の意味での総合力だろう。問われるのが縦割りの打破だ。そのために19年に新設したのが第8カンパニーだった。繊維や機械など縦割りの業種別に分かれた7つのカンパニーの力を結集させるのが目的だ。
ファミリーマートが我々に問うのは真の総合商社への脱皮だ。伊藤忠の専門家たちは力を合わせて何か新しい価値を創れているか。読者の皆さんが次に緑の扉をくぐられる際には、是非そんな視点で店内を観察していただけないだろうか。もちろん、厳しいご意見を歓迎します。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】孫正義さんはコンビニの真価を見抜いていた(2024年11月)
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年(春秋)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 1ページ 566文字 PDF有 書誌情報]
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年、本紙に寄稿した「私の履歴書」は意表をつく連載だった。ふつうは近況の報告などから始まるが、初回タイトルは「開戦の日」。連載のほぼ半分を太平洋戦争の前線での従軍と敗戦後の抑留、復員体験にあてた。
▼インド洋の島で作業員が感染症でバタバタ倒れているのに、上官はマラリア蚊を防ぐ服の新調を認めない。マレー半島の捕虜収容所では高官たちの本性をみた。部下の戦犯容疑をかぶって獄についた者、戦死者に罪をおわせ自分と部下をまもった者。いっぽう「のらりくらりと立ち回って責任逃れを図る者」もいたという。
▼ベストセラーの著書「失敗の本質」で知られる経営学者の野中郁次郎さんが亡くなった。日本軍の敗北の原因を分析、いまの組織運営に役立つ教訓を引き出した。過去の成功体験に酔い都合のわるい事実にほおかむりする。東日本大震災で起きた原発事故を、閉鎖的コミュニティーがもたらした「人災」とも喝破していた。
▼博報堂の社長だった近藤さんはゆがんだ人事を見直し、同族会社の体質を近代的な経営に改めた。業界の悪弊の改革に乗り出すと、本社近くの駅で中傷のビラがまかれ、脅しもうけた。が、かつての青年士官は動じない。従軍体験のない現代のリーダーは今後「失敗の教訓」をどう生かすか。野中さんからの宿題であろう。
岡藤正広(27) 利は川下にあり 「コンビニの父」の助言 セブンイレブンに提携打診で(私の履歴書)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
ファミリーマートは伊藤忠商事の経営が苦しいさなかの1998年にセゾングループから打診を受けて資本参加した会社だ。丹羽宇一郎さんが社長昇格の直前にまとめたディールで、最後にはセゾンの実力者として知られた西武百貨店会長の和田繁明さんと無言で対峙した「沈黙の30分」は語り草になっている。
巨額損失を出し人員削減に追い込まれ、商社不要論までささやかれた苦しい状況での決断だ。1350億円で3割を出資することには、社内で反論も根強かったと聞く。繊維一筋の私にとっては縁遠い話だったが、今となっては伊藤忠の財産だと思う。
「利は川下にあり」
これは私の経営戦略の柱をなす考えだ。スーツ生地を輸入して国内で販売する仕事をしていた私が、生地の展示会で目撃したシーンをヒントにブランドビジネスを築いていった。商材は生地から服へと広がり、やがて小売り業にまで進出していった。消費者の声を直接拾い経営戦略に反映するマーケット・インに徹することで、自ら付加価値を創造していけるからだ。
その点、老若男女を問わず24時間お客さんが訪れるコンビニは可能性の宝庫だ。2015年にチャンスが巡ってきた。サークルKとサンクスを傘下に持つユニーグループ・ホールディングスがファミリーマートとの経営統合を検討するという。実は以前から伊藤忠出身のファミリーマート社長がユニーに持ちかけていた話なのだが、真剣に考えてくれるとの返事をもらった。
ただ、正直に言うと我々が欲しいのはコンビニだけだった。スーパーのユニーまで抱えるのはリスクが大きいのではないか。こう考えた私はある人を訪れた。当時セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さん。言わずと知れた「コンビニの父」だ。
人づてに鈴木さんは挨拶だけの訪問は歓迎しない人だと聞いていたので、いきなり直球を投げ込むことにした。
「ファミリーマートと提携しませんか」
同時にユニーとファミリーマートとの経営統合交渉が進んでいることも打ち明けた。サークルKサンクスと合算すればローソンを抜いてコンビニ2位となる計算だ。もし続けざまに不動の首位であるセブンイレブンと提携すれば、日本に超巨大な小売り連合が誕生することになる。
もちろん勝算があっての提案だ。このコンビニ2強連合構想は実現しなかったが、何度も足を運ぶ中で鈴木さんからこんな助言をいただいた。
「商社にスーパーの経営は不可能ですよ」
やはり、ユニーがネックになるというご意見だった。「この人が言うなら間違いない」。私の仮説が確信に変わった。まずはユニーもろとも統合してファミリーマートとサークルKサンクスの融合を進めるが、いずれユニーは切り離さなければならない。
格好の相手はすでに意中にあった。ドン・キホーテだ。鈴木さんからも助言をいただいた。2段階に分けてユニーの全株式を売却した。ユニーはその後、ドン・キホーテのもとで業容を拡大しており互いにメリットが大きい取引だったと思う。
こうして我々は当初の狙い通りにサークルKとサンクスを手に入れた。約4年がかりの業界再編。だが、これでファミリーマートの経営体制が盤石になったわけではない。
そう気づかせてもらった相手がいる。ソフトバンクグループ創業者の孫正義さんだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ファミリーマートへの出資は丹羽宇一郎さん(右)が決断した
野中郁次郎氏が死去 知識経営の権威「失敗の本質」 89歳[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 1ページ 488文字 PDF有 書誌情報]
知識経営の世界的権威で、「失敗の本質」などの著書で知られる一橋大学名誉教授の経営学者、野中郁次郎(のなか・いくじろう)氏が1月25日、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。89歳だった。(評伝を社会面に)
告別式は近親者のみで行う。2月2日に東京都小平市小川東町1の21の12のシティホール小平小川でお別れの会を開く。喪主は妻、幸子さん。
1935年東京都生まれ。58年に早稲田大政治経済学部を卒業。富士電機製造(現富士電機)を経て、67年に米カリフォルニア大バークレー校経営大学院に進学。82年に一橋大教授に就任した。
旧日本軍が判断を誤り続けた要因を解明した84年の「失敗の本質」(共著)などで知られる。日本企業の革新性の源泉を読み解いた95年の「知識創造企業」(同)は米欧の研究者にも影響を与えた。
個人が持つ知識やノウハウなど、言語やデータになる以前の「暗黙知」を軸に、組織が対話を経て新しい知を生み出すプロセスを定式化した。知識・経験などを共有し、創造的な経営を実践する知識経営は多くの企業で取り入れられた。
2019年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
岡藤正広(26) 幻の合併構想 丸紅に提案「最強の補完」 打倒財閥系へ「紅忠」復活?(私の履歴書)[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1323文字 PDF有 書誌情報]
あれは2010年代半ばのことだ。10年に社長に就任して打ち出した「かけふ改革」が軌道に乗り、若い頃から背中を追い続けてきた三菱商事、三井物産といよいよ真っ向勝負だと策を巡らせていた。その背中は依然として、はるか遠くなのだが諦めてはいけない。
そんな時に、みずほフィナンシャルグループ社長の佐藤康博さんから食事に誘われた。この日は丸紅社長の国分文也さんも同席された。佐藤さんと国分さんは麻布中学・高校の同級生でとりわけ親しく、その後も何度も3人で会食させていただいている。
その席で佐藤さんからこんな話が飛び出した。
「伊藤忠と丸紅が一緒になったらどうですか」
実は、私も以前から温めていた構想だった。互いの長所と短所を見比べれば、これほど補完関係がきれいに成り立つ組み合わせもないと思えるからだ。
例えば、食料では丸紅は穀物など川上に強く、我々はファミリーマートなど川下にあたる小売りにいち早く進出した。ちょうど丸紅が米穀物大手ガビロンを買収した後で、商社の中でも穀物での差別化を進めていた頃のことだ。他にも丸紅は電力が強く、伊藤忠商事は繊維では負けない。それに鉄鋼事業ではすでに事業統合した成果もある。
佐藤さんがどれほど現実味のある話と考えられていたのかは分からないが、わが意を得たり。丸紅と一緒になれば、悲願だった三菱・三井越えが現実のものとなるだろう。
そもそも丸紅と当社は、いずれも初代伊藤忠兵衛さんを創業者に持つ、いわば同根企業だ。もともとは「紅忠(べんちゅう)」という同じ会社だった。これが戦後に解体されて別々の会社となった経緯がある。その両社が今では得手不得手を異にしている。見方を変えれば最強の組み合わせだ。
「合併で一緒になって打倒財閥ですよ」
気づけば国分さんにこんな構想を熱く語る自分がいた。ビジョンを語るだけでは話が前に進まない。
「社長は丸紅さんから出してもらったらいいです」
こんな条件も出した。どちらが人事の主導権を取るかなんてことは、もはやささいなことだ。ただ、そう言われてもこれほどの重大事を即決できるわけがない。
「うちはずっと伊藤忠さんに追いつけ追い越せで来ましたので……」
国分さんが言いよどんだのも無理はない。今、合併に踏み切ると社員たちがどう捉えるか分からないから「もう少し待ってほしい」とおっしゃった。
「そりゃ、そうだろうな」と思い、時期を見計らうことにした。
社内でもごく限られたメンバーで検討を進めることになったのだが、いつしか国分さんとの間で話題に上ることもなくなっていった。同じ「親」を持つとはいえ、それぞれに成長して来た者同士がまた一つ屋根の下に戻るという決断が簡単でないことくらい、私にも痛いほど分かる。
こうして丸紅―伊藤忠の紅忠復活構想は歴史の闇に消えた……。いや、果たしてそう言い切れるだろうか。未来はいつも不確かだ。互いの利害が一致し、より良い未来をつくれるのであれば、可能性を消すべきではないのかもしれない。そんな思いを込めて、この知られざる話をあえてここで紹介することにした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】丸紅と伊藤忠は同根企業でともに初代伊藤忠兵衛を創業者にもつ
岡藤正広(25)受験の教訓 稼ぐにも伸び方それぞれ 成長投資や朝型勤務後押し(私の履歴書)[2025/01/26 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
かけふ改革の「稼ぐ」に関しても様々な改革を行ったが、ここでは全部門一律だった投資基準の見直しを挙げよう。きっかけは機械カンパニーのてこ入れだった。
伊藤忠商事は1970年代に自動車事業に本格進出し、機械カンパニーの中核事業となった。だが、徐々に弱体化して機械の業績は7つあるカンパニーの中で最下位となり、撤退論まで浮上していた。
自動車など製造業はやはり日本経済の屋台骨だ。失いたくはないが、踏みとどまるには相応の投資が必要になる。
そう考えた時に問題だと思ったのが、「株主資本コストを上回る最終利益の確保」を目的とする全社一律の投資基準だった。これでは弱い部門は手を挙げづらい。すると投資が後手に回り、ますます弱くなる。
再建の第一歩は自信をつけさせること。そのためにはカネを回す仕組みを作る必要がある。会社の事業を分野ごとに40ほどに分けて、投資基準を個別に定めた。これが機械の業績が最下位から2位に浮上するきっかけとなった。
この考えは個人にも落とし込み、たとえ業績がパッとしない部署にいても成果を上げれば報いるように評価や報酬のあり方も変えていった。そうでないと優秀な人材が埋もれてしまう。人が財産の商社で、これは致命的だ。
実はこうした改革は、失敗続きだった受験生時代の経験が土台となっている。私が2年も浪人した理由は結核だけではないと思う。単純に勉強の方法が間違っていたのだ。
母校の高津高校は進学校とはいえ、授業は平均的な生徒に合わせる。するとできる生徒はあくびして、できない者はついていけない。「こんなのに付き合っていられない」と、授業を無視して独りよがりな勉強を始めたことが失敗だった。ただ、あの時の疑問は間違いとも言い切れまい。悪平等は組織全体の活力を損ね、生産性を押し下げる。革新を妨げる要因ともなる。
会社は学校ではないが、できる子(事業)もいれば、そうでない子もいるのは同じ。それぞれに伸ばし方があっていいだろうと考えたのだ。
受験の教訓を経営改革に取り入れた例はこれだけではない。私はフレックス勤務を朝型に改めた。きっかけは東日本大震災だ。朝遅くにゾロゾロと出社してくる社員たちを見て思った。「お客さんや被災地の方々が大変な時に、これじゃアカン」
続いてこう考えた。周囲がバリバリと働いている時間帯を逃して良い仕事ができるだろうか、と。こうして思い切った朝型勤務を取り入れた。夜の残業代が減るので早朝割増金を増やし、朝食も用意した。
実は、この働き方にも受験の教訓がある。高校時代の私は学校から帰るとまずは仮眠を取り、夜中に起きて勉強を始めた。すると、いつも寝不足気味で頭がボーっとする。勉強ははかどらない。焦ってまた夜更かし……。結核を患ったのも不摂生が原因じゃないだろうか。
こんな反省から社会人になってから朝型を徹底してきた。今では早朝4時に起きて入浴と朝食を済ませると5時30分に出社する。
これは私個人のライフスタイルでしかない。でも、仕事のパフォーマンスが上がることは間違いないと思い、会社の制度に落とし込んだ。
私の働き方改革に当初はご批判もあった。ただ、失敗からの学びは明日への肥やしになると信じている。もちろんこれが完成形ではない。今後も社員たちと一緒により良い働き方を探していきたい。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】無料の朝食をとる社員(東京都港区の本社)
岡藤正広(24) ハイセイコー 進軍停止は社長の仕事 吉野家株売却で覚悟示す(私の履歴書)[2025/01/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
良くも悪くも伊藤忠商事は調子が良い時には歯止めが利かずに「それ行け、やれ行け」と進軍してしまう文化が残っている。ところがちょっと事業環境が悪くなると、一転してずるずると後退してしまう。その繰り返しだった。
古くは1960年代に石油ビジネスに乗り出すも、70年代の石油危機ですっかり経営の重荷に。バブル末期には財テクや不動産投資に手を出し、巨額の損失を生んだ。
その結果が、財閥系の後塵(こうじん)を拝し続ける万年4位だ。私はこんな体質を昭和の名馬、ハイセイコーに例えてきた。北海道に生まれ地方競馬を席巻したハイセイコーは、日本人の判官びいきもあって絶大な人気を誇った。三冠馬への期待が高まったが勝負のレースで3着に終わった。
肝心なところで財閥系に跳ね返される伊藤忠によく似ている。競馬ファンには怒られるかもしれないが、伊藤忠はいつまでもハイセイコーではダメだ。ここぞというレースに勝つためには浮かれずに実力をつけるしかない。
では、どうすればいいのか。私が考案した稼ぐ、削る、防ぐの「かけふ」改革。その中でリーダーシップが試されるのが「防ぐ」だ。撤退などのシビアな決断はリーダーにしかできないからだ。
就任1年目で、この点を自らに問うた。事業に関わらず「3期連続赤字なら撤退」のルールを徹底したのだが、改革が名ばかりではないと示すためにも、手を付けなければならない事案があった。西武百貨店から株式の20%を取得していた牛丼の吉野家ホールディングスだ。西武との提携の呼び水となった案件だ。
出資した当時、私は西武との連携プロジェクトに関わっていたが、吉野家については食料カンパニーが担当した。これが当初の狙いが大きく外れてしまっていた。
例えば、牛丼に使う牛肉とコメ、タマネギ、ショウガの調達を伊藤忠が担おうとしたのだが、すでに強固な調達ルートを持つ吉野家にとっては必要がない。安易に相乗効果を見込めると踏んだのは当社の方で、吉野家に非はない。
ほかにも伊藤忠内の金融事業と協力して「吉野家の店内にATMを置く」という案もあった。少し考えれば、ATM利用のために牛丼店に立ち寄る人はそうはいまいと分かりそうなものだが、机上の空論で計画を作ってしまったと言うほかない。
もはや伊藤忠が吉野家に20%を出資している意味はない。私は社長1年目で吉野家株の売却を決めた。
ただ、そもそも出資を西武と伊藤忠が頭ごなし的に決めたことを良く思わなかったのだろう。吉野家にはなかなか売却話を聞いてもらえない。どうしたものかと思案していたところ、たまたま会食したゼンショーホールディングスの方から吉野家株に興味があるとの話をいただいた。
「すき家」や「なか卯」を傘下に持つゼンショーは吉野家のライバルだ。20%もの株が渡っては一大事。結局、吉野家が引き取ることになった。
社内に目を移すと、やはり食料カンパニーの反発は大きかった。吉野家への出資は食料出身の丹羽宇一郎さんがまとめた案件。社内でも聖域化していた面が否めない。
だが、相乗効果を生まないなら将来の損失の温床になりかねない。早めに「防ぐ」に限る。無謀な進軍を止められるのは社長だけだ。
なお、7回目で当時の三井物産本社が東京・大手町とあるのは東京・西新橋の記憶違いでした。訂正いたします。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】吉野家への出資は頭ごなし的だった
(2000年9月9日の日経流通新聞)
岡藤正広(23) 蟹穴主義 負け癖 打破した「かけふ」 改革、小さな成功の積み重ね(私の履歴書)[2025/01/24 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 書誌情報]
稼ぐ、削る、防ぐで「かけふ」。社長就任前に自宅で五大商社の決算書に目を落としている際に浮かんだ言葉だった。これには当時の伊藤忠商事が置かれた状況が大きく影響している。今回はやや趣旨を変えて伊藤忠改革の構想を練る上で、なにを考えたかを振り返りたい。
伊藤忠は長年、業界で万年4位と言われていた。数字の上では良い勝負をすることもあるのだが、その思い込みが三菱商事、三井物産、住友商事の財閥系3社との差を実態以上に大きくしていた。
当時の業績はバブル末期に財テクに走ったツケを払った1990年代末と比べれば、そこまで悪いというわけではない。それだけに、私の目には現状に甘んじる空気が社内に流れているように見えた。
成長を期するなら、やはり財閥系に追いつけ追い越せだ。ただし、いきなりトップを狙えと言うと現実味が乏しく社員も本気にならない。身の丈をわきまえながら、もう一歩の努力で手が届きそうな目標をいかに作り、組織をそこに導けるか。これが私なりのマネジメントの極意だ。
ヒントとなったのが、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一さんが著書「論語と算盤」で説いた「蟹(かに)穴主義」だ。蟹は自分の甲羅の大きさに見合った穴を掘るのだという。身の丈にあった行動を取りながら、その甲羅を取り換えて成長していく。
会社の成長も蟹を見習うべきだ。万年4位の負け癖を取り除くには、小さな成功を積み重ねて社員たちに「やればできる」を実感させることが先決。リーダーに問われるのは、手が届きそうな甲羅のサイズをどう設定するかだ。
私が注目したのが売上総利益(粗利益)だった。すでに三菱に次ぐ2位。稼ぐ力は十分にある。だが、経費が大きく、これを差し引いた営業利益となるとガクンと落ちる。そこから特別損失などを引き純利益となると、住友を下回って4位になってしまう。
見方を変え、無駄を削り損失を防げば万年4位はすぐに返上できると考えた。
これが最初のターゲットだ。果たして就任から2年後の2012年3月期決算で純利益でも住友を上回り、万年4位からは脱却した。
その次の甲羅は「非資源でナンバーワン」。伊藤忠が財閥系に劣る資源分野を勝手に除いて対抗しようと考えた。恣意的な数値に基づく目標と言っていただいて結構。勝ち癖を付けさせるために選んだ新しい甲羅だった。
その先は純利益で初の首位。これは16年3月期に達成した。ただし、この時は財閥系が軒並み資源関連の損失を出し、「敵失」に助けられた面も否めない。本当の意味で財閥系と伍する地位を目指そうと掲げたのが純利益、株価、時価総額で首位に立つ「商社三冠」だ。20年6月、ついにこの高みに立った。
社長就任を前に奈良・学園前の自宅で構想を練った日から10年。この間の社員たちの奮闘を思えば、さすがに感無量だった。「万年4位からよくぞここまで」、と。
もっとも、次の甲羅への挑戦はこれからも続く。すべては伊藤忠の優秀な社員たちに持てる力を最大限に発揮してもらい、今より強い会社に、良い会社にするために。
もちろん、目標設定やかけ声だけで勝てるほど財閥系のライバルたちとの戦いは甘くない。少しずつ蟹穴を大きくしていくための実行計画こそが「かけふ」だった。次回から実際にどう戦ったのかを振り返りたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】渋沢栄一の肖像写真(深谷市所蔵)
岡藤正広(22) 会議、誰のため? 無駄が多く「会社潰れる」 手帳に記した9つの改革(私の履歴書)[2025/01/23 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1357文字 PDF有 書誌情報]
私には小さなポケットサイズの手帳に、その時々に思ったことを書き込む習慣がある。当時は「社長になったらやること」を思いつくままに書き込んでいた。
月刊の社内広報誌の見直しから始まり、業務改革など9項目にわたる。現場主義、率先垂範など心得的なものもあるが、「MBA中止」や「社員にクレームをつけさせる」という本当に制度に落とし込んだ項目もある。
そして「会議大嫌い」の一文――。そう、私は昔から会議が大嫌いだったのだ。大阪弁でいう「いらち」、つまり短気でせっかちな性格のせいかもしれない。ただ、昇進するほど会議に関する無駄がなんと多い会社かと痛感するようになった。
あれは丹羽宇一郎さんが会長だった頃だと思うが、丹羽さんが「お金はお客さんのところに落ちている。とにかくお客さんのところに行け」と話されていた。ごもっともなのだが「これだけ会議が多いのに、いつ客先に行けと言わはるんですか」とかみついたことがある。
会議で上司が発言するためにどれだけ多くの部下の時間を潰してしまっているか。例えば、毎週月曜午前に開かれていた各カンパニープレジデントと海外主管者による情報連絡会。あれは私が繊維カンパニーのトップだった頃のことだ。モスクワに出張に行くと、繊維出身の支店長が切実に訴えかけてくれた。
あるカンパニー出身の駐在員たちはこの会議のために1週間、ネタ探しに走り回っているという。モスクワだけではない。このカンパニーでは金曜になると東京が世界中から情報を集約し、月曜の会議でプレジデントが披露する資料を作っているのだという。
開いた口が塞がらないとはこのことだ。私も繊維のプレジデントとしてこの会議に参加していたが、まずは自分で情報収集して分からないことがあれば担当者に直接聞いていた。
確かに、このカンパニーのトップは世界中の情勢に精通しているという調子で見事なプレゼンをしていた。だが、自分の話が終わればホッとしてしまい、他部門の話などロクに聞いちゃいない。
「こんなことをやっていたら会社が潰れる」
本気でそう思った。社長になるとすぐにこの情報連絡会の時間を短縮した。続いて毎週月曜開催から月1回に。ついには廃止してしまった。年に1度、3日かけて開催していた特別経営会議も半日に圧縮した。
もっと重要なのは、会議を実りあるものにするため上司に予習を課したことだ。議題を事前に把握して上司が仮説や結論を持って臨めば会議は報告の場から意思決定の場に変わる。それだけで生産性がどれだけ向上するか。
会議の削減は一例だが、こういった無駄な仕事を徹底的に削るという実に地味な作業から私なりの経営改革は始まった。削るだけではない。無駄な損失を防ぐ、そして稼ぐ力を最大化していく。
稼ぐ、削る、防ぐ――。略して「かけふ」。これが経営改革の合言葉だ。
「岡藤さんは大阪出身だから、やっぱり阪神タイガースのファンなんですね」
今までに何度も聞かれた。「まあ、そんなところですわ」と曖昧に答えたこともあったが実は野球にはあまり関心がない。単に語呂がいいから「かけふ」にしただけだ。ただ、覚えてもらいやすいキャッチフレーズとなり、個人的にはとても気に入っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ポケット手帳に改革案を書き込んだ
岡藤正広(21) 伏魔殿 「東京のモン」に不信感 自信持てず創業者の墓参り(私の履歴書)[2025/01/22 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1389文字 PDF有 書誌情報]
2010年4月に社長に就任し、一家で東京にやって来た。会社からは特に事前の説明もなく、何時に自宅に社用車が来るのかも分からない。
社長室に通されても広い空間で、なんとも居心地が悪い。部屋から出ると隣の部屋から秘書が飛び出してきた。
「なんで俺の動きが分かったんや」
そう思ったのもつかの間。社長室のトイレに入って部屋に戻ると、机の上の書類が整理されていた。わずかな時間のことだ。「あれ? どこかで誰かが俺のことを見てるんか……」。試しにもう一度トイレに行ってみた。すぐに部屋に戻ると、席には新しい書類が置かれているではないか。これを見てゾッとした。
「やっぱり監視されとる。ここは伏魔殿や!」
私の「東京本社=伏魔殿説」を決定づけたのが、このしばらく前の出来事だった。
副社長だった私は、東京の人事制度委員会の委員長に指名された。全社の人事制度を見直そうと議論百出の末に新制度案がようやくまとまったのが金曜のこと。後は週明けに取締役会で提案するだけ。そのまま大阪に帰った。
ところが月曜朝に東京に来てみると、なぜか従来の制度が併記されていた。何日もかけて議論してきたことがどこへやら……。後で分かったことだが「犯人」は先輩にあたる人事担当役員だった。自分が作った制度を「外様」の私に変えられることが恥だとでも思ったのか、両論併記するよう人事部長に命じたという。これにはカッとなった。
「こんなアホなことがあるか。ええ加減にせえ!」
取締役会で真正面に座る当時社長の小林栄三さんにも「やってられませんわ」とかみついた。こんな調子だから「東京のモンは信用でけへん」という思いが強くなった。
やや話は変わるが、私は社長就任翌年から毎年、創業者である初代伊藤忠兵衛さんの墓参りに京都まで通っている。最初は「無事に任期を全うするため力を貸してください」とお願いした。それほど自信がなかったのだ。
ここで告白すると、もともと京都通いは忠兵衛さんの墓参りが目的ではなかった。
尊敬する大先輩である堀田輝雄さんと、お世話になったミラ・ショーンジャパン元副社長、鍛冶正行さん。お二人の墓がそれぞれ京都の寺にあり、ずっと以前から毎年通っていた。忠兵衛さんの墓も京都にあるので、「伊藤忠のトップとしてお参りしないと失礼だ」と思い、毎年訪問するようになった。
ただ、今では忠兵衛さんへの報告は大切な時間だ。20年6月には墓参りの翌営業日に株価が三菱商事を抜き、悲願だった純利益、株価、時価総額での「商社三冠」を達成した。これも忠兵衛さんのお力添えかなと思ったものだ。
だが、やはり直接薫陶を受けた2人の恩人への思い入れは、まったく別物だ。
堀田さんは私が入社した時の衣料部門のトップ。雲の上の存在だったが、親子ほど年の離れた跳ねっ返りの私をかわいがってくれた。鍛冶さんはもともとあるデパートの部長だったのだが、私が駆け出しの受け渡し時代にマージャンに誘ってくれたものだ。全国のデパートを行脚しては「岡藤君のことをよろしくお願いします」と頭を下げてくれた恩は、忘れることはない。
そして現在――。墓参りの目的は感傷に浸ることではない。恩人たちに伊藤忠の成長を約束し、結果で報いると誓うことだ。「東京は伏魔殿」などと言っていられない。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】創業者の墓参は続けている(京都市)
岡藤正広(20) 社長指名 避け続けた東京行き 母の涙によみがえった記憶(私の履歴書)[2025/01/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
「岡ちゃん、春から東京に来てもらえないか」
あれは2008年初めのことだ。社長の小林栄三さんから電話がかかってきた。正直、嫌だなと思った。大阪で繊維一筋の私にとって、東京・青山の本社の印象は「伏魔殿」。どうせ嫌がらせをされるのだろうな、と。
ここは知らぬふりを決め込んでやれと、まともに返事もしなかった。特にお沙汰もなく、ホッとしていたのだが、1年後にまた小林さんから「前の話だけど、東京に来てほしい」との電話を受け取った。この時も同じような調子でやり過ごそうとしたら、小林さんの口調が変わった。
「今回断ったら永久に東京には来れないよ」
覚悟を迫るような声だったが結局、大阪本社に代表権を持つ者が常駐する必要があるという話になって、またしても私は東京行きを逃れた。
そこまで東京行きを嫌がったのには理由がある。大阪を拠点に繊維業界では名が知られるようになっていた私だが他の部門のことはまったく知らず、海外駐在の経験すらない。それに、伊藤忠商事では業務部がエリートコースとされてきた。営業マンとして現場の最前線を走り続けた私には無縁の話だが、所詮は「国内で繊維しか知らないヤツ」という見られ方だ。
「どうせ社長になるわけでもないし、東京なんか行ってられるかい」
またしても無視を決め込んでいた私だったが、小林さんからの電話の数カ月後に、大阪に出張に来ていた丹羽宇一郎会長から「一杯飲もうか」と、ホテルのバーに呼び出された。なにごとだろうと駆けつけると、思いもしないことを告げられた。
「君が社長をやれ」
そして翌10年2月10日。またしても小林さんから電話がかかってきた。「急で悪いけど明日、東京に来てくれ」
指定されたのはニューオータニのすし店「久兵衛」。小林さんは秘書にも言わずに一人で来るという。保秘を徹底するためだ。「岡ちゃんも一人で来るように。車じゃなく電車でな」とクギを刺された。もはや用件は明らかだ。
「岡ちゃんな、今から言うことにノーはないよ。社長をやってほしい」
私にはまだ迷いがあった。
「僕にできますかねぇ。自信がないですわ」
謙遜ではなく、偽らざる本音だった。すると小林さんは「大丈夫。僕も最初はそうだったから」と、ご自身の経験を話してくれた。もはや断りようがない。
社長に決まり多くの方々から「おめでとう」と言われたが、個人的にはめでたくもなんともない。ただ、一度だけ「良かった」と思えることがあった。小林さんに会うため東京に向かう日の朝。奈良の自宅で身支度を済ませ新聞を読んでいると、同居するおふくろが寝床から起きてきた。
「祝日やっていうのにまた出張?」
「いや、俺なぁ、これから社長の指名を受けるんや」
そう返すと、おふくろが大粒の涙を流した。
ふと、古い記憶がよみがえる。結核を患い人前に出ることさえ臆していた20歳の頃。暗闇から這(は)い出る思いで東京行きのきっぷをつかんだ。そういえば、あの時もおふくろは涙を浮かべていたっけ。
その日からちょうど40年。自分なりに精進を続けてきたつもりだ。人生の影の側にいたあの時の自分とは、もう違う。「これも親孝行なのかな」。そう考えた社長指名の日の朝だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】社長就任会見で(右は小林栄三氏、2010年2月)
岡藤正広(19) 縦割り組織 立ちはだかる社内の壁 弊害の打破、今なお試行錯誤(私の履歴書)[2025/01/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1359文字 PDF有 書誌情報]
2000年、伊藤忠商事は西武百貨店との資本業務提携を決めた。丹羽宇一郎社長(当時)の肝煎りプロジェクトなのだが、1998年に出資したファミリーマートに続く小売業への進出だった。
そこで作られた「SIプロジェクト推進室」。西武のSに伊藤忠のIを冠した新組織の室長に任命された。結局、西武の経営危機が深刻化し、組織は1年5カ月で終わったが、多くの学びがあった。
と言っても、あまり良い意味ではない。最大の学びは当社にはびこる縦割り組織の弊害が見えたことだ。幅広い商材を扱う百貨店に対応しないといけないのに、社内の各部署との調整がいちいちめんどくさい。
さらに縦割りの弊害を痛感する出来事が重なった。ちょうどこの頃に繊維部門の部下が契約を取り付けてきたディーン&デルーカ(D&D)の日本展開だ。ニューヨーク発の高級デリカテッセンで、おしゃれなお菓子や気の利いた小物なども取り扱っている。
なぜ繊維部門が食品の小売りかというと、「これからは衣類だけでなく、生活総合産業を目指そう」という方針を打ち出していたからだ。
私は繊維にも籍を残していたので真っ先に相談を受けた。まずは西武に共同運営を持ちかけたがあえなく却下。すかいらーく創業者のご子息と協力することで落ち着いた。
そこまでは良かったのだが、ここで社内に存在する縦割りの壁が立ちはだかった。
「なぜ繊維がそんなことを」。かみついてきたのが食料カンパニーだった。これには「ブランドビジネスの一環」で押し切った。
妥協案として食料カンパニーがコーヒー豆をD&Dに納入することになり、早速社内で人の目がつく場所にコーヒー売り場を設けようとしたのだが、売り場が置かれたのは本社1階の隅の空きスペースだった。当然、まったく目立たない。食料カンパニー内でファミリーマートとの競合が問題視されていたからだ。
それにもうひとつ、私が籍を残していた輸入繊維部をブランドマーケティング部に改名しようとした時のこと。またしても待ったがかかった。
反対する3つのカンパニーに直接、説明に回った。あるカンパニーのトップは冗談ぽく「これは貸しだよ」と言ってくれた。部署名の変更くらいでも、社内の理解を得るのはひと苦労だった。
この時の教訓をもとに19年に新設したのが第8カンパニーだ。繊維や機械、金属など業種別に分かれた従来の7カンパニーに次ぐ異業種横割りを前提とする新組織だ。
ここでもうひとつ、SI室での学びが頭にあった。
こういう横断組織を作る際、人選を各カンパニーに委ねるとエース級は集まらないということだ。実際、SI室には転職を公言しているような人たちも集められていた。優秀でやる気のある人材を集めるため第8カンパニーには立候補を募った。
こうして縦割り打破の仕組みを作ったつもりだが、どうしてなかなか……。部署間の利害調整は思った以上に難題だ。23年に「グループCEOオフィス」を作って私自身がその役割を引き受けたのだが、仕事は増えるばかり。
「縦割り打破なんて永遠に無理なんとちゃうか」と思うこともある。でも、やっぱり諦めてはいけない。今日も自分を奮い立たせ、より良い仕組みを作れないかと試行錯誤を続けている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】繊維部門でディーン&デルーカを始めた
岡藤正広(18)裏切りのM&A 高額で入札、なぜ逃した? 不良資産見抜けず残る教訓(私の履歴書)[2025/01/19 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
私は数々の欧州ブランドを日本に持ってきたが、とりわけ思い入れが強かったのが仏ランバンだ。若い頃からずっと憧れだった。
2001年、そのランバンの日本の権利が売りに出たという情報が入った。交渉は一発で決めた。交渉の最中に相手の目の前でMOU(覚書)を手書きしていく。合意すればその場でサインを求めた。
実は、これは私の常とう手段だ。合意事項の証拠をその場で残す。簡単なものの方が相手もサインしやすいから手書きにする。英語で箇条書き。文面は前日までに想定して頭にたたき込んでおく。
教訓にしたのが以前に触れたトラサルディとの交渉だ。昨日と今日では話が違っており、何度も煮え湯を飲まされた。そんなことがないようにと考えたのが「その場で手書きのMOU」だった。
やはり交渉ごとはキチッと手順を踏み、そのたびに内容を精査するのが王道だ。その意味で記憶に残るのが三景という会社の買収だ。その過程で不可解な事態に直面しただけでなく、最後には背筋がゾッとすることがあった。
産業再生機構の支援を受けていた三景への入札が05年1月に始まると、当社も手を挙げた。実は以前から三景の経営者から「助けてほしい」と言われていたのだが、機構傘下に入ったため手続きに従い入札することになった。
三景は一般的には無名だが服の裏地やボタン、芯地で圧倒的な国内首位。ただ、不動産投資に失敗して経営が傾いていた。当社にとっては是が非でも欲しい会社だが、実におかしな結果となった。
当社が最終的に提示した金額は180億円。だが、MKSパートナーズというファンドが160億円で落札した。
なぜ20億円も高い当社が落とされたのか。理由を聞くと「伊藤忠はガバナンスが強すぎる」と返ってきた。どうやらMKSが三景の経営陣の保身を約束したようだ。
選考過程には今でも納得できない。機構の責任者はあるファンドの出身と聞いたが、同じ業界の「身内」を優先したのか。いずれにせよ不透明な理屈に閉口した。もっと公明正大であるべきだろう。
そもそも助けを求められていた私はハシゴを外された格好だ。救済依頼書を取っておくべきだったが後の祭りだ。
それだけではない。最初の入札で落選した東レが、2次入札に進んだ当社になんと、共同で応募しないかと持ちかけてきた。社長は伊藤忠から出していいからとも。東レの前田勝之助名誉会長からの打診だが「今さら何を」、だ。私は無視を決め込んだ。
「この業界で東レの前田さんに歯向かってやっていけると思っとるんか!」。おかげで上司からはえらい剣幕で怒鳴られ、東レの新年会には呼ばれなくなったのだが。
こうして逃した三景だが、実は3年後に106億円で手に入れた。三景が巨額の不良資産を抱えていたことが発覚し、ピンチに陥ったMKSが再び売りに出すという、なんともお粗末な結末だった。
3年余りでのタナボタ的な買収劇だが、喜んでばかりはいられない。この不良資産の存在には我々も全く気づいていなかったのだ。
もし、あの時に裏切りにあわなかったら多大な損失を被ったのは当社だろう。査定が甘かったと反省している。
意中の会社をより良い条件で手に入れたわけだが、結果オーライでは済まされない。ビジネスの世界では一寸先は闇。そんなことを教えられた買収劇だった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三景の商品を視察する筆者(左)
岡藤正広(17) 我が親分 突然の人事撤回に憤慨 告げ口に翻弄、腹割って話す(私の履歴書)[2025/01/18 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1391文字 PDF有 書誌情報]
1992年4月、我がアパレル第三部に新しい部長が赴任してきた。貿易畑のエースと言われた加藤誠さん。米国からの帰任だった。本当は別の重要ポストへの起用がほぼきまっていたが、ジョルジオ・アルマーニとの契約更改を任された。加藤さんの本意だったかどうかは分からない。
私には、社内で白い目で見られながらもブランドビジネスを切り開いてきた自負がある。もし、ともに戦う気概もなく腰掛けのつもりなら到底、受け入れられない。
それを知らしめようと歓迎会の司会を買って出た。冒頭でこう挨拶するためだ。
「我々は加藤さんを歓迎しません。ここに骨をうずめる覚悟を持っていただきたい」
宴席が凍り付いたが、杞憂に終わった。加藤さんは我々の部に骨をうずめる覚悟をお持ちだったからだ。
伊藤忠の繊維はどうあるべきか――。互いの自宅がすぐ近くで、お客様との会食後にタクシーの中で熱く語り合ったものだ。ある件で加藤さんが落ち込んでいた時には激励会を開き、こんな言葉を刻んだオブジェを贈った。
「加藤さんはいつも、我々の親分です」
誰が見ても盤石の二人三脚だと思ったはずだし、事実そうだった。この人とならブランドビジネスの未来を描ける。上司として、人として、全幅の信頼を置いていた。
ところが一度だけ、ちょっとした行き違いがあった。
2000年から繊維カンパニープレジデントになった加藤さんは、早い時期から「岡藤を僕の後任にするから」と話すようになった。加藤さんは9歳も上なので異例の人事なのだが、私が仕事でこだわるのは結果であり、肩書ではない。「ああそうですか」と素っ気なく答えていた。
それよりやるべきことがあった。ある時、私は加藤さんから大きな問題を抱えたふたつの組織の再建を頼まれた。いずれも私の担当外なのだが繊維カンパニーにとって看過できない状況だったので大ナタを振るうことになった。
すると両組織のトップが加藤さんに泣きついた。「岡藤君は厳しいです」と。自分たちの責任は棚に上げて年下の私にメンツをつぶされたと考えたのだろう。ただ、この2人は加藤さんの元部下だった。情も深い。加藤さんにも迷いが生じたのかもしれない。
突然、加藤さんからこう告げられた。「君はこれからもっと経験を積んで後々に大きくなってほしい」。後任人事の約束を撤回して加藤さんの「次の次」にするという意味だと、私は受け取った。
夜になるとなぜか悔しくて眠れない。翌朝、加藤さんの部屋に駆け込んだ。
「僕は加藤さんを信じてやってきた。なのに、こんなバカなことはないですわ」
社内の地位など、どうでもいい。そんなことより信用を踏みにじられたと思った。
加藤さんはじっと耳を傾け、私の真意を理解してくれた。「そんなに心配することはないよ」。そう言って約束を守ってくれた。
妙な話を蒸し返したが、私にも落ち度がある。結果さえ出せば良いだろうと、事前の相談や報告を怠っていた。大いに反省するところだ。それに、ああまで感情的になることもあるまい。
この一件で学んだ。信頼する人との間でさえ、ささいなことで人間関係は壊れかねないということ。そして、ここぞという時には腹を割って話すべきだということ。失いたくないものがあるのなら。
それも我が親分が黙って受け入れてくれたからだ。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】加藤誠さん(右)とは固い絆で結ばれた
岡藤正広(16) アルマーニ 商談の決め手は節税術 耳疑う情報、つないだ縁(私の履歴書)[2025/01/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1380文字 PDF有 書誌情報]
どうすればファッション界の巨人、ジョルジオ・アルマーニにたどり着けるか。私には心当たりがあった。
1986年7月、私は銀座にあった「たい家」という料亭である人物の送別会を開いていた。アントニオ・グイゼッティといって、イタリアから経団連に派遣されていた。彼はベルガモという街の名家の出らしく、日本のことを見下すような言動にうんざりすることもあったが、この日は別の目的があった。
「帰国したら俺と組まないか。もうけさせたるぞ」
「なにをやろうと」
「アルマーニや。イタリアに帰ったらアポを取ってもらえへんか」
しばらくするとアントニオから連絡が入った。9月にアルマーニの最高幹部が会ってくれるという。
実はここまでに伏線があった。この前年、私はイタリアのトラサルディとの商談に臨んでいた。創業者のおいで実権を握るニコラ・トラサルディが住んでいたのはミラノから車で1時間ほどの場所にあるベルガモだった。
お城のような豪邸にニコラが現れたかと思うと「首相から電話が入った」と言って10分ほどで姿を消してしまった。いくら待っても部屋に戻ってこない。結局、日付も変わろうかという時間になって交渉が再開し、なんとか合意にこぎ着けた。
「ちゃんと清書するから明日またサインしに来てくれ」
「そんなモン、さっさと作ってくれよ」と思いつつ、真っ暗な道を車を飛ばして渋々ミラノに戻った。ほとんど寝る時間もなく翌朝また豪邸に。秘書から渡された契約書を見てギョッとした。
前夜に合意した内容と全く違うではないか。怒りが込み上げてくるがグッとこらえた。その後も何度もベルガモに通って販売戦略などの詳細を詰めていった。
記者発表直前のことだ。ニコラから「日本のことは彼と話を進めてほしい」といってある人物を紹介された。それがアントニオだった。ベルガモではトラサルディ家と並ぶ名家の出身だという。しかも、彼の父はやり手のコンサルタントでイタリアのファッション業界に太いパイプを持っていた。この縁をアルマーニにつなげたのだ。
「アルマーニが海外進出の際に最も関心を持ちそうなことを調べてほしい」。私がこう依頼すると興味深い情報が舞い込んだ。なんと、最大の関心事はマーケティング戦略や広告、店舗展開などではなく節税なのだという。
「ほんまかいな」と耳を疑ったが確かだという。これに賭けようと日本の税制に関して詳細にまとめた100ページ超の提案書を作成した。
そして交渉の席。ミラノにある荘厳な建物に案内された。そこに現れたのがジュゼッペ・ブルゾーネだった。後にアルマーニを世界に広めた実力者だ。その彼に交渉の席でひたすら節税術を説いたのは、なにか滑稽な感覚がした。
実はアルマーニには競合の総合商社だけでなくアパレル企業や百貨店、ゼネコンまで10社近くが接触していたという。我々より良い条件を提示した会社もあったと聞いたが、こちらの勝利に終わった。
「商人は水であれ」が私の持論だ。お客さんに合わせて変幻自在に形を変えよという意味だが、御用聞きに徹すればいいというわけではない。どこに付加価値を見いだし主導権を確保するかが商人の腕の見せどころ。この時は節税対策を示しつつ、当社にとって価値ある契約に落とし込めたと思っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】アルマーニを手掛けた1986年当時
岡藤正広(15) 三井の背中 「利は川下にあり」を学ぶ 商売に不可欠な主導権に道筋(私の履歴書)[2025/01/16 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1404文字 PDF有 書誌情報]
私がオーダーメードシャツの一件にこだわったのは、もちろん東京シャツとの約束があったからだが、もうひとつ理由があった。
「なにか違うことを」と考え続けた駆け出し時代。サンローランで始めたブランドビジネスはようやく見つけた突破口だった。社内ではまだ懐疑論があっただけに、折れるわけにはいかなかった。
それに、サンローランに続いて数々の有名ブランドとのライセンス契約をまとめる中で、私は商社マンとしてこう確信するようになった。
今後の商社の商売で不可欠となるのは、付加価値とイニシアチブ(主導権)だ。
メーカーの言うがままにモノの流れを差配して口銭を得るビジネスでは、いつ仕事を切られるか分からない。だが、伊藤忠にしかできない付加価値があれば、お客様にメリットがある上におのずと取引の主導権はこちらに移る。
この発想には実は、モデルが存在した。私が常にライバル視してきた三井物産だ。
彼らが一流たる所以(ゆえん)は財閥という箔だけではない。取引先の御用聞きに終わることなく、人気の海外ブランドと直接契約して問屋に紹介する一方、直営店も展開していた。三井にしかできない商売であり、主導権が生まれる。
「利は川下にあり」は後に私の持論となるが、三井はずっと先を行っていた。その違いに気づいた私は、三井の繊維部門で敏腕を振るう鈴木正隆さんを徹底的に研究するようになった。私より5歳上で、後に副社長になられた方だ。その考えを学ぼうと、なじみの業界紙に対談を設定してもらったくらいだ。
ただし、三井と同じことをやってもダメだ。三井が海外ブランド品の輸入に強みを持つのなら、我々はライセンス契約を結びデザイン監修を受けた日本製の商品を売るビジネスモデルだ。こうして巨人・三井とも差別化する道を見つけた。
ところで、私がいつも財閥系商社へのライバル心を語るからだろうか。大学卒業の際にある文集に「三菱商事三井物産殲滅(せんめつ)」と書いたということが、まことしやかにメディアで紹介されてきた。これは事実ではない。
それに財閥系の三菱・三井といっても、この頃の私が追い続けたのは繊維の川下ビジネスに強い三井だ。というより鈴木さんの背中だった。
強大なライバルを追いかけるうちにブランドビジネスに確信を持つことになった私は、次なるターゲットを見つけた。世界トップと言っていいジョルジオ・アルマーニだ。
ここで告白しよう。
実は、アルマーニとの交渉のきっかけとなったのは営業マンとしてのビジョンでもなんでもない。私の心に芽生えたちっぽけな反骨心だった。
「ブランドビジネスとか言うてるけど、そんなモンはしょせん『耳』にブランド名をつけるだけでええ生地やからできることやろ」
イタリア帰りの先輩がわざわざ私の席に来て、こんな嫌みをぶつけてきた。服だと生地のように簡単にはいかないぞと言いたいのだろう。
その先輩が飲み会の席などで吹聴していたのが「世界の3G」の話だ。ジョルジオ・アルマーニ、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ、ジャンニ・ヴェルサーチは格が違うのだとか。中でも頭ひとつ抜けているのがアルマーニだという。
「それやったら俺がそのアルマーニやらと話を付けて見返したろうやないか」
こんな屈折した感情がビッグディールの発端だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三井物産・鈴木正隆氏と対談した(1998年2月25日付の繊研新聞)
岡藤正広(14) 理不尽な圧力 業界の雄を「敵に回すな」 門前払いでも通い続けた池袋(私の履歴書)[2025/01/15 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1397文字 PDF有 書誌情報]
紳士服の生地にイヴ・サンローランの名を冠して売る商売は、すさまじいまでの勢いを見せた。当時は一度の商談で20反売れるかどうかのところ、400反ほどが売れた。まさにケタ違いだった。
サンローランだけではない。エマニュエル・ウンガロ、ピエール・カルダン、セリーヌ、ミラ・ショーン……。この後、私は次々と欧州ブランドからライセンス契約を取り付ける。サンローランで開いたブランドビジネスは、新たな形に派生することもあった。
「岡藤さんがやっているサンローラン。うちでやらせてもらえないでしょうか」
問屋経由で東京シャツからこんな相談が舞い込んだ。この会社はそごう系列にルートを持っているのだが、ライバルの早稲田屋がオーダーメードシャツで仏ディオールと組んだ。「このままだと追い落とされかねません」。悲痛な訴えだった。対抗策としてサンローランのシャツを出せないかという。早速、サンローランにも話を付けた。
ここで思わぬ横やりが入った。オンワード樫山から猛烈なクレームが入ったのだ。西武百貨店からの依頼で「オーダーシャツの販売をやめてもらえないか」と言う。西武は当社の繊維部門とは接点がなく、業界の雄である樫山を頼ったのだ。
西武はサンローランの既製シャツの窓口だったが、伊藤忠商事が直接契約したことに衝撃を受けたようだ。
ただ、厳密に言えば契約の内容は異なる。西武が担当し、樫山にサブライセンスを供与していたのは既製シャツだ。一方、我々の契約に基づいて東京シャツが扱うのはオーダーメードなのだが、西武は脅威と感じたのだろう。
「お前は悪くないけど相手は西武とオンワードや」。当社の役員からはこう言われた。デパートとアパレルの両雄を敵に回すなという意味だ。だが、私も東京シャツの期待に応える責任がある。商人としての信用に関わる問題だ。どう考えても理不尽な圧力に屈するわけにはいかない。
「少し時間をください。西武と直接話してみます」
こうして東京・池袋のサンシャインビルへの日参が始まった。事務所で面会を申し込んでも一向に会ってくれないが、諦めたら終わりだ。私の営業の師である峠一さんなら、何ごともなかったかのようにまた訪問するだろう。
週に1度、伊丹空港から空路で東京に通う。すぐに週2度に。羽田から池袋に向かう道すがら、浜松町駅の地下でサンドイッチを食べるのが習慣となった。すっかり顔なじみになった喫茶店のおばちゃんとの何気ない会話が一息つける貴重な時間だった。
商人は諦めてはいけない。その一念で通い続けた。
2カ月ほどが過ぎたある日、扉は突然開いた。こちらも顔なじみになった受付の女性が、「お待ちしていました」と言う。応接室に通されるとダブルのスーツに上品な雰囲気の紳士がいた。
「何度も来ていただいたようで……」。そう言いつつ、妥協案を提示してくれた。サンローランのラベルの位置を襟からスソ裏に回してもらえないかと。これで一件落着。スソ裏ではお客様の目に触れない。当然、周囲から反発もあったが、ここは実利を取るべきだと説き伏せた。
この一件から私は3つのことを学んだ。たとえ相手が巨人でも筋を通すこと。交渉ごとでは100%にこだわらずに利を分かち合うこと。最後に、自分から諦めてはならないということ。いずれも今も社員たちによく話すことだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】国内外を走りまわった
岡藤正広(13) 天国から地獄 「このままでは帰れない」 サンローランから解約通告(私の履歴書)[2025/01/14 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1355文字 PDF有 書誌情報]
英国中部の街、ハダースフィールドは世界三大毛織物産地のひとつに数えられる。ここで高級毛織りメーカーを回って200反ほどを仕入れるとパリに飛んだ。この生地をイヴ・サンローランに承認してもらい日本で売るためだ。
意気揚々と訪問したサンローランのオフィス。ここに大量の生地を並べて交渉相手の登場を待った。
しばらくするとデザイン部門を取り仕切るピエール・レヴィを筆頭に7~8人ほどがずらずらと登場した。あいさつを済ませ並べた生地を見てもらったのだが、なにやら雲行きが怪しい。
「ちょっと席を外します」
そう言うと全員が退席した。10分くらいして戻ってくると、一方的に告げられた。
「例外的ですが、契約を打ち切らせてもらいます」
これには耳を疑った。どういうことだと問いただすと我々が持ち込んだ生地を指さして「どれもイヴ・サンローランのテイストではない」と言うではないか。再考を促しても頑として聞かない。いったん引き下がるしかなかった。
「話が違うやないか。どないなってるんや!」
同行した上司が烈火のごとく怒り始めた。私には反論の余地もない。「お前がなんとかせえ」とだけ言い残して、上司は帰国してしまった。
私はパリの安ホテルに一人残された。意気揚々だった先日までと違い、狭く薄暗い部屋に思える。やることがないのでベッドに寝転んで打開策を考えるが妙案が浮かばない。まさに天国から地獄に突き落とされた心境だ。
私は功を焦りすぎたのだろうか。とんとん拍子で契約がまとまったと思った時には、成功を確信した。それがこのザマだ。食事も喉を通らない。出張予算はとっくにオーバーして手持ちのフランはどんどん減っていく。
「このままおめおめと帰るわけにはいかない」
そんなことを思いながら異国の地でベッドから天井を見つめるだけの日々が、1週間ほど続いた。
気になるのがサンローランの心変わりの理由だった。「うちのテイストではない」と言った意味はなにか。
こちらのテイストを押しつけているのではないか。そう考えると合点がいく。「サンローラン」を打ちだそうとするあまり、クセの強いガラを選んでしまっていたのだ。
サンローラン側が突然、「心変わり」した原因はこれじゃないだろうか――。では、どうすればいいか。ストライプなどの柄物については販売元となる三喜商事には諦めてもらい、残る無地や落ち着いた生地をサンローランに認めてもらえないか。
翌日、再びサンローランのオフィスを訪れた。カシミヤも混ぜて高級感を出した無地を中心にするが、柄物もいくつか認めてもらえないか。そう再提案すると渋々認めてくれた。三喜商事も納得してくれた。これでどうにか帰国することができる。とても成功だとは思えず、なんとか形にできてホッとしたというのが正直なところだった。
帰国して迎えた商談会。会場となる大阪・瓦町の三喜商事本社ショールームを訪れると、私の顔を見るなり女性スタッフが声をかけてくれた。
「サンローラン、よう売れてますよ!」
それを聞いて隣に立つ峠一さんと目が合った。無言でガッチリと握手。「二人で日本一になろう」。いつかそう語り合った青くさいストーリーが動き出した瞬間だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】英国も回った(1980年、右が筆者)
岡藤正広(12) サンローラン 展示会で突然ひらめく 紳士服の生地、決めるのは女性(私の履歴書)[2025/01/13 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1395文字 PDF有 書誌情報]
帝国ホテルのホールに所狭しと並べられた生地の数々。ここで一般の消費者に直接選んでもらってオーダーメードのスーツを作るのだという。
脇に目をやると確かに、お金持ちという風貌の男性がテーブルに座り、展示会を主催する英国屋の営業マンがなにやら話しかけている。それにしても、こんなに山のようにある生地の中からどうやって選ぼうというのだろうか。
そう思いながら観察していると、お金持ちは営業マンの話など聞いてはいない。すると2人の女性がそのテーブルに近づいていった。男性の奥さんと娘さんのようだ。
「パパ、この生地がいいんじゃない」
「んん……、そうかなぁ」
そう言って男性はその場でスーツの生地を決めてしまった。その様子を目の当たりにした私は、突然ひらめいた。
「これや! 男はスーツの生地なんか全然見てへん。女の人が決めてるんや!」
この時にひらめいたアイデアが、紳士服用の生地にいかにも女性が好みそうなブランドの名前を付けて日本で売る、というものだ。ブランド側とはライセンス契約を結んで名前を使わせてもらう。
これなら問屋にお伺いを立てるような従来の商売とは違い、伊藤忠が主導権を握ることができる。「なにか違いを」と考え続けてきたからこそひらめいたのだと思う。
同行した峠一さんにこのアイデアをぶつけると、「女性受けするブランドやったら三喜商事に聞いてみたら?」と返ってきた。これは居ても立ってもいられない。私は大阪に帰るなり三喜商事に足を運んだ。応対してくれたのは創業者の堀田(ほりた)一社長だった。
「紳士服の生地に女性が好むブランド名を付けたら売れるんやないでしょうか」
私がそう言うと、堀田さんは黙って聞いてくれた。普通なら「なぜ男性用の紳士服に女性が好むブランドを」と疑問に思うはずだ。私がその意図を英国屋の展示会で見た風景を交えながら説明すると、堀田さんは理解してくれた。
「ええアイデアやな」
そう言いながら、こう付け加えられた。
「それやったらイヴ・サンローランや」
このひと言で、フランスの高級ブランドであるサンローランをターゲットとすることに決めた。社内で説明しても「なにをアホなことを言うとるんや」と相手にされなかったが、もはや私の耳には入らない。繊維部門のトップ、堀田輝雄常務(後に副会長)が大いに関心を持ってくれたことも心強かった。
果たしてサンローランに出した提案書に対する返信が届いたのは、それから1カ月ほど後のことだった。「検討してもよい」と書かれていた。交渉はとんとん拍子に進み5年契約でまとまった。
こうして動き始めた大型プロジェクト。英国で生地を買い付けてサンローランからブランド使用の承認を得るため、欧州に飛ぶことになった。その直前には当社の堀田常務と三喜商事の堀田社長による共同記者会見が開かれた。
場所は東京・銀座のマキシム・ド・パリ。広告費などを含め、2000万円の予算を使った食事を取りながらの豪華な会見を、私は誇らしげに眺めていた。当時の課の年間利益は7000万円だから大盤振る舞いだ。周囲に取り残されていた私が、アイデアひとつで誰もやってこなかったビジネスの扉を開いたのだ。
この時、フランスで試練が待ち受けているとは、知るよしもなかった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】イヴ・サンローランに着目(中央が三喜商事の堀田一社長。右が筆者)
岡藤正広(11) 一流半の扱い 「いつか日本一になる」 三井物産に猛烈な対抗心(私の履歴書)[2025/01/12 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
伊藤忠商事と取引する英国産毛織物のエージェント、峠一さんとの二人三脚もすっかり板についてくると、私は上司の飯田洋三さんから課された「お前はしゃべらずにメモだけとっておけ」という命令をいつからか免除されるようになった。自分で戦略を立てて客先を回る営業という仕事は、面白かった。
「岡さんはなにか新しい商売を作ってな」
「よっしゃ! 俺は日本一の商社マンになってみせるから、峠さんは日本一のエージェントになってくれよな」
2人してこの業界で天下を取ってやろう――。私たちは酒が入るとこんなことを熱く語り合うようになっていた。なんとも青くさい青春の1コマだが、それもこれも社会人になって自信を失い大きく出遅れてしまっていた私に、商人としての基本をたたき込んでくれた峠さんのおかげだ。
ただし、日本一の頂は遙(はる)かに遠い。そんな現実を突きつけられることが度々だった。
1970年代末の当時、反物を納めるため問屋を回る商社マンの仕事は実に泥臭いものだった。伊藤忠のほか専門商社4~5社が集められると「今回の取引はお前のところにしといたる」といった調子でどこかが指名される。
選ばれる理由は反物の良しあしというより、接待で使った店が気に入ったというようなたわいもないことばかりだった。お客さんの中には、我々商社に対して「使ってやっている」という態度を露骨に見せる人も少なくはなかった。
「こんなんでええはずがない」。駆け出し営業マンの私は、この隷属的な関係を変えられないかと考え続けた。そんな時に見せつけられたのが、名門財閥の力だった。
ある時、先輩から教えられた。「うちは三喜商事と商売してるからサン・フレールとは無理やぞ」。両社は業界の1位と2位。確かにそれが商売の常識なのかもしれない。
ところが、三井物産は堂々とどちらとも取引しているではないか。我々が仕事を与えられる会合にも顔を出さない。同業者に理由を聞くと、「三井は一流やけど伊藤忠は一流半と思われてるからですよ」と一笑に付された。
この頃から、私の中で財閥系への猛烈な対抗心がふつふつと沸きあがってきた。
「三井なにするものぞ」
ただ、なぜ三井はどちらとも取引できるのか、なぜ繊維に強いはずの伊藤忠が一流半の扱いなのか。
答えは単純だった。三井は海外の有名ブランドと直接契約し、日本の問屋に紹介していた。自ら主導権を持ち、我々同業他社にはない付加価値を作っていたのだ。仕事をもらうために接待を競い、同じ時間に同じ場所に集められる我々とは似て非なる商売をしていたということだ。
ならば、私もなにか「違い」を示す商売ができないものか――。そう考え続けていた頃のことだ。
当時は毎週、峠さんと東京に出張していた。ある金曜日の夕方、あと一軒回ったら伊丹行きの最終便に急がないと。そう考えていると、峠さんがこんなことを言った。
「明日、英国屋の生地の展示会があるんやけど、せっかくやから岡さんも一緒に行かへんか」
生地の展示会なんて面白くもないし、わざわざ土曜を潰すのもなぁ。そう思ったが断れなかった。
「そうやなぁ……、ほな行ってみよか」
ここで私は成功への手掛かりを見つけたのだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】日本一の商社マンを目指した若手時代
岡藤正広(10) 営業の師 「水のような商人」が手本 黙って学び、新しい商売探す(私の履歴書)[2025/01/11 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1333文字 PDF有 書誌情報]
「1年間は峠さんについて、お客さんの前では一切しゃべらずにメモだけ取れ」
課長の飯田洋三さんが私の指導役に指名した峠一さんは伊藤忠商事の社員ではない。栗原という、当社とは付き合いが長い英国産毛織物のエージェントの人だった。つまり、飯田さんは社外の人に私の教育を託したのだ。
「そこまで信用されていないのか」。落ち込まずにいられないが、これが私にとっては幸いだった。
峠さんは高校を出てしばらくぶらぶらしているところを、近所に住んでいた栗原の創業者に拾われるようにして繊維業界に飛び込んだ。年齢は私より3つ上だが、営業マンとしてはすでに豊富な経験を持っていた。
飯田さんが認めるだけあって、峠さんはやり手の営業マンだった。見た目はずんぐりむっくりで目がギョロリ。いかにも愛嬌(あいきょう)がある。商談にのぞんでも相手をなだめすかすのがとにかくうまい。
ちょっともめ事があって相手が怒っていてもかわいげのある言い方でやり過ごし、怒りが冷めるのを待つ。すると絶妙なタイミングで反物の見本を取り出し、「こんなんもあるんですけど、どうでっしゃろ」とひと言。相手は「まったく、あんたにはかなわんな」と話に乗ってくる。
「なるほど、これはうまい」。言い回し、間の取り方、勝負をしかけるタイミング、それになんと言っても相手の心をつかむなんとも言えないしぐさ――。そのどれにも毎度、感心させられた。
黙ってメモを取るだけと言われて最初は屈辱だったが、隣でペンを走らせるうちに徐々に峠さんの話術の妙が理解できるようになってきた。
私はよく「商人は水であれ」と言う。お客さんの要望にあわせて水のようにどんな形にでも姿を変えてみせるのが商人のあるべき姿だと思うからだ。峠さんはまさに「水の商人」だった。それに、とにかくお客さんが欲しいと思うものを先回りして用意する人だった。
私は経営者になってから、口を酸っぱくしてマーケット・インの発想を持てと社内で説いてきたが、その範を示してくれていたのが峠さんだったのだ。
単に話の持っていき方がうまいだけではない。峠さんはとにかくしつこい人だった。一度や二度、断られたくらいで引き下がらない。何ごともなかったかのように何度でも客先に出向くのだ。これは後々に私も実践したことだ。
こうして私は社外の営業の師から商売のイロハを教えられた。
同い年と比べ入社が2年遅れている上、営業の現場に出たのは入社5年目。すでに30歳が目前に迫る。最高の師を得たとはいえ、焦りがなかったと言えばになる。
周回遅れで商売の才能がないと思っていた私は、どうすればここで生き残っていけるのか。ずっとそんなことを考えていた。周囲と同じようなことをしていてはダメだ。
峠さんと同じでもいけない。実は、師匠の峠さんからも「岡さんはなにか新しいことをやってくれ。新しい商売を作ってくれな。フォローは俺がするから」とよく言われたものだ。
なにか違うことを――。探し続けても、その答えが見つからない。そうして1年余りが過ぎた。突破口は不意に現れた。きっかけをくれたのはほかでもない、峠さんだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】峠一さん(左)に営業のイロハを学んだ(右が筆者)
岡藤正広(9) カバン持ち 「お前はしゃべるな」 念願の営業異動、屈辱の命令(私の履歴書)[2025/01/10 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1325文字 PDF有 書誌情報]
入社5年目を前にしたある日のこと。課長の飯田洋三さんに大阪・梅田の中華料理店に呼び出された。
「岡藤君、次は必ず営業に出すからな」
私が本意ではない受け渡し担当にずっと「塩漬け」になっていることを、これまでも飯田さんは気にかけてくれていた。この時点で4年。社内外での評判も悪く、もう営業には縁がないと思っていた。もっと正直に言えば、自信がなくなっていた。
翌日、課の面々が集められた。飯田さんが「岡藤君も受け渡しが長いからそろそろ……」と言うと、なんと私の教育担当だった先輩が真っ向から反論した。
「岡藤君はこの業界の営業には向いていないと思います」
すると、飯田さんの隣に座る人が「そうですね」と追随するではないか。飯田さんは「そうは言ってもなぁ」と困った様子だったが、結局は私との約束を守って営業行きの人事を通してくれた。
すっかり自信を失っていた上に、ここまでハッキリと否定された私は「なんとかしたい」と思った。これがまた良くなかった。皆さんの前で挨拶をする際に、業界トップの取引先を例に挙げてそことの商売で「一番を取りたいと思います」と宣言したのだ。
私としては単に抱負を語ったつもりだったが、その問屋を担当している先輩にとっては、努力が足りないと言われているようなものだ。実際、顔に泥を塗られたと受け取ったという。こんな気遣いもできないのは、私が未熟だったと言うしかない。
ちなみに、私にとって最初の上司である飯田さんは、その後も繊維部門でずっと私の上にいた。上司というだけでなく、深く尊敬する人だった。
思えば、私はずっと飯田さんの背中を見てきた。時に励まし、時には叱ってくれた。
後に私が海外ブランドとの契約を次々とまとめて結果を出し始めた頃のことだ。私は自分でも気づかないうちにすっかりテングになっていたのだろう。ある時、飯田さんから封書を渡された。
開くと独特の毛筆で「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と書かれていた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の私のことを、ああやってたしなめてくれるのは飯田さんだけだった。あの自信喪失の4年間もずっと近くで見てくれていたことを知っているので、この書を見た時には大いに反省したものだ。
その飯田さんは営業でも上司となる。初日に呼び出されると、こう命じられた。
「これから1年間、お前は峠さんについて回れ。一緒にお客さんのところを回るんや」
つまりお目付け役が付くということだが、それだけではなかった。
「お客さんの前では、お前は一切しゃべらんように。ノートにメモだけ取っておけ」
これでは営業マンというよりカバン持ちだ。だが、飯田さんからの厳命だ。屈辱でも受け入れるしかない。ここで認められないと今度こそ社内で居場所を失ってしまう。念願だった営業部門での仕事は、こうして始まった。
ただ、今になって飯田さんの親心がよく理解できる。私一人だとお客様とぶつかると懸念されたのだろう。そして、幸運に思う。私の指導役に指名された峠一さんは、私にとって最高の先生であり、自信を失っていた私をいっぱしの商人にしてくれた人だったからだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】営業の師となる峠さん(中)と(右が筆者)
岡藤正広(8) お先真っ暗 「会社人生は終わるんか」 苦悩救ってくれた問屋の番頭(私の履歴書)[2025/01/09 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1342文字 PDF有 書誌情報]
私の最初の仕事は受け渡しという。紳士服の生地を輸入して問屋に渡す。その裏方を差配する。物流、通関、出荷売上金の受け取り。いずれも事前に取り決めているはずが、すんなりとはいかない。問屋が約束通りに生地を引き取らず在庫管理をこちらが負担するのは日常茶飯事。代金の支払いも実にルーズだった。
「契約は守ってください」
問屋にクレームの電話を入れると、「そんな杓子(しゃくし)定規なこと言うて、なんやねん」と返ってくる。
「契約は契約です。それが嫌でしたら最初から契約書にそう書いてください」
若い私はなれ合いというものを認められず、いつもこんな調子で返していた。大阪の繊維業界は狭い。あっという間に「融通が利かんし生意気」という評判が広まった。
問屋からのクレームは契約をまとめる伊藤忠の営業マンにも入ってくる。社内でも「堅いことばっかり言うなよ」とクギを刺されるが、私は折れる気になれなかった。
あうんの呼吸も理解できない頭でっかちの使えない若造――。いつしかこんな評価が定着していった。すると強気だった心が折れそうになる。
「ここは長いものに巻かれるのが得策では……」。サラリーマンとしての処世術というやつを、自分も身につけるべきか。そんなふうに思うと、仕事が手に付かなくなる。心に魔が差して負けそうな自分が、そこにいるのだ。
受け渡しは4年目に突入した。社内外の私への評価は「扱いづらいヤツ」で固まっている。希望する営業はおろか、このまま社内で居場所を失ってしまうんじゃないか。いや、どうやらすでに失っているようだ。
もうお先真っ暗。忘れていたはずの劣等感がよみがえってくる。「俺の会社員人生はこんなところで終わるんか」
そう思い詰めていた時のことだ。なぜか伊部という問屋に足が向いた。「見本を届けに来ました」と適当に理由を付けた記憶がある。
店に入ると、村上真さんというこの問屋の大番頭のような人がいた。私は話しかけるでもなく暗い顔でうつむいていたはずだ。なにかを察してくれたのだろう。
「ちょっと行きますか」
村上さんが声をかけてくれた。近くの居酒屋のカウンターに並んでビールをひとくち。私は思わずこぼした。「僕、先が見えないんです」
会社も年代も違う跳ねっ返りの若造の身の上話に、村上さんは耳を傾けてくれた。しばらくすると、村上さんは出来の悪い教え子を諭すように、こう言った。
「そういう時は変に先を見たらあきまへんで」
村上さんが例に出したのが、入荷の時期になると倉庫に山のように積まれる反物の話だった。一反ずつ服に必要な長さにカットして伝票を付けては出荷していく。一反でスーツ20着分。気が遠くなるような作業を黙々とこなすのが問屋の仕事だという。残業代の代わりに出される素うどんをすすりながら。
「仕事というのはそういうもんでっせ。初めから先ばっかり見たらあかんのですよ」
この言葉が胸に突き刺さった。「俺はなにを勝手に将来のことばかり悲観して塞ぎ込んでるんや。目の前の仕事に集中せんで、なにがプロや」
目が覚めるとはこのことだ。村上さんがついでくれたビールをぐいっと飲み干す。胸に染み入る味がした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】受け渡し時代。そろばんで計算している
岡藤正広(7) 世間知らず 「岡藤は使えない」 配属初日、瀬島龍三副社長を批判(私の履歴書)[2025/01/08 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1362文字 PDF有 書誌情報]
今思えば世間知らずも甚だしい若者だった。
就職活動の際に希望したのは商社だった。最初に受けようと思ったのは住友商事。大学時代を2本のジーンズで過ごした私はスーツを持っておらず、この日もジーンズで面談へと向かった。場違いなのは自分の方なのに「なんか雰囲気が堅いなぁ」と思い、そのまま帰ってしまった。
ただ、本命は別にあった。「やっぱり商社といえば三井物産や」。意気込んで東京・大手町の本社に向かったのだが、アポなし。しかも居候していたビー玉工場の娘さんから借りた日産サニーを無断で駐車場に止めたことを注意されて逃げ帰ってしまった。
残るは丸紅と伊藤忠商事。おふくろが大阪で暮らしていることもあり、大阪勤務が可能な伊藤忠に決めた。
なんとも場当たり的な就職活動だが、そもそも商社を希望したのもおふくろが「商社やったら、海外勤務したら家が建つらしいよ」と言っていたことがきっかけだ。もっとも、私は社長になるまで大阪一筋。ほとんどの商社マンが経験する海外勤務とはついぞ縁がなかったのだが。
こうして伊藤忠の門をくぐった私は希望通り繊維部門に配属された。大阪・本町にあった当時の堂々たる本社ビルに足を踏み入れた時には誇らしい思いだったが、配属初日からやらかしてしまった。
大会議室での新人お披露目会。居並ぶ先輩たちを見ていると、なぜか「ここは一発カマしたれ」と思ったのだ。
「瀬島龍三さんは大本営の人。言ってみれば戦犯じゃないですか。これから会社が世界に打って出て国に尽くそうっていう時に、そんな人が経営を担っていて、皆さんはそれでいいんですか」
その場の空気が凍りついた。瀬島さんは戦時中、大本営で参謀として南東太平洋戦線の作戦を担当した元エリート軍人だ。終戦後は11年もの間、シベリアに抑留されたが帰国を果たすと伊藤忠に入社した。政官財の各界に分厚い人脈を持っていたそうで「昭和の参謀」とも呼ばれた人だ。私が入社した1974年には副社長として経営の中枢を担われていた。
そんな大物を新人がいきなりコキ下ろしたのだ。あの時は「ここは目立たなアカン」と妙な気負いがあったのだろう。その狙いだけは的中した。良い意味ではないのだが。
「なんやあいつは! あれはアカとちがうか」
瞬く間にこんな噂が広がった。そのせいか入社直後の海外留学の面接ではあっさりと落とされてしまった。もし余計なことを言わずにこの試験に合格していたら、私も他の同僚のように海外に派遣され、その後の会社員人生も大きく変わっていただろう。
配属された輸入紳士服地課で、私に割り振られた仕事は受け渡しだ。海外などから取り寄せた商材を顧客に渡す。
単純な仲介業務に見えるが、船や航空機の手配から倉庫での在庫管理、それに手形の入金などやることは多い。裏方的な仕事だが商売の基本を学べるため、多くの商社マンが一度は経験する。
ただし、その多くが1年ほど。商社と言えばやはり世界を飛び回る営業マンとのイメージが強い。
さあ、来年こそ営業の現場に出てバリバリと商談をまとめてやろう――。若い私は出番を待っていたのだが、1年たっても2年たってもお声がかからない。次第に私への辛辣な評価が聞こえてきた。
「岡藤は使えない」
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】就職先は商社を希望していた
岡藤正広(6) 駒場寮 ビー玉工場で一目ぼれ 居候先、家庭教師の代役の代役(私の履歴書)[2025/01/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
同級生より2年遅れながら、晴れて私は大学生になった。初めて暮らす花の都、東京。結核も治り、止まっていた時間が動き始めた。
ただ、住まいには面食らった。仕送りを受けずに自弁だったので、生活費を切り詰めようと東京大学の駒場寮に入ることになった。割り振られたのは5人部屋で、板敷きの部屋がカーテンで仕切られている。入り口には「インド哲学研究会」と書かれていた。
ずいぶんとアカデミックな部屋だなと思ったのもつかの間。その実態は学生運動のアジトだった。毎晩、ドカドカと見知らぬ人たちが部屋に入ってきて、次の闘争がどうとか話している声が聞こえた。
学生運動といえば、私にとっては1浪の時に東大受験のチャンスを奪われた記憶が真新しい。そもそも興味がなかった。5月になって部屋替えが可能と聞くと、真っ先に申請した。割り振られたのは、ハイキングサークルの部屋だった。政治色は皆無。私にとっては居心地がよかった。
仕送りがないので自分で稼がないといけない。割がいいのは、やはり家庭教師だ。すぐに見つかったが、商人のタマゴとしての知恵を働かせたのは大阪に帰省する際のことだろう。モノは試しにと朝日新聞に夏休み限定での家庭教師の広告を載せてみた。
「当方東大生。夏季特訓英数理」。たったの2行だ。当時、大阪ではまだ東大生は珍しかったのか、実家には電話が相次ぎ、そのたびにおふくろに取り次いでもらった。
サークル仲間のお茶の水女子大学の寮には自販機がないと聞き、日本コカ・コーラと掛け合って自販機を置かせてもらったこともある。売り上げの一部を得るためだ。
こんな調子なので東京での生活は、何に困るということもなく過ぎていった。
3年生になって駒場寮を出ないといけなくなっても、亀戸のビー玉工場に居候させてもらって住まいを確保した。家庭教師として通った工場なのだが、その教え子が高校3年だった時、数3を教える必要に迫られた。私は文系だから勉強していない。さて、どうしたものか。
「お茶の水大のサークル仲間に理系の子がいたっけ」。代役をお願いすると快諾してくれた。ところがある日、先約があってどうしても来ることができないという。
「そこをなんとか……」
しつこくお願いしたところ、同じ数学科の友達を代わりに送ってくれるという。こうして、家庭教師の「代役の代役」としてビー玉工場にやって来た彼女に、私は一目ぼれした。玄関を開けるとシャイな彼女は下を向きながら入ってきたのだが、その姿に息をのんだ私は一方的に「この人と結婚するかも」と思ったのだ。この数学女子、黒河有子と私は後に本当に結婚することになった。
時は1970年代前半。石油危機が日本を襲い、卒業を目前に控えた73年秋には高度経済成長も終わりを迎えた。それでも結核に耐え続けたあの浪人生活を思えば、なにも苦にはならない。
私は意気揚々と社会人生活を始めることになった。あの時に私が入り込んだ「影」はもう、自分とは関係のない世界だ。そう思っていた。
それが、またしても周囲から取り残されたという劣等感と戦うことになろうとは……。友人の姿がまぶしすぎて思わず閉じた扉。今度こそ自分の力であの扉を開いてみせる――。若き葛藤の日々が、また始まった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】大学時代に妻(左端)と出会った(隣に筆者)
岡藤正広(5) 結核 痩せ細り強烈な劣等感 2浪の末に東大合格、母の涙(私の履歴書)[2025/01/06 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
高3秋の健康診断で肺に白い影が見つかった。小さい頃に患った肺炎の影響だろうと軽く見ていたのだが、時間がたつと首の腫れがひどくなってくる。病院に行くと頸部(けいぶ)リンパ腺結核と診断された。
「もう受験はあきらめなさい。命の方が大切やろ」。医者からは、そう告げられた。
でも、そんなに簡単に諦めるわけにはいかない。東大に行ってここから抜け出すしか道がない。おふくろを楽にするためにも。
医者からはずっと入院するよう勧められたが、定期的に通院することを条件に自宅療養を許してもらった。東大受験へのラストスパートをかけるためだ。
ところが、机に向かっても体がしんどくて仕方がない。体重も52キロにまで落ちてしまった。あっという間にげっそりと痩せ細っていくのが、自分でも分かった。
結果は、なすすべもなく不合格。もう進学は諦めるべきなのだろうか。思い詰めておふくろに「僕、大学に行ってもええんかな」と聞くと、「なにを言うてるの。そんなことは心配せんでいい」とひと言だけ返ってきた。それを聞いた時に「俺にはもう、これしかない」と意を決した。
それから1年。思いもしない結末が待っていた。
折からの学生運動が激しさを増し、年が明けて1969年になると東大紛争のドタバタが頂点に達した。安田講堂に立てこもった学生たちに、警官隊が放水するシーンをテレビで見た時にはがくぜんとした。直後に東大は入試を中止することを決めた。
もはや東大以外の道は私の頭の中にない。戦わずして2浪が決まってしまった。
この間も、結核は私の体力を奪い続けていた。療養しながら自宅で勉強を続けていたある日の出来事が、今でも忘れられない。
外出しようと玄関の扉を開けると、向こうから近所の友達が歩いてきた。よく晴れた日のこと。野球で鍛えた彼の浅黒くてたくましい表情が、やけに輝いて見えた。私はとっさに扉を閉めてしまった。
薄暗い玄関に隠れて彼が通り過ぎるのを待つわずかな時間……、惨めだった。
俺はなんでこんなところに隠れているんだ。そう思うが、扉を開けられない。俺はこんなに痩せ細ってしまい、何者にもなれないままだ。そう思うと彼の姿を直視できない。強烈な劣等感が押し寄せてくる。
この世界には光と影が存在する。あの時、間違いなく私は影の側にいることを思い知らされた。
こんな私を励まそうと、ある友人が新聞記事を持ってきてくれた。そこには、歴史に名を残し大成した人物の多くは若い頃に大病を患うか親を亡くしている、という趣旨のことが書いてあった。彼の気遣いは今思い出しても胸がじーんと熱くなる。
こうして迎えた東大受験の日。「これが最後」。そう思って臨んだ試験会場には、直前まで確認しようと使い込んだ参考書を持ち込んだ。尊敬する高校の同級生、吉川雄二君の兄から譲り受けたものだ。今も大切に保管している。
そして合格発表の当日。結果は電報で送られてくるのだが、友人が現地で確認して電話をかけてきてくれた。「岡藤、名前あったぞ!」。受話器を握る私の目の前にはおふくろがいた。
「通ったで」。短く告げるとおふくろの目から涙がこぼれた。ホッと肩の荷が下りる思いがした。ついに、私の行く手に光が差したのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】高校時代は友人にも恵まれたが試練があった(手前左端が筆者)
岡藤正広(4)目標は同級生 「彼のようになりたい」 受験直前に父急死、一家の危機(私の履歴書)[2025/01/05 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
私は小学6年で生まれ育った舎利寺から東大阪の花園に引っ越したのだが、学校は越境でそのまま通っていた。中学校も舎利寺小から進む大阪市立生野中学。現在のことは分からないが、60年以上も前の当時は学力レベルが高いとは言えない学校だった。
小学校の頃は成績がトップだったから「中学でも余裕やろう」とタカをくくってしまったのが間違いだった。どんどん成績が落ちてやる気がなくなる。ただ、3年生になるとそうも言っていられない。
そんな時に「すごい奴が転校してきた」という噂が校内に広がった。なんでも、瀬戸内海の小さな島からの転校生らしいが、いきなり1000人いた学年で1位。さらに大阪の中学生にとって定番の五ツ木の模試でも大阪府で1位になったという。
塩見俊次君というその転校生に聞いてみるとすでに高校の勉強を始めているというではないか。インターネットなどない当時のことだ。小島に居た頃から独学だったのは間違いない。話してみると言葉の端々からなんとも言えない自信が伝わってくるのだが、それでいて嫌みがない。
「こんなにすごい奴がいたのか……」。彼我の差の大きさに打ちのめされる一方、初めて他人に「追いつきたい」という思いが芽生えた。
絶対にかなわない。だからこそ「俺もこんなふうになりたい」と思うようになり、猛勉強を始めた。おかげで彼には追いつかないまでも模試では大阪府で3位にまで成績を上げた。この時、もし彼に出会わなければその後の人生は大きく違っていたのではないか。高津高校にも進んでいなかっただろう。
高津高校は学区一の進学校だった。塩見君は違う高校に進学したのだが、いくらなんでも彼ほど優秀な奴はいないだろうと思っていたら、いたのだ。それが吉川雄二君だ。彼のことは今でも尊敬しているし、彼との出会いこそが、本当の意味で私の人生を変えたと思っている。
成績は極めて優秀で現役で東京大学に進んで医者になるのだが、そんなことより会話の次元が違った。
中学の時から大江健三郎やマルセル・プルーストに親しんでいたらしく、さりげなく大作家の話が出てくる。文学だけでなくポアンカレ予想の話をされた時は「ついていけない」と思ったものだ。そんな小難しい話をしても、塩見君と同じように嫌みがない。
またもや自分がちっぽけに思えるのだが、努力さえすれば追いつけないまでも、今の自分よりも先に進めるはずだ。それは中学の頃に塩見君から教えられたことだ。
こうして私も吉川君と同じく東大を目指すようになったのだが、ここで人生で初めて大きな試練に直面する。
あれは受験が迫った高3の12月のことだ。ある日、おじさんから電話がかかってきた。家を飛び出して一人で暮らしていたオヤジが亡くなったという。くも膜下出血だった。長年の行き過ぎた飲酒がたたったようだ。
オヤジのことは今も反面教師だと思っている。短気で手が早い。でも、お人よしで憎めない。なかなか短い言葉では言い表せない。
おふくろは慣れない事務の仕事を始めていたが、生活が苦しくなることは火を見るより明らかだった。だが、試練はオヤジの急死にとどまらなかった。
「俺が東大に行ってこの状況を変えてみせる」
そう決意した自分自身の身に、病魔が迫っていたのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】中学・高校で目標とする友人と出会った
岡藤正広(3) 手抜き工事 つかまされた欠陥住宅 「将来は大企業に」母の願い(私の履歴書)[2025/01/04 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1324文字 PDF有 書誌情報]
オヤジは飲んだくれだった一方で、人から頼られると断れないお人よしの一面もあった。それが理由か、詐欺まがいのもうけ話にたわいもなくひっかけられることも度々だった。幼い私にとっても忘れられない事件がある。
小学6年の時のことだ。その年、我が家は私が生まれ育った大阪市生野区の舎利寺から東大阪市の花園に引っ越していた。知人から声をかけられてオヤジが2階建ての文化住宅を一棟丸ごと買うことになり、我々も1階の一室で暮らすことになったのだ。
この家がとんだ災難のもとだった。住んでみて分かったのだが壁は薄く隣室の会話は筒抜け。2階の人が部屋を歩くと天井がミシミシと音を立てる。「なによ、この安普請は……」。おふくろはよく嘆いていたが我慢するしかない。しばらくして安普請では済まないことが発覚した。
9月半ばに第2室戸台風が大阪を襲った。猛烈な風が吹き始めると天井からバリバリという大きな音が伝わってきた。「はて、なんやろ」。そう思っていると何かが上からドスンと落ちてきた。
「ここにおったら危ない。早く逃げよう」。4歳下の弟も連れて一目散に外に飛び出した。幸いにも向かいには建築中の家がある。こちらは鉄筋で頑丈だ。私たちはその駐車場に逃げ込んだ。しばらくすると、目の前の我が家が音を立て始めた。瓦が飛び屋根がはがれていく。
私たちはぼうぜんとその様子を見つめるだけだ。後で分かったことだが、まともに天井の梁(はり)が通されていないことが原因だった。オヤジは手抜き工事の物件をつかまされたのだ。
ちょうどその頃、近くの駅の前に住友銀行(当時)の独身寮ができた。もちろん手抜き工事の文化住宅とは比較にならない立派な建物だ。ある時、近所のおばさんたちが井戸端会議で「あそこにはエリートばっかり住んでるらしい」と話しているのを、おふくろが耳にしたそうだ。
こんなこともあってか、おふくろは私と弟にはしきりに「将来は大企業のサラリーマンになるんよ」と勧めるようになった。「そうなったら借金取りに追われることもないしなぁ」
一方で、小さい頃には口数が少なかった私だが、小学校高学年になるとやんちゃ仲間も増え、よくみんなでいたずらしたものだ。線路に忍び込んだり、仲間が万引きしたせいでおまわりさんから「ブラックリストに載るぞ」とおきゅうを据えられたり。
ただ、勉強はよくできる方だった。これには両親に感謝しないといけない。いつもケンカばかりの2人だが、教育熱心という点では一致していた。小さい頃から隣の珠算教室に通っていたおかげでそろばんが得意。6年生の時に受けた知能に関するテストでは学年で1位だった。
お山の大将でしかないのだが、すっかりテングになってしまったのが良くなかった。中学に入ると成績はどんどん落ちていった。
ところが、ここで幸運が待っていた。自分よりずっと優秀で「俺もこんな人間になりたい」と思う同級生に出会えたことだ。それも中学、高校と続けざまに。
振り返ればこの頃から、私はいつも誰かの背中を追い続けてきた。心の中に芽生えた劣等感や憧れを前へと進む力に変えて、その先にある「こうありたい」を求めて。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】弟と(右が筆者)
岡藤正広(2) 鶴橋 夫婦げんかに耳塞ぐ 父の成功と変貌、反面教師に(私の履歴書)[2025/01/03 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1330文字 PDF有 書誌情報]
バタバタと響くオート三輪のエンジン音。荷台に並ぶリンゴ箱。その中のひとつに、膝を折り畳んで座っていた。周りの箱には山盛りの野菜が並んでいる。物心がついた頃の、遠い記憶の中にある原風景だ。
車が止まってしばらくすると、それまで頭上を覆っていた幌(ほろ)が開く。目の前にはリンゴ箱に並ぶ野菜を買い求める人たちの顔が並んでいる。
「まーちゃん、そろばんや!」
威勢の良いオヤジの声が飛ぶ。実家の隣のそろばん教室で鍛えた暗算を私が披露すると、驚くお客と自慢げなオヤジの表情が同時に目に入った。そのたびに、私はなんだか気恥ずかしくてうつむいていた。
父の秀雄は戦争から帰ると大阪で野菜の行商を始めた。母の喜代子と出会い、1949年に私が生まれた頃は働き者だったという。だが、私はそんな父の姿をよく覚えていない。
オヤジが仕入れに通う市場は自宅から車で10分ほどの鶴橋にあった。大阪のコリアンタウンとして知られている。今でも闇市だった頃の面影を色濃く残す庶民の街だ。
小さな建物が密集し、駅前の商店街にはアーケードもあるため昼でも薄暗い。オヤジのような商売人たちの威勢の良い声が途絶えることがない。露天に並ぶキムチや焼き肉のにおいが鼻孔を突く。オヤジはここで野菜を仕入れて近隣に売り歩いていた。
私が小学校に入った頃からだろうか。学校から帰ると、いつもおふくろが気難しい表情を浮かべていた。
「まーちゃん、行くよ」
そう言うと鶴橋に連れて行かれたものだ。行き先はスナック。「うちの人が来ませんでしたか」。おふくろが懇願するようにママに尋ねると、「いらしてませんけど」とつれない返事が返ってきた。
「この人も商売なんやから、客のことなんか正直に言うわけないやん」。子供ながらに内心でそう思ったものだ。夕方になると何軒もハシゴして飲み歩くオヤジをつかまえようとするおふくろの姿が、ふびんでならなかった。
働き者のオヤジが変わってしまったのは小さな成功が原因だった。当初は街の人たちに野菜を売っていたが、次第に食堂に卸すようなり、ついに大丸のレストランとの商売にこぎ着けた。すると、日銭を手にしたオヤジは酒に溺れるようになったそうだ。
それからというもの家では夫婦げんかが絶えなくなった。夜になると泥酔したオヤジがおふくろに手を上げ、激しく言い争う声が聞こえてくる。もめ事の原因はいつもオヤジの浪費だった。お金を手にすると、きれいさっぱり飲み代に使ってしまうのだ。ケンカが始まると、幼い私はいつも布団の下で耳を塞いでいた。早く終われ、と。
そんな家庭環境のせいだろうか。小さい頃の私は口数が少なく、絵を描くと全体にうす暗い色彩だったらしい。子供らしくない絵を描くことを心配したおふくろが絵画教室に通わせたくらいだ。
ただ、どんな環境にも学ぶことがある。今にして思うのは、我が家の転落から経営者としての戒めを学んだということだ。あの時のオヤジが反面教師。その教えとは、うまくいっている時ほどそれを継続させるための努力を怠ってはいけないということだ。
いきなり暗い話になってしまったが、これが偽らざる私の原点だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】少年時代には口数は少ない方だった
岡藤正広(1) 田蓑橋 命の危機に見た景色 「自分を変えたい」が原動力に(私の履歴書)[2025/01/01 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1326文字 PDF有 書誌情報]
なぜだろうか。目を閉じるとあのシーンが鮮明によみがえってくる。
大阪・中之島。病室の窓から見下ろすと、堂島川にかかる田蓑橋(たみのばし)を歩く人々の姿が見えた。2月の寒風が吹きつけている。ホームレスらしき男はうつむきながら、ゆっくりと歩を進めていた。
「どこにでも自由に歩いて行けるって、あんなええもんやったんやな」
この時ばかりは心底、こう思った。耳の病気がたたって脳に及ぶ可能性があると指摘され、緊急入院することになった。1991年のことだ。この時、私は41歳。まさに働き盛りを迎える時期だ。
鳴かず飛ばずで「このまま会社員人生が終わるのか」と悲観した駆け出し時代。念願の営業に配属されると「1年間は一切、商談の席で話すな」と命じられ、ひたすらノートを取った屈辱の日々。
鬱憤を跳ね返そうと、30歳になって誰もやらなかった商売を切り開いた。イヴ・サンローラン、トラサルディ、ジョルジオ・アルマーニ……。ヨーロッパ中を駆け回ってファッション業界の大物たちと話を付け、次々と日本に持ち込んだ。
毎日が、実に慌ただしく過ぎていった。駆け出しの頃にはなかなか希望がかなわず、営業の第一線に出るのが人より遅れた。その私がいつの間にか繊維業界で一目置かれるようになっていたのは、今でも不思議な感覚だ。
そんな毎日が、突然止まった。病室の時間というものは世の中から取り残されたような感覚を助長する。「このまま終わってしまったら……」。恐怖が押し寄せる。
あの時もそうだった。高校3年で結核に侵され、医師からは「命の方が大事」と大学受験を諦めるよう促された。「もしかしたら、このまま……」。ガリガリに痩せ細った18歳の私は、病室の天井を眺めながら絶望感とひとり戦っていた。退院してからも、同世代の気力あふれる姿を直視できない自分がいた。
結局、いずれの命の危機も事なきを得た。41歳のこの時はたった20日間の入院生活。病院から出るとまた商談に追われる忙しい毎日が始まった。あの田蓑橋の風景を思い出すこともなくなっていた。社長・会長として伊藤忠商事の経営を預かるようになってから今年で15年。あっという間に過ぎゆく日々の中で過去を振り返るヒマもなかったというのが率直なところだ。
なのに、なぜあの風景がよみがえってくるのだろう。
私の原動力はいつの時代も人に劣後する自分を変えたいという思いだった。結核を患った青春時代も、商社マンとしての駆け出しの頃も、財閥系の強大なライバルたちの背中を追う今も。
どうせ書くなら成功譚(たん)を自慢げに振り返るようなものではつまらない。そもそも私はまだ現役だ。功成り名を遂げたというわけでもない。
その奥にあった迷いや葛藤、時に襲う絶望。私を支配してきた感情とちゃんと向き合うものにしたいと思い、筆を執った。
ところで、私は社長になるまで大阪一筋。今もコテコテの大阪弁で話す。文字にすると多くの方々は読みにくいだろうから、本稿は基本的に標準語とする。セリフは大阪弁が丸出しになってしまうと思うけど。
これから1カ月、ひとりの商人の等身大の歩みを赤裸々に再現していきたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
ジェラルド・カーティス(30) 日米関係の行方 トランプ氏再選で「不確実」 日本は独自の戦略・未来像を(私の履歴書)終[2024/12/31 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
大みそかの今日、来年に思いをはせる人びとの心情を最もよく表す言葉は、日米とも「不確実さ」ではないだろうか。内政でも外交でも、両国がどう変わるかは見通しにくい。
過激な変革を掲げて返り咲くトランプ前大統領は不法移民を国外に追放し、多くの政府機関の力を削(そ)ぎ、規制を大幅に減らし、兆ドル単位の歳出を削るという。
外交では関税を引き上げて自由貿易から「米国第一」への転換を急ぎ、戦後の「世界の指導者」の役割を減らす。政権が終わる4年後の米国の姿を予想するのは難しい。
日本の政治も大きな節目にある。1955年からほぼ政権の座にあった自民党は今や少数与党で、野党の同意なしには法案も通せず、政権の維持も危うい。石破茂政権がいつまで続き、次にどんな政権ができるかは、やはり誰も確信をもてずにいる。
ただ安定した自民党支配体制の土台は、長きにわたり侵食されてきた。その復活は考えにくく、当面、政治は揺れ動くだろう。その後、政党の再編で新しい時代に順応する体制が生まれるかは不明だ。
こうした不確かさにもかかわらず両国の行方は、慎重ながらも楽観している。
まずトランプ氏は強い大統領にはなっても、何もかも思い通りになる独裁者の誕生を米民主主義は許さない。
過激な変化を起こすのは容易でなく、政策への批判が高まれば、国民の支持と称賛を求めるトランプ氏は案外早く軌道修正するかもしれない。成果が出なければ2年後の中間選挙で民主党が挽回し、ブレーキをかけられる。
外交面でも関税を強力な武器だと信じるトランプ氏は、これを存分に使い各国に譲歩を迫るだろう。標的の筆頭は中国で、貿易戦争の危険は高まる。ただ両国とも深刻な対立は望んでおらず、どこかで手打ちを探るはずだ。
トランプ氏は日本にも防衛費の増額などを迫るに違いない。だが日本が過剰反応せず、冷静かつ巧みな外交を心がければ、長い歴史に培われた日米関係はそう簡単に揺らぐまい。絶望は不要だ。
日本の大きな問題はトランプ氏が日本に何を求めるか、ではない。彼の他国への対応が日本の国益に反した場合どうするか、だ。日米の利害は重なる面が多いが、ぴたりと一致はしない。
トランプ氏が北朝鮮の金正恩総書記と再接近する、台湾防衛に疑問を呈す、ウクライナ支援から手を引くなど心配なシナリオはあまたある。
日本は独自の戦略を真剣に考えるときだ。それには日本の未来像と、そこへ至る道筋を指し示す指導力が求められる。今の自民党にも野党にも十分なビジョンと戦略があるようには見えない。
私が半世紀以上も研究してきた日本の政治システムは変わる必要がある。世界の舞台で意思疎通し、国際政治の荒波を生き抜く戦略をもつ新たな指導者層が不可欠だ。
大学教授として最大の喜びは教え子らが良い仕事をして社会に貢献をすることだ。国会議員になった教え子らには期待したい。変化を受け入れる覚悟があれば日本の未来は明るいと私は信じている。
筆をおくにあたり、日本の方々にお礼を申し上げたい。政治家、経済人、学者、ジャーナリストからタクシーの運転手さんまで、親切さと寛大さをもって接してくれた皆様には心から感謝しています。
そして読者の皆様、思い出の旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(米コロンビア大学名誉教授)
=おわり
あすから伊藤忠商事会長CEO 岡藤正広氏
【図・写真】ニューヨーク市ロックフェラーセンターのクリスマスツリー前で
ジェラルド・カーティス(29) 引退 コロンビア大一筋47年 移籍の誘いは幾度となく(私の履歴書)[2024/12/30 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
コロンビア大にいる間、幾度となく別の仕事に誘われた。そのたびに私は残ることを決めた。
最初は助教授だった1972年だ。議員交流の仕事で東京に行く直前、米ブルッキングス研究所のヘンリー・オーウェン外交政策部長から来てほしいと手紙が届いた。研究所には日本関係のプロジェクトで助言を求められ1年ほど前から出入りしていた。
ホテルオークラのベッドに座り考え込んだ。米有数のシンクタンクの誘いは光栄だったが、今コロンビア大を去るべきなのか。もう1日よく考えて返事することにし、会議出席のため部屋を出た。
ホテル前でタクシーを待っているとコロンビア大の同僚がタクシーから降りてきた。後にカーター政権で国家安全保障担当の大統領補佐官となるブレジンスキー教授だ。
不意に「オーウェン氏から聞いたが行くべきでない」と言い、まずはコロンビア大で日本研究の第一人者として評価を得るべきだと説いた。私がまさに考えていたことで、助言はありがたかった。
教えるのは楽しかったし、大学外での活動の幅も広がっていた。翌日、私はオーウェン氏に断りの手紙を書いた。
ハーバード大のエドウィン・ライシャワーとエズラ・ヴォーゲルの両教授から熱心に誘われ、真剣に移籍を考えたこともある。研究休暇で欧州に発(た)つ直前、妻と私はライシャワーとハル夫人の自宅に招かれ他の日本関係の教授らとも会った。
だがロンドンに到着後、コロンビア大から電話があった。移籍を防ぐため政治学部が私を終身雇用の准教授にするとの連絡だった。東アジア研究所の所長就任も依頼された。思い切った対応でコロンビア大が私に期待を示してくれたのはうれしかった。
結局、私は難しい選択をせずに済んだ。採用の優先順位をめぐる意見の相違からハーバード大学長は私に正式なオファーをしなかった。
ライシャワー氏からは謝罪と大学当局への憤りをつづった手紙が届いた。私はコロンビア大にいるのが運命だと納得した。ここは私にとって知の基盤だった。ジェームス・モーリー、ドナルド・キーン、ヒュー・パトリック、キャロル・グラック教授ら国外の最高の日本専門家と働く刺激は何にも代えがたかった。
最後に新たな職の誘いがあったのは12年前だ。ある大手銀行からシニア・アドバイザー職を打診され、アジア統括のトップが面談のため香港から飛んできた。
だが会談はすぐ終わった。彼が「教授の仕事は人脈の金銭化です」と言ったからだ。私は長く日本の人々と信頼に基づく関係を築こうとしてきた。そのコネから利益を絞り出すなど論外だった。
2015年、私は47年に及ぶコロンビア大での教職を退いた。その数カ月前、私は安倍晋三首相にコロンビア大が後任の日本政治・外交の専門家を置けるよう寄付講座の創設を提案し、日本政府は500万ドル(当時で5億円弱)の拠出を決めた。
新設の講座が「ジェラルド・カーティス 日本政治・外交講座」と命名されたのは大変光栄だ。後任を探す間、私のもとで博士号をとり当時は防衛大学校にいた彦谷貴子氏を客員教授として招くことができたのも幸いだった。
私の後任が近く決まれば、コロンビア大での私の履歴書は、いよいよ完結する。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1970年代半ば、同僚のマイロン・コーエン(左)、アンドリュー・ネイサン(右)両教授と
ジェラルド・カーティス(28) 皇室の思い出 皇居で夕食、忘れられぬ夜 妻の作品を美智子さまに贈る(私の履歴書)[2024/12/29 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1408文字 PDF有 書誌情報]
長く日本と関わる中で、大きな幸運だったのは、ささやかながら皇室の方々と接する機会に恵まれたことだ。
1976年、NHKの解説委員だった友人の平沢和重氏から連絡があった。米国と欧州での日本研究の実情について、当時の皇太子、明仁さま(現・上皇さま)にお話しできるか聞かれた。私でよければ喜んで、と返事した。
当日、平沢氏に付き添われ、皇居で明仁さまに米国、英国と他の欧州各国での現代日本の研究に関し1時間ほどお話しした。明仁さまからはいくつもご質問をいただき、特に英王室には親近感を抱かれているご様子だった。
明仁さまに次にお目にかかったのは2002年だ。私は日本への海外の理解を深めた功績に対し国際交流基金賞をいただき、皇居で天皇陛下となられた明仁さまと謁見した。陛下はおめでとう、とお声をかけられ、26年前の講義に言及された。覚えていてくださってうれしかった。
その数日前の授賞式には、当時の皇太子の徳仁さまと雅子さまがお見えになった。幼少期にニューヨークにお住まいだった雅子さまは、同じ街で育った私の娘たちに英語で声をかけられ、にこやかに思い出話をされた。
信じがたいことに幸運は、ここで終わらなかった。
私は在京の英米の大使館が催す音楽ワークショップに呼ばれており、ピアノを弾かれる美智子さま(現・上皇后さま)も時折参加されていた。
美智子さまが鑑賞されていたある夜、私が演奏することになり「ニューヨークのジャズクラブに行かれることはないでしょうから、それを私が持ってきましょう」と言い、曲を披露した。演奏が終わると美智子さまはソファのご自分の側に招いてくださった。
お話しするうち妻の翠(みどり)と私を皇居での夕食に招待したいと声をかけてくださった。喜んで伺いますとお返事すると翌日、侍従から連絡が入った。
当日、車で皇居に向かった。門をくぐってしばらく走ると、手つかずの自然の森が広がっていた。何百年も前の日本へ戻るタイムマシンに乗っているような気分だった。
車を降り待機室に通された。まもなく侍従が「ご案内します」と言うので「ほかの方々は」と聞くと「お二人だけです」という。この時、私たちは招待客が自分たちだけだと知った。
応接間で、天皇陛下と美智子さまに迎えていただいた。しばらくお話しし、隣の部屋の食卓についた。
翠が軽井沢でのお二人のなれそめに触れると美智子さまは楽しそうに当時を回顧された。食後は応接間に戻りさらにお話しした。時間はあっという間にすぎた。
帰りに入り口まで送っていただいたところで、美智子さまが、版画家の翠に「食事した部屋の篠田桃紅さんの作品はいかがでしたか」と聞かれた。翠が話に夢中で気付かなかったと答えると、それならばと美智子さまがおっしゃり4人で長い廊下を戻った。
予定の時間を大幅にすぎて、翠と私は御所を離れた。忘れられない夜となった。
後日、翠が銀座で個展を開くと美智子さまが来場された。ゆっくり作品をご覧になり、ある作品の前で足をとめられた。
翠がプレゼントさせてほしいと願い出ると、快くお受けくださった。美智子様が作品をお持ちくださることを翠は大変光栄に思っている。日本の研究、音楽、芸術家の妻の、いずれが欠けても得られなかった貴重な思い出だ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】2002年、国際交流基金賞を受賞する筆者。左は当時、国際交流基金理事長の藤井宏昭氏
ジェラルド・カーティス(27) 小泉純一郎氏 妥協拒否した型やぶり 小選挙区制が強めた首相の力(私の履歴書)[2024/12/28 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1334文字 PDF有 書誌情報]
在任4年目となった小泉純一郎首相と食事したある夜、彼はしみじみこう言った。
「こんなに長く首相を続けるとは思わなかった」
2001年の就任時、彼は政権の寿命をよくて半年くらいと思っていたと言い、いつ辞めるか分からないから日々、全力投球しているだけだ、とも話した。
長年にわたり多くの首相を見てきたが、自民党有力者への妥協を拒み、それを自らの力に転化したのは小泉氏だけだ。彼は党内の抵抗勢力を攻撃し、テレビを中心とするメディアを駆使して「痛みを伴う改革」だけが日本に残された道だと世論に訴えた。
「失われた10年」のぬかるみにはまり、不人気な森喜朗政権からの変化を望んだ国民に、小泉氏は新鮮な息吹のように感じられた。
彼に驚かされたのは日本人だけでない。ニューヨークの銀行や企業の幹部が集まる外交問題評議会(CFR)での小泉氏の講演を思い出す。
笑みを浮かべながら登壇した彼はワシントンでブッシュ大統領と会った話をした後、突如エルビス・プレスリーの曲を歌い始めたのだ。
永田町政治の「型」をやぶる小泉氏が力を発揮できた背景には、皮肉にも彼が反対した1994年の選挙制度改革がある。衆議院選を中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行させたこの改革に、彼は反対だった。党内の競争が減り緊張感が失われるとの懸念からだ。私も同意見で、利益よりも害悪が勝る、との論評をいくつも書いた。
首相在任中の小泉氏とは、行きつけの赤坂の和食店「津やま」の個室で何度か会っている。食べて飲み、政治を語る彼に、選挙制度の見直しについても聞いた。
彼の見立てでは、見直しの背後にいた小沢一郎氏は新制度のもと自らが首相となり、前例のない政治支配を敷くつもりでいた。「この選挙制度の採用に私は反対した」と小泉氏は言った。「だが制度が採用された今、それを使って首相に何ができるかを私自身が示すことになった」
首相を辞めて約10年後の2017年に津やまで会った時も、小選挙区制が首相の力を強めたとの確信を口にした。
「この制度は平議員には最悪だ。派閥の長にも頼れないし、以前のように党首を批判することもできない」
中選挙区制だったら郵政改革も実現しなかっただろうとも言い、「平議員にはつらいが、行動派の首相には最高の選挙制度だ」と語った。
選挙制度が変わって30年超がたつが、期待された二大政党制は実現していない。それどころか政党すべてを弱める負の影響が目立つ。
一方、一般の議員にない知名度や地元の後援会組織、資金面の支援者をもつ自民党の2世議員の数は増えた。
かつていた起業家的政治家は見当たらなくなり、多くの国会議員が政治的サラリーマンと化した。小選挙区制が行動派の首相には有益だと小泉氏は言うが、実際に誕生したその種の首相は彼自身と安倍晋三氏しかいない。
小泉政権の実績については様々な見方があるが、国民を効果的に説得し、負けを恐れず指導力を発揮するスタイルは日本では新しかった。
小泉氏は日本の指導者が退屈で受け身とは限らないことを日本と世界に示した。問題は、果敢に変革をめざす行動派の首相が、いつ再び現れるかである。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】小泉氏と「津やま」で会食する筆者
ジェラルド・カーティス(26) 東日本大震災 「木を登る」車、今もまぶたに 政府の遅い対応に失望(私の履歴書)[2024/12/27 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
2011年5月9日、私は新幹線で仙台駅に降り立った。2カ月足らず前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を訪れるためだ。
テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」から短いドキュメンタリー撮影のため取材に行かないかと打診があり、即座に引き受けた。
日本の社会や政治に先々まで影響を及ぼすであろう歴史的な大災害の現場を歩き、この目で見て、人々に話を聞きたいと思ったからだ。
東北地方が巨大地震に見舞われたことを知った時、私はニューヨークにいた。本来は日本にいるはずだったが、4月9日に娘の結婚式があり渡航を延ばしていた。
朝、テレビをつけると震災による破壊の映像が次々と映し出された。太平洋岸の町が波にのまれ、多くの人々が海に流されたと知っていたたまれない気持ちになった。
やがて福島第1原発の爆発と住民の避難が報じられ、惨事を遠くからただ眺めるしかない自らにいらだった。
結婚式の数日後、私は東京へと飛んだ。被災地の状況や放射能汚染の全貌を知るのは容易でなく歯がゆかった。テレビ朝日から電話をもらったのは、そんな時だった。
仙台到着の翌日、車で東京から来た撮影班と合流し、3日間、宮城県の被災地を訪ね歩いた。主要道路は寸断したり、瓦礫(がれき)で塞がれたりして通れず、裏道を旅した。
その時に見た光景は、今もまぶたに焼き付いている。無数の車が田んぼの中にひっくり返り、木を登ろうとしているかに見える車もあった。
南三陸の避難所では年配の女性がぽつんと座っていた。夫はどちら? と聞くと「波にさらわれました」と言った。口元に笑みを浮かべようとしたが、目に涙がにじんだ。私は言葉が出なかった。
亘理郡の避難所で、高齢の女性に今、何が最も必要かを聞くと「村のみんなが一緒にいられること」だと答えた。
同じ避難所に、途方に暮れて座る男性らもいた。亘理名産のイチゴの生産者で、震災で温室を破壊されていた。皆、最初は口が重かったが、耳を傾けると心中を吐露した。
「私は70歳で、家も温室も失った。ローンが残る設備も壊された。さらに借り入れなどできない」
東北人の辛抱強さへの称賛を多く聞いたが、内心では皆が余震を恐れ、将来を不安視し、しゃくし定規で遅い政府の対応に失望していた。
石巻に駐在する中央省庁の職員は、霞が関の官僚らが地域事情を熟知する地方公務員に権限を譲らないと憤り、官庁を辞めて自治体のため働こうと思っていると語った。
規則と前例を重んじる日本社会の特徴は、平時には利点が多い。だが危機への対応には柔軟性が求められ、官僚的な手続きは邪魔になる。
震災は日本の人々の忍耐力と品位、秩序や共同体を守る姿勢の強さを見せつけた。
同時に当局の遅く、的外れな対応も目立ち、政治指導者が国民と効果的に対話する力を欠くことも露呈した。
ただ危機への対応を誤ったと菅直人首相を一方的に批判してはバランスを欠く。対応は確かに不十分だったが、自民党が政権党だったとして状況が違ったかは疑問だ。
自民党は電力会社、政治と官僚らによる「原発村」の中核にいた。だが折よく下野していたため責任を問われることなく次の総選挙で政権を奪回し、大きな期待をされていた民主党はやがて消えた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】被災地を取材する筆者(右)=西田恒久氏提供
ジェラルド・カーティス(25) 民主党の興亡 鳩山氏に助言、生かされず 官僚排除で政策は混乱(私の履歴書)[2024/12/26 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1354文字 PDF有 書誌情報]
民主党は2009年8月の衆院選で絶対安定多数を超える議席を獲得し、政権交代を果たした。その民主党に関わった政治家とは、党創設のずっと前から交流があった。
その一人が、民主党の源流とも言える新党さきがけを1993年に結成した武村正義元代表だ。
彼が滋賀県知事だった84年に招待されて知り合い、86年に国会議員に転じて立ち上げたユートピア政治研究会の会合では講義を頼まれた。
鳩山由紀夫氏ら10人の1年生議員とともに政治改革の必要性を訴えたこの研究会は、さきがけの母体となった。
その後、さきがけは93年発足の細川護熙政権、そして社会党と自民党が連立した94年発足の村山富市連立政権に参加し、武村氏はそれぞれで官房長官と蔵相に就いた。
彼が蔵相時代、朝食をともにした時は大蔵官僚との確執を子細に語った。気に入らない政策があると、あの手この手で妨害するという。大臣の決定には従ってもらうと強調しても官僚らは「サボタージュする」と憤っていた。
15年後に誕生する民主党政権も同じ問題に直面し、打つ手を欠いた。同党は「政治主導」を掲げ、官僚でなく政治家が政策を決めると主張したが、問題はこの過程で官僚機構を遠ざけた点だ。
ある経済産業省出身の若手民主党議員は「政権運営を助けるべき官僚らを文字通り部屋から締め出して政策を議論している」と嘆いた。「おかげで副大臣が係長のような細かな作業をしている」
政権交代が視野に入った09年の衆院選前、私は鳩山氏に3点アドバイスをした。第1に普天間基地に関し拙速な判断は避けること。第2に米国を含まず反米に映りうる「東アジア共同体」に肩入れしすぎないこと。第3に官僚機構をうまく活用する戦略を描き、決して彼らを敵として扱わないこと、の3つだ。
だが首相に就いた彼は逆のことをした。普天間基地の県外移設を唱え、東アジア共同体を支持し、官僚機構を排除した。今年6月に会った彼は「先生の言うことをもっと聴けばよかったな」と話した。
当時は、米国家安全保障会議(NSC)からも民主党政権とどう関わるべきか問われた。私は「待ち」の姿勢だと説くメモを送った。政権の本格始動には時間を要すので、早急に普天間問題で判断を迫るべきでないと書いた。
鳩山氏は反米ではなく、東アジア共同体は友好と平和への漠とした構想にすぎないので、過剰反応は避けるべきだと訴えた。だがオバマ政権も耳を貸さず、日本で政権交代が起きたからといって、米国の同意なしに安全保障に絡む政策を変えることは認めないとの姿勢を明確にした。
結局、鳩山政権は9カ月足らずで終わり、菅直人氏が後を継いだ。
菅氏のことは1970年代、彼が婦人運動家の市川房枝氏の参院選挙を手伝っている時から知っていた。
やはり民主党政権の発足直前に会い、米国よりも同じ議院内閣制の英国のほうが政策決定の参考になるので、見てはどうかと勧めた。
これに彼は興味をもち、ロンドンを訪れてブラウン首相らに会った。だが結局、民主党が官僚制度をうまく動かして政策を実現する方法を学ぶことはなかった。むしろ官僚の排除によって政策は混乱した。これが同党をつまずかせる大きな要因になった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】筆者(右)のニューヨークの自宅を訪れた菅直人氏
ジェラルド・カーティス(24) 社会党の人々 伝説の左翼、支えたバー まだ育たぬ自民に代わる野党(私の履歴書)[2024/12/25 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
かつて東京・銀座のコリドー街に「ボア」というバーがあった。ビルの地下に5人ほどが座れるカウンターと数脚のテーブルが置かれていた。
左派のたまり場で、社会党員、革新派のインテリや記者らが集まった。皆、何らかの形で「アンジン」こと安東仁兵衛氏の知り合いだった。
私も愉快で社交的な彼と1970年代の半ばにボアで会い、親しくなった。
50年代、東京大で共産党細胞を率いた安東氏は伝説の左翼だ。後に雑誌「現代の理論」を創刊し、漸次的な社会主義革命を説く「構造改革論」を掲げた。だが共産党指導部の主流派が猛反発。結局、61年に共産党を離れ、後に社会党に移った。
部数が少ない雑誌の収入は知れており、東京大時代の仲間らが寄付などの形で安東氏に小遣いを渡していた。
ある日、安東氏から、西武グループの堤清二氏に会いに行こうと誘われた。二人は東大細胞の仲間で、私も堤氏と面識があった。3人でしばらく雑談後、堤氏は安東氏に封筒を渡した。
安東家の家計を主に支えていたのはボアのママだった妻の敏子さんだ。店がいつも満員だったのは控えめで温かい彼女の人柄のおかげだ。
当時、安東夫妻はわが家の近くに住んでおり、ある日、敏子さんはビーフシチューの鍋を手に現れた。幼い娘たちの子育てに忙しい妻の翠(みどり)を料理から解放しようとの配慮だった。
共産党を去った安東氏の思想は右に振れ、やがて社会党の江田三郎氏と路線が一致した。構造改革論にひかれた彼は62年「江田ビジョン」を発表し、米国並みの生活水準、ソビエト並みの福祉、それに英国の議会制民主主義と日本の平和憲法を組み合わせた国の将来像を唱えた。
だが共産党指導部が安東にそうしたのと同様、社会党左派は江田を攻撃し書記長の座から引きずり下ろした。
76年のある夜、行きつけの神田の天ぷら店で杯を傾けた江田氏は、社会党の将来には全く期待を示さなかった。翌春、彼は急逝した。
江田ビジョンを社会党内で厳しく批判したのが中国寄りの佐々木更三氏だ。だから75年、彼が社会主義の修正を唱える「社会主義的・的政権」という名の本を出版した時には私は驚き、話を聞きに議員会館の事務所を訪ねた。
宮城のズーズー弁には面食らったが主張は明快だった。社会党はとにかく政権をとるべきで、必要なら「的」をいくつも重ね社会主義を柔軟に見直せばいいという。それがデタラメな理屈だとは本人も分かっていたと思う。
帰りに彼は一緒にエレベーターに乗り、正面玄関まで送ってくれた。議員会館には数限りなく足を運んだが、議員に玄関まで見送られたのは最初で最後だった。
96年には、土井たか子氏が党首となった。左派イデオロギーとは無縁な人で、社会民主党に名を変えた同党への国民の支持を取り戻そうとしたが、遅きに失した。
65年前、ドイツ社民党がマルクス主義と決別した時、逆に左に振れたのが致命的だった。長い歴史をもつ日本の社会主義運動には、そうして終止符が打たれた。
土井氏は2008年、私の著書「政治と秋刀魚」の出版記念パーティーで花束をくれた。その茎を翠は鉢に植えた。茎からは枝葉が伸び立派に育ち続けているが、自民党に代わる政権党になれる野党はまだ育っていない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】自著の出版記念パーティーで土井たか子氏(中)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(23) 津川雅彦氏 「知らない日本」の案内人 きっぷのいい名優の磁力(私の履歴書)[2024/12/24 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1372文字 PDF有 書誌情報]
日本政治を研究する私に、未知の日本を教えてくれたのが俳優の津川雅彦氏だ。
知り合ったのは1990年代半ば、ドラマ撮影で米国に来た津川氏を、翠(みどり)がコーディネーターとして世話したのが発端だった。画家ノーマン・ロックウェルが好きな彼を、翠はマサチューセッツ州の美術館まで案内した。
その時「夫は日本の政治には詳しいけど伝統文化には疎いので教えてほしい」と翠が頼み、後日、東京で食事した。年が一緒という以外に共通点はなかったが不思議と気が合い、よく会うようになった。
京都の芸能一家に育った津川氏は日本の伝統文化を守りたいとの強い思いをもち、落語や芝居、相撲に私を招待してくれた。若手の俳優や映画監督を連れて料亭にもよく通い、芸者さんを呼んでお座敷文化の伝承に努めた。
ご相伴にあずかった私は、お座敷には様々な作法や決まりがあり、芸者さんは厳しいけいこを積んだ接客のプロだと知って感銘を受けた。
最初は勝手が分からず戸惑った。出会って間もなく、津川氏は若手俳優や芸者さんと徳島の阿波踊りを見に行く計画を立て、私も呼ばれた。
折しも台風で飛行機が飛べなくなると彼は伊豆の旅館、三養荘を貸し切り、そこで宴会を開くことにした。
新幹線で熱海まで行って駅で待っていると、京都から来た芸者の一団が降り立った。率いていたのは、祇園でも名の通った千子さんという美しい芸者さんだった。
三養荘に着き、まず部屋割りを決めた。芸者さんの評判を守るため、3人一組の部屋にすると津川氏は言った。
宴会では歌やお座敷遊びが続き、慣れない私は落ち着かなかった。疲れ果てて部屋に戻ると10代の舞妓(まいこ)さん2人が待っていた。
同い年の娘がいる私を格好の相談相手と思ったようだ。芸者として身を立てるか、別の道を歩むか。身の上相談に乗るうち夜は更けていった。
この旅で、花柳界の厳格なしきたりに触れた。そうした伝統文化を究極の娯楽とみる津川氏が「真面目な遊び人」であることも知った。
京都嵐山の吉兆で津川氏らと昼食をとった春の日の光景も鮮明に思い出す。眼前の桂川に浮かぶ屋形船。開け放った窓から桜の花びらが風でふき込み、ひらひらと舞い降りて芸者さんの髪を飾った。美しさに思わず息をのんだ。
お座敷に通ううち多くの芸者さんと友人になった。親分格の千子さんは特によくしてくれた。津川氏が由緒ある一力亭で私の還暦を祝ってくれた時は、とっておきの豪華な着物を身につけ、祇園で最も人気の6人の芸者さんを連れて駆けつけてくれた。
ある日、久々に京都に行き千子さんに連絡すると経営するクラブに呼んでくれた。だが時間に正確な彼女が現れない。心配になりお店の人に伝えると従業員が自宅に行き、出がけに心臓まひで亡くなった千子さんを発見した。私は急ぎ津川氏に電話を入れた。悲しい出来事だった。
保守的な考えをもつ津川氏は、安倍晋三首相(当時)と親しかった。ある時、私が首相とゆっくり話したがっていると知ると、その場で秘書官に電話を入れ夕食会を設定してくれた。
当日、首相は北海道から戻る航空便が豪雨で遅れたが、深夜、羽田から西麻布まで車を飛ばして駆けつけた。温かく、きっぷのいい名優の磁力をあらためて思い知った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】津川氏(右)はお座敷文化の伝承に熱心だった
ジェラルド・カーティス(22) 月夜野の家 娘たちに別世界の体験 並んだ靴、「一員」の証し(私の履歴書)[2024/12/23 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1356文字 PDF有 書誌情報]
群馬県北部の月夜野町と出合ったのは1971年、東京在住の友人で、外国人学生に日本語を教える日本研究センターのケネス・バトラー所長が週末、別荘に招待してくれた時だ。
吹雪の舞う日で、応接間から雄大な谷川岳が一望できた。雪が窓を打ち、風で暖炉の火が赤く燃えさかった。
夕食時、周りの別荘の住人も集い愉快なうたげになった。やや飲み過ぎた私は集落に別荘をもつと宣言し、その週末のうちに180坪の土地の地主となっていた。
少ない預金をはたき、たいそうな買い物をしたものだ。何らかの形で日本に根をもちたいとの思いが芽生え始めていたのだと今では思う。それが山林の急斜面の小さな土地でも構わなかったのだ。
この土地に妻の翠(みどり)と私は85年、小さな家を建てた。完成すると地元の北小学校の校長に会いに行った。米国の小学校は日本より1カ月ほど早く終わるので、娘たちを体験留学させたいと思ったのだ。
快諾した松井校長は全校集会で娘たちを紹介し、短い間だけど仲良くしようと呼びかけてくれた。気が付くと娘たちは友達と「そうだっぺ」と方言で話していた。
小学校までは2キロほど離れていたが、松井校長は娘たちが車でなく徒歩で登校するよう求めた。体力づくりになるとの理由だったが、娘たちに山奥の村の生活を学ばせたかったのだとも思う。2人は村のほかの子どもたちと同じように歩いて登下校した。
行きは下り坂だったが、帰りはちょっとしたハイキングだった。この帰り道を、娘たちは月夜野の夏のいい思い出として記憶している。
田んぼでオタマジャクシを探したり、道で会ったおばちゃんにカイコを見せてもらったりしてうれしそうに帰宅した。ニューヨーク育ちの娘たちには別世界の体験だった。
ある日、帰宅した娘らは、その日の出来事を興奮気味に話した。長靴とゴム手袋をつけてトイレを掃除し、雑巾で床を磨いたという。清掃員がいる米国では想像できないことだ。
自ら掃除するなら、教室を散らかしたまま帰宅したり、落書きしたりする児童はいないなと納得した。清潔さと責任の共有という日本社会の際立つ特徴は、こうして育まれるのだとも感じた。
北小が夏休みに入ったある日、クラスメートらを昼食に呼んだ。坂を登ってやってきた20人ほどの子供たちが、うどんとスイカを食べてひとしきり遊んだ。
娘の一人は40年前のこの日のことを思い出し、玄関に並んだ友達の靴を見て、誇らしい気分になったと語った。
なぜ誇らしく? と聞くと「友達に受け入れられたこと、皆が来てくれたこと、そして楽しんでくれたことが理由かな」と振り返った。
登校の初日、不安がっていた娘たちのことを思い出した。玄関に並んだ靴は北小の一員になれたことの証しだったのだな、と気付いた。
多くの地方都市と同様、月夜野町も人口減が著しい。町の名前も、みなかみ町への統合で消え、北小も生徒数の減少で近く閉校となる。
北小の先生や仲間をはじめ月夜野の人々の親切さは娘たちの記憶に鮮明に残る。
「お父さん、あの家は決して売らないでね」と彼女らは私に念を押す。さあ、どうだろう。いずれ娘らが、自分の子どもたちを夏休みに連れて行く日が来るかもしれない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】月夜野の家で玄関に並んだ北小の子どもたちの靴
ジェラルド・カーティス(21)北朝鮮訪問 全体主義の窮屈さ知る 金親子との面会は中止に(私の履歴書)[2024/12/22 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1376文字 PDF有 書誌情報]
北朝鮮を初めて訪れたのは1993年だ。東アジア専門家でカリフォルニア大バークレー校のロバート・スカラピーノ名誉教授が率いる訪問団に加わり、得がたい経験をした。
渡航前、クリントン政権からブリーフィングを受けたせいか、北朝鮮は訪問団が大統領の親書を託されたと信じた。
私たちはシェフ付きの迎賓館で要人待遇を受け、金日成国家主席と息子の金正日氏との面会もセットされた。
まず案内されたのは北東部、豆満江の河口にある羅津・先鋒の経済特区だ。経済の発展をみせる狙いだろうが、搭乗したロシア製ヘリコプターが故障し、北朝鮮軍の基地に不時着する事態となった。
案内役は基地を見せまいと必死だったが、代表団には米軍の元太平洋司令官がいて、駐機中の戦闘機は長く飛んだ形跡がないとすぐ見抜いた。
ヘリコプターの修理が終わり、やってきた給油車をみて皆はあぜんとした。兵士がクランクを手回ししてエンジンをかける旧式だったからだ。北朝鮮の装備と経済の衰えは想像以上のようだった。
特区では皆が一緒に行動するよう指示されたが、私たちは3手に分かれた。それでガイドが足りなくなり、自由に歩き回ることができた。
数列に並んだ簡素な住宅は塀で仕切られ、その上にガラス片が埋め込まれていた。
人の行き来を防ぎ情報を遮断する仕組みで、全体主義社会の窮屈さを知った。栄養失調のせいか、現地の人々の背の低さにも驚いた。
無事平壌に戻った夜10時、長く北朝鮮との裏の窓口を担っていた訪問団の一人から電話が入った。北朝鮮外務省の人々が、最若手の我々2人を飲みに誘ったという。
車に乗り住宅の前に連れて行かれた。入ると中はクラブで、きれいな女性らが接客していた。昼は高麗航空の乗務員だと後で教えてくれた。
私を接客した女性はロシア語と片言の日本語を話した。その会話を聞いて別の女性が話しかけてきた。金沢に住む在日朝鮮人で、日本の同胞の訪朝を手配する旅行会社を経営していると言う。想像もしなかった世界を垣間見た。
翌日、私たちが大統領からの親書を携えていないと知った北朝鮮側は金親子との面会を中止した。そこで面会を前提に差し入れていた贈呈品の返却を求めると、金日成氏あての分だけが戻ってきた。
オバマ政権が発足直後の2009年2月にも訪朝の機会があった。友人で駐韓国大使も務めたフレッチャー法律外交大学院のスティーヴン・ボズワース学長の誘いだ。
核問題などをめぐる6カ国協議を率いた金(キム)桂官(ゲグァン)外務次官との会食の席で、北朝鮮が柔軟な姿勢を見せればオバマ政権と関係改善の余地があると話したが、先方は無反応だった。
専門家の訪朝は北朝鮮の姿勢を探る機会になるが、核開発を断念させたい米国と自国の存続に抑止力が不可欠とみる北朝鮮は、ともに身動きがとれない状況だった。
印象に残るのは訪問団に対応した英語が流ちょうな女性。今の崔(チェ)善姫(ソンヒ)外相だ。あとは平壌冷麺が噂通り美味だったことか。
帰路、北京の空港で乗り継ぎ便を待つ間、ボズワース氏の電話が鳴った。相手はクリントン国務長官だった。北朝鮮担当特別代表への就任依頼で、彼は北朝鮮にさらに深入りすることとなった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】不時着したヘリコプターに給油するトラックは、クランクを手回ししてエンジンをかけた
谷口吉生さん死去 建築家、87歳 NY近代美術館を増改築[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 42ページ 388文字 PDF有 書誌情報]
米ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築や、東京国立博物館法隆寺宝物館などを手がけた世界的な建築家で文化功労者の谷口吉生(たにぐち・よしお)さんが12月16日午前5時11分、肺炎のため死去した。87歳だった。後日「メモリアルの会」を予定している。
東京都出身。慶応大卒業後、米国に渡りハーバード大大学院で建築を学んだ。「洗練されたモダニズム」と称され、周囲の環境に溶け込む設計で知られた。世界の名だたる建築家と競合して勝ち取ったMoMAの増改築では、大きな窓からニューヨークの街並みが見える開放的な空間設計が高い評価を得た。
資生堂アートハウス(静岡県)や東京国立博物館法隆寺宝物館で日本建築学会賞、土門拳記念館(山形県)で日本芸術院賞を受賞。2005年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞するなど多くの賞に輝いた。
2017年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(20) ニューズウィーク 立体的な視点を読者に アドバイザー、日本版を監督(私の履歴書)[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1364文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流と下田会議の仕事が一段落しつつあったころ、もう一つ学問以外の仕事に関わり始めた。
日本の専門家として、これは結果的に最も興味深い仕事の一つになった。
発端は1985年、米ニューズウィーク誌のリチャード・スミス編集長からの電話だった。日本版を近く発売予定で、ダミー版を読んで問題あれば知らせてほしいという。
数時間かけ目を通せば済むと思い快諾した。この数時間は結局、5年強に及んだ。
その間、私はニューズウィーク日本版を監督する責任を負う、編集長の特別アドバイザーとして働いた。
ダミー版を読み始めると、日本版が発売できる状況からほど遠いとすぐに気付いた。
表紙の文言や見出しは日本の週刊誌のように誇張され、記事の中身とかけ離れていた。記事も直訳調で、大事な部分が削られていた。
問題点の詳細な報告をスミス編集長に送ると、彼は輪転機を止めた。そこから日本版の第1号が販売にこぎ着けるまでには、6カ月もの時間と、さらに数冊のダミー版の制作が必要だった。
私の役割はニューズウィーク日本版が、米国版を正確かつ読みやすく翻訳しているよう目を光らせることだった。
スミス編集長は表紙に記事と違う扇動的な文言が並ばないように、とも念を押した。
私の自宅にはニューズウィーク誌が運び込んだファクス機が置かれ、土曜夜は必ず10時までに帰宅して表紙が送られてくるのを待った。
たいていは問題なかったが、時折、東京にいる日本版の編集者らと遅くまで文言を調整する必要があった。このやりとりは、異文化間のコミュニケーションの難しさと醍醐味を教えてくれた。
日本側の編集者らは当初、日本のジャーナリズムには独自の流儀と基準があると主張し、米国人にあれこれ指図されることに腹を立てた。
米国側はニューズウィークは名前だけ貸しているのではないと主張し、日本版の記事が米国版のスタイルとルールに従うよう求めた。
私の役割は、ニューズウィークの見解を、居丈高に聞こえないよう気配りしながら、日本側の誇り高きベテランのジャーナリストらに伝えることだった。一方、米国側に対しては、もっと日本側の気持ちに配慮しながら接し、ニューズウィークのルールも柔軟に適用するよう促した。
ニューズウィーク日本版が成功したのは日米双方の使命が一致していたからだと思う。世界のニュースを内向きの狭い視点でなく、立体的でグローバルな視点で日本の読者に届けるという使命だ。
ニューズウィーク日本版は日本の読者に新たな視点を提供する先駆者となった。
だが私が関わった40年前と今日で状況は大きく変わった。インターネットは週刊ニュース誌の衰退を早めた。日本のジャーナリズム自体もグローバルな視点をもつようになった。フィナンシャル・タイムズを買収した日本経済新聞社は典型だ。
異文化コミュニケーションはいつも難しい。だが、ここ数十年、日米の様々な場面で深まった交流は、双方が同じ目的に向かって辛抱強く歩み続ければ、困難は乗り越えられることを示した。
しかも課題と向き合うこと自体が、関わった人々のやりがいと成長につながる。ニューズウィーク日本版での体験は、それを教えてくれた。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューズウィーク日本版・創刊号の表紙=CCCメディアハウス提供
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 1ページ 592文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。(評伝を政治・外交面、関連記事をスポーツ面に)
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(19) 日米摩擦 誤解解消に努めた80年代 米紙の偏向報道を体験(私の履歴書)[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1387文字 PDF有 書誌情報]
1980年代、日米関係は戦後最悪の時を迎えた。両国の事情を知る私も、歯ぎしりすることが多かった。
米国は政府も与野党も産業界も一斉に日本を批判した。日本が自らの市場を閉ざしたまま不公平な産業政策で工業製品の輸出攻勢をかけ、米国の国際的な地位を脅かしているとの批判だ。
85年のプラザ合意で円高が進むと日本企業は米国の資産を買いあさり批判に油を注いだ。人種差別的な発言も出て双方に悪感情が募った。
私はウォール・ストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズなど米主要紙に寄稿を求められ、誤解に基づく対立激化を冷まそうと努めた。
米国に対しては、勤勉に働き安く良い製品を作る日本人を非道徳的とみなす主張のおかしさを指摘した。
一方、日本に対しては自らの保護主義的な政策を棚に上げて「日本たたき」ばかりを批判する一部の人々を戒め、謙虚に米国や諸外国の不満に耳を傾けなければ反日感情を強めるだけだと説いた。
だが当時、米メディアが注目したのは対日強硬を主張するリビジョニスト(修正主義者)らだ。彼らは従来の日本専門家を弱腰の「菊の会」メンバーだと決めつけた。
報道の偏向は個人的にも体験した。米主要紙から日本に関する電話取材を受けた後、記者は厚かましくもこう言った。「もっと日本に批判的な人を探しているので、誰か紹介してくれますか」
修正主義者の一人が「日本封じ込め」論者のジェームズ・ファローズ氏だ。
彼は子供と銭湯に行った経験を記事にした。時間をかけて体を洗い湯船に漬かると、周りの男たちが出て行ったと書き、それは外国人と一緒の風呂に入りたくないとの人種的偏見だと主張した。
私も若い頃の銭湯での経験を書いたことがある。近所の定食屋の店主がいて挨拶したら、私が日本語を話すと知った人々が語りかけてきて、のぼせてしまった話だ。
個別の出来事から日本人が友好的だとか、人種差別的だとかの判断はできない。ファローズ一家に他の入浴客は場所を譲ろうとしたのに、日本語を話さない同氏が気付かなかっただけかもしれない。
90年代に入ると日米の摩擦は和らいだ。日本でバブルが崩壊し、対日脅威論が下火になったのが一因だ。
皮肉にも、今度は日本経済の弱さが批判された。
98年、私はクリントン大統領の国家安全保障担当補佐官、サンディー・バーガー氏からの電話でホワイトハウスに呼ばれた。日本に関し少人数で議論したいという。
会議が始まるとアル・ゴア副大統領が飛び入り参加し、こうまくし立てた。「橋本龍太郎首相は十分な規模の経済刺激策をとると言ったのに、ウソをついた。彼は世界経済を危険にさらしている」
ゴア氏は2000年の大統領選出馬をにらみ世界経済の減速が自らに不利になると焦っていたのだろう。続けて、こんなアイデアを披露した。
日本を動かす200人の有力経済人を特定し、それぞれの米国内の友人を割り出す。そして、その友人らを介し、橋本首相に何をすべきかを伝える、との内容だった。
どう思うか、とゴア氏は尋ね皆を見渡した。私は現実的でないと思った。他の参加者も同じだったはずだ。誰も提案に前向きな発言はしなかった。数分後、ゴア氏は仏頂面で部屋を出て行った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】米国では労働者たちが日本車を壊すパフォーマンスが繰り広げられた(1981年3月、イリノイ州)=AP
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/19 日本経済新聞 夕刊 1ページ 571文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。
中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。
1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(18) 大臣の誕生 間近で見た組閣の裏側 人事や政策、崩れたシステム(私の履歴書)[2024/12/19 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1366文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏は、首相を辞めたあとも、キングメーカーとして権力を保とうとした。自らが推した宇野宗佑首相が芸者スキャンダルで2カ月余りで辞任すると、今度は海部俊樹氏をかついだ。
同氏が国会で首相に指名される直前のある朝、議員会館そばにある竹下事務所を訪ねた。彼は海部内閣の組閣をほぼ終えたが、閣僚ポストの1つをどうするか悩んでいると言い、紙に表を書いて説明を始めた。左側に派閥名、中央に派閥の人数、右側に各派閥に割り当てるべき閣僚ポストの数、という表だ。
問題は派閥間のバランスの維持と新政権のイメージ向上のため民間から閣僚を一人迎えたいが、受け手が見つからないことだという。
そこへ自民党の幹事長に就いた小沢一郎氏から電話が入った。目星をつけていた作家の曽野綾子氏に閣僚就任を断られたとの内容だった。
竹下氏は、ならば外相ポストに駐米大使の松永信雄氏はどうかと言った。本人は乗り気でないとの感触を得ている、と小沢氏が答えると、竹下氏は「私が頼んでみよう」と言い、電話を切った。
さすがに居心地が悪くなって引き揚げようとすると、竹下氏は「面白いから、いなさい」という。
夜の9時を回っていたワシントンに電話がつながると、彼は過剰なほど丁寧な言葉で松永氏の説得を始めた。
まず夜分遅くの突然の電話をわび、日本にとって今、外交がいかに大事かを説き、ほかに外相を務められる人物はいない、と美辞麗句を並べ立てた。その様子を私はただただ、感心して眺めていた。
松永氏が熟慮して折り返し電話したいと言うと、竹下氏は「大使にそんなことをさせるわけにはいかない。こちらから明日の同じ時間にお電話を差し上げます」と言って静かに圧力をかけた。そして電話を切ると、すぐ私のほうを向き「ダメだな」と言った。
1時間以上も長居して帰る時、竹下氏はエレベーターまで見送りに来てこう言った。
「カーティスさん、あなたは以前、代議士の誕生について書かれましたが、きょうは大臣の誕生がわかったね」
海部内閣が発足した数日後、私は海部邸の夕食会に呼ばれた。
この席には、まさに閣僚就任を断った曽野綾子氏と、その夫で同じ小説家の三浦朱門氏がいた。ほかに哲学者の梅原猛氏と経団連事務総長の三好正也氏が招かれていた。
海部氏は、招待者に所信表明演説の助言を求めた。驚くことに、政策に関しては官僚が演説を用意していて個人の見解を表明する余地はほぼない、と言い切った。
代わりに「日本人のアイデンティティー」について何を言うべきか意見を聞きたいという。私は「日本人にアイデンティティーの危機はない。むしろ様々な人種、民族や宗教が混在する米国のほうが問題だ」と言い、「日本人は自らの特異性を強調しすぎていないか」と私見を述べたが、反応は鈍かった。私は残りの時間、聞き役に回った。
当時は閣僚人事は派閥の力学を操る自民党内の実力者が差配し、政策は官庁が握っていた。時を経て良くも悪くもこのシステムは崩れた。
権力は首相官邸に集中し、野心ある官僚は「忖度(そんたく)」して官邸が嫌うことは言わない。派閥も解消されたが、これに変わる統治の仕組みも見えない。失敗を繰り返した政治改革の歴史から、今度は学ぶことができるのだろうか。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】松永氏(右)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(17) 竹下登氏 政治の駆け引き、楽しむ 反発招いた消費税導入に誇り(私の履歴書)[2024/12/18 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1304文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏との出会いは1970年代の初めだ。彼はニューヨークに来た超党派議員団の一人で、夕食会の後、社会党の河上民雄氏と3人でホテルのバーに行った。
もともと政治学者だった河上氏はコロンビア大に1年在籍したことがあり、当時、大学院生だった私は親しい友人になっていた。だが、その日は時差ボケでバーに着くとテーブルに突っ伏して寝てしまい、竹下氏と私が2人で話すことになった。
彼は政治を心底楽しんでいるのが分かった。話は明け透けで面白く、気がつくと時計の針は夜中の0時を回っていた。以降、東京で度々会うようになった。
当時、自民党では地方政治を経て国会議員となった党人派と高級官僚出身の官僚派がにらみ合っていた。
政策通を自任する官僚派は党人派を「どぶ板政治家」と蔑んだ。だが党人派には政治のプロとしての自負があり、選挙民のことを手に取るように知っていた。そして権力闘争や駆け引きを楽しんだ。竹下氏はその一人だった。
印象に残る出来事がある。78年11月、現役の福田赳夫首相が、自民党総裁選で対抗馬の大平正芳氏に敗れた数日後のことだ。大平氏の予想外の勝利に、田中派の一員として尽力した竹下氏は事務所で満面の笑みを浮かべていた。
この総裁選で自民党は党員が投票する予備選挙を初めて導入した。党の全国組織委員長だった竹下氏は、田中派議員の後援会の人々を党員として大量登録し、大平支持票の積み上げに奔走した。勝利を確信していた福田氏は油断し、大平氏に大差で負けた。
福田氏は国会議員による本選で戦う手もあったが「予備選で負けた候補は本選挙出馬を辞退すべきだ」と言っていたため諦めるほかなく、在任2年で首相も辞任した。
竹下氏は戦いのいきさつを詳細に語り、しきりに「面白かった」と振り返った。
9年後の87年に首相になった彼も、1年半あまりで辞任を迫られた。消費税導入とリクルートの未公開株をめぐるスキャンダルで、支持率が急落したのが理由だ。
辞任から数週間後の1989年6月、自宅を訪ねると竹下氏は庭に咲く蘭(らん)をじっと眺めていた。そして、運ばれてきたお茶を飲みながら、静かに心境を明かした。
消費税が国民の反発を招くのは分かっていたが財政安定には必要で、実現させたことは誇りに思う、と言った。
リクルート事件については「昔は許されたことが今は許されない。時代が変わったので、しかたがない」とつぶやいた。
それから、ふいに笑みを浮かべて、田中角栄氏と当時実力者だった金丸信氏のお金の配り方の違いを知りたいか、と私に聞いた。
いわく金丸氏は政治資金をもらいに来る議員に封筒入りの札束を渡すとじっと見つめ、議員が中の1万円札を数え、礼を言うまで待つ。
一方、田中氏は相手が封筒を開けようとするとそれを制し「よしゃ、よしゃ、これを持って帰って頑張れ」と送り出す。議員が後で封筒を開くと、予想を超える札束が入っていたという。
竹下さんはどちらですか、と私は聞きかけてやめた。彼の模範がいつも田中氏だったことは、聞かずともわかったからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューヨークの筆者の自宅を訪問した竹下登氏夫妻
ジェラルド・カーティス(16) 中曽根康弘氏 「国際的なナショナリスト」 知られざるリベラルな側面(私の履歴書)[2024/12/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1370文字 PDF有 書誌情報]
私が1966年に再来日して出会い、旧大分2区を舞台に「代議士の誕生」を書くきっかけを作ってくれた中曽根康弘氏は、その後も会いに行くと時間を割いてくれた。
出会いから16年後の82年には首相となり、5年にわたりその座にとどまった。
その間、国内では国鉄や電電公社の民営化を進める一方、日米同盟の重要性を唱えてロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築くなど外交にも力を入れた。
日米の首脳がファスト・ネームで呼び合う習慣はその後も続いたが、「ロン・ヤス」は本物だったと思う。
米国の影響下で起草された憲法の改正を主張し、首相になっても「戦後の総決算」を訴えた。右派のナショナリストとの印象があるが、私は「国際的なナショナリスト」という表現が正しいと思う。
偏屈な日本中心の視点ではなく、世界における日本の立ち位置を常に考えつつ、洗練された目で外交・国際問題を観察していて学ぶことが多かった。教養があり、哲学的に深い人物だった。
強く印象に残るのが憲法改正をめぐる考え方の変化だ。2013年2月のインタビュー時にこう発言した。
「憲法の改正はだんだん遠ざかる。一般の人たちはそれほど改正の必要を感じない。憲法の独自性とか、誕生の秘密性とか、そういう問題は我々の時代には非常に強かったが、時間がたってみたら、そのような意識はほとんどなくなって、中身が良いか悪いか(が大事になり)そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている」
日本は歴史上、外のものを多く輸入、消化し、自分のものとしてきた。憲法も誕生の過程はともかく、時を経て日本国民に受け入れられたのだから全面改正の必要はなく、不都合な部分に手を入れればいい。そういう思いなのだと私は受け止めた。
在任中の1985年、中曽根氏は首相として初めて終戦の日の8月15日に靖国神社を公式参拝した。これに関しても2006年に長時間のインタビューをした。
戦死した英霊を国として正式に靖国神社で追悼する必要から参拝したが、アジア諸国への波紋も考慮し一回限りにした、との現実主義的な判断を明かした。A級戦犯の合祀(ごうし)やアジアへの侵略戦争を正当化する神主には厳しい言葉を投げかけた。
このインタビューは予想される政治的な影響に配慮して当時はお蔵入りとなったが、19年に書籍掲載の許可を求めると、オーケーが出た。
中曽根氏には知られざるリベラルで個人主義的な側面もあった。11年、恒例の「今年の漢字」が「絆」だと公表されると残念がった。理由を尋ねると「日本には絆による悪いしがらみも多くある」と述べ、個人を過度に縛る家族や反社会勢力の絆を挙げた。
私との関係は大事にしてくれた。10年に私がアークヒルズでサクソフォーン奏者の渡辺貞夫氏とジャズ公演をすると知ると、90歳を超えた中曽根氏は観(み)に行きたいと言って足を運んでくれ、私のピアノのすぐ横の席から身を乗り出して演奏を見守っていた。
最後に会ったのは100歳の時。国際情勢への関心をいささかも失っていなかった。
翌年、101歳で大往生した。少し前にほほ笑みながら読んでくれた自作の詩を思い出した。「夢見るのは飽きた。今は寝るだけだ」
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏とは亡くなるまで関係が続いた
ジェラルド・カーティス(15) 中国訪問 鄧氏と会談、白黒の記憶 南京で迷子になり赤面(私の履歴書)[2024/12/16 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1378文字 PDF有 書誌情報]
1981年の5月、デビッド・ロックフェラー氏をはじめ日米欧三極委員会の一部メンバーと中国を訪れた。
毛沢東の死去で5年前に文化大革命が終わり、その2年後に最高権力者となった鄧小平氏が改革開放へとかじを切った大変面白い時期だった。
この訪問は私の中で白黒写真のように記憶されている。人々の服も、街も、何もかもが灰色にくすんでいた。
自転車が主な交通手段で、1人当たり国内総生産(GDP)は290ドルと日本の1万500ドルに大きく劣った。
鄧氏の登場で発展への期待は高まっていたが、現地で会った側近らは慎重だった。
彼らは58年の大躍進から文化大革命に至る経済政策の混乱を厳しく批判し、その爪痕の大きさを指摘した。同時に混乱は毛沢東への個人崇拝の副産物であり、その芽は摘まれたとも強調した。
鄧氏本人との会談は、ある午後遅く、小さく飾り気のない部屋で行われた。会談を社交行事でなく、実務的なものにしたいとの意図だろう。
鄧氏は質問に答えながら、1時間半にわたり高度な経済成長を実現する自らの計画を語った。日米欧が中国と足並みをそろえ、世界平和への最大の脅威であるソ連の覇権主義に対抗する必要があるとも強調した。小柄な体の隅々から力がほとばしっていた。
鄧氏とロックフェラー氏が並んで部屋の前に座り、残りの参加者と向き合う座席配置で、二人の間、鄧氏のそばに唾壺(だこ)が置かれていた。
時折、鄧氏がロックフェラー氏側に体を傾ける形で、その中につばを吐いた。そのたびにロックフェラー氏は小さくのけ反った。
台湾の扱いは、会談終盤に訪問団の一人が聞かなければ話題にならなかっただろう。聞かれると鄧氏は「10年、50年、あるいは100年かかるかもしれないが、台湾は本土と統一されよう」と答えた。
この問題は棚上げし目の前の課題に集中しよう、とのメッセージは明らかだった。
ただ鄧氏の言葉に訪問団の一人は反応した。後にドイツ首相となるシュレーダー氏が突如立ち上がって言った。
「10年、あるいは50年かかるかもしれないが、ドイツもいつか統一する」
そのわずか9年後、東西ドイツが統一するとは、彼も思っていなかったのだろう。
今日、台湾問題は棚上げ状態を解かれ、米中緊張の大きな要因になっている。
個人崇拝を防ぐ集団指導の仕組みも、習近平国家主席によって骨抜きにされた。そして毛沢東並みの権力者が、再び中国に誕生した。鄧氏の側近たちが心配した過ちが、まさに繰り返されつつある。
さて北京での会議後、参加者の一部は南京、杭州、上海を回った。南京の思い出は、白黒どころか真っ赤だ。自身が迷子になって赤面したせいだ。
玄武湖公園の美しい景色に見とれ、振り向くと一団が乗るバスが去っていた。
その場で待てばいいのに、私は南京駅に向けて歩いた。そこからホテルに戻ろうと思ったのだ。
だが公園を出るとすぐ方向感を失った。何とか駅に着いて途方にくれていると公安警察に発見され、ようやくホテルに戻ることができた。
旅の友の一人で、70年代前半に駐日米大使だったロバート・インガソル氏は、その後も会うと必ず南京の迷子事件を持ち出し私を冷やかした。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ロックフェラー氏らとともに中国を訪問し鄧小平氏と会談(前から2列目中央、ロックフェラー氏の後ろが著者)
ジェラルド・カーティス(14)カーター政権 日米中関係、NSCで議論 政権参加の誘いも幻に(私の履歴書)[2024/12/15 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1337文字 PDF有 書誌情報]
日米欧三極委員会は、1973年にチェース・マンハッタン銀行会長だったデビッド・ロックフェラー氏が創設した。
世界で存在感を高める日本と米欧の先進民主主義国の有力者らをつなぎ、対話を促すことが主な狙いだった。米欧の有力者らと交流を深めたい日本の経済人や政治家は、強い関心を向けた。
その三極委員会の年次総会に出席するため私は1975年5月、京都を訪れた。
ホテルから会議場に向かう貸し切りバスの中で、1人の男性が通路を歩きながら同乗する一人ひとりと言葉を交わしていた。「こんにちは。私はジミー・カーターといいます。ジョージア州知事で大統領選に立候補しています」
名前は知っている、という程度の知識しか私にはなかった。他の会議参加者も彼が次の大統領になるとは考えてもいなかったはずだ。だが三極委員会を率いていたズビグネフ・ブレジンスキー氏はそうなると信じていた。
彼は、1976年の大統領選でカーター氏の政策アドバイザーとなり、翌年カーター政権が発足すると、ホワイトハウスの国家安全保障担当補佐官に就いた。
コロンビア大の政治学部で私の同僚だったブレジンスキー氏は、ソビエト連邦の専門家ながら国際問題全般に幅広い知識を持っていた。
そして大学で研究を続けるより、ワシントンで現実の政策づくりに携わりたがっているのは明らかだった。
カーター政権の4年間、私は頻繁にワシントンに出かけた。日米の議員交流をめぐって議員らと話す傍ら、ブレジンスキー氏や米国家安全保障会議(NSC)の人々と議論する機会も増えたからだ。
NSCで特によくやりとりしたのは中国の専門家で、やはりコロンビア大の同僚でもあったマイク・オクセンバーグ氏だ。ニクソン政権が道筋をつけた中国との国交正常化についてカーター大統領とブレジンスキー氏が詰めていて、米日中の3カ国の関係について意見を求められた。
忘れられないのは最年少の35歳で東アジア・太平洋担当の国務次官補となったリチャード・ホルブルック氏で、同氏が主催する東アジア政策に関するブレーンストーミング会合は印象深かった。
国務省の名物だった彼は不(ぶ)躾(しつけ)で喋(しゃべ)りすぎ、上司がいてもお構いなしに、あらゆる議論を仕切りたがった。だが彼はとびきり頭が切れ、主張もしっかりしていた。
彼には国務長官になる明確な目標があり、クリントン政権で駐ドイツ大使や国連大使を歴任した。その間、会うことはなく、久しぶりに再会したのは2000年代初め、投資家のジョージ・ソロス氏がニューヨーク市マンハッタンの5番街にある自宅で催した朝食会でのことだった。
彼は全く変わっておらず、日本について話した私を含め数人が短いプレゼンテーションをする間、ずっと電話を受けたりかけたりしていた。
結局、彼は国務長官になる夢を達成できないまま、10年12月に職務中に倒れて亡くなった。
カーター政権の4年目、私はホワイトハウスのNSC幹部からの電話で政権に参加する意向がないかと尋ねられた。だが1980年の大統領選はロナルド・レーガンの勝利に終わり、私は決断に悩まずに済んだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1975年の日米欧三極委員会に参加する筆者(右から2人目)
ジェラルド・カーティス(13) 三木武夫氏 電話で聞いた政争の裏側 着物にたまるピーナツの殻(私の履歴書)[2024/12/14 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
初めて三木武夫氏と会ったのは1971年だ。日本は米大統領の訪中宣言、ドルと金の兌換(だかん)停止の二つのニクソン・ショックに揺れていた。
日米関係の懸念について語った私のインタビューが雑誌に載り、読んだ三木氏から声がかかって事務所を訪ねた。話は弾み渋谷区南平台の自宅に招かれるようになった。
三木氏は戦前の37年に初当選し、戦中も大政翼賛会の公認なしで当選し続けた。そんな彼の話は、日本政治を研究する私には大変貴重だった。マッカーサー元帥から首相就任を打診され断った経緯なども話してくれた。
自宅を訪ねたある夕刻、彼は着物姿でくつろいでいた。ソファに並んで話しながら卓上の鉢に入ったピーナツを次々と口に放り込んだ。むいた殻は着物の前にたまる。それをみた睦子夫人に叱られると素直に立って殻を払った。仲睦(むつ)まじい夫婦だった。
74年、田中角栄首相が金権政治を批判され在任2年強で退くと三木氏が後を継いだ。彼のクリーンなイメージで党勢の回復を狙った自民党の実力者らは、弱小の三木派なら操りやすいとも考えた。だが思惑に反し彼は政治改革に本腰を入れ、党内に「三木おろし」の旋風が吹いた。
76年夏、東京に戻った私は三木氏の右腕になった同時通訳者の国弘正雄氏を通じ面談を依頼した。南平台の自宅前は新聞記者が集まっているため電話で話すことになった。
滞在先の宿舎には10円玉を入れて話す赤電話しかなかった。三木首相との電話は長引き、翠は押し入れにかかった背広のポケットを探り、ハンドバックをひっくり返して10円玉をかき集めてくれた。
三木氏は後釜を狙う福田赳夫氏と大平正芳氏が官邸に来て、党の支持を失ったから辞任せよと迫った、と明かした。彼はこう応じたという。
「私を党の総裁にしたのは自民党だから辞めさせたいなら辞めさせればいい。だが私を総理大臣にしたのは自民党でなく国会だ。辞めさせるなら、どうぞ不信任案を出しなさい。ただ、その場合、私はどうするか分かりませんよ」
衆院の解散や自民党の分裂を匂わせ脅かしたのだと三木氏は説明した。そして笑いの混じった声で「福田も大平も顔色が変わって、慌てて去っていったよ」と言った。
「私はずっと首相を続ける気はない。だが首相を選ぶ権利は自民党でなく国会にある。カーティスさん、日本の政治には憲政の常道が大事だ」
「憲政の常道」は明治憲法下で育ちつつあった政党政治体制の慣習を示す言葉だ。戦前からの政治家である彼にとって、戦前と戦後の政治は連続しているのだと感じた。
結局、三木氏は首相にとどまったが、衆院の任期満了に伴う12月5日の総選挙で自民党は結党以来初めて、衆議院で公認候補の当選者数が過半を割った。三木氏は辞任し福田氏が首相に就いた。
首相退任の数日後、国弘氏から連絡があり、神奈川県の真鶴にある三木氏の別荘に招待された。こぢんまりした木造の家屋で、応接間からは太平洋が見えた。
話を楽しみにしていたが、政争で疲れ果てた三木氏は食卓に座ったまま首を傾け、すぐ眠りに落ちた。睦子夫人と翠、国弘氏と私が小声で話していると彼は時折目を覚まし、ピーナツを口に放り込んではまた眠った。それが三木氏と会う最後の機会となった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】三木武夫氏の別荘で。右から三木氏、筆者、妻の翠、国弘氏
ジェラルド・カーティス(12) 国際結婚 恩師の交友が縁で出会う 夫婦げんかは「文化」のせい(私の履歴書)[2024/12/13 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
妻の翠(みどり)とは1968年に出会った。日本から来たばかりの21歳の彼女は、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで広告デザインを学んでいた。
この出会いは、コロンビア大のハーバート・パッシン教授と翠の父親、深井武夫との交友のおかげだ。
武夫は南満州鉄道に勤める技術者の息子として中国の大連で育った。立教大に入学時、初めて日本の地を踏んだ。
卒業後お見合い結婚して中国に戻り、華北綜合調査研究所に勤めた。終戦後は身ごもっていた妻の妙子と本国に引き揚げ、妙子の実家がある神戸で翠が生まれた。
「翠」は中国で重宝される翡翠(ひすい)にちなんだ名前だ。武夫が帰国時、中国人の友人は自らのつてで家財を売って必要な資金を作ってくれた。「中国人は情が深い」と武夫は翠に言っていた。
妙子も商社勤めの父の転勤先、インドの旧ボンベイで生まれ、インドネシアのジャカルタで育って11歳で日本に渡った。ともに外地育ちの両親は国際的で進歩的な視野をもち、武夫は翠に「女でも、何でも良いから自分のものを持ちなさい」と言い聞かせた。
戦後、時事通信社に入った武夫はGHQ(連合国軍総司令部)の民間情報教育局にいたパッシン氏に世論調査を学び、その推薦でコロンビア大とミシガン大に留学した。パッシン宅のパーティーに翠がいたのはそんな縁からだ。
出会った翌日、私は翠を食事に誘い、付き合い始めた。だが数カ月後、武夫のがんが発覚し帰国してしまう。
マッキャンエリクソン博報堂でアートディレクターとなった翠は働きながら弟の純とともに看病を続けた。武夫は1年後、54歳で亡くなった。
「始めたことをやり遂げなさい」との生前の父の言葉に従って翠は73年にニューヨークで復学し、2年後に卒業した。74年、私たちは結婚し、二人の娘に恵まれた。
翠は子育ての傍らコロンビア大で著名画家ジェーン・ウィルソンの実技講座を受講した。やがて芸術学部の修士課程で学びたい気持ちが湧き願書を出したが、不合格だった。
翌年、翠はバスでウィルソン氏と会い、娘たちは小学生になったか聞かれた。なったと答えると「では、また願書を出したらいい」と言われた。前回の不合格は幼児がいては学位取得は難しいとの判断からだ、との示唆だった。
願書では20の作品のスライドに、写真2点を追加した。「創造1」は8歳のエリサ、「創造2」は6歳のジェニファーだった。翠は入学を許され、講義や版画制作を心から楽しんだ。
卒業時、版画の教授は仕事を続けるならスタジオが必要だと指南した。翠はニュージャージー州に100人もの芸術家が集う元倉庫のスタジオをみつけ、子供を学校に送ると地下鉄で通った。夢だった版画家になった翠は以来、多忙な職業人生を送っている。
ある夕食会で翠の隣に座った元財務官の細見卓氏は「奥さん、良妻賢母などになろうと思わない方が良いですよ。男が『家が一番良い』と言い出したら、だめです」と言った。翠は「励ましの言葉で嬉(うれ)しかった」と振り返る。
国際結婚は大変でしょうと言われるが、他の結婚を知らないので戸惑う。どんな結婚も時折、誤解は起きる。ただ夫婦げんかを終わらせるのは楽だ。「やっぱり文化が違うからね」と、互いでなく文化のせいにすればいいからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】結婚披露宴で妻の翠と
ジェラルド・カーティス(11) 下田会議 民間対話で理解深め合う 日米の政治学者、育んだ友情(私の履歴書)[2024/12/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1399文字 PDF有 書誌情報]
1960年代後半、日米関係は緊密さを増しつつ経済や安全保障面のほころびも目立ち始めていた。理解を深め合うには、政府間とは別に民間の対話が必要になっていた。
これを担ったのが1967年に初会合を開いた下田会議だ。以降27年間、日米の識者が両国の懸案を語り合い、政府に助言する場となった。
先にお話しした日米議員交流も第1回下田会議の席上、マイク・マンスフィールド米上院院内総務が提案して生まれた。その流れもありコロンビア大のパッシン教授が下田会議と日米議員交流の双方のまとめ役を務めていた。
だが69年の第2回下田会議では、期せずして私がその大役を担うこととなる。打ち合わせで東京を訪れた時、パッシン教授が私にまとめ役を委ねたい、と日本側の担当者を前に提案したのだ。
まとめ役の「共同エディター」は日米に一人ずついて、協力して議題の設定、会議後の共同声明の起草や論文集の編集を行う。パッシン教授は新鮮な視点をもつ若い私が適任だと説明した。
これに日本側事務局を率いる山本正氏は難色を示した。日本側エディターは私より13年も年配で、すでに外交問題の権威だった神谷不二氏。博士号もとっていない若年の私ではバランスがとれない、との言い分だった。
パッシン教授は会議前に私は博士になるし、神谷氏も賛成するはずだと応じた。結局、山本氏は折れ、神谷氏も快く提案を受け入れた。
その後、山本氏は40年にわたり付き合う親友になった。幸先の悪い出会いが深い友情へと発展しうる好例だ。彼はほどなく日本国際交流センターを設立し、下田会議や議員交流のほか、多くの民間外交の枠組みを担ってゆく。
第2回の下田会議は69年9月、静岡県下田市のホテルで開催した。初日、ひやりとする事件が起きた。
右翼活動家の赤尾敏氏が日章旗を掲げたヤクザっぽい男たちを従えてホテルのロビーに現れ、会議に参加する日本の政治家の道徳的な荒廃などを大声で批判した。その後、会議場に乱入しようとして警官隊に取り押さえられた。
翌日は日本労働組合総評議会(総評)が押しかけた。米帝国主義に反対する声明を無感情に読み上げる姿に迫力はなく、内容に説得力がないと自覚しているようだった。
無事始まった会議の焦点は安全保障問題だった。
日本側は米国の関心が中国に移り、日本との関係を十分考慮せずに同国と国交を回復させるのではと心配した。
参加者の1人は、1960年代前半に駐米大使だった朝海浩一郎氏がみたという悪夢に言及した。朝起きたら米国が日本に通告なく中国を承認していたという悪夢だ。
米側は沖縄返還が日本に及ぼす影響に関心を寄せた。返還後は日本がより防衛上の責任を果たすとの期待の一方、ナショナリズムの高まりで日本が軍事大国化をめざすのではと懸念する声も出た。
下田会議は私にとって、現実主義に徹した新世代の国際政治学者と知り合う機会にもなった。神谷氏や東京大の佐藤誠三郎、京都大の高坂正堯らの各氏で、彼らは政府に求められれば助言をしたが、御用学者からは縁遠く、必要とあれば公然と批判もした。
厳格な学術的研究を行う傍ら自らの考えを広く一般に伝える努力も惜しまなかった。私は彼らから多くを学び、新たな友情も育んだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】69年の下田会議で米国側のエディターをつとめた筆者(左から2人目)。左端は日本側エディターの神谷不二氏
ジェラルド・カーティス(10) 日米議員交流 貿易・外交ぶつけ合う主張 地元へ補助金誘導、どの国でも(私の履歴書)[2024/12/11 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1350文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流プログラムがうまく立ち上がったのは、太平洋の反対側で力を増す経済大国をもっと知りたいと願う若き議員らのおかげだ。
その多くは、後に米政府で重責を担い、日本の政治家とも関係を保ち続けた。
トーマス・フォーリー、ドナルド・ラムズフェルド、ハワード・ベーカー、ウォルター・モンデール、ノーマン・ミネタの各氏は、日本をより深く理解したいとの思いがとりわけ強かった。
フォーリー、ベーカー、モンデールの3氏は駐日米国大使として政治家人生を締めくくった。第43代ジョージ・ブッシュ大統領のもと国防長官に就いたラムズフェルド氏も、実は駐日米国大使への指名を望んでいたとされる。
1970年代前半という時代ゆえ、日本経済の急成長がもたらす好機と課題に焦点が当たったのは当然だろう。日米の貿易摩擦や、これに伴う日本の外交戦略の変化の可能性、さらには沖縄返還や米中接近の意味合いをめぐり双方が主張をぶつけ合った。
驚いたのは、政策でなく政治に話題が移ると双方の議員の距離が一気に縮まったことだ。対照的な文化、選挙の制度やルール、慣習の違いにもかかわらず、選挙民の支持をどう勝ち取るかの手法は根底の部分でごく似通っていることを議員らは発見した。
首都と選挙区を行き来して政府の補助金を地元の開発事業に誘導し、有権者に恩を売って政治資金を集める。そうした日常は、日米だけでなく選挙で選ばれるどの民主主義国の議員でも共通だった。
会議中、ある米側議員が熱心にメモをとっていた。後ろを歩きながらのぞくと選挙区の支持者宛ての絵はがきが束になっていた。会議が米ワシントンで開かれた時には、日本側の政治家も、同じく後援会の支援者宛てにポストカードを書いていたはずだ。
会議期間中、夕食で1日の日程が終わると米側議員らは宿泊先のホテルオークラの誰かの部屋に集った。話し上手な共和党と民主党の議員が一堂に会し、ウイスキー片手に明け透けに語り合う会は、いつも大いに盛り上がった。
ある夜、ボトルも空いてきたころ議員の1人が日本の議員から「根回し」という言葉を聞いた、と話した。公式の会議前に意見をすりあわせる非公式な相談だと説明した上で、「米議会でも同じことをしているのにネマワシのようなきちんとした言葉がないのは残念だ」と言った。
「ならばネマワシを米議会でも流行らせよう」と別の議員が提案し、一同が賛同した。そのようなわけで米議会ではしばらくの間、一部議員が「この問題では、もっとネマワシが必要だね」などと言い合っていた。
結局、ネマワシの言葉は米国では浸透しなかった。50年前の私は、妥協なしに主張をぶつけ合うだけの政治がここまで米国で広がり、合意を得ようとの意志さえ失われるとは想像もしていなかった。
今日と違い、当時の議員らには所属政党にかかわらず、ある種の仲間意識があった。共和、民主の両党は政策をめぐり衝突しても互いを尊重し信用していた。妥協こそが民主主義的な政府を機能させる肝だとも信じていた。
こうした考えが失われつつあるのは残念であり心配だ。しかも事態は改善するどころか、ますます悪化しているように映る。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日米の議員交流を通じ両国の橋渡しに尽力した(奥の中央が筆者)
ジェラルド・カーティス(9) 学者の誕生 好条件の誘いに即決 コロンビア大の職員に(私の履歴書)[2024/12/10 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1351文字 PDF有 書誌情報]
衆院選が終わって半年ほどの1967年夏、皆に別れを告げ別府を去る時が来た。
私は大量のメモと研究成果をスーツケースに詰め込んでニューヨークへ戻り、早速、博士論文の執筆にかかった。
日本の草の根の政治について描きたいことの輪郭が次第に整い始めていた11月のある日、モーリー教授から連絡が入った。中西部にあるイリノイ大学が春学期に日本政治を教える教員を探していて、めったにない機会なので受けるべきだと勧められた。
講義が始まるのは、ほんの2カ月先の1月だった。博士論文の執筆にはまだまだ時間がかかると教授に伝えると、必要な書類を持って行き、現地で教えながら論文を書けばいいという。私は言われる通りにすることにした。
大学で教えるのは楽しかったが、キャンパスのあるアーバナ・シャンペーンに住むことはニューヨーク育ちの私には耐えがたかった。
端的に言えば、トウモロコシ畑の海に浮かぶ離れ小島に隔離されたような気分になったからだ。
早くニューヨークか東京に戻りたいとの気持ちが日々募り、学期が終わる頃には次の仕事が見つかるか否かにかかわらず、ここを離れようと心の中で決めていた。
ちょうどそんな時、コロンビア大の社会学者で著名な日本専門家、ハーバート・パッシン教授から電話が入った。
コロンビア大の東アジア研究所がフォード財団の支援で日米の議員交流プログラムを立ち上げる予定なので、コロンビア大に戻って手伝ってほしい、との趣旨だった。
さらにコロンビア大の政治学部が私を職員にし、当初は講師、博士号をとれば助教授にする予定だとも告げられた。あまりのタイミングと条件の良さに、私はその場で申し出を受けた。
イリノイ大学での講義が終わって数日後、私は早々に荷物をまとめるとニューヨーク方面へ車を発進させた。
早く戻りたい一心だったのだろう。気付かずに時速100マイル(約160キロメートル)近いスピードを出していたようで、そう走らないうちに高速道路で警官に止められた。地元の警察署まで誘導され、結構な額の罰金を払わされた。
そこからは安全運転でニューヨークに戻り、無事にコロンビア大学で働き始めた。1968年秋のことだ。翌年、博士論文の口頭試験を無事に通ると助教授に昇格した。
比較政治論と日本政治について教える傍ら、私はパッシン教授とともに米日の議員交流プログラムの立ち上げに奔走した。
ワシントンに行き、プログラムに参加し東京に行ってくれる議員を募った。国務省にも立ち寄り、儀礼的に日本部長に話を伝えた。
無愛想な部長は、挨拶もそこそこに思いをぶちまけた。いわく日米関係は国務省がうまくかじ取りしており、素人が首を突っ込んでくるのを快く思っていない、何もしなくて結構、とのことだった。
その姿勢と振る舞いには、占領時代の発想が滲(にじ)み出ていた。日米関係は国務省と国防総省が「占有」しており、この先もそうあり続けるべきだ、との発想である。
それでも我々はめげずに議員交流プログラムの立ち上げに力を注いだ。結果的に日米で超党派の多くの議員が関心を示し、誰も予想しない成果を生むことができた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】パッシン教授(中)と日米の議員交流に奔走した。左は日本国際交流センターの山本正氏
ジェラルド・カーティス(8) 代議士の誕生 地方の実情、「選挙の教科書」 佐藤氏の器の大きさに感謝(私の履歴書)[2024/12/08 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1349文字 PDF有 書誌情報]
成功とは能力、努力と運のたまものだという。多くの人は自らの成功を誇り、運が果たした役割を軽視しがちだ。
日本の選挙事情を追った「代議士の誕生」が1971年の出版時から注目され今も読み継がれているのは、多分に運に負う部分が大きい。
別府駅に到着した私をわざわざ迎えてくれた佐藤文生候補が寛大な人物で、選挙運動をつぶさに観察させてくれたのは大きな幸運だった。
佐藤夫人が私を一家に温かく迎えてくれたのも、中学、高校、大学生の3人の息子さんが丁寧に大分弁を教えてくれたのもそうだ。
おかげで佐藤氏の後援会の会合で挨拶を求められたときは、まず「めんどしいけんど(恥ずかしいですが)」と前置きして大分弁で話し、打ち解けることができた。
「インタビューを頼まれたら応じてやってくれ」という佐藤氏の口添えもあり、多くの支援者らが地方での政治の実情を率直に語ってくれた。
後援会の酒席でも佐藤氏に付いてお流れを頂戴し、支援者と語ることができた。内輪の会合に顔を出した外国人を警戒する人々もいたが、酔いで立てなくなるまで杯を交わすと「根性がある」と認められ仲間として迎えてくれた。
やがて選挙参謀の秘密会合にも立ち会うことを許され、票や金銭の微妙な話も見聞きさせてもらえた。
選挙が近づくと選挙区内の各所から幹部の運動員がやってきて、選挙参謀と足りない票数などについて話す。そして車に「選挙ポスター」の束を乗せて去って行く。
実際に中に入っていたのはポスターでなく100円や500円の札束だった。幹部らは自らの取り分を抜き、残りを集票担当の下位の運動員たちに「足代」として配った。
戸別訪問を禁じた選挙法をかいくぐるため当時の別府市長は故人への挨拶を装った。「ごめんない」といって支持者宅に上がり仏壇に封筒を置いて手を合わせたが、封筒の中身は誰もが知っていた。投票への事前のお礼だった。
政治家はどの国でも、政治資金の規制をすり抜ける天才だ。それ故に今日の政治改革をめぐる議論は的外れに感じる。選挙には良くも悪くもお金がかかり、足りなければ政治家は合法か否かにかかわらず何らかの手段で資金を集める。そうでなければ金持ちだけが政治を担うことになる。
むろん、どこかにタガをはめないと、米国のように事実上無限にお金を使える狂った仕組みになる。だが大事なのはパーティー券の金額上限といった規制ではなく、透明性だ。お金の出入りに厳しい情報公開を義務付けることが、後ろ暗い資金の流れを断つにはよほど有効だ。
私の幸運に話を戻せば、佐藤氏が選挙に勝ったのは何よりの僥倖だった。彼が負けていたら、私の博士論文はものにならなかったろう。
後日談になるが、この博士論文をコロンビア大出版会が書籍化した後、思いがけず日本語の訳書の話が持ち上がった。佐藤氏にこれを告げるとショックを受けた様子だったが、すぐに「君を信頼する」といって出版前に原稿を見たいとも言わなかった。
当初はサイマル出版会、今は日経BPから出ている日本語訳は、政治家にも「選挙の教科書」として広く読まれ、私の人脈も広げてくれた。
佐藤氏の器の大きさには感謝するばかりだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】佐藤文生氏が初当選した1967年衆院選の投票を見守る筆者
ジェラルド・カーティス(7) 博士論文 別府で見た選挙の実態 中曽根氏の紹介、佐藤邸に居候(私の履歴書)[2024/12/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
博士論文の調査のため日本に戻ったのは1966年、25歳の時だった。
その少し前、コロンビア大で日本語の文献講読を指導してくれた大学院の先輩、岡本俊平氏と食堂で昼食をとっていると、父親の友人の国会議員に頼まれ選挙運動を手伝った話が出た。聞くうちに「これは面白い」と思った。
当時、私は吉田茂の研究のための奨学金を得ていたが、机に座って書けるような論文には気が乗らなかった。
日本に戻り選挙を通し草の根の民主主義の実情を研究しよう。そう考え研究内容の変更を申し出たらモーリー教授の支援もあり認められた。
東京に着いてすぐ、モーリー教授の教え子で、ライシャワー駐日大使の報道官だったナサニエル・セイヤー氏に電話した。赤坂の外堀通り沿いにあったホテル・ニュージャパンで会い、論文の構想を話した。すると有力議員の秘書を紹介するよと言い、歩いてすぐの一ツ木通りにある議員事務所に向かった。自民党の中曽根康弘氏の仮事務所だった。
秘書の小林克己氏に構想を説明すると裏の部屋に消え、戻ると中曽根とじかに話してくださいと言う。案内された部屋には長身で見栄えのする48歳の中曽根氏がいた。カリスマがあり重要人物の雰囲気が漂っていた。話を聞き、すぐ協力を申し出てくれた。
当時、日本の研究者にはライシャワー氏のように戦前、宣教師の家族として日本に住んだ第1世代、そしてモーリー教授、ハーバート・パッシン教授や日本文学のドナルド・キーン教授のように戦中に米陸軍や海軍の日本語専門学校で学んだ第2世代がいた。
私は戦後の第3世代だ。米欧とは違うものの成功した日本の民主主義に好奇心を抱き、その仕組みを理解しようとの姿勢が第3世代の特徴だ。中曽根氏は、それを好意的に受け止めたのだと思う。
どの政治家を研究するのがいいだろう、と彼は数人の候補を挙げた。東北と鹿児島の選挙区も挙がったが、方言に苦労するだろうと選択肢から外した。残ったのが別府市がある旧大分2区だった。
前回の選挙は負けたが今回は有望という佐藤文生氏に中曽根氏は電話し、私の世話を頼んだ。佐藤氏が断れるはずもない。受話器を渡された私が「よろしくお願いします」と言うと「どうぞおいでください」と返事が返ってきた。
翌日、私はスーツケースと電子タイプライターを手に寝台列車に乗った。天井に頭がぶつかるほど狭い寝台で始まった酒盛りに私も交ぜてもらい、楽しい旅路となった。
翌朝、別府駅で地元新聞の取材を受けた。私にとって初の記者会見だ。掲載された記事は私を「青い目の研究者」と呼んだ。西洋から来た外国人への当時の人々の思い込みだったが、茶色い私の目が青く見えるのが不思議で、何度も鏡をのぞき込んだ。
まず直面した問題が滞在先だ。別府に温泉旅館は多いが、長期滞在できる先がなかった。困っていると佐藤氏の夫人が「うちに泊まりなさい」と言ってくれた。これは大変ありがたかった。
さらに幸いだったのは居候した部屋が応接間の隣で、選挙資金などの際どい話が筒抜けだったことだ。「どうせ聞こえるんだから来なさい」と佐藤氏が言い、金銭の授受までも隠さず見せてくれた。
こうして選挙運動を内部から深く観察できる極めて貴重で有益な一年が始まった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏(右)、佐藤文生氏(左)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(6) 1964年 東京 下宿は西荻窪の4畳半 銭湯帰りにスナックへ(私の履歴書)[2024/12/06 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
1963年、私は日本研究で博士課程に進み、同時に日本語を本気で学び始めた。
当時のコロンビア大には日本語の集中講義があった。
夏に初級、秋に中級、翌春に上級の講義を立て続けに履修し、1年で3年分の日本語を学んだ。寝ても覚めても日本語漬けで、ついには夢の中でも日本語を話していた。
外国語はほかにも学んだことがあったが、日本語には魅了される何かがあった。
表記の仕組みは複雑ながら面白く、文の構成は思考方法の転換を要した。角や棘(とげ)がない柔らかで丸みを帯びた音はメロディーのようで、音楽的な言葉だなと感じた。
教科書は控えめに言っても時代遅れだった。終戦から18年を経ていたが、初めて学んだ文章は「私は兵隊です」だった。それでも私の日本語は徐々に上達していった。
博士課程に進む時、モーリー教授に「1年やって自分に合わないと感じたら、ほかのことをしなさい」と言われた。その1年が終わる頃、私は続ける決断をした。
のみならず東京で日本語を10カ月間みっちり学ぶフェローシップも申請した。これが認められ、私は64年、初めて東京へ旅立った。
この年の東京は熱気に満ちていた。経済は2桁成長を続けていた。4年前に池田勇人首相は10年で所得を倍増させると言ったが、達成は前倒しになりそうな勢いだった。
所得も伸び、次の世代はさらに豊かになるとの楽観論が広がっていた。子の世代の生活に不安を募らせる人々が多い今日とは正反対だ。
政治的には当時の日本は分裂していた。60年、日米安全保障条約の改定をめざした岸信介首相は、史上最大のデモが起きるなか、国会で条約の批准を強行した。
全学連は強力で、労組活動も社会党や共産党と政治的に結びついていた。保守勢力は憲法を改正し日本が自前の軍を持つべきだと訴えていた。
つまり日本は経済が急速に拡大し、戦後の民主主義が根を張り、楽観と緊張がせめぎ合う刺激的な国だった。
同年の東京オリンピックも高揚感に油を注いでいた。オリンピックの開催は日本が民主主義国家、そして勃興する経済大国として、再び世界の表舞台に立った証し。日本の人々にとっては希望に満ちた新時代の号砲だった。
私は西荻窪に下宿した。小さな中庭に面した4畳半は入り口と部屋が狭い通路でつながれ、流しとガスコンロ、和式トイレがついていた。シャワーや風呂はなく、冬は小型石油ストーブの前で震えた。
とはいえ家賃は月3000円。1ドル360円時代だから8ドル強の格安で、文句はなかった。
スパルタ的な生活環境ゆえの楽しみもあった。冬に凍ったガラス戸を開け、庭を見ながら漢字を暗記していると、中庭の反対側の部屋に住む年配女性と世間話になり、日本の作法など教えてもらった。
銭湯の帰りにはラーメン屋や地元のスナックに寄った。すっかり日本の生活になじみ、帰国の日が迫ると、また日本に戻ることばかり考えた。1年近い滞在で学んだのは、もっともっと学びたいことがあるという事実だった。
博士論文を書くため日本に戻ってやろう、とひそかに目標を定めた。それにはまず、どんな論文を書くか決める必要があった。いいアイデアがひらめいたのは、またもや偶然だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】東京五輪は、日本の人々にとって希望に満ちた新時代の号砲だった
ジェラルド・カーティス(5) コロンビア大学 恩師は日本外交の専門家 大戦時、海軍で暗号解読(私の履歴書)[2024/12/05 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1306文字 PDF有 書誌情報]
私の人生を変えることになるゼミは、科目一覧には「米国の対外政策」とのみ記されていた。
だが、このゼミを担当するジェームス・モーリー教授は実は日本の外交史に通じた専門家だった。そしてゼミも、日米の外交関係に焦点をあてながら、米国の対外政策を学ぶという内容だった。いずれもゼミを履修した後に知ったことだ。
モーリー教授と日本との関わりは、日米開戦の直後に遡る。海軍に志願した若き日の彼は、まず海軍の日本語学校に送られ日本語をたたき込まれた。これが終わると首都ワシントンで、大日本帝国海軍が通信に使う暗号を解読する任務についた。
何年も後になるが、モーリー教授からその頃の話を聞いたことがある。
戦争初期は、暗号解読によって米軍が日本の戦艦を見つけ沈没させたとの連絡が入ると、解読チームの人員は立ち上がって歓声を上げていた。
だが戦争が長引くにつれ、モーリー青年の心境に変化が生じ「自分のせいで、どれだけの人々が犠牲になっただろう」と考えるようになった。
犠牲になった兵士らは敵ではなく、自分と同じように国のために志願したか徴兵された若者ではないかと気づき、いたたまれない気持ちになったという。
この経験から戦争が終わると彼は大学に戻って日本について学ぶことを決めた。日本人がどのような人々かを知り、悲劇が繰り返されるのを防ぎたい、との思いからだった。その情熱をモーリー教授はゼミにも持ち込み、私も大いに感化された。
だが当時の私は日本に関する知識が乏しく、研究リポートの課題が出ると何を題材にすべきか皆目見当がつかなかった。そこで教授に助言を求めると、1932年から41年の日米開戦まで駐日米国大使だったジョセフ・グルーについて調べてはどうかとアドバイスされた。
グルーは米国の厳しい対日経済制裁について、日本の文民指導者の力をくじき軍国主義者を勢いづかせるだけだ、と当初は反対していた。
だが後に翻意して制裁に賛成する電文を本国に送り、これが真珠湾攻撃の伏線にもなった。この経緯と背景をさぐることをモーリー教授は勧めたのだ。
時間をかけて多くの資料を読み込み、丹念に史実を調べた。そして成果を皆の前で発表する日がやってきた。
私が話す間、モーリー教授はせわしなくペンを動かしていた。これから容赦ない批判が飛んでくるのだろう、と私は観念した。
だから発表が終わってモーリー教授が好意的なコメントをした時は、安心すると同時に驚いた。さらに教授は私を相手に当時の日米関係をめぐって長く話し込んだ。
数日後、教授は私をオフィスに呼び、コロンビア大に残って博士課程に進み、日本語も勉強してはどうかと勧めた。
なぜだか、それが正しい選択である気がして、決断に時間はかからなかった。
博士課程に進んだ後どうするか、この時点で明確な計画はなかった。だが日本について深く知り、日本語も学ぶという考えには胸が躍った。
曲折をたどってきた道が、また大きな曲がり角にさしかかっていた。今回は、その先に生涯続く、長くてまっすぐな道が延びていた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日本研究への道を開いたコロンビア大の恩師、モーリー教授
ジェラルド・カーティス(4) 転校 音楽を諦め学問の道へ 夜はピアノで学費を稼ぐ(私の履歴書)[2024/12/04 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1348文字 PDF有 書誌情報]
天才とは1%のひらめきと99%の努力だ、と発明家のトーマス・エジソンは言った。
だとすれば私がピアノの天才になり得ないのは明らかだった。1%のひらめきに必要な創造性に自信はなかったし、毎日何時間も汗水垂らしてピアノに向かうほどの情熱がないことも、フレドニア校で学び始めてすぐに気付いた。
日本語に興味をもち履修してからは、むしろ漢字の練習に何時間も没頭していた。
そんな時に出会ったのがフレドニア校で歴史を教えていたカリスマ的な教授だった。私には強く影響を受けた教授が何人かいるが、その最初のひとりだ。
私が課題の一環で書いたリポートを読んだ教授は、私をオフィスに呼んだ。そしてプロの音楽家にならないなら、社会科学の教育が充実した大学に移るべきだと勧めた。
君なら最高難度の大学でも十分通用する、とまで言ってくれた。その言葉が、私に決断を迫る一押しとなった。
後に私が自身の教え子を鼓舞しようと努めてきたのは、こうした恩師の好意を払い戻したいとの思いからだ。
ともあれ私はフレドニア校を去ることにした。問題はどこに転校するかだった。
悩んでいる頃、折よくフレドニア校にいる友人を訪ねてきた音楽家と出会った。彼はかつてニューメキシコ州のアルバカーキに住んだ時の話をしてくれた。メキシコ国境に近いその街での生活は、米国にいながら外国で暮らしているようだったと言った。
彼は、私がバーやナイトクラブで難なくピアノ演奏の仕事に就けるとも太鼓判を押した。私は16歳の時からニューヨークの音楽家組合に加入しており、その組合員証が役に立つはずだという。
旅心をくすぐられた私はアルバカーキに移り、ピアノ演奏でお金を稼ぎながら学費の安いニューメキシコ大で学ぶことを決めた。こうして2年間暮らしたフレドニアに別れを告げ、私は西に向かった。
すぐにカクテルラウンジでの仕事も見つかり週4夜、演奏することになった。
ニューメキシコ大には傑出した教授が何人もいた。その一人がコロンビア大の博士号をもち、国際関係を教えていたエドウィン・ホイト教授だ。彼は、いくつか授業を履修した私にコロンビア大の大学院に進むよう勧めた。自らの恩師で、国連研究の権威であり助言役も務めるレランド・グッドリッチ教授に学んだらいい、という。
1962年にニューメキシコ大を卒業した私はウッドロー・ウィルソン財団の奨学金を得て、アドバイス通り政治学の修士号を得るためコロンビア大の大学院に進んだ。
私の初めての学術論文は64年、国際機関を扱う権威ある学術誌「インターナショナル・オーガナイゼーション」に載った。58年にレバノンで起きた政治・宗教対立と国連の役割を論じる内容で、もとは大学院の授業でグッドリッチ教授に提出したものだ。
大学院では、米外交政策に関するゼミへの参加も必須だった。いくつか候補があったが、私は深い考えもなく、時間的に最も都合のいいゼミを選んだ。ゼミの担当教授が誰で、どんな人物なのかなど、見当もつかなかった。
偶然や幸運が、人生の行方を決定づける時がある。私にとって、まさにそんな瞬間が訪れたのは、ジェームス・モーリー教授が教えるゼミに参加した時だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューメキシコ大時代の筆者
ジェラルド・カーティス(3) ブルックリン 野球に熱中した少年時代 大谷活躍でドジャース許す(私の履歴書)[2024/12/03 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1365文字 PDF有 書誌情報]
今日のブルックリンは若者を中心に人気の居住区だが、1950年代は犯罪やいじめ、公立学校の質を心配する家庭に敬遠されていた。
わが家も私が9歳の時に北隣のクイーンズ区に引っ越し、私は58年の高校卒業までそこに住み続けた。
私が通ったファー・ロッカウェイ高校は公立だったが、3人のノーベル賞受賞者を出している。同時に史上最大のネズミ講詐欺で知られる金融家バーナード・マドフの出身校でもある。彼は2年先輩で、妻のルースは同級生だった。
クイーンズとブルックリンには同じくらい暮らしたが、私にとっての故郷は常にブルックリンだ。ブルックリンには下町の情緒がある。初めての東京暮らしで浅草をとても気に入ったのも、2つの全く異なる街に共通の風情を感じたからだ。
ブルックリンの一番の思い出は野球のブルックリン・ドジャースで、シーズンに何度かは、父が私をエベッツ球場に連れて行ってくれた。
今も目をつぶると、メジャーリーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンなど、1950年代初めの名選手の姿が鮮明に浮かび上がる。
私の友達はみな熱烈な野球ファンで、今の子供がポケモンカードを交換するのと同じく、ベースボールカードの交換に熱中した。
だが野球への関心が一気に冷める事件が起きた。57年、ドジャースが地元ブルックリンを裏切りロサンゼルスに移ってしまったのだ。失った関心が最近また復活したのは、大谷翔平選手がドジャースで活躍しているおかげだ。ブルックリンを去ったドジャースを、67年ぶりにやっと許せる気持ちにもなってきた。
私は6歳からピアノも習い始めた。両親がそれを教育の大事な一部と考えたためだ。
最初は友達と遊びたくて練習は最低限だった。だが、やがて楽しくなり、ポップやジャズを進んで弾き始めた。
16歳になると友人らとバンドを組み、ニューヨーク州中部キャッツキル山地の避暑地で演奏する仕事を得た。宿泊無料、演奏料は週35ドルという好条件だった。
50年代はキャッツキルの全盛期で、一帯は赤カブを使ったウクライナのスープにちなんで「ボルシチ・ベルト」と呼ばれた。東欧出身のユダヤ系移民の多くが、ここで夏季休暇を過ごしたためだ。
多くの庶民的なホテルが建ち、その一つホテル・タンズビルが私たちを雇った。高校と大学の4年間、夏はここに住み込んで演奏した。
平日はダンス音楽を奏で、土曜夜はニューヨークから来たゲストらのショーで演奏した。当日の午後に楽譜をもらい、簡単なリハーサルをして午後8時に本番となる。
ボルシチ・ベルトは歌手、コメディアン、演奏家の卵にとって訓練の場で、その多くが、きらびやかな芸能の道を切り開いて行った。
高校卒業が迫ると、大学で音楽を学ぼうと決めた。高い学費は払えなかったので、ニューヨーク州立大学のフレドニア校に願書を出した。
州の西の端、バッファロー近くの小さな町にある大学で、当時は州立大の音楽・演劇学校の一部だった。入学が認められ、1958年9月に現地での生活が始まった。
ここを2年後に去り、プロの音楽家になる道も捨てて、4年後の東京行きへとつながる道を歩み始めようとは、当時は知るよしもなかった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ジャズバンドを組み、夏には避暑地で住み込みで演奏した(右から2人目が著者)
ジェラルド・カーティス(2) 一家の歴史 父、ウクライナ逃れ移民に ロシア侵略で重なった運命(私の履歴書)[2024/12/02 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
私はニューヨーク市のブルックリン区で1940年に生まれた。父はウクライナ生まれの移民1世、母は祖父母が東欧出身の米国生まれだ。
父は21年、祖母に連れられ5人の姉妹とともに米国に来た。その8年前、出稼ぎで米国に渡っていた祖父が、第1次世界大戦とロシア革命のあおりで帰国できなくなり一家を呼び寄せた。
当時、オデッサに近い故郷の村には帝政ロシア軍の残党が流れ込み、襲撃や蛮行を繰り返していた。ユダヤ系の祖父は、不安定な国際情勢の中で一家に危険が及ぶことを危惧してもいた。
何とかウクライナを逃れた父一家の旅路はその後も困難の連続で、ベルギーのアントワープからニューヨーク行きの船に乗るまでに約2年を要した。
2022年にロシアのプーチン大統領がウクライナを侵略するまで、同国と父の関係をそう意識することはなかった。だが多くのウクライナの人々が国外に逃れる様子を見て、100年前の父一家がたどった運命と重なった。
そしてプーチンが当時のロシアの指導者と同じく、ウクライナを帝国の一部とみなしていることを痛感した。
プーチンが理解していなかったのは、ウクライナに強いナショナリズムが育っていたことだ。さらに同国はユダヤ系のゼレンスキー氏を大統領に選ぶまでに、反ユダヤ主義を克服している。
プーチンはウクライナの領土だけでなく、同国の民主主義と近代主義の歩みも否定し抵抗に遭っているのだ。
13歳で初めて米国の土を踏んだ父は、1~2年しか米国で学校に通わなかったが、英語は流ちょうだった。一方、祖父はロシア語、ウクライナ語と東欧のユダヤ人が話すイディッシュ語を話しながら英語は学ばずじまいだった。優しい祖父だったが、言葉の壁のせいで深い会話をした記憶はない。
ただ大学でロシア語を勉強中、腕試しに手紙を書いたことがある。祖父はそれを手にロシア系ユダヤ人が集まる近所の店に出かけ、誇らしげに友人らに孫の手紙を読んで聞かせた、と父親が後に教えてくれた。
父親は電報配達員、雑貨店店員、タクシー運転手などの職に就き、短期間、ブルックリンの東欧系ユダヤ人相手の食品店も経営していた。
職がない時は母親が家計を支え、どんなに苦しくても失業保険を申請することはなかった。政府の世話になるのは物乞いと同じだと固く信じていた。70歳まで働き続け、その5年後に亡くなった。
母方の家族に父方ほどのドラマはない。母親はマンハッタン西岸からハドソン川をはさんだ向かいのニュージャージー州で育った。ポーランド出身の祖父は祖国では靴屋を営み、ハンガリー出身の祖母は郷土料理が得意だった、という程度の知識しかない。
勉強好きの母は弁護士になるのが夢だったが、大恐慌で父親の会社が倒産して大学に行けず、法律事務所で秘書の仕事に就いた。
母はこれを生涯悔やみ、私を弁護士にしたがったが、それが私の夢になることはなかった。
それでも一人っ子の私に、両親は自らが果たせなかった大学進学を強く望んだ。だから私が大学院まで進み、コロンビア大の教授に就いたことをとても喜んだ。
もっとも、私が日本を専門とする学者になろうとは彼らも、私自身も想像できなかった。そこに至るには、まだいくつもの曲折があった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】幼い頃の筆者
ジェラルド・カーティス(1) 曲折の道のり 間近で観察した日本政治 夢にも思わなかった学者の道(私の履歴書)[2024/12/01 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1302文字 PDF有 書誌情報]
若くして将来、何をしたいかわかっている人たちはいる。その人たちは途中で迷いや落胆があっても、人生はおおむね真っすぐの道のりをたどる。
一方、そうでない人も多いはずだ。道に悩み、仕事をしながらも満足感が得られない。仕事に対しての情熱が高まらない。
回想の冒頭からこういうことを書くのは、今回の「私の履歴書」を読んでくれる、特に若い読者にメッセージを届けたいと思うからだ。
将来、何をしたいか分からないのは、少しもおかしなことではない。不確かさ、不安、失敗は成長の通過点だ。大事なのは、情熱の対象を探し続けることだ。それを追求すること自体が、生きることに意味をもたせる。
それに運が良ければ曲がり角をいくつも曲がるうちに、自分に一番合う仕事が見つかるかもしれない。私はまさにそんな幸運な一人だ。
高校時代は一時、プロの音楽家になろうと思っていた。だが、いくら音楽が好きでもプロとして成功するだけの才能は備わっていなかった。
いや、それよりも音楽家になろうという情熱が湧いてこないことを、認めざるを得なかった。
その後、国際政治に興味をもち、大学を卒業して米コロンビア大大学院の政治学部に入ったが、将来どんな道を歩むかは迷っていた。国連で働くか、ジャーナリストか外交官になる考えは浮かんだが、学者、あるいは日本の専門家になるとは、その時が来るまで夢にも思わなかった。
詳しくは追って書くが、ひょんなことから日本語の勉強を始め、ある日、何時間も机に座って夢中で漢字を練習している自分に気づいた。
「これだ」と思ったのは日本と日本語をもっと知りたい、と迷いなく感じたからだ。振り返れば、その時から私は想像すらしなかった道を歩み始めた。日本政治を専門とする学者としての道である。
60年前、私は初めて日本の地を踏み、東京で丸1年、日本語の習得に汗を流した。
当時の日本は高度経済成長のただ中で、政治の舞台でも保守と革新の激しい闘争が繰り広げられていた。これらに東京オリンピックの興奮も加わり、大変エキサイティングな時代だった。
そんな熱気に包まれ、何か日本関係の仕事に就ければ、とは考えていた。だが、まさか47年間もコロンビア大学で日本政治を教え、ニューヨークと東京を行き来し、多くの日本の政治家と知り合うことになるとは思いもよらなかった。
日本について自分が書いたものを日本の方々が読み、評価していただき、日経新聞に私の履歴書まで書くことになる未来など想定外だったのはいうまでもない。
政治学の研究の多くは、制度とその機能に重点が置かれる。だが私の最大の関心は政治に関わる人、つまり政治家と有権者である。
幸いにも私は半世紀以上にわたり、多様な政治的信条を持つ多くの日本の政治家と知り合うことができた。おかげで日本の草の根の民主主義を自身の目で間近で観察する貴重な体験ができた。
どこまでも奥深く、しかも進化し続ける日本で、私が経験したことを、日本の皆様と分かち合う機会を得られたのは、とてもうれしい。しばし思い出話にお付き合いいただければ幸いです。(米コロンビア大学名誉教授)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
辰野勇(29)尽きぬ好奇心 人は居場所探して生きる 「峠の先の景色」を見とどけたい(私の履歴書)終[2024/11/30 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
3年ほど前から自宅に野良猫がすみ着いた。キジトラとキジ白の2匹だ。キジトラは雄で、風来坊の風(ふう)と名付け、キジ白は雌で花と名付けた。今や我が家になくてはならない存在だ。とりわけ家内は文字通りの猫かわいがりで、何事も猫中心の生活である。
奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)跡を譲り受けた自宅の庭にはエノキや紅葉が生えていて、猫たちは木登りしたり、自由気ままに庭中を走り回ったりしている。たまに小鳥やトカゲをつかまえて家に持ち込んで見せに来る以外、平和に我々を癒やしてくれている。
動物写真家の岩合光昭さんのテレビ番組「世界ネコ歩き」に出演したのが我が家の自慢だ。岩合さんとは1990年に始まったオペル冒険大賞の審査員としてご一緒したのを縁に30年以上の付き合いだ。現在モンベルクラブの会報誌の表紙に彼が撮影した野生動物の写真を使わせていただいている。世界の大自然を舞台に危険な動物を撮影するのはある意味、覚悟をもった冒険といえるかもしれない。
すみ着いた我が家の猫たちを観察していると、面白いことに気づかされる。四季折々、その季節で一番居心地の良いところを見つけて、ちゃっかり居座っている。
あるとき、映画監督の木村大作さんから映画に出ないかと誘われた。木村さんは黒澤明監督作品のキャメラマンを務め、自らも監督をして映画を製作している。「劔岳 点の記」は彼の作品だ。
2014年に公開された映画のタイトルは「春を背負って」。松山ケンイチさん、蒼井優さんが主役で、富山県の立山の山小屋を舞台に、主人(小林薫さん)が亡くなった後、都会の大企業で働いていた息子(松山さん)が山に戻って小屋を継ぐ話だ。
私の出番は山小屋を訪れる登山者で、セリフは二言だけだが、笛を吹いて亡き先代を弔う役回りだった。
撮影が順調に終わって木村さんがぽつりとつぶやいた。「人間てえのはな、居場所を探して生きてんだよ」。その言葉が妙に私の心に刺さった。「そうか、そうだよな、考えてみれば、人は誰もが自分の居場所を探して生きている」。それは猫たちを見ていると納得できる。暑いときは日陰に、寒いときは身を寄せ合って生きている。
今回、「私の履歴書」の連載で、普段は先々のことばかり考えて行動してきた私が、改めて自分の歩んできた道を振り返る機会をいただいた。
齢(よわい)77歳、考えてみれば私もまた、「自分の居場所」を探し求めてきた。自然に身を置き、家族に囲まれ、友人に囲まれ、志をともにする仕事の仲間たちとともに事業を進めてきた。
現在モンベルの社長を務める長男の岳史と長女の智代が合計6人の孫を連れて、私の喜寿のお祝いをしてくれた。
2度のがん手術で救われた私の命である。
これから先の人生で、間違いなく今この瞬間が一番若い。無論、年を重ねれば、いや応なく肉体的なパフォーマンスは衰える。しかし一方で積み重ねた経験と、尽きることのない発見がある。それを糧に今も成長し続けている。
来年はモンベルを創業して50周年を迎える。きっと50年前の私が、今の自分を見たら驚くに違いない。
「人はなぜ山に登るのか」。それは「峠の先に見える景色を見とどけたい」という「好奇心」ではあるまいか。
私のそんな思いはこれからも続く。
(モンベル創業者)
=おわり
あすから米コロンビア大学名誉教授 ジェラルド・カーティス氏
【図・写真】自宅で猫を抱いてくつろぐ
ラタン・タタさん(タタ・グループ元会長) 「ナノ」披露に秘めた決意(追想録)[2024/11/29 日本経済新聞 夕刊 2ページ 930文字 PDF有 書誌情報]
腰痛の話で盛り上がったことがある。身長の高い人間は腰痛持ちが多いというが、ラタン氏の場合、一世一代の晴れ舞台で激痛に見舞われた。2008年3月のことだ。
場所はジュネーブのモーターショー会場。10万ルピー(約18万円)という低価格小型車「ナノ」を海外で初めて披露するタイミングで不運にもまったく動けなくなった。
立てない。歩けない……。
体の位置を少しずらすだけで激痛が走る。ビデオメッセージで代用する案も検討したが「皆がプレゼンを待っているので絶対にキャンセルしたくなかった。対面で思いを伝えたかった」とキッパリ。
意を決して痛み止め注射を打ち、医者を同伴し、ストレッチャーに乗って強行軍で移動。両脇から抱えられないとトイレにも行けない状態だったが、本番では「ナノ」の脇に立ち、決死の思いでプレゼンを乗り切ったという。
面白い秘話がある。
会場で待機する間、立っているのがつらくなり、近くの部屋に逃げ込んだ。そこはトヨタ「レクサス」のブース。するとスタッフが近づいてきて新製品を説明し始めた。
「どうやら私の正体に気付かなかったらしい。でも接客があまりに熱心だからレクサスのハイブリッド車を危うく買わされそうになったよ!」
こう振り返りながら、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
身長6フィート(約183センチ)、体重83キロ――。ラタン氏に体格を尋ねると、偶然にも私とまったく同じだった。2014年7月掲載の「私の履歴書」を準備するため、私は日本とインドを1年以上往復しながら密着取材を重ねていた。
毎日、重いバッグを持ち歩き、しかもホテルの冷房が効きすぎて部屋が冷え切っていたことが響いたのだろう。取材中、私も同じようにひどい腰痛に苦しんでいると伝えてみた。
「それは大変だ。よし、私が使っている薬をあげよう。30分で痛みがなくなるよ」
ラタン氏は自分の引き出しを開け、錠剤を幾つか手渡してくれた。パッケージに入った飲みかけの鎮痛剤や胃腸薬……。結局、それらを飲む機会はなく、出張中のお守り代わりで終わったが、今ではラタン氏が残した形見の一つとして大切に保管している。
=10月9日没、86歳
(編集委員 小林明)
【図・写真】ラタン氏からもらった鎮痛剤と胃腸薬
辰野勇(28) 仲間たち 「白髪五人男」大いに遊ぶ カヌーがつないだ縁ひろがる(私の履歴書)[2024/11/29 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1429文字 PDF有 書誌情報]
1973年、平凡社「アニマ」の創刊号が自宅に送られてきた。一輪のオニユリの脇で無邪気に小首をかしげたキタキツネの表紙の写真が印象的だった。後に映画化されたキタキツネ物語の原作者、竹田津実さんの作品である。
1980年、モンベルで新しくファミリー路線の企画を進める中、あのキタキツネの写真を使わせてほしいと考えた私は北海道小清水町の竹田津さんの自宅を訪ねた。閑散とした町並みを地吹雪が吹き抜ける初冬の夕刻、チャイムを押すと竹田津さんが玄関に出てこられ、「まあ上がりなさい」と迎え入れてくれた。
庭のケージの止まり木にはシマフクロウがいた。獣医でもある竹田津さんが傷ついて運び込まれた生き物を治療しているとのことだった。部屋ではエゾモモンガが自由に飛び回っている。その光景を見て私はあっけにとられた。
写真を使わせてもらいたいと言い出せず、夜半になって宿に帰ろうと玄関に向かうと、竹田津さんから「ところで君は何しに来たの?」と声をかけられた。「実は……あの写真を使わせてもらえませんか」と思い切って伝えると、「なんだそんなこと、早く言えばいいのに」とアルバムを手渡してくれた。
モンベルを創業して5年目、まったく知名度のなかった我々を信頼し、快く受け入れてくださったことに感謝した。以来、モンベル小清水店や東川店の出店など、そのご縁は今に至るまで続いている。
作家でカヌーイストの故野田知佑さんとは、80年代に岐阜県の郡上八幡で開かれた長良川河口堰(ぜき)建設反対のシンポジウムの交流会で出会った。彼はビールを片手に、私の横にどっかと腰を下ろした。名刺を差し出し、「野田です」と挨拶された。
ヘルメットを被らず、折り畳みカヌーに荷物を積み込んで川を旅する彼を批判するカヤッカーもいた。ヘルメットを被って激流を下る私が、そんな批判派の親玉と考えていたらしい。岩だらけの激流を下るのならヘルメットの着用は勧めるが、それほどでもない流れでヘルメットを被るか被らないかは本人が決めればいい。ほんの5分、10分話しただけで意気投合した。
以来、様々な川を一緒に下った。四万十川や千曲川、さらにカナダのユーコン川など、今は懐かしい思い出だ。
カヌーイストの立場で、日本の川の環境を守りたいという思いを共有する、多くの仲間たちとの出会いがあった。C・W・ニコルさんや椎名誠さんとは、そんな価値観でつながった。
ある時、出版記念パーティーの2次会で、野田知佑、夢枕獏、藤門弘、佐藤秀明、そして私の5人が集まった。誰言うともなく「白髪五人男」を結成することになった。野田知佑と夢枕獏は作家、佐藤秀明はプロカメラマン、藤門弘はシェーカー家具を作る木工作家だ。
5人は「親父(おやじ)たちの休日」と称して度々集まった。全員が集まることは難しかったが四万十川の岩間の沈下橋の上で、歌舞伎役者を気取って見えを切った思い出は懐かしい。インドネシアのバリ島やネパール、シルクロード、新疆ウイグル、ゴビ砂漠。どの旅も、仕事にはせず、完全にプライベートの付き合いだ。
一緒にいて心地よいのは互いの距離感だ。必要な時は声を掛け合って集まるが、互いに過度の干渉は望まない。
腕白(わんぱく)な兄弟をまとめる長男格の野田さんは2022年に亡くなってしまったが、「白髪四人男」になった「親父たちの休日」はこれからも続く。
(モンベル創業者)
【図・写真】5人は毎年集まっていた(右端が筆者、高知・四万十川)
辰野勇(27) 野遊び 山で横笛・野点・俳句 世界を旅し「和の心」思う(私の履歴書)[2024/11/28 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1481文字 PDF有 書誌情報]
1996年、テレビ朝日「ニュースステーション」のディレクター、大谷映芳さんからチベットに行かないかと誘いを受けた。彼は早稲田大学山岳部出身で、世界第2の高峰、K2西稜(せいりょう)ルートの日本人初登頂者でもある。予定日をあけて待機していると「明日、出発するかもしれないから東京に来ておいてください」と連絡があった。急いで東京へ行き、指定されたホテルで迎えを待っていると、局のワゴン車が到着した。
中には番組の案内役、渡辺貞夫さんがいた。ジャズ界の大御所との対面に私は少なからず緊張したが、彼の気さくな人柄にすぐに打ち解けた。
我々はラサへの空路の玄関である中国・成都に飛んだ。チベットにカメラを持ち込んでテレビ取材することに中国政府は神経をとがらせて、なかなか許可が下りなかった。足止めをくっている間、貞夫さんと2人で街を散策した。
楽器屋を見つけて上海横笛を買い求めた。貞夫さんが教えてくれるという。こんな贅沢(ぜいたく)はない。すっかり横笛にはまってしまった。以来、どこに行くにも笛を持ち歩くようになった。山はもちろん川下りにも持参して笛を吹く。その音色には日本人の心の芯に共鳴する懐かしさがあった。
私の生まれた堺市は千利休が茶の湯を広めた地だ。茶道には茶籠という携帯型の茶道具がある。旅のつれづれに茶を楽しむ趣向である。私も登山に茶籠を持参して、野点を楽しんでいた。
陶器の茶わんは味わいがあるが、多少重いし、割れる心配もある。そこで私は、山でも気軽に楽しめる「アウトドア野点セット」を考案した。2001年のことである。
発売後しばらくして、裏千家の、現家元の弟、伊住政和宗匠から「会いたい」との連絡があった。てっきり苦言を呈されるのかと思ったら、モンベル本社を訪れた伊住さんから「面白いことを始められましたね。一緒に活動しませんか」と提案された。
その上、日本の伝統文化・産業の魅力を広める事業への協力を求められた。残念なことに2年後、44歳で伊住さんは急逝された。私はその遺志を受け継いで設立されたNPO法人「和の学校」の理事に推挙され、活動している。
この9月、5年ぶりにスイスアルプスのハイキングに出かけた。アイガー北壁を見上げる草原で一服。更にマッターホルンを掛け軸に見立て、湖畔に毛氈(もうせん)を敷いて野点を楽しんだ。正客はツェルマット村の女性村長ロミーさんだ。最近は海外でも抹茶の愛好者が増えている。野点のあとは笛を吹き、興がのれば、「野筆」を取り出して俳句など一句ひねってみる。
「野筆」は東京・浅草の書道具専門店「宝研堂」の4代目で製硯師(せいけんし)の青柳貴史さんの協力を得てモンベルが作った製品だ。その昔、芭蕉も携えた筆と墨ツボを組み合わせた「矢立」の現代版とでも言おうか、硯(すずり)石と筆、墨をケースに収納したコンパクトなセットである。
硯石に使った玄昌石の産地、宮城県石巻市雄勝町(おがつちょう)は東日本大震災で被災して大打撃を被った。復興の一助になれば幸いと考えた。筆の選定は青柳さんのお母さんにお願いした。そして、墨は私が住む奈良の油煙墨を使うことにした。山の沢水をスポイトで吸い上げ、一滴硯石に垂らして、10回程度墨を磨(す)れば十分だ。俳句でも、墨絵でも、山の思い出を描きとめられる。私は普段、どこに行くときも野筆を持ち歩いて楽しんでいる。
日本には古来「野遊び」の文化がある。世界を旅すればするほど、「和の心」への思いは募る。
(モンベル創業者)
【図・写真】マッターホルンを望む場所でロミーさん(右)と野点(9月)
辰野勇(26) 大学で教える 「憧れる生き方見つけて」 歩みを伝え学生の将来応援(私の履歴書)[2024/11/27 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1466文字 PDF有 書誌情報]
大学に行かなかった私が初めて大学の門をくぐったのは40代のことだった。京都教育大学から非常勤講師の依頼があり、カヌーや登山を教えた。剣岳の登山や四国吉野川の激流下りを共にした教え子の但馬裕子さんは、人生が変わったと感動してくれた。
そんな彼女が数年後、がんで余命宣告を受け、最後に私に会いたいと言っているとの伝言を受けた。その直前、庭仕事の最中、背骨の横突起を骨折した私は、医者から安静にするよう指示され、米国出張を取りやめて自宅にいた。彼女の思いが私の出張をとどまらせたのかもしれない。
私は患部をコルセットで固定し、車を運転して三重県名張市の病院に向かった。病床の彼女は満面の笑みを浮かべ喜んでくれた。「1週間後、三重県で講演を頼まれているからまた来るよ」というと、「ストレッチャーに乗せてもらってでも聞きに行きたい」と言ってくれた。しかし、それを待たず彼女は逝ってしまった。彼女の短い生涯の一番輝いた瞬間を共有したのだという思いがこみ上げた。
その後、多くの私立大学からの依頼で講演を引き受けた。初めて客員教授を拝命したのは、びわこ成蹊スポーツ大学で、筑波大学から移籍した、当時の飯田稔学長(故人)からの依頼だった。彼は「野外教育」という分野を確立した第一人者だ。私は、自分の経験や、その過程で得た様々な知見を学生たちと共有した。
客員教授の職は数年前に終えたが、モンベルのアウトドアチャレンジ事業を通じて今も引き続き関わっている。
大学だけではなく、大型客船の飛鳥2やピースボートにも依頼に応じて乗船し、講演した。2012年のピースボートではキューバから大西洋を横断して西アフリカのセネガルまで乗船した。キューバではフィデル・カストロ氏の力強い講演を拝聴して、歴史の一場面に遭遇した思いがした。その後、大西洋の洋上で同船の同じ聴衆に16回、毎回異なるテーマで講演した。
語ることで自らの思いを整理することができる。語る側も聞く側も、同じ時間を共有する一期一会の出会いである。私の住む奈良県の天理大学でも14年に客員教授を拝命し、講義のほかに立山連峰での登山合宿やカヤック実習など、実技の授業を続けている。
近年は京都大学の特任教授を拝命して学部を越えた学生たちに講義する。京都大はマナスル(8163メートル)など、未踏峰の初登頂や極地の学術探検のパイオニアを輩出した憧れの大学だった。高校時代、学業を怠けた私には京都大への入学など夢のまた夢だった。その大学のキャンパスで教鞭(きょうべん)をとるとは、つくづく人生の巡り合わせの不思議に驚かされる。
京都大で講義を終えた後、1人の女子学生が私に質問してきた。「私は2浪でようやく入学することができましたが、今は自分がやりたいことが見つかりません」という。大学には行かず好きな道をひたすら歩んできた私は、「どうしたら好きなことが見つかるか」という彼女の質問への答えを持ち合わせていなかった。
きっと彼女は大学に入ることを唯一最大の目標にして頑張ってきたに違いない。「本を読みなさい。たくさんの人と出会って憧れる生き方を見つけなさい」。それが私の彼女への応援の言葉だった。私がそうであったように一冊の本との出会いが、彼女の人生を決定づけるかもしれない。
喜寿を迎えた今年、北海道大学の客員教授も拝命することになった。私の生きざまに触れることが若い学生たちの将来への一助になれば幸いだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】天理大の学生とカヤックの野外実習(2024年9月、奈良・吉野川)
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(下) 修羅場くぐって脱「孤高」(私の課長時代)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1283文字 PDF有 書誌情報]
2000年に事務派遣を手掛ける神奈川県の営業部の責任者に異動する辞令がでました。売り上げ目標で未達が続く部署です。「出世コースから外された」。00年ごろには役員になることを目指していた私はそう受け止めました。
■不本意な異動も「やるからには勝ち組に」
辞令に納得ができない私に篠原欣子社長(現パーソルホールディングス名誉会長)は「(今の部署から)誰も連れて行かず、異動先の状況を変えられたら絶対にいい経験になる。修羅場をくぐるだけ人は成長する」と言うのです。
相応の修羅場はこれまでも経験してきましたし、「今さらそんなことを言われなくても分かっている」と正直思いました。3時間近く話し合い、最終的に異動を受け入れました。
やるからには「部署を『勝ち組』にしたい」という思いが強くありました。着任後はまず部署共通の目標を決めようとキックオフミーティングを招集しました。モチベーションがばらばらだった現場からは「目標を掲げる意味はあるのか」「会議に2時間も使うな」という不満が出ました。
■担当エリア総力を挙げて案件獲得
目標を打ち出すのに深夜0時まで議論する日もありました。毎週、県内計7拠点を全て回り、部下の営業に同行したり総勢70人と1対1の面談をしたり、現状の課題や部下の思いを知ることに努めました。モチベーションの向上に励み、当初の不満は徐々に減っていきました。
そうした中、ある通信系の会社から業務の一部を一括受託するビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)案件を受注する機会が訪れました。当時は会社に経験もノウハウもなく、神奈川エリアで総力を挙げて案件獲得に臨むことになりました。
「本当にできるのか」というネガティブな声もありましたが、「やらない選択肢はない」とあるマネジャー。「強い組織をつくれた」と実感しました。プレゼン内容が評価されて案件を受注でき、数期ぶりに目標を達成できました。
■未経験へのチャレンジが人を育てる
「和田さんは孤高のリーダーだ。後ろを振り向いたら誰もいませんよ」。異動を受け入れる前、そう同僚から指摘されていました。いま思えば、当時の私は全て自分一人でやろうとする傲慢な面がありました。
部署全員が一丸となって目標を達成する経験を経て、そうした部分を自分なりに改善できたと思います。もしかしたら篠原社長(当時)の言っていた「修羅場」とは、こうした経験だったのかもしれません。
会社員人生では不本意な異動もあるでしょう。私は社員に「その経験はきっと役に立つ」と体験談を交えて助言しています。それまでとは違った視点を持つためにも必要ですし、経験のないことにチャレンジすればするだけ人は育つのだと信じています。
〈あのころ〉 規制緩和の影響で派遣労働者の活用の場が広がった。派遣社員に加え契約社員も積極活用する企業が増え、雇用形態も多様化。2000年には派遣を経由し正規採用する紹介予定派遣が解禁。人材派遣各社は転職支援の人材紹介事業への進出や拡大を急いだ。
【図・写真】社内の催しに参加する和田社長(右奥、1990年代)
辰野勇(25) 経営哲学 「世界一幸せな会社」目指す 将来見据えた困難な決断こそ(私の履歴書)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1425文字 PDF有 書誌情報]
「登山」と「経営」には共通点がある。登山家は勇敢で命知らずと思われるかもしれないが、実は怖がりで、先々のことを心配して準備する。リスクマネジメントという意味では経営も同様だ。
これまで様々な決断をしてきた。日々の経営判断で「決裁」を下すのは、囲碁や将棋でいう「定石」で手を進めるようなもので、おおむね成功の確率の高い選択をする。
これに対して「決断」は、将来を見据えて、今、あえて困難な道を選ぶことだと私は思う。たとえ目先の成功確率が高くても、将来の存続が危ぶまれる道は選ばず、リスクを覚悟して決断してきた。この判断も私は登山や冒険で鍛えられてきたように思う。
私が敬愛したビジネスマンの1人に故槙英男さんがいる。彼は愛媛県松山市に生まれ、夜間中学を卒業した後、東レの愛媛工場に勤め、会社の募集に応募してアメリカ留学を果した。そして血のにじむ努力の末、首席で卒業した。
私がお会いしたのは彼が米国デュポン社の極東担当の事業部長に就かれていた時だった。折にふれ私に経営についてご教示くださった。
印象に残るのは3人のレンガ積み職人の話である。1人目に「何をしているのですか」と尋ねると「ご覧のようにレンガを積んでいます」と答えた。2人目は「レンガを積んで壁を造っています」と答えた。そして3人目は「レンガを積んで大聖堂を造っています。子供が大きくなったとき、お父さんがこの教会のレンガを積んだと伝えることを楽しみに毎日レンガを積んでいます」と答えたという。
1人目の職人はただただレンガを積めと言われて積んでいるが、3人目の職人は積んだレンガが何になるか、完成の先を思い描きながらレンガを積んでいる。
これら3人のレンガ積みの人生の質は、まるで違う。リーダーにとって一番大切な使命は、携わる仕事の目的やその意味を部下に語り続けることだと槙さんに教えられた。
ある時、四国の高松市のアウトドアショップの経営者から「モンベルも大きくなりましたね。これから先、どんな会社にされたいですか」と尋ねられた。シンプルな質問だが、一言で答えるのは難しい。こんなとき私は「あなたはどうですか」と相手に同じ質問を返してみる。
そうすれば相手がどんな答えを期待しているかおおむね理解できる。すると彼は「四国で一番のアウトドアショップを目指しています」と答えた。私はとっさに「世界一の会社にしたい」と答えた。
しかし、2人の会話の中では「何について一番なのか」は定義されていない。彼が言う「四国で一番」とは、四国で一番の規模や売り上げを意味していると私はくみ取った。ちょっと恥ずかしいが、私は「世界で一番幸せな会社」を目指したいと告げた。
頑張って、たとえ大きな会社になったとしても、その座を維持するために頑張り続けなければならない。それは私の望むところではない。「世界で一番の幸せ」は、自分がそう思えれば、この瞬間になれる。そして、考え一つでそうあり続けることができる。
無論、企業を存続するための努力はしなければならない。他者に勝つ必要はないが、会社を潰すわけにはいかないからだ。それは、登山で遭難しないための準備と努力をするのと同じかもしれない。
たとえ頂上に登ることができなくても、行為そのものが意味をもつ。好きを仕事にすることを望んだ私は、それを生業にできていること自体で目的は満たされている。
(モンベル創業者)
【図・写真】30年先を見越して経営計画を作っていた
辰野勇(24) 「岳人」 休刊予定の登山誌を継承 「山と人」「自然と文学」追求(私の履歴書)[2024/11/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
2014年1月、中日新聞東京本社の事業局長がモンベル本社に来訪された。そして山岳雑誌「岳人」を8月で休刊するとの説明を受けた。
「岳人」は「山と渓谷」とともに登山界をけん引してきた媒体だ。この雑誌は、私が生まれた1947年、京都大学山岳部の有志によって創刊され、49年に中日新聞が引き継ぎ、長年発行されて来た。
初心者から中級者の幅広い登山者層を対象にした「山と渓谷」に対して、「岳人」は上級もしくは先鋭的な登山情報を扱ってきた。私自身、日本アルプスの穂高岳や剱岳の岩壁に新しいルートを開拓するたびに「記録速報」のコーナーに投稿してきた。
「岳人」で紹介されることが登山家としてのステータスであり憧れでもあった。年を経て、未踏の岩壁も登りつくされ、先鋭的な登山から「山ガール」や「シニア登山」に象徴される健康志向の一般登山へ社会の関心が移行する中で、「岳人」の立ち位置が混迷していたように思える。そんな中での休刊の決断だった。
私にとって「岳人」の休刊はいわば卒業した小学校が廃校になるような、そんな寂しさがあった。私は、局長の説明をお聞きして、少し考えた後、「うちで引き継がせてもらえますか」と尋ねてみた。
確たる自信も裏付けもなかったが、今のモンベルなら「何とかなる」。そんな曖昧な直感でしかなかったが、この老舗の看板を引き継がせてもらえるなら、それは光栄なことだ。その後中日新聞の経営陣もこれを了承してくださり、引き継ぎが決定した。
中日新聞から1人、服部文祥が移籍することになった。彼はK2の登頂者でありサバイバル登山の分野で知られる登山家でもある。その他の編集メンバーを社の内外から募った。合計5人の編集体制を整え、私は編集長として雑誌の方向性を示すことにした。
当初は季刊誌として年4冊、あるいは隔月で年6冊が無難では、の意見もあったが、私はあくまで月刊、年12冊にこだわった。失速させたくないという思いがあった。
14年9月号を新生「岳人1号」として刊行を始めた。意気込みはよかったが、月々追われる月刊雑誌の編集は想像以上に大変だった。その大変さも、「好き」だからこそできる苦労には違いない。
もう一つの問題は、モンベルが発刊する雑誌には登山やアウトドアの競合他社の広告がもらえないということだ。雑誌出版事業の採算は広告収入が大きく影響するが、それをあてにできないのは大きな負担になる。
更に売れ残った雑誌の返本も問題だ。古紙として再生するとはいえ資源の無駄で、費用負担も少なくない。刷り部数の無駄をなくすため、書店での販売以外にも、モンベルの全国150店舗と年間定期購読に注力することにした。
118万人の会員がいるモンベルクラブの山岳部という位置づけであれば読者の顔も見えるし、我々が伝えたい思いも共有できると考えた。
山を登る行為には精神性があり、物語がある。役立つ登山情報とともに山や自然を愛する人たちの感性に訴える企画を1冊に込められるのも雑誌ならではである。「岳人」のテーマは「山と人」「自然と文学」とすることにした。
2024年11月号の特集は安全登山への思いを込めて「山岳遭難に備える」をテーマにした。そして今月発売の12月号のテーマは「なぜ山に登るのか」である。「そこに山があるから」と答えたジョージ・マロリーのあの名言の解釈を、私は生物学者の福岡伸一さんとの対談で語り合った。
(モンベル創業者)
【図・写真】編集打ち合わせ中の筆者(右)(大阪市西区)
辰野勇(23) 災害多発列島 東日本大震災で物資支援 津波対策のPFDを開発・提供(私の履歴書)[2024/11/24 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1432文字 PDF有 書誌情報]
2011年3月、東日本大震災が発生した。仙台市内のモンベルの3店舗も津波や揺れで大きな被害を受けたが、幸い従業員は無事だった。阪神大震災以来の大災害だ。私はアウトドア義援隊の活動開始を即決した。
翌日、まず社員2人を現地に派遣して情報収集にあたらせた。その翌日、私も単身ハイブリッド車で東北に向かった。現地でのガソリン入手が困難と予測したからだ。長期支援を覚悟して、まず支援基地を探すことにした。
最初にモンベル仙台店を考えたが、規模が小さいうえ市街地にあり基地にしづらかった。福島原発から100キロメートル以内にあることも懸念材料だった。放射能の影響が怖かった。蔵王山で隔てられた山形県側なら多少なりとも安全だろうと素人なりに考えた。
山形市役所の紹介で天童市にあるミツミ電機の使われていない建物をお借りすることになった。支援物資の集積にも十分な規模で、全国から集まるボランティアたちも持参したテントを建物の中に張って寝泊まりできる。
被災地支援は戦場のようにロジスティック(後方支援)体制の確保から始まる。これは登山で私が身に付けた知恵かもしれない。まず自分たちの安全を確保してはじめて他人を支援することができる。
全国から送られてきた物資を仕分けたうえで車に積んで被災地にとどける。天童からは国道48号線で峠を越えて宮城県側に向かう。早朝から出かけて夜遅く基地に戻る。
被災地の惨状の中で支援物資を届けた被災者から笑顔でかけられる「ありがとう」の言葉にボランティアは救われた。その1人が災害規模の大きさに対して、自分たちにできる支援の限界に焦りを感じていた。彼に私は「1人が1人の支援ができれば、それでいい。100人いれば100人の被災者を支援できる。自分たちにできることをやればいい」と声をかけた。
発生から3カ月の間に配布した支援物資はおよそ300トン、実に2トントラック150台分に相当する。
震災では宮城県石巻市立大川小学校の多くの児童が津波の犠牲になった。「ライフジャケット(PFD)を着用していれば救えたかもしれない」と考えた私は、普段はクッションとして身近に置き、いざという時はカバーを外して着用できるPFDを開発、「浮くっしょん」と名付けた。
今後起こるに違いない南海トラフ地震の津波への備えにしてほしいと考え、対象地域の知事や市町村長を訪ねた。採用するか否かは自治体が決めることだが、津波の備えとしてPFDが有効だと気づいた限り、それを首長にお伝えするのが私の責務だと考えた。
津波から時がたち、人々の危機管理意識も近年は薄らいできたように思えた。私は、高知県黒潮町や四万十市、和歌山県串本町など津波が懸念される自治体に「浮くっしょん」を寄贈することにした。まさにその矢先、日向灘沖で地震が起き、初の南海トラフ地震臨時情報が発表された。来たるべき時に怠りなく対処する準備の必要性を痛感した。
熊本地震や岡山の豪雨災害、長野では千曲川の氾濫、そして更に今年1月発生した能登半島地震、さらに追い打ちをかける豪雨災害など、近年多発する自然災害の都度、微力ながら、アウトドア義援隊の活動を継続している。
災害多発列島と化した日本で、アウトドア活動の知見を生かしたノウハウと経験を、災害時の復興支援のみならず、災害発生以前からの備えにお役立ていただきたいと願う。(モンベル創業者)
【図・写真】東日本大震災の被災家屋で泥出しを手伝った(宮城県石巻市)
辰野勇(22) 地域を元気に 人口少ない市町村に出店 アウトドア活動の拠点に(私の履歴書)[2024/11/23 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
若き日、足しげく通った大山(だいせん)は鳥取県の西部に位置する。あるとき、登山口にある、使われていない大山町の施設に出店しないかと当時の森田増範町長から打診された。その頃、広島や岡山を含めて中国地方には直営店が全くなかった。標高750メートル、冬は日本海からの季節風を受け大雪に閉ざされる立地で、採算は見込めなかったが、私の大山登山のベースのつもりで、2008年、店舗を設けた。
かつて大山寺参道やスキー客でにぎわった街並みもシャッターが下りて活気を失っていた。「出店してくれて景色が変わった」と近隣の店舗の主人に喜んでいただいた。
その後、北海道では大雪山の麓にある人口7800人の東川町、同5000人のオホーツクの小清水町、更に2300人の南富良野町には北海道最大の直営店を出店した。
東北では、秋田県美郷町、にかほ市、山梨県は富士吉田市、長野県飯山市、佐久穂町、福井県大野市、広島県坂町、高知県本山町、熊本県南阿蘇村など、アウトドアフィールドに隣接した自治体から要請を受けて出店してきた。
多くの店舗にはビジターセンターを併設し、アウトドア活動の拠点作りを目指している。この取り組みを進めていく中で少子高齢化など地域が抱える様々な問題を知った。そして、アウトドアがそれらの問題に対応するキーワードになる手ごたえを感じた。
私は、これまでかかわった取り組みを通じて、アウトドアが果たす社会的な役割をまとめてみた。「モンベル7つのミッション」である。
(1)自然環境保全意識の向上
(2)子供たちの生きる力を育む
(3)健康寿命の増進
(4)自然災害への対応力
(5)エコツーリズムを通じた地域経済活性
(6)1次産業(農林水産業)への支援
(7)高齢者・障害者のバリアフリー実現
これらのミッションの実現をテーマに現在、13の府県と市町村、大学、民間企業など156の団体・組織と包括連携協定を結んでいる。人口減少が加速する中、地域と118万人のモンベルクラブ会員をつないで、交流人口として、地域の活性化を図るお手伝いができる。
フレンドショップや06年に始まったフレンドエリアに登録いただいた店舗や施設からはモンベルクラブ会員への割引やサービスの提供を頂いている。地方の恵まれた自然環境はアウトドアを愛好する会員にとっての活動の場だ。
09年に始めた「SEA TO SUMMIT」は、海、里、山の恵みに感謝するイベントだ。開催エリアで環境シンポジウムを開いた翌日、海や川をカヌーで漕(こ)ぎ、登山口まで自転車で漕ぎあがり、徒歩で頂上を目指す。「皆生・大山」の大会を皮切りに今年も9カ所で開催した。
その素晴らしいフィールドを年間通して親しんでもらう取り組みが「ジャパンエコトラック」だ。カヌーや自転車、ウオーキングなど人力で旅するルートを全国に設定して、地方を訪れる利用者を喚起する取り組みである。
協議会の代表理事は東京大名誉教授の養老孟司さんにお願いした。現在35地域が登録されている。アプリケーションの位置情報を利用するとお薦めスポットが紹介され、楽しんでいただける。
コンテンツは日本語以外に英語や中国語などインバウンドへの対応も進めている。出店の計画は現在秋田県北秋田市、福島県三春町、只見町、茨城県大子町、岡山県矢掛町、鏡野町で具体化し、更に北海道留萌市や芽室町などとも取り組みが進行している。
(モンベル創業者)
【図・写真】大山の麓に設けた直営店(鳥取県大山町)
辰野勇(21) 障害者とともに 日本初のカヌー教室開催 可能性への挑戦を応援(私の履歴書)[2024/11/22 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1445文字 PDF有 書誌情報]
奈良市の社会福祉法人「青葉仁(あおはに)会」の榊原典俊さんは、アウトドアを愛好する教育者で、障害を持った人を入所で支援する施設を運営している。就労支援の一環でモンベルの商品を扱ってもらっており、そのご縁で、私は同会の理事を拝命したこともある。
同会の懇親会で、ポリオの障害のある青年が私にビールをつぎながら「カヌーを教えてください」と話しかけてきた。以前、京都府笠置町の木津川を楽しそうに漕(こ)ぎ回っているカヌーを見て、自分でもやってみたいと思ったらしい。
まひで歩行も困難な彼がカヌーを漕げるだろうか。一瞬戸惑ったが、考えてみれば、下半身が不自由でも、手が使えればパドル操作はできるかもしれない。私はその可能性を見極めてみたいと考えた。
早速榊原さんと相談して障害者カヌー教室を開催することにした。それは社会貢献などという高尚な動機ではなく、彼らの可能性を見極めたいという個人的な好奇心から始まった。
1991年、奈良県五條市を流れる吉野川で日本初の障害者カヌー教室「パラマウント・チャレンジ・カヌー」を開催した。河原には15人の障害者とボランティアのスタッフ100人が集まった。体を艇にフィットさせるためにスポンジの詰め物を用意するなど、障害の部位に応じて工夫をこらした。パドル操作の基本を教えた後、彼らの乗った艇を水面に送り出した。
しばらくすると参加者の1人、吉田義朗が叫んだ。「俺、障害者やったん忘れてた!」。彼は18歳の時、事故で脊椎を損傷した。中途障害で歩けなくなった人は、歩けていた頃の夢を見る。そして朝、目を覚まして、歩けない現実にがくぜんとするという。
水の上で自由にカヌーを漕ぎまわっているとき、夢に見たあの光景のように、つい自分が障害を持っていることを忘れていたというのだ。これこそ障害を持った人たちに新たな可能性を開くスポーツだと私は確信した。
ただ、「パドルは腕だけではなく体全体を使って漕ぎなさい」と吉田に教えても、車いすで鍛えた腕力が邪魔をして正しいパドル操作ができなかった。そんなある日、室内プールで開いたカヌー教室にサリドマイド胎芽症の少年が参加した。この少年は四肢の末梢が欠損する先天異常で上腕が10センチほどしかなかった。
さすがに無理かと思ったが、「パドルを顎に挟んでください」という。すると、短い腕を使って器用にパドルを操作しながら艇を漕ぎ始めた。30分ほどで左右のターンもできるようになった。
それを見た吉田が再び声を上げた。「そうか、体で漕ぐとはこういうことか」。腕のない少年は体を使って漕ぐしかない。立派な腕を持った大人が腕のない少年に漕ぎ方を教えられたのだ。障害を持たない私たちが、与えられた、あるいは残された機能のどれだけを使い切っているのか、改めて自分に問い返した。
吉田はその後モンベルに入社し、直営店の店長を務め、日本障害者カヌー協会を設立して、初代の会長になった。「障害者にカヌーをさせても大丈夫ですか? けがでもさせたら大変」と忠告する人もいた。しかし私は、彼らの可能性への挑戦を応援したい。
16年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックのカヌースプリント競技で、瀬立(せりゅう)モニカさんが8位の成績を収めた。更に、東京では7位、今年開催されたパリでは6位と、成績を伸ばしている。それは他者との競争というよりも、自分自身との闘いのように私には思える。
(モンベル創業者)
【図・写真】障害者のカヌー教室で教える筆者(右)
辰野勇(20) 阪神大震災 アウトドア義援隊を結成 倉庫の全寝袋とテント提供(私の履歴書)[2024/11/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1436文字 PDF有 書誌情報]
1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が発生した。堺市の自宅で経験したことのない強い揺れで目を覚ました。立ち上がることができず、家具が倒れてくるのを足で支えようと身構えた。幸い、家屋に大きな被害はなかった。
テレビをつけると、緊急速報が流れていた。当初は「2名が亡くなった」との報道だったが、画面に映るヘリコプターからの映像にはあちこちから煙が上がる様子が映し出されていた。時がたつにつれて犠牲者の数は増えた。
そんな時、神戸市に住む商社時代の上司の麻植(おえ)正弘さんから電話があった。家の屋根が壊れたのでブルーシートがほしいという。その時点では、まだ電話が通じていた。ピックアップトラックに息子らを乗せ、ブルーシートや水を調達して現地に向かった。
武庫川の橋を渡ったとたん、街並みが一変した。倒壊した家屋からはガスの匂いが充満して、まるで爆撃を受けた戦場の風景だった。幸い麻植さんは無事で、家の全壊は免れていたが屋根の瓦はずり落ちていた。更に、神奈川の友人からも電話が入り、魚崎のアパートに住む両親と連絡がつかないから確認してほしいと頼まれた。引き続き彼の実家に移動した。到着した時は、すでに夜になっていた。暗闇の中にたたずむ人がいた。友人の父で、アパートの2階にいて難を免れた。
しかし、お母さんの部屋があった1階は押し潰されていた。何度も呼びかけたが応答がない。がれきの間に手を入れて探ってみると寝袋とおぼしき感触にふれた。お父さんに聞けば日頃からモンベルの寝袋で寝ていたという。膨大ながれきを手作業で取り除くのは不可能だった。翌日、消防の協力を得て、お母さんを搬出することができたが、すでに亡くなっていた。
ご遺体を収容する場所を探したが、どこもいっぱいで、ようやく診療所の建物を開放した仮の安置所にお連れした。室内には、布切れ一枚かけられていない多くの遺体が並べられていた。私は、一旦車に戻って仮眠をとろうとしたが眠れなかった。
許容を超えた現実を目にして、悲しいという感覚はまひしていた。なぜか涙がとめどなく流れた。せめてご遺体を寝袋に入れて差し上げようと思いついた。しかし、家を失った人たちが路上でがれきを燃やして寒さをしのいでいる姿を見て、寝袋は「生き残った方々に使ってもらおう」と考えを変えた。
会社の業務を一旦停止し、支援に専念することを決断した。早速、倉庫にあったすべての寝袋2000個と500張のテントを被災地に運び込んだ。しかし、我々にできる支援には限界がある。私は、支援活動を「アウトドア義援隊」と名付けて、知人や企業に被災地支援を呼びかける文書をファクスで送信した。
「人=ボランティア、物=義援物資、金=義援金」のいずれかを協力してほしいと訴えた。すぐに全国各地から協力を申し出る返信があった。インターネットのない時代、素早い反応に私は感銘した。そこには、日本人が祖先から培ってきた共助の精神がある。同時に、登山を実践するなかで身に付けた危機管理が有事の対応力を発揮し、テントや寝袋などのアウトドア用具が役立つことを実感した。
その後、新潟県中越地震など頻繁に起こる災害に対してアウトドア義援隊の活動が引き継がれていった。
そして、2011年3月、日本列島を揺るがす「東日本大震災」が発生した。モンベルはアウトドア義援隊の活動を通じて被災地の支援に専念することになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】被災者に使ってもらった(神戸市灘区)
辰野勇(19) モンベルクラブ 会員100万人の予言実現 モノからコトへ一貫サービス(私の履歴書)[2024/11/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
「自分たちの欲しいものを作りたい」。そんな思いで創業したモンベルは登山やカヌーに必要な道具や衣料を開発してきた。そして、「こんなものが欲しかった」と共感してくださるお客さまに支えられてきた。私にとってお客さまは同じ価値観を共有する同志のような存在だ。そして、自然を愛し生きる喜びを共感する仲間だとも考えている。
私が所属した社会人山岳会「大阪あなほり会」ではガリ版で刷り上げた手作りの会報誌を発行していた。会員の山行記録や登山情報を共有することで互いの連帯が強まった。モンベルでも同様に、お客さまとの情報交換や価値観の共有をはかりたいと考え、1986年「モンベルクラブ」を立ち上げた。そして、その運営資金として年間1500円の会費をお預かりすることにした。当初はカタログ送付以外に何の特典やサービスもなかった。それでも一人また一人と入会者が加わった。
私は山岳会と同様に会報誌の必要性を感じていた。しかし人手がなくて実現には時間を要した。そしてようやく会報「OUTWARD」の発刊にいたった。「外に出かけよう」の意味を込めて私が命名した。創刊号には山岳雑誌「山と渓谷」の編集長と私の対談や、山や川の情報、道具の手入れ方法など、読者に身近な話題を掲載した。
山小屋やペンションオーナーに「モンベルフレンドショップ」として会員に宿泊割引や飲み物のサービスなどをしてもらえるようにお願いした。その後、この取り組みはキャンプ場や温浴施設、飲食店などに拡大した。更に村や町、島など地域ぐるみで複数の施設を一括して登録するフレンドエリアに参加する自治体も増え、現在2300を超える店舗や施設が参加している。
事業も、製品の販売だけでなく、旅行業の認可を得て、会員を山や川にご案内する「MOC=モンベル・アウトドア・チャレンジ」のイベント業も始めた。まさに「モノ」から「コト」の提供まで一貫したサービス事業である。
登山用具は使い方を間違えれば事故につながりかねない。お客さまに正しい使い方を知っていただくための取り組みでもある。更に、社員らが直接ガイドすることでお客さまとの親睦もはかれる。もちろん、私自身もガイドとして会員の皆さんをご案内する。ガイド業は、私が高校を卒業した時、なりたくてなれなかった山の生業(なりわい)だった。つくづく望みは、思い続ければいつかかなうものだと思う。
2001年からは、管理システムもでき、会員へのポイント付与を始めることができた。お買い上げ金額に応じてポイントを付与する。
徐々に会員への特典も増え、モンベルクラブの会員組織は拡大していった。
05年、創立30年の記念式典で私は社員に思いを告げた。「創業した時、30年後のモンベルを私は想像した。今、ほぼそれが実現している。さらに30年後にも会社が存在しているとしたら、やはり私には想像できる。要素は二つ。モンベルが社会にとって必要とされ続けていること。そしてその事業の経済バランス、すなわち採算が取れていることだ」
当時、モンベルクラブの会員数はおよそ8万人だった。私は「30年後、きっと100万人になる」と予言した。それから16年後の21年には100万人を突破し、現在120万人に近づきつつある。モンベルクラブ会員の支持こそが企業存続を占うバロメーターだと私は考えている。
(モンベル創業者)
【図・写真】会員向けのカタログや会報誌
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(上) 取引先を倒産危機に、クビ覚悟(私の課長時代)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1367文字 PDF有 書誌情報]
■夢は起業から「分社のトップ」へ
勤務先の輸入商社が1990年に倒産し、91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)に入社しました。人材派遣会社の起業を志し、ノウハウを学ぶためです。技術者を派遣する部署などで新規開拓に励みました。
ほどなく技術者派遣の全国拠点をまとめるエリアマネジャーとなり、大きな予算と権限が与えられました。人材派遣事業の成長には基盤と資金力が必要です。エリアマネジャーの仕事を通じ、ゼロから立ち上げる難しさに気付きました。当初の起業の夢は「技術者派遣事業を分社化し、その会社のトップになる」という夢に変わりました。
■「二股をかけるのか」激怒した大口顧客
それから数年後のある日、大阪出張中に「すぐ東京に戻ってこい」と上司から電話がありました。顧客のA社が激怒しているというのです。A社とはIT(情報技術)支援系の合弁会社の設立を進めていました。
慌てて東京に戻り、A社の担当者と話すと、問題は合弁会社の前から取り組んでいた同業のB社との共同プロジェクトでした。報道で計画を知ったらしく、「敵対する会社と二股をかけるのか。我々かB社か、どちらを選ぶか決めてくれ」と迫ってきました。
A社はB社とも取引していますし、同業とはいえ上場大手のA社に対してB社は未上場の新興です。競合になるとは全く思っていませんでしたが、大口顧客であるA社を優先し、B社とのプロジェクトを中断する苦渋の決断をしました。
当初は「どちらを選ぶのか」と迫ってきたA社ですが、それでも怒りは収まりません。合弁会社の話を白紙にした上、B社との取引も停止してしまいました。
■リスクヘッジの大切さ学ぶ
B社への影響は深刻でした。プロジェクトに投じた資金が無駄になった上、A社との取引停止で収益が大幅ダウンし、倒産危機に。自分のせいでB社は潰れるかもしれない――。それまで味わったことのない怖さと申し訳なさを感じました。
テンプスタッフからの資金援助もあってB社は倒産は免れましたが、私が大きな仕事を2つもダメにした事実は変わりません。「会社を辞めた方がよいでしょうか」。当時の篠原欣子社長(現名誉会長)にそう尋ねると、「自分の利益のためではなく、事業を伸ばそうとしたのでしょう。二度としてはいけないが、1度目は仕方がない」と返ってきました。その後の奮起を支える言葉になりました。
今思うと、テンプスタッフと万全の体制を築きたいA社と、A社ともB社とも良い結果を生みたいという私と認識のズレがありました。「千丈の堤も蟻(アリ)の穴より崩れる」。このトラブルの渦中で、A社の担当者から聞かされた言葉です。あらゆる事態を想定することの大切さを学んだ経験でもありました。
〈あのころ〉 1986年に労働者派遣法が制定され、人材派遣業界は90年代に黎明(れいめい)期から成長期への過渡期を迎えた。バブル崩壊後も派遣社員の需要は高く、業界への新規参入が相次いだ。96年には派遣労働の対象が広告デザインやアナウンサーを加えた計26職種になった。
わだ・たかお 1986年(昭61年)立命館大法卒。91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)入社。IT(情報技術)部門などに従事。パーソルHD取締役執行役員などを経て21年4月から現職。61歳。
辰野勇(18) 海外の川下り レジェンドらと激流へ 夜は満天の星、夢のような時間(私の履歴書)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
1982年、米国のヨセミテ渓谷を流れるトゥオルミー川を私は3人の友人と下った。パタゴニアの創業者イボン・シュイナード、ノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンス、彼はアイガー北壁の米国人初登攀(とうはん)者で、ノースフェイスの名はこれに由来する。そしてヨセミテの岩壁登攀ルートを開き、自らの名をブランドにして立ち上げたロイヤル・ロビンス。
いずれも米国を代表するアウトドア企業の創業者であり、クライミング界のレジェンドでもある。川の難易度を表すグレードは1級から6級まで。最も困難、あるいは不可能とされるのが6級だが、この川のグレードは5級。巨大な落ち込みが連続する。
皆でコースを下見するためにカヤックから降りたが、ただ1人ダグは下見せずに飛び込んでいった。そのガッツに私は驚かされた。ちなみに彼は自家用小型飛行機を1度ならず2度もガス欠で不時着させている。そんな伝説の冒険家たちがアウトドアフィールドの時代をリードしてきた。
彼らが用意してくれたカヤックは当時の日本にはなかったポリエチレン製で、岩にぶつけてもびくともしない。この驚異的なカヤックを製造するパーセプション社から1艇買い求めて日本に持ち帰り、その後モンベルで輸入販売することにした。
米国のグランドキャニオンを流れるコロラド川のリーズフェリーからダイヤモンドクリークまでの364キロメートルを3週間かけて下った。ちなみに日本人としては初、その後を含めて3度も私はこの川を下った。川を下るには許可がいる。個人が申し込めば10年以上待たねばならなかったが、割り当てを持ったツアー会社やパーセプションの創業者ビル・マスターのチームに私は加わらせてもらった。
大半は穏やかな流れだが、毎秒1500トンの激流は尋常ではない。夜は満天の星を仰ぎながら砂浜で寝る。そんな夢のような時間を過ごした。
中米コスタリカで開催された「プロジェクトRAFT」の世界大会に誘われ、世界中のゴムボートやカヤックを愛好する仲間たちと熱帯雨林の川を下ったこともある。RAFTはゴムボートを意味するが、R=ロシア、A=アメリカ、F=for、T=チームワークの略でもある。国際関係が難しい時代の民間交流の企画でもあった。
ネパールのトリスリ川やマルシャンディ川はヒマラヤの雪解け水を源流とする激流だ。私はカヤックに食料や装備を積み込んで数日かけて下った。カナダのユーコン川は、全盲や脊椎損傷などの障害をもった仲間たちと一緒に1週間かけて下った。きっと彼らにとって忘れえぬ思い出になったに違いない。
オーストラリアのタスマニアの海では、オランダ人タスマンがこの島を訪れた大航海期の先住民アボリジニの数奇な物語に思いを巡らせた。
90年代から2000年代はこんな川や海をカヤックの旅で満喫した。
チベット高原を西から東に流れる全長2900キロメートルのヤルツァンポ川が、ギャラペリ山(7294メートル)とナムチェバルワ山(7782メートル)に挟まれた大峡谷に流れ込み、180度方向を変える「大屈曲点」の踏査は冒険家たちのロマンだ。川はやがてインドのプラマプトラ川となりガンジス川に続く。
テレビ局からこの川の番組取材の誘いを受けて同行することにした。「未踏の激流をカヤックで下れるだろうか」。その可能性を見極めたいと願っていたが、圧倒的なパワーの激流を前にして私はなすすべがなかった。
(モンベル創業者)
【図・写真】グランドキャニオンのコロラド川も下った
辰野勇(17) 直営店 価格リストラ断行を決断 値引き競争回避、専門店歓迎(私の履歴書)[2024/11/18 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1422文字 PDF有 書誌情報]
現在全国に127の直営店を展開しているが、第1号は1991年、JR大阪駅の商業施設「ギャレ大阪」に開設した店舗だった。当時モンベルは「グレートアウトドア」をキャッチフレーズにして商標登録していた。JR西日本から、新設する商業施設のコンセプトにこの言葉を使いたいという依頼があり、併せて出店も要請された。
創業以来、商品は問屋を通して登山専門店で販売しており、直接消費者には売っていなかった。数百種類の製品があっても店頭に並ぶのは店のフィルターを通して選ばれた商品に限られていた。確実に売れる商品しか扱ってもらえない。これを米国では「チェリーピッキング」と呼ぶ。熟れて食べられるサクランボしか摘まないという例えだ。
登山という専門的な分野では、少数であっても必要な品物はある。まして新しく開発した実績のない製品を消費者に知ってもらうには、自分たち自身の費用とリスクをかけて直営店を出すしかないと考えていた。そんな矢先のこの提案に私は出店を決断した。
1日20万人以上利用者がある大阪駅の立地は申し分ない。しかしモンベルの隣に大阪で最も大きな我々の取引先が出店するという。大口販売先との取引を失うことをも覚悟して出店に踏み切ったが、その販売会社との取引は途絶えることなく続けられた。
しかし、また新たに別の問題に直面した。「値引き販売」である。市場ではモンベルが提示した「希望小売価格」から30%近くの値引きが常態的に行われていた。他店の価格と見比べて自店の販売価格を決める価格競争が行われていた。本来の顧客サービスとは違う煩わしさがあった。
一方、メーカーの我々は希望小売価格を明示している限り、値引きはできない。我々の直営店で買った商品が隣の店では約3割引きで売られているのを見て、返品されるお客様も少なくなかった。
そこで、私は次なる大きな決断をすることになる。卸価格は据え置いたまま、メーカー希望小売価格を一気に3割程度引き下げるという前代未聞の決断だ。実現すれば小売店間の販売価格差がなくなり、ユーザーの不公平感も解消される。私は全国の販売店を回って理解を求めた。
そのころ米国では大型アウトドアショップがプライベートブランド品を自社で企画し製造販売して消費者から支持されていた。いわゆる「ダイレクトマーチャンダイズ」である。いずれ彼らも日本の市場に参入するかもしれない。護送船団方式ともいわれる旧来の「メーカー、卸、小売り」の流通構造では対処できなくなるだろう。それに備えた価格戦略であることを取引先のオーナーに説いた。
私は、この身勝手な価格リストラを受け入れてもらえないことを覚悟していたが、ほとんどの販売先が取引を継続してくれた。丁寧な商品説明をモットーにする登山専門店は「他店との値引き競争を意識せずに丁寧な商売ができる」とむしろ歓迎してくれた。しかし、定価からの「値引き」を唯一の販売手段にしてきた大型ディスカウントチェーン店は、その優位性が無くなって取引から撤退した。
まもなくして、米国の大型アウトドアチェーン店が1千坪の巨大な規模で東京都町田市に進出してきた。「黒船の到来。来るべきものが来た」と覚悟を決めたが、わずか1年後、彼らは採算が見込めないことを悟って撤退し、モンベルがそれを引き継ぐことになった。価格リストラがなければこの展開はなかったに違いない。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪駅近くにできた最初の直営店
辰野勇(16) 冒険大賞 成果ではなく計画を評価 リスクとる若者らを支援(私の履歴書)[2024/11/17 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1463文字 PDF有 書誌情報]
人はなぜ冒険するのか。時には命のリスクをかけても他人のやらないことに挑戦する、そのモチベーションはどこからくるのか。ゴリラ研究で知られる山極壽一さんは「どのゴリラも登ったことがないという理由で、危険を冒して岩壁を登るような酔狂なゴリラはいない」と断言する。
すなわち冒険は人間に与えられた特性だというのだ。それが事実なら、我々が享受する文明の起源は、限界を超えてきた冒険の歴史のたまものなのかもしれない。これを「リーディングエッジ」と称して、欧米人は敬意を表する。
1992年、米国で開催された「冒険大賞」の選考委員を依頼された。世界中から寄せられた冒険の計画を審査して、優れた企画に資金を授与する。「なし遂げた結果」に対して贈るのではなく、計画を実行するために必要な支援をするのが目的だ。
若き日に海外渡航費で苦労した私はこのコンセプトに共感した。ある時、選考委員の一人である米国の心理学者に「人はなぜ冒険をするのだろう」と投げ掛けた。すると彼は「命を懸けて冒険しようという人間はせいぜい全人口の0・3%だ」と言う。
そしてそれは、登山や川下りなどの野外活動に限らず、医療や先端技術の開発などあらゆる分野で、人間の限界を押し広げてきたという。7人の選考委員は、米国、英国、カナダ、イタリアなど世界各国から集められていた。
ドイツ人のニコが「今年の応募者の内、何人が命を落とすと思う?」とつぶやいた。応募者は自己責任で行為を実践する。事実、チベットの大峡谷にカヤックで挑んで行方不明になった応募者もいた。
選考会は毎年場所を変えて開催された。各地で用意されるアクティビティーも楽しみだった。98年は北イタリアのドロミテ山麓の町コルチナで開かれた。まとめ役のジョン・ハーリンjrが、「岩登りに行こう」と提案した。
彼は米国人で、アイガー北壁に直登ルートを開拓中に滑落死したジョン・ハーリンの息子だ。我々が出かけたのはビアフェラータと呼ばれるドロミテのユニークな登攀(とうはん)システムで、岩壁の取り付き部から頂上までの標高差500メートルにワイヤロープが固定されていて、登山者はハーネス(安全ベルト)を装着し、ワイヤにカラビナを掛けながら登っていく。
万一落下しても杭のところで止まる。無論、まったく危険がないわけではない。熟達した経験者だからこそ楽しめるアトラクションだ。
私は、日本でも冒険を志す若者を応援したいと考えて、「モンベルチャレンジ支援プログラム」を立ち上げた。我々も「成果にではなく計画」を評価して対象者を選んだ。更に2005年には、実績を含めて継続する素晴らしい取り組みに贈る「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設した。
手作りボートでスイスから日本を目指した中島正晃さん、がんと闘いながら自転車で世界一周に挑むシール・エミコさん、日本人のルーツを探る3万年前の航海の再現プロジェクトなど、これまで多彩な挑戦に賞を授与したが、ほとんどのプロジェクトは完結していない。犬ぞりによる北極圏での環境調査を続けていた山崎哲秀さんは北極海の流氷の割れ目に落ちて消息を絶った。
さらにアフガニスタンの人道支援団体、ペシャワール会の代表、中村哲さんはテロの凶弾に倒れた。最新の受賞者は、旅の途中2人の子を産み育てながら13年間、世界を自転車で旅するスイス人家族のパシュさんたちだ。これからも冒険を志すチャレンジャーを支援したいと考えている。(モンベル創業者)
【図・写真】イタリアの農場で審査委員らと(右から2人目が筆者)
辰野勇(15) 黒部峡谷初下降 「いける!」難所脱出し完遂 足かけ4年がかり、カヤックで(私の履歴書)[2024/11/16 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1477文字 PDF有 書誌情報]
黒部川は北アルプスの鷲羽岳(2924メートル)を源にして日本海に注ぐ全長85キロメートルの河川だ。世界でもまれにみる急峻(きゅうしゅん)なこの川を源流部から河口までカヤックで下る挑戦を始めたのは1987年だった。
チャンスは残雪が消える8月から新雪が降り始める10月までの3カ月足らずしかない。峡谷の上部、「上の廊下」の初下降に挑むため、9月、ヘリに7艇のカヤックと装備をつり下げて薬師沢が合流する河原に降り立った。
モンベル社員の有志を中心に総勢7人のメンバーがカヤックを漕(こ)ぎ出した。源流部に近い最初の数キロは水量も少なく、積み重なった大きな岩と岩の間を縫うように川は流れていた。漕ぎ下るというよりも岩の間を滑り下りていくような感覚だった。
たびたび行く手を遮られて、艇を担ぐポーテージを余儀なくされた。テントや食料などを積んだカヤックは重い。徐々に水量も増し、落差2、3メートルの滝が連続する場所もあったが、流れの勢いはさほど強くない。この日は突然の増水にそなえて河原から離れた台地でビバークした。
翌朝漕ぎ始めたが、次から次に滝が現れ、そのつど艇から降りて偵察するので時間がかかった。日没後の暗闇の中を漕ぎ、ダム湖畔に上陸してこの年の挑戦は終わった。
黒部ダムの下流、「下の廊下」と呼ばれる峡谷の下降は2年がかりになった。
88年10月、ダムの大量放水がないことを確かめて7艇のカヤックをダムの直下に下ろした。流れは速く、転覆する艇が相次いだ。
継続を諦めた2艇を樹林帯に縛り付けて野宿。翌朝、残りの5艇で川下りを再開したが、落差4、5メートルの滝が連続する。流れが穏やかになったかと思うと突然、川が消えて滝が現れる。緊張のあまり口が渇いてつばがはけない。精神的な疲労の限界を感じた。この年はここで引き揚げて翌年下降を続行することにした。小高い岩盤にハーケンを打ち込んで5艇のカヤックを縛り付けて下山した。
翌89年、雪解けを待って現地に行くと、縛り付けておいた艇はすべて雪に押しつぶされていた。前年に離脱して樹林帯に縛り付けた2艇が無事だったのでそれを使うことにした。白竜峡と呼ばれる峡谷には落差15メートルの滝がある。
まるで竜が炎を吐き出しているように見えるところから、私は「竜の炎」と呼ぶことにした。「15メートルの落差を落ちて無事に着水できるだろうか」。当初は艇を担いで迂回するしかないと考えたが、流れを見て観察するうちに、「下れるかも」と思い始めた。
別の仲間はやめておきますと言う。私は一旦カヤックに乗り込んだが心を決めかねていた。「やめろ、死ぬぞ」と「大丈夫だ」という心のささやきが頭の中で交錯した。「いける!」と思った瞬間、私は迷いなく漕ぎだした。
滝つぼに5メートルほど潜っただろうか。浮上したらパドルが3つに折れていた。1人になった私は最後の核心部S字峡の返し波につかまり転覆してしまった。エスキモーロールと呼ぶ技で起きようとしたが岩に押し付けられて上がれない。諦めて一旦艇から抜け出したが、周りに助けてくれる仲間はいない。
水中で息をこらえ、艇が岩から離れるのを待って再びロールを試みた。数十秒間の判断だった。ロールに成功して窮地を脱した。そしてようやくこの年のゴール仙人谷ダムまで漕ぎ下ることができた。
その翌年、仙人谷ダム下の欅平から仲間と一緒に漕ぎ下り、全員で日本海に到達した。足かけ4年のカヤックによる黒部川初下降が完結した。
(モンベル創業者)
【図・写真】「下の廊下」の落差5メートルの大滝をカヤックで下った
辰野勇(14) パタゴニア 登山家創業者と出会う 自社ブランド構築に注力(私の履歴書)[2024/11/15 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出会ったのは1980年、ドイツの登山用品店シュースタのパーティー会場だった。彼はヨセミテ渓谷などの大岩壁を初登攀(とうはん)した著名な登山家でもある。登山や創業の話を交えて互いにものづくりに対する考えを交わした。
30分足らずの会話だったが、意気投合した。ちょうど同社の製品を扱う日本の代理店との契約が終わるとのことで、「やってみないか?」と尋ねられた。他社のブランドを扱うことには、まったく興味はなかったが、イボンの人柄に興味を持った。
彼は日本に来るといったがかなわず、逆に私が米国を訪ねることになった。ロサンゼルスの空港に、Tシャツと短パン姿で彼が迎えに来てくれた。さびだらけのワーゲンの砂まみれの後部座席にはワインの空き瓶が転がっていた。
彼の家は太平洋を見渡すベンチュラの海岸に立っていた。カヤック2艇を並べ、「波乗りしよう」という。サーフィンの経験はないが、カヤックならできる。しばらく一緒にサーフカヤックを楽しんだ後、心地よい波音を聞きながら商談を始めた。それまでヨーロッパアルプスに親しんできた私は、自由で開放的な米国人の気質と風土に一種のカルチャーショックを受けた。
悲惨なベトナム戦争を体験した米国の若者たちが興した自然回帰のムーブメントが登山界においても「クリーンクライミング」という新しい登山スタイルを作り上げていた。ハーケンやボルトを岩場に残さず、登った痕跡を一切残さない「LEAVE NO TRACE」のコンセプトである。イボンもまたその先駆者の一人だった。
彼の別荘のあるワイオミング州に聳(そび)えるグランドティトンの岩壁に新しいルートを2人で開いたり、ヨセミテの岩場を一緒に登ったりした。ビジネス以前に、良き山仲間としての交流が深まった。パタゴニア製品の日本での販売を手伝う一方、モンベルが得意とする新素材の分野で彼らの商品開発をサポートした。デュポン社のハイパロンを使った雨具もその一つだった。乾燥したカリフォルニアに比べて、夏は高温多湿の日本で開発した商品は、米国内でも高く評価された。
他方、木綿で作られたラグビージャージーやショーツなどのパタゴニア製品は日本の登山市場になかなかなじまなかった。その後、ポリエステルのフリース、「シンチラ」が発売されるやいなや多くの支持を集め、一気にビジネスが拡販していった。パタゴニアの製品が売れれば売れるほど、私の中で釈然としない気持ちが芽生えた。
自分たちが欲しいものを作り、消費者から共感を得る喜びを、モンベルというブランドに重ねて進めてきた我々のアイデンティティーが薄らいでいくような不安が膨らんだ。そのころパタゴニアの売り上げは、モンベル全体の約4分の1にもなっていた。M&A(合併・買収)が日常的な米国で、もし経営体制が代わったら、販売権は保証されない。たとえ今の売り上げを失っても、モンベルブランドの構築に注力すべきだと考えた。
折も折、来日していたパタゴニアの副社長、クリス・マックデービッドさんに思い切って切り出した。「クリス、日本での販売は自分たちでやってくれないか」。突然の申し出に驚いた彼女に、私は思いを打ち明けた。そしてパタゴニアの日本法人設立と責任者の採用面接を手伝った。それは互いに遺恨のない爽やかな別れだった。
(モンベル創業者)
【図・写真】イボン(右)と一緒にヨセミテの岩壁を登った
辰野勇(13) 海外進出 寝袋を西ドイツに初輸出 売り残した冬物、南半球へ(私の履歴書)[2024/11/14 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1458文字 PDF有 書誌情報]
「登山家は怖がりだ」こういうと、「怖いのなら、山になど登らなければいい」と返される。しかし「まだ見ぬものを見とどけたい」という好奇心がその恐怖心を抑制する。怖がりが故に最悪の状況を想像して準備する。晴天でも雨具は携行するし、日帰りの登山でも懐中電灯を持っていく。これが登山家のリスクマネジメントである。
3人で登山用品メーカー、モンベルを創業したが、恒久的に事業を続けられるだろうかという不安があった。創業メンバーも年をとる。常に若い仲間を迎え入れなければ平均年齢が高くなり会社は競争力を失う。平均年齢を若く保つために毎年社員を増やせば会社の規模は大きくなる。
少なくとも最初のメンバーが定年を迎えるまでの30年間は成長しなければならない。無論これは終身雇用の日本型経営に基づく考えだ。山仲間でもある創業メンバーとは生涯一緒に仕事をしたいと思っていた。当時、日本の登山市場の規模は500億円程度と推定されていた。30年後にその20%、100億円まで業績を伸ばせる可能性を目安と考えた。しかし、国内にそれだけの市場がなければ海外に販路を広げる必要がある。
創業3年の78年の夏、商品サンプルを携えて西ドイツのケルンで開催されていた国際的なスポーツ用品の展示会を視察した。その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訪ねた。ここは私がアイガー北壁を登るとき装備を買いそろえた店でもある。
店員に「日本から商談に来た」と告げると、役員室に案内された。部屋に入ると初老の紳士が迎えてくれた。「ダクロンホロフィル2」の寝袋を広げて、「私はアイガー北壁を登った。私の作った寝袋を買っていただきたい」と片言のドイツ語で告げた。
紳士の表情が少し緩んだ。「北壁に登ったのか」。紳士は、そう言って寝袋を手に取ってくれた。彼の名はケレン・スペーガー。ヒマラヤの8千メートル峰にも登頂した登山家だった。製品を丁寧に見たうえで「検討させてもらうよ」とやさしく返答してくれた。
ミュンヘン駅裏の木賃宿に戻って、きしむベッドに横たわり、アイガー北壁の実績が認められた喜びをしみじみかみしめた。
朗報が届いたのはその年のクリスマスイブだった。寝袋100個と防寒衣料などの注文書が送られてきた。欧州の老舗専門店にモンベルの品物が並べられることを想像するだけで心が高ぶった。
79年は暖冬で大量の冬物商品を売り残してしまった。資金繰りを考えれば、価格を下げても量販店に買い取ってもらうのが常套(じょうとう)手段だが、それをすればブランドのイメージを貶(おとし)める心配がある。
「南半球はこれから冬が始まる。今からでも買ってもらえるかもしれない」という単純な発想でニュージーランドに飛び立った。文字通りの飛び込みセールスだ。クライストチャーチのホテルで電話帳に記載されたスポーツ用品店に片っ端から電話して訪問した。製品の評価は高かったが、輸入するにはライセンスが必要で、高額の関税がかけられていた。そんな事情も知らないまま、思いつけばすぐに行動する私の性格を象徴するエピソードだ。
空港で南極が上に描かれた世界地図を見つけた。北半球に住む我々がいかに自分たち中心の既成概念にとらわれているのかを知る機会でもあった。ニュージーランドでは少量だが注文をいただいた。その後、スイスと米国に現地法人を設立し、40カ国のビジネスパートナーとの取引が始まることになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】最初に商品を売り込んだ西ドイツのスポーツ店「シュースタ」
辰野勇(12) カヤック 新しい自分の居場所に 判断力と決断力、山と共通点(私の履歴書)[2024/11/13 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1430文字 PDF有 書誌情報]
カヤックを始めたのは1974年。丸正産業の上司、麻植(おえ)正弘さんから「面白いからやってみないか」と誘われた。場所は琵琶湖から流れ出る瀬田川だ。艇を浮かべ、見よう見まねにパドルを漕(こ)ぎ出した。流れは見た目以上に複雑で、転ばないようバランスを取らなければならない。目の高さで水面が流れていく感覚が新鮮だった。
初心者の段階で出場した「第3回関西ワイルド・ウォーター競技大会」でまさかの優勝をしてしまった。いわゆるビギナーズラックである。それで、すっかりカヤックの面白さにはまってしまった。当時、カヤック人口は少なく、新たな可能性を予感した。
多くの仲間を山で失った喪失感もあり、ここに新しい自分の居場所を見つけた気がした。危険な山登りに没頭していた私の興味を「山からそらせよう」とカヤックに誘った麻植さんの術中にまんまとはまってしまったのである。
この頃、アイガー北壁登攀(とうはん)者の高田光政さんや大倉大八さんなど、往年の登山家たちが期せずしてカヤックを始めていた。私は高田さんから使わなくなったファルトボート(組み立て式カヤック)を譲ってもらい、あちこちの川に出かけるようになった。
カヤックとロッククライミングには共通点があるように思えた。難しい瀬を越える時、一瞬の判断力と決断力が求められる。そして一歩踏み出せば後戻りはできない。クライマーたちがカヤックを志向する感性が理解できた。「昔六甲、今琵琶湖」。高校時代は毎週のように六甲山のロックガーデンに通い、今は琵琶湖から流れる瀬田川に通っている。そんな私を妻があきれてそう言い表した。
登山を愛好するモンベルの社員たちにもカヤックを勧めた。77年、初めての社員旅行は、琵琶湖に浮かぶ竹生島にカヤックでツーリングすることにした。総勢7人で湖北の菅浦(すがうら)から漕ぎ出して竹生島に上陸。宝厳寺(ほうごんじ)の参拝をすませて、カヤックで戻り始めた頃から、琵琶湖特有の伊吹颪(おろし)が吹いて三角波が立ちだした。
とめどなく襲ってくる波に翻弄されてタンデム艇(2人乗り)1艇が転覆してしまった。起こして2人を再び乗艇させようとしたが、波に揉まれて這(は)い上ることが出来ない。その時、遠くを航行していた遊覧船が方向を変えて近づいてきた。「救助してほしいか?」と拡声器から呼びかけがあった。申し訳ないとは思ったが、結局、全員引き上げてもらった。初の社員旅行はそんな強烈な思い出を残した冒険旅行になってしまった。
翌78年秋には富山県の黒部ダムに組み立て式のファルトボートを持ち込んだ。静かな湖面から紅葉を楽しみながらのんびり漕ぎ進んでいると、監視艇が近づいてきて「すぐに上がりなさい!」と拡声器から怒声がした。「河川をせき止めたダム湖に艇を浮かべるのに規制があるのか?」。道のない未踏の岩場を登ってきた私には素朴な疑問だった。
社員数が40人を超えた年には長野県の飯田市を流れる天竜川に出かけた。前日の豪雨で川は増水していたが、私を含む7人が「いける」と判断してカヤックを漕ぎだした。ところが私以外の全員が転覆してしまい、1人で他のメンバーの救助と艇の回収をしなければならない羽目に陥ってしまった。何とか全員を無事に川岸に上げることが出来たが、この時はともに行動する仲間の技量を見極めておく必要を痛感した。
(モンベル創業者)
【図・写真】社員旅行でも楽しんだ(和歌山県の北山川。後列左から5人目が筆者)
辰野勇(11) 新素材 軽量・小型寝袋、業界に反響 機能追求の先にこそ「美しさ」(私の履歴書)[2024/11/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
1975年、登山用品の開発と製造販売を目指してモンベルを創業したものの、新しく市場に参入するのは容易ではなかった。工場にお願いして作ってもらった寝袋を登山専門店に飛び込みで売り込んだが、実績のない我々に与えられた注文はわずかだった。
そんな時、スーパーマーケットの商品企画を任された企業に勤める友人から、新規に企画したショッピングバッグの製造を依頼された。商社時代の人脈や経験を生かして生地を調達し、縫製工場を手配した。バッグは予想を超える売れ行きで、納期に間に合わせるため、社員の真崎文明、増尾幸子と一緒に徹夜でホック打ちや梱包の作業をした。
このショッピングバッグのおかげで初年度、1億6千万円の売り上げを達成することができた。この利益を使って登山用品の開発を始めることになる。この仕事で得た実績は、繊維メーカーや縫製工場との関係を構築する上でも大きな役割を果たした。
モンベル最初のヒット商品開発のきっかけになったのは丸正産業時代の上司、麻植(おえ)正弘さんがくれた新素材の情報だった。米国デュポン社が開発したダクロンホロフィル2という中空の化学繊維である。軽くて暖かく、ぬれてもすぐに乾く。寝袋の中綿としては画期的な素材だ。
当時、暖かく軽量でコンパクトになるダウンの寝袋は高価で庶民には高根の花だった。一方、化学繊維の中綿は安価だが重くてかさばり、持ち運びが不便だった。
早速、新素材の原綿を米国から輸入し、奈良県桜井市のふとん工場、北西商店で試作を始めた。シリコン加工した表面が滑って打綿するのに苦労したが、何とか製品化に成功した。製品は保温力や軽量コンパクト性に加え、ダウンにはない速乾性を備えていた。更に、表地に帝人がコンピュータのリボンテープ用に開発した極薄で高密度の素材を使用することで軽量化と接触感も飛躍的に向上した。
ところが、試作品を大阪市の登山用品専門問屋に持ち込むと、「こんなに小さいのに価格が高いのはおかしい」と取り扱ってもらえなかった。当時、化繊綿の寝袋の価格は中綿の重さで評価されていた。新素材の機能を評価してもらえなかったのである。
仕方なく東京の問屋を訪ねて性能を説明すると、「わかりました。うちで扱わせてもらいます」と、一挙に2千個の注文をもらった。この新しい寝袋は米国デュポン社の知名度を追い風に登山業界に大きな反響を巻き起こした。
この成功を受け、次に雨具の開発を進めた。雨が多い日本の気候で雨具は登山者にとって最も重要な用具である。素材に選んだのはこれもデュポン社の合成ゴム、ハイパロンだった。改めて同社の開発素材を研究したところ、防水性と耐久性に優れた素材の存在に気づかされた。
76年に製品化した「ハイパロンレインウェア」は、デュポン社の知名度もあり、長く売れ続けるモンベルの代表的な商品になった。「自分たちのほしいモノを作る」という我々の熱意が認められ、創業して間もない零細企業のモンベルに対してデュポン社はダクロンホロフィル2の寝袋使用に関する独占使用権を与えてくれた。
LIGHT&FAST(軽量と迅速)とFUNCTION IS BEAUTY(機能美)。無駄なく機能を追求したものこそ美しい。創業以来求めてきた商品開発のコンセプトである。
(モンベル創業者)
【図・写真】初のヒット商品となった
辰野勇(10) 独立 28歳を機に山仲間と創業 自己資金ゼロ、社名は無国籍(私の履歴書)[2024/11/10 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1456文字 PDF有 書誌情報]
丸正産業では製品企画など新しい事業を試みたが、すべてがうまくいったわけではない。当時、アルミのフレームにザックを取り付けた「バックパック」が米国で流行し始めていた。米国からの引き合いもあり、国内で製造して輸出する企画を立てたが、フレームパイプの製造や型代の償却など、新規投資の回収が不確実だと上司に却下された。
新素材を開発して販売先の企画担当者に提案したものの、価格が合わないと取り合ってもらえなかった。時間をかけて開発した素材も取引先の担当者の考えでボツになる。商品開発の決定権が自分にないことへのもどかしさが募った。登山の経験を生かして、自分たちのほしいものが作れる会社を立ち上げようと強く考えるようになった。
高校時代から、将来は山に関連した仕事に就きたいと考えていた。すし屋を営んでいた両親の後ろ姿を見て育った私にとって、仕事に就くことは、すなわち自らが事業を起こすことだと考えていた。「20歳では早すぎる、30歳では遅すぎる」。いつのころからか、28歳がその潮目のように考えるようになっていた。
ただ、会社を辞めるにあたって、気になることがあった。それは、丸正産業への就職を世話してくれた麻植(おえ)正弘さんとの約束だった。入社の前に「一生、ここで働く気はあるのか?」と聞かれ、私はその場で「はい」と答えていた。それは決してその場逃れの偽りではなかった。その時は将来の自分の夢の実現に確信を持てていなかったのだ。
28歳が近づいた5月の連休、麻植さんに誘われて、2人で石川県の白山に春山のスキーツーリングに出かけた。宿の湯船につかりながら、そろそろ退職の思いを打ち明けようかと口を開こうとしたとき、逆に麻植さんから「お前、会社を辞めたいと考えているのか?」と切り出されてしまった。「許さんぞ。でもな、もし家業のすし屋を手伝うというのなら致し方ない。ヨーロッパにでも行って勉強してくるのもいいかも」と、理解に苦しむ言葉をかけられた。
翌日、2人で残雪の稜線(りょうせん)をシールと呼ばれる滑り止めをスキーの裏に貼り付けて歩きながら、前夜の麻植さんの言葉の真意を考えていた。そして、私は気づいた。彼は私の考えていることなどすっかりお見通しだったのだと。先を行く麻植さんの後ろを追いかけて「俺、家業のすし屋を手伝います。会社を辞めさせてください」と告げた。麻植さんは「そうか」と一言。それ以上の言葉はなかった。
28歳の誕生日、1975年7月31日付で丸正産業を退職した。翌、8月1日、大阪市西区の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業した。わずか7坪の小さなオフィスだった。設立に最低必要な資本金200万円を母から借りて銀行に預け、預かり証明書を持って設立登記を済ませた。その1週間後には全額を銀行から引き出して母に返済した。創業時の資金は正真正銘ゼロからの出発となった。
私の独立を知って大阪あなほり会の真崎文明と増尾幸子が、在籍していた会社を辞めて創業メンバーに加わってくれた。2人はヨーロッパアルプス遠征から帰国した1カ月後、正式に入社した。
社名のモンベルは真崎と考えて決めた。MONTBELLの最後にEを付ければフランス語で「美しい山」を意味する。あえて発音しないEを取り除いたのは、これはフランス語でも英語でもない言葉であり、将来グローバルな市場に参入するには特定の“国籍”を持たない社名にするのがいい、と考えたからだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】創業メンバーは山仲間ばかり(中央が筆者)
吉田簑助さん死去 文楽人形遣い 人間国宝、91歳[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 42ページ 415文字 PDF有 書誌情報]
文楽界をけん引した人形浄瑠璃文楽の人形遣いで人間国宝の吉田簑助(よしだ・みのすけ、本名=平尾勝義=ひらお・かつよし)さんが11月7日、死去した。91歳だった。告別式は11月12日正午から大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館。喪主は妻、匡子さん。
大阪市生まれ。人形遣いだった父、二代目桐竹紋太郎に連れられて幼い頃から大阪・四ツ橋の文楽座に通い、1940年に6歳で三代目吉田文五郎に入門。43年初舞台。61年に三代目吉田簑助を襲名した。
初代吉田玉男の相手役として存在感を高め、「曽根崎心中」のお初や「本朝廿四孝」の八重垣姫など女形の多くを当たり役とした。
98年に脳出血で倒れ、リハビリを経て翌年に舞台復帰。後進の育成にも熱心で、三代目桐竹勘十郎ら多くの弟子を育てた。94年に人間国宝、2009年文化功労者。07年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
【図・写真】吉田簑助さんの真骨頂は女形だった(2018年)
辰野勇(9) 商社へ 繊維部配属、素材に出合う 仲間の死、世の無常を実感(私の履歴書)[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1461文字 PDF有 書誌情報]
就職の声を掛けてくれたのは商社、丸正産業の営業幹部の麻植(おえ)正弘さんだった。関西学院大の出身で、南米アンデス山脈にも遠征経験のあった登山家だ。大阪・梅田の白馬堂の店舗の近くに会社があったので、よく店に来られ、顔なじみになっていた。
1970年12月、同社に入り、繊維部産業資材課に配属された。この部署は繊維や人工皮革といった素材をメーカーから仕入れて靴やカバンを製造する2次メーカーに納める仕事をしていた。スポーツ用品を取り扱う企業とも取引があった。以前から営業の柱になってきた製品や大口の営業先との取引を引き継ぐ傍ら、採算が取れるなら、社員が企画した事業を新規に開拓することも許された。
私は夢中になって登山用具の開発に没頭した。その過程で織物の糸の特性を学んだ。とりわけ、水を含まず軽量で強靱(きょうじん)な合成繊維に興味をもった。雨具や寝袋、テントにいたるまで、これまで使ってきた製品の弱点や欠点を補う魔法の素材のように思えた。
すでに取引のあった神戸市の住友ゴム工業には、植村直己さんとともに日本人で初めてエベレストに登頂した平林克敏さんがおられた。ポリエステルのフィルムにアルミを蒸着した登山用の緊急保温シートを提案すると、採用していただき、ラテン語で命を意味する「スピロー」という商品名を考えてくださった。さっそく特許を申請し、後に丸正産業の社長賞を頂いた。
同じ神戸市でテントの縫製をされていた友光幸二さんが考案した画期的なテントの商品化も提案した。高強度で軽量のジュラルミンのパイプを曲げてテントをぶら下げる。シンプルで組み立てが容易な自立型のテントで、これまでの常識を覆すものだった。
商社で勤務する中、山に行く機会は少なくなった。一時は世界の登山界の先頭を走っている自負さえあったが、その後、計画したヒマラヤ登山は実現できず、気が付けば周回遅れのランナーのような、そんな焦燥感を覚えていた。
74年1月、なまけた体を鍛えようと、自宅から金剛山までの往復70キロを歩いた。疲れて帰宅した翌日、大阪あなほり会の仲間の一人、唐津誠が滑落事故を起こしたという知らせが入った。兵庫県西宮市の仁川渓谷にある三段壁と呼ばれる岩場での事故だった。
さっそく病院に駆け付けた。内臓破裂の重傷で、私が面会した数時間後に彼は息を引き取った。10代の若い命が消えていく姿を目の当たりにして、人の世のはかなさを痛感した。前年の12月にも、山仲間の一人が四国石鎚山の岩場で疲労凍死していた。
事故が続いたため登山の自粛を皆で決めたが、翌2月、あろうことか、別の仲間が交通事故で亡くなった。悪い流れを断ち切ろうと皆で話し合い、登山を再開することにした。すると3月、今度は一緒にザイルを結んだこともある亀井庄吉が奥穂高岳の滝谷で雪崩に巻き込まれて行方不明になった。
その日の夜行列車で現地に向かった。雪が降り積もる中での捜索は困難を極めた。捜索隊が再び雪崩に遭う二重遭難の危険と向き合いながら、5日後、捜索の打ち切りを決断した。新穂高温泉の宿で待機していた亀井のお父さんに「生存の可能性は厳しい」と告げると、「ありがとうございました」と頭を下げられた。断腸の思いでその場を去らざるを得なかった。
5月の連休明け、雪崩発生地点からかなり離れた残雪の中から亀井の遺体が発見された。極限の登山を続けていれば「いつか死ぬ」。徐々に山への思いが薄らいでいった。
(モンベル創業者)
【図・写真】会合で他社の担当者らと懇談(右から2人目が筆者)
辰野勇(8) 登山教室 技術教える合理性に共感 新婚旅行の3日後に退職(私の履歴書)[2024/11/08 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1382文字 PDF有 書誌情報]
アイガー北壁の登攀(とうはん)に成功した中谷三次と私は、次の目標マッターホルンに向かった。ツェルマットに聳(そび)えるこの山は英国人、エドワード・ウィンパーによって初登頂されている。我々が挑んだ北壁は、アイガー北壁に並ぶアルプス三大北壁の一つとして登山家たちの憧れの的だった。
登攀の途中、少なからず危うい場面にも遭遇したが、幸い一夜のビバークで登頂に成功することができた。期せずして我々は、1年のうちに2つの北壁を登った最初のパーティーとなった。残る一つはフランスのシャモニーにあるグランドジョラス北壁だ。
既に9月半ばにさしかかっていたが、最後の望みをかけて挑戦した。結果は、風雪の嵐に見舞われ、命からがら退却を余儀なくされた。アイガー北壁の日本人第2登と、史上最年少の記録を成果として、21歳の私のヨーロッパ山行が終わった。そしてこれが、まさに私の将来を決定づける「原点」となった。
シャモニーでは「登山学校」の存在に驚かされた。日本で登山技術を習得するには、山岳部か山岳会の先輩から指導を受けるしかなかった。少なくとも金銭を支払って登山技術を習得するという概念がなかった。山岳部や山岳会は厳格で、個人の山行にも規制があった。一方、経験を積んだ熟練の会員も、後輩の指導に時間が取られ、自分が山行する時間が制約された。
そんな中、一定の技量を持った仲間が同等の立場で山行を行う「同人」が台頭し、新しい形態の山岳会のありようとなってきた。私は仲間と大阪あなほり会を結成し、自由で開かれた組織を目指した。
基本技術は登山学校で習得してから会に入る。この合理的な考えに共感した。日本でも登山学校を立ち上げたいと考えた。勤務していた白馬堂の友田彦士社長に日本初のロッククライミングスクールの開校を提案した。講師は中谷三次と私に加え、高田光政氏にもお願いした。アイガー北壁を登った3人である。
最初の講習会は1970年5月、登り慣れた御在所岳の藤内壁で開催した。公募と同時、真っ先に申し込んできたのが、当時高校生で、後に一緒にモンベルを創業することになる真崎文明だった。あどけない少年だったが、山に対する思いは人一倍熱かった。
10月、高校時代の同級生、喜代子と結婚した。ところが、新婚旅行から帰って3日後、上司との意見の食い違いから白馬堂を退職することになった。想定外の出来事だった。帰宅して妻に伝えると、「そうですか」と一言。泰然とした表情でうなずいた。
翌日からおよそ一月の無職の間、妻を勤務先に送り迎えする日々が続いた。不思議なことにこの間、有り余る時間がありながら、一度も山には登らなかった。生活を支える仕事があって初めて、山に登る思いが湧いてくる。「自分の山好きも大したことはない」のだと気づかされた。
70年にはいろいろなことがあった。大阪で開催された万博で私はネパールのナショナルデーに他の登山家と一緒に太陽の塔のあるお祭り広場の大屋根からロープで降りるパフォーマンスを披露した。社会は熱気に満ち、様々な新しい試みが生まれていた。
新たな就職先を探す中、白馬堂の常連客から「うちに来ないか」と声をかけられた。繊維に強い中堅の総合商社だ。この転職が新たな方向の道につながっていく。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪あなほり会の仲間と(右から2人目が筆者)
辰野勇(7) アイガー北壁 雪崩に遭遇、九死に一生 氷河の先に次の目標望む(私の履歴書)[2024/11/07 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1465文字 PDF有 書誌情報]
冬の屏風岩でザイルを結び合った中谷三次とは、その後名だたる北アルプスの岩壁の登攀(とうはん)に挑戦した。そんなある日、高校時代から抱き続けてきたアイガー北壁登攀の夢を打ち明けた。彼は一瞬驚いた様子だったが、「お前が行くなら一緒に登ろう」とその場で同意してくれた。
実現への準備を始めた。日本人として唯一登攀を果たした高田光政氏から情報を聞くことにした。彼は登攀中に滑落事故でパートナーの渡部恒明氏を失うという壮絶な経験をされている。岩壁を登る好機や天候条件など、貴重な話を聞くことができた。
1969年6月、横浜から船でナホトカに渡り、シベリア鉄道で欧州に向かった。出航の前夜は70年安保闘争でバリケードが張り巡らされた横浜国立大学の学生寮のおいの部屋に宿泊した。旅の途中のチェコスロバキアでは、列車に自動小銃で武装したソ連の兵士が乗り込んできて乗客を厳しく検閲した。「プラハの春」が終わり、世界が騒然としていた時代でもあった。
ようやくたどり着いたスイスのグリンデルワルトでは、温かく迎えられた。槇有恒氏ら日本人登山家が残してくれた友好の証しと感謝した。アイガーの麓の牧草地アルピグレンでホテルを経営するネビカ夫人に牧童のわら小屋を格安で借りて拠点にした。
近くの岩場でのトレーニングを怠らず、村の通りに設置された気圧計で天候を予測しながら登攀の好機をうかがった。登攀の成否は天候が左右する。大陸と大西洋の高気圧が帯状につながった時、1週間の好天が約束される。
7月21日午前2時、暗闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りに北壁の取りつき点に向かい、いよいよ標高差1800メートルの大岩壁に挑む。困難な割れ目と呼ばれる岩壁帯を登り切れば、一枚岩をザイルにぶら下がって振り子のように横移動する「ヒンターシュトイサートラバース」と呼ばれる核心部を突破する。
アイガー北壁の登攀の歴史では数々の悲劇が繰り返されてきた。ここは、2008年に製作された映画「アイガー北壁」の遭難の舞台だ。その後、「第1雪田」「第2雪田」を越えて「死のビバーク」と名付けられた狭い岩棚に着いた。ここを越えると退却が困難になる。まだ日は高かったが、翌日の天気を確認することにしてビバークした。
翌朝、観天望気(空を見て天気を予測する)で登り続けることを決意した。荷物を1グラムでも軽くして一刻も早く登り切るために退却用のロープや食料、カメラは置いていくことにした。「ランペ」と呼ばれる岩溝から先は中谷にリード(先頭)を譲る。
「神々のトラバース」を越え「白い蜘蛛(くも)」の雪壁にさしかかったとき、先頭を行く中谷を岩雪崩が襲った。「手を隠せ!」。私は怒鳴った。中谷は突き刺したピッケルを握って必死で耐えた。ザイルで結んだ二人の距離は約20メートル。落石がザイルを直撃して、あわや切断される寸前だった。
高校の国語の教科書で読んだハラーの著「白い蜘蛛」の場面が脳裏をかすめた。「頂上への割れ目」を抜けて最後の氷壁を登り切ったら頂上だった。狭い雪稜(せつりょう)の上に立ち、見渡す限りの山並みの先にマッターホルンの頂を見た。アイガーに次いで困難とされていたアルプス3大北壁の一つである。
登攀の最中「成功したら、後は地中海でも旅して、うまいものを食べよう」と励まし合っていた。が、頂を踏んだ途端、次の目標が眼前の氷河の先に現れた。「マッターホルン、次はあれかな……」。2人で顔を見合わせた。
(モンベル創業者)
【図・写真】北壁登攀中の筆者。撮影できたのはこの1枚だけ
25年02月04日
一条ゆかり(4) 空気を読む子 母の「お気に入り」へと努力 先生の失言に吹っ飛ぶ畏れ(私の履歴書)[2025/02/04 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1328文字 PDF有 書誌情報]
幼いころ、長屋や小さなアパートでの家族8人での暮らしは、貧しくても険悪ではなかった。皆温厚で、怒鳴り合いのけんかはなかったが、こんな環境は私を早々に「空気を読む子」にしたと思う。
全員が同じ部屋にいるので、身の安全のために機嫌の悪い人からできるだけ離れ、機嫌のいい人のそばにいるようにした。一番の安全地帯は家族のボスである母の傘下なので、私は母の「お気に入り」になろうと努力した。
自分などいない方が、食いぶちが減っていいのかもしれない。そんな風にも感じていた私が、初めて人から褒められたのが、絵だ。
自宅の前の道路に絵を描いていたら、褒められた。小学校でも同級生が「すごいね、また描いて」などと喜んでくれた。うれしくて調子に乗って、努力してまた上達した。
漫画も読み始めた。貧乏なのに、母は兄たちと私に月1回のぜいたくとして漫画雑誌を買ってくれた。私は「なかよし」を買ってもらった。兄の少年誌も読んだ。やがて、手塚治虫さんの「リボンの騎士」や、手塚さんと同じ「トキワ荘」で暮らした唯一の女性漫画家、水野英子さんの「星のたてごと」などのファンになった。
子供向けの海外文学全集も読んだ。欧州の貴族や、世界をまたにかけるようなグローバルな物語が好きだった。岡山の田舎の貧しい現実から逃れたかったのだ。水野さんはこの頃から、海外の神話や伝説をもとにしたスケールの大きな物語を描いていた。
やがて、学校の授業で描く絵までが漫画風になった。風景を写生すれば、自分が醜いと思うものは省く。男性の石こう像を、細い首のイケメンに描いて嫌みを言われ叱られた。美術教師にとって、漫画は絵画ではなく底辺の落書きなんだろうなと思うと、悔しかった。
自意識過剰でウジウジした子でもあった。万が一、違っていたら恥ずかしいと思い、授業中に手をあげることができない。教師から「藤本さん」とあてられれば仕方なく答える。正解だったのでホッとすると先生から「分かっているのになぜ手をあげないの?」と言われ、黙る。
もし間違っていたら、先生はこう言うだろうなどと推測できるので言いたくない。小学校低学年の私にとって先生は怖くて立派な存在で、逆らってはいけないと思っていたのだ。
そんな私に転機が訪れる。
小学5年の時だ。先生に用を頼まれて、イヤイヤ職員室に入ったら、男性教師2人のひそひそ話が聞こえた。若い先生と、中年の先生の声だ。私が常に周囲の様子に注意をはらう子供だったから、聞こえた声だと思う。
「いいケツだなあ」。そんな言葉が耳に入った。エロチックな女性の写真が載っている雑誌を見ていたようだった。職員室で、教師が、いいケツ……はあぁ……。
神聖な存在である教師のイメージが、ガラガラと崩れた。「なあんだ、先生だって、普通の男と同じなんだ」
以来、先生にもハキハキ意見を言えるようになった。大人が怖くなくなって、徐々に生意気になった。
また、この頃になると、絵を描いて漫画雑誌にカットを投稿すると、百発百中というくらい、載せてもらえるようになった。「私って絵がうまいんだな」「漫画家になれるんじゃない?」。徐々に調子に乗った。
(漫画家)
【図・写真】小学生の頃。姉が晴れ着を着せてくれた
一条ゆかり(3) 一変した生活 誕生前後に差し押さえ 姉らと異なる「おしん」な日々(私の履歴書)[2025/02/03 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
私が生まれて2カ月後に「家中に赤い紙が貼られていた」と、10歳上の長姉、泰子は記憶している。借金で財産が差し押さえられていたのだろう。私の誕生と前後して裕福に暮らしていた家を、夜逃げ同然に出たと聞いた。母は私を堕胎することも考えたが、祖母が止めたという。
私は1949年9月19日、岡山県玉野市で生まれた。姉姉兄兄兄と続く兄姉(きょうだい)の末娘で、典子と名付けられた。本名は藤本典子。
貧しくなったとはいえ、私の最初の記憶は楽しいものだ。母方の祖母が暮らす海のそばの小さな二階屋に家族で身を寄せた。海で遊んで、スイカを食べて、真っ黒に日焼けした。五右衛門風呂に入って、やけどをするから風呂釜にもたれてはいけないと注意されたのに、うっかりやってしまって「アチチ」となったのもいい思い出だ。
それにしてもなぜ、父は財産を失ったのか。祖父が死んで、第2次世界大戦が起きたことが大きい。戦況の悪化で日本軍は国民に金属などを供出するように求めたが、父は正直すぎるほど協力した。
加えて父親(私の祖父)の2人目の妻と折り合いが悪く、すったもんだの末、あろうことか財産を放棄した。借金の保証人にもなったという。お人よしのボンボンで、いつも人にたかられていた。自分は少ししか飲まないのに、酒の席ではどんどん人が集まって、全員の酒代を払った。
裕福だった頃、長姉と1つ下の姉、嘉子にはそれぞれねえやが付いていたらしい。ねえや……ちょっと書いてて腹が立ってきた。家にはピアノもあった。当時の玉野でピアノを持っていたのは我が家ともう1軒、あとは学校だけだったという。
桃の節句の写真が残っている。母の膝の上にいる姉より大きな人形が飾られている。背後のひな人形や、天井からつるした飾りも豪華だ。何もなかった私のひな祭りとの違いにびっくり。漫画「有閑倶楽部」にある、主要キャラクターの一人の美童が市松人形に襲われるエピソードは、この写真からイメージした。
さて我が家は、祖母の家の次に長屋に越した。よく時代劇に出てくる長屋と同じ造りで、細長い家の両端に共同の水道があって、部屋は6畳と2畳、そして小さな台所。ここで父母と6人の子供、計8人が暮らした。
母はいつも働いていた。結婚前は教師で、日本舞踊や三味線やピアノもできたから、それらを人に教える仕事や、行商などもやっていた。加えて家事もあった。子供時代、母が横になっている姿を見たことがない。
そして私は「おしん」になった。NHK連続テレビ小説「おしん」の子供時代である。長屋から平屋のアパート(6畳と2畳と2畳)に引っ越した小学生の頃から、母の下働きとして、1人でマキを割って釜でご飯を炊いた。姉たちは帰りが遅く、兄たちは家事をしない。母に抗議すると「男は台所に入るもんじゃない」。
保育園を2年通い、友達は幼稚園に行くのに私は行けなかった。幼稚園は下校時間が早いため、保育園を3年行けと言われ嫌だった。結果、引きこもりを選び、家族の誰かが帰ってくるまで1人、家の前の道路で、ろう石で絵を描いた。すると徐々にギャラリーが増えて「上手!」「お姫様描いて」などと褒められた。これが、後に漫画家になる私の原点かもしれない。
(漫画家)
【図・写真】裕福だったころのひな祭りでの母と姉
一条ゆかり(2)父は王妃様 世間知らずのお金持ち しっかり者の母が支える(私の履歴書)[2025/02/02 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1361文字 PDF有 書誌情報]
「父はマリー・アントワネットみたい」と、私は思っていた。
裕福な家に生まれたらしい。瀬戸内海に面した、今の岡山県玉野市。旧三井造船の創業の地である。祖父がここで造船関連の会社をおこし、大きくした。父、藤本清はその長男だった。
祖父は仕事も遊びもガンガンのエネルギッシュな人だったという。関西各地の花街へ豪遊の旅に出ることもしばしば。父もハイカラで、英国の生地でスーツをあつらえ、靴はオーダーメイドだったとか。モダンボーイである。15の時から芸者遊びをして、マージャンとビリヤードが上手だった。いかにも100年前の日本の富裕層である。
東京の立教大学を中退。後継者である息子がお人よしで世間知らずであることを不安に思った祖父は、しっかり者の嫁を探した。おめがねに適(かな)ったのが母、薫だ。旧姓は村上。中世の瀬戸内海で一大勢力を誇った海賊、村上水軍の末裔(まつえい)だという。
母も革靴を履いて自転車に乗り、テニスもやるモダンガールだった。お茶やお花、三味線、日本舞踊に都々逸、ピアノなども習い「娘の武芸十八般を身につけたわよ」と豪語していた。岡山の師範学校(現代の教育大学)を出て、結婚前は小学校の教師をして、株で財産を失った家族の生活を支えていた。一方で、若くして目を患い、視力が弱かった。
見合いの席は料亭で、父は白い麻の三つ揃(ぞろ)いにパナマ帽。すらりと背の高い父を、母は一目で気に入った。ともに明治末期の戌(いぬ)年生まれ。お金持ちのボンボンと名家の娘の結婚は、地元で新聞記事になるほど話題だったそうだ。
父は、祖父の会社でボーッとしているだけなのに、かなりの給料をもらえたらしい。働けよ。
しかしそんな暮らしがやがて一変する。私が物心ついた頃には、我が家は借金漬けで、今日の食べ物を心配するありさまだった。母は、自分の着物など売れるものは何でも売った。そしてよく大量のそうめんを買ってきた。私を含めて6人の子供に食べさせるには、当時、米を買うより安上がりだったのだ。
周囲も心配したのか、近隣の少し裕福な家から、2歳上の兄を養子にしたいという話があった。1人では寂しいだろうから、妹(つまり私)も一緒にどうかと。母は断った。養子に行けば今よりマシと期待していた私は母に「え~何で断ったの?」。殴られた。母にぶたれたのは、これを含めて人生で2度だ。
こんなこともあった。ある日、母が「お金が無い。どうしよう?」と焦っていた。すると父は平然と「金が無いなら銀行に行けばいいだろ」。
何もないのに銀行に行けばお金を引き出せるとでも思っているのか? この頃5~6歳だった私はすっかりあきれた。私が父を王妃マリー・アントワネットだと思うのは、この日の記憶からだ。
誤解のないように言えば、子煩悩で優しい人。友達にするには最高の人だが、夫にするには正直事故物件レベルだと思う。
後年、家の中で唐子(からこ)の描かれた豪華な大皿を見つけた。これは何かと母に尋ねると「端が欠けていて売れなかったのよ」。ほかにもパーコレーターというのか、コーヒーを淹(い)れる道具があった。「当時は田舎でそんなものを使う人がいなくて、やっぱり売れなかった」と母。苦労がしのばれた。(漫画家)
【図・写真】父母(奥)、祖母(手前右端)と姉・兄たち
一条ゆかり(1) 真面目な不良 少女漫画 ギリギリを攻め 性描写もアクションも描く(私の履歴書)[2025/02/01 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
バイクの免許を取ったのは高校2年の時だった。漫画を描いて徹夜をした明け方、よく瀬戸内の海岸にバイクを飛ばした。この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かにつけて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。
何が何でも漫画家になる。その一心だったけれど、団塊の世代の最後の年に生まれた私が幼い頃は、漫画は悪書扱いで、母をはじめ、周囲の大人は「漫画家になりたい」と言うと「何言ってるの?」「バカじゃないの?」という反応だった。
でも漫画家は、学歴も性別も年齢すら関係なく、実力で勝負できる。私には何もなかったから、そういう仕事につきたかった。そして一過性のヒットメーカーではなく、長く生き残る存在になりたい。死ぬまで漫画家でいるにはどうしたらいいのかと、デビュー前から考えていた。
とはいえ編集者の言いなりは嫌。100%、自分自身の考えを世に出して、それを認められたかった。「真面目」「いちず」「けなげ」な少女が出てくる、昔ながらの少女漫画は嫌いで、もっと不良性を帯びたものが描きたかった。女であっても、気に入らなかったら相手を殴るくらいのキャラクターにしたい。
少女の夢物語より、貧しい青年が犯罪に手を染めてのし上がるピカレスクロマンに引かれた。
中学生の頃、好きな小説で読書感想文を書く課題で、私が選んだのはドストエフスキーの「罪と罰」。高校時代の同じ課題ではスタンダール「赤と黒」だ。アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」も大好き。そして好きな映画の1、2、3位は「風と共に去りぬ」「ディア・ハンター」「アラビアのロレンス」。さらに、子供時代は見ることもできなかった貴族の世界を感じられるヴィスコンティ監督作……。
こうした昔の洋画の世界を、少女漫画で表現したかった。「かわいい女の子さえ描けばいいんでしょ」とバカにされていた少女漫画に、風景や建物、家具、車やバイクなど背景を精密に描き込んだ。光や影、アングルなども工夫した。私は1人で、映画のにおいのする漫画を作りたかったのだ。
結果「あなたが少女漫画の世界を広げた」と言ってもらえるならうれしい。「不良」「性描写」はもちろん「同性愛」「近親相姦(そうかん)」も1970年代から描いている。20年以上も連載し、累計発行部数が3000万部に及んだ「有閑倶楽部」はアクション・コメディだ。昔の少女漫画ではNGだったものを、じわじわと、ギリギリの際を攻めるように描いてきた。
私自身も不良っぽく振る舞ってきたが、恥ずかしながら、根はとても真面目。バイクに乗っていたのは、車酔いがひどく自動車が苦手だったからでもある。学校の成績は良かったし、家事全般は一応、何でもできる。自分中心ではなく、自分以外を中心にしても考え、行動できる大人になりたいという目標も持っていた。半面、このような真面目さを、人に見せるのはかっこ悪いとも思ってきた。いわば「真面目な不良」なのだ。
真面目に漫画を頑張りすぎて、重い腱鞘(けんしょう)炎を患い、緑内障も悪化、今は漫画の仕事は控えているが、私の人生は漫画に捧(ささ)げたと思っている。そんな私のこれまでを、振り返ってみよう。(漫画家)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
岡藤正広(30) あの日の約束 「日本一」と誇れる会社に トップ15年、最後の仕事(私の履歴書)終[2025/01/31 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
こういうのを虫の知らせと言うのだろうか。ふと、かつての戦友のことを思い出した。私に営業のイロハを教えてくれた峠一さんだ。
「そういや、峠さんはどうしてるんやろう」。共通の知人に聞くと、その人が大阪にある峠さんの自宅を訪ねてくれた。空き家になっていたという。お隣さんに聞くと、峠さんはすでに亡くなっていた。晩年はご家族とも疎遠になり、孤独死だったという。私が2010年に社長になって1年近くたった頃のことだ。
「俺はいつか日本一の商社マンになってみせる」。そんな夢を峠さんに語った若き日から40年余り。伊藤忠商事を率いてがむしゃらに駆け抜けてきた。不安でいっぱいだった就任当初を思えば、よくがんばったものだろう。
それでも思う。私はあの日の、峠さんとの約束をかなえたと言えるだろうか。
伊藤忠のトップを拝命して15年。当初は社長を6年やって後任にバトンを託そうと考えていたことを思えば、ずいぶんと長い時間が過ぎた。日本経済新聞の担当記者からは毎年のように「いつまで現役を?」と聞かれるが、私の仕事はまだ完結していない。
業績や市場からの評価では財閥系と伍するところまできた。だが、私は伊藤忠をもっと良い会社にしなければならない。そう心に誓ったのが20年7月のことだ。苦労を重ねて私と弟を育ててくれた母が息を引き取った。最期に手を取ると、もう私の手を握り返す力も残っていなかった。
今でも後悔している。最期にたったひと言でいい。おふくろに感謝の思いを伝えたかった。新型コロナウイルスのため5月に迎えた93歳の誕生日を家族で祝ってやれなかったことが心底悔やまれる。
飲んだくれのオヤジが転落する中で一家を支えてくれたおふくろ。街に住友銀行(当時)の独身寮ができると近所でちょっとした話題になり、エリートたちが暮らす立派な建物をうらやましそうに眺めていた姿を思い出す。
私たち兄弟に「将来は大企業に行ってな」と言うようになったのはあの頃からだ。借金取りに追われるような生活からは抜け出してほしいという、切なる願いだった。
伊藤忠をどんな会社にしたいか。その尺度は業績や株価だけではない。それより社員たちが家族や世間に誇れるような立派な会社にしたい。
あの時のおふくろに「少しは恩返しできたでしょ」と胸を張って言えるような。最期に手を握った時、伝えられなかった感謝の言葉に代えられるような――。その高みには、まだ達していない。
もちろん、いつまでも現役というわけにもいくまい。後継者はまだ決めていないが意中の人は複数いる。若い人が割って入る可能性も大いにあるし、期待したいところだ。
ビジネスの世界では厳しい競争が待っている。より良い明日をつかむために、我々は勝たなければならない。だから後継者には商売の勝負勘を持ち、勝ちグセを身につけているかを問いたい。
だが、それだけでは不十分だろう。社員たち一人ひとりを思いやれる寛大さを持つ人に、この会社のバトンを託したいと思っている。
かつて峠さんに「日本一の商社マンになる」と約束した。経営者となった今はどうか。伊藤忠を社員たちが誇れるような、天国の母に誇れるような日本一の会社にしてみせる。それこそが私にとっての約束であり最後になすべき仕事だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
=おわり
あすから漫画家 一条ゆかり氏
【図・写真】私には胸に秘めた目標がある(東京都港区の本社)
岡藤正広(29) 恩返し デサント買収強行の内幕 ビジネスに禁物の私情が交錯(私の履歴書)[2025/01/30 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
ビジネスに私情を持ち込むのは禁物だ。だが、やはり人間がやること。完全に私情を捨て去ることができないのもまた、事実ではなかろうか。あの時の私もそうだった。
2019年1月31日。早朝7時に開いた臨時取締役会で、私はこう宣言した。
「これは飯田さんの弔い合戦や。飯田さんの無念を晴らすためにも、私は命をかけてこれをやり抜く」
有無を言わせない口調だったと思う。実際、反対意見は出なかった。こうして前代未聞と言われたデサントへの敵対的買収が決まった。
伊藤忠商事とデサントは長年、関係が深かったのだが1980年代にデサントの経営が行き詰まった。米ゴルフブランドが不振で大量の在庫を抱えたことが原因だった。
支援を求められた伊藤忠は85年、再建のためにエースを送り込んだ。私が師と仰ぐ飯田洋三さんだ。私の新人時代の課長だった。駆け出しの私が取引先とトラブルを起こしたと聞けば、一緒に出向いて真っ先に頭を下げてくれるような上司だった。
本来ならいずれ伊藤忠を背負って立つ器の人だったと思う。飯田さんがデサントに送り込まれると聞いた時は、驚きを禁じ得なかった。
飯田さんは文句も言わずに尽力された。「3年で再建する」という宣言通りに、3年で巨額の赤字から見事に黒字転換を果たされた。工場閉鎖や人員削減など苦しい決断の連続だったと思う。
その後も引き留められてデサント社長となった飯田さんを襲ったアディダス・ショック。売上高の4割、利益の8割を占める独アディダスから契約を打ち切られる危機も飯田さんの陣頭指揮で乗り切った。飯田さんこそがデサントの中興の祖だ。私のひいき目ではあるまい。
業績が持ち直すと、飯田さんは相談役に退いた。経営が軌道に乗れば伊藤忠は不要とばかりに古参幹部たちが創業家を担ぎ、2013年に伊藤忠出身の社長が突然解任される騒動があった。筆頭株主の当社には「3年だけ社長をやらせてほしい」と打診があり、認めたのだがその後も居座ることに。しばらくすると再び経営不振に陥った。
その件について私が問いただすと、なんと隠しどりされた音声が週刊誌に持ち込まれた。その少し前にはデサントは突然、ワコールホールディングスとの提携を決めた。社長解任時と同様に緊急動議。つまり不意打ちだ。
筆頭株主としてもはや看過できないと考えた。飯田さんが再建した会社をもう一度立て直すためにも。
冒頭の取締役会で私が居並ぶ役員陣に覚悟を示したのは、こんな事情が背景にあったからだ。その直前、飯田さんにお会いしに行った。
「僕は飯田さんのためにも命をかけてやります。必ず仇(かたき)を取りますから」
まるで任侠(にんきょう)映画のセリフのようだが、飯田さんは達観されたものだった。「無理するなよ。中小企業をいじめていると誤解されないようにな」。こんな忠告をいただいたが、情だけでなく利も伴うため買収を押し通した。
こうして成立したデサント買収。報告に行くと飯田さんはいたく喜んでおられた。その表情を見て、少しは恩返しができたのかなと思った。
繰り返す。ビジネスに私情は禁物だ。特に私は多くの株主からの期待に応える責任を持つ上場企業の経営者だ。ただ、あの敵対的買収の裏にこんな個人的な思いがあったこともまた偽らざる事実だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】飯田洋三さん(右)と(2019年3月)
岡藤正広(28) 孫さんの提案 「真の総合商社」の試金石 ファミマの可能性を思い知る(私の履歴書)[2025/01/29 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1406文字 PDF有 書誌情報]
あれは2017年末のことだ。ある方の紹介でソフトバンクグループ社長の孫正義さんと会食した際に、孫さんから社外取締役への就任を打診された。「光栄ですが、ちょっと今は余力がありませんので」と丁重にお断りした。すると、孫さんからすかさず二の矢が飛んできた。
「うちと50%ずつでファミリーマートをやりませんか」
折半で共同買収しないかということだ。「なぜ携帯会社のソフトバンクがファミリーマートを?」。これには思わずポカンとしてしまった。だが、孫さんの話に耳を傾けるうちに合点がいった。
孫さんはインターネットを主戦場にしてきた。そこで生まれるデータをどう押さえるかが、ネットビジネスの勝敗を決める。そもそも携帯電話に参入したのも、モバイルでネットが使われる時代を見越してのことだったという。
モバイルは使う場所を問わない。スマホでの決済を通じて、これまでネットが行き届かなかったリアルの世界のデータにまで手が届くようになる。どんな人たちが、いつ、どこで、どんなものにお金を払っているのか――。そういう視点で見ると、全国に店を持ち老若男女が24時間訪れるコンビニは膨大な購買データを集めるプラットホームということになる。
今振り返れば、孫さんの提案はソフトバンクがスマホ決済のPayPayを始める直前のことだ。ファミリーマート共同買収の狙いは、決済を通じてリアルのデータを取ることにあったのだろう。やはり考えることのスケールが大きいとうならされる。
それと同時に、ファミリーマートの持つ力を理解しているつもりで、そうではなかったと思い知らされた。我々には見えなかったコンビニの価値が、デジタル産業のビジョナリーには見えていたのだ。
そう考えるとオチオチしていられない。コンビニに興味を持つのは孫さんだけだろうか。ここはもっと深く、ファミリーマートの経営に関わるべきだと考えた。
2018年に出資比率を50.1%に高めて子会社化し、20年には残る全株を取得して完全子会社にした。投じた資金は総額で7000億円になる。実は、いずれやるべきだと思っていたのだが私の背中を押したのは、あの時の孫さんの提案だった。
こうして伊藤忠の川下ビジネスの柱として手元にたぐり寄せたファミリーマート。その力を引き出せるかは、未来の伊藤忠にとっての試金石になると考えている。
当社は「総合商社」と言われる。確かに手掛ける事業の範囲は相当なものだ。ただ、そのひとつずつが有機的に連動しているかと言われれば、そうとも言い切れない。専門家集団の集団と言えば聞こえは良いかもしれないが。
言うまでもなくコンビニは我々の身の回りで必要なものが、限られたスペースにぎゅっと詰まったビジネスだ。そこで試されるのが、本当の意味での総合力だろう。問われるのが縦割りの打破だ。そのために19年に新設したのが第8カンパニーだった。繊維や機械など縦割りの業種別に分かれた7つのカンパニーの力を結集させるのが目的だ。
ファミリーマートが我々に問うのは真の総合商社への脱皮だ。伊藤忠の専門家たちは力を合わせて何か新しい価値を創れているか。読者の皆さんが次に緑の扉をくぐられる際には、是非そんな視点で店内を観察していただけないだろうか。もちろん、厳しいご意見を歓迎します。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】孫正義さんはコンビニの真価を見抜いていた(2024年11月)
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年(春秋)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 1ページ 566文字 PDF有 書誌情報]
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年、本紙に寄稿した「私の履歴書」は意表をつく連載だった。ふつうは近況の報告などから始まるが、初回タイトルは「開戦の日」。連載のほぼ半分を太平洋戦争の前線での従軍と敗戦後の抑留、復員体験にあてた。
▼インド洋の島で作業員が感染症でバタバタ倒れているのに、上官はマラリア蚊を防ぐ服の新調を認めない。マレー半島の捕虜収容所では高官たちの本性をみた。部下の戦犯容疑をかぶって獄についた者、戦死者に罪をおわせ自分と部下をまもった者。いっぽう「のらりくらりと立ち回って責任逃れを図る者」もいたという。
▼ベストセラーの著書「失敗の本質」で知られる経営学者の野中郁次郎さんが亡くなった。日本軍の敗北の原因を分析、いまの組織運営に役立つ教訓を引き出した。過去の成功体験に酔い都合のわるい事実にほおかむりする。東日本大震災で起きた原発事故を、閉鎖的コミュニティーがもたらした「人災」とも喝破していた。
▼博報堂の社長だった近藤さんはゆがんだ人事を見直し、同族会社の体質を近代的な経営に改めた。業界の悪弊の改革に乗り出すと、本社近くの駅で中傷のビラがまかれ、脅しもうけた。が、かつての青年士官は動じない。従軍体験のない現代のリーダーは今後「失敗の教訓」をどう生かすか。野中さんからの宿題であろう。
岡藤正広(27) 利は川下にあり 「コンビニの父」の助言 セブンイレブンに提携打診で(私の履歴書)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
ファミリーマートは伊藤忠商事の経営が苦しいさなかの1998年にセゾングループから打診を受けて資本参加した会社だ。丹羽宇一郎さんが社長昇格の直前にまとめたディールで、最後にはセゾンの実力者として知られた西武百貨店会長の和田繁明さんと無言で対峙した「沈黙の30分」は語り草になっている。
巨額損失を出し人員削減に追い込まれ、商社不要論までささやかれた苦しい状況での決断だ。1350億円で3割を出資することには、社内で反論も根強かったと聞く。繊維一筋の私にとっては縁遠い話だったが、今となっては伊藤忠の財産だと思う。
「利は川下にあり」
これは私の経営戦略の柱をなす考えだ。スーツ生地を輸入して国内で販売する仕事をしていた私が、生地の展示会で目撃したシーンをヒントにブランドビジネスを築いていった。商材は生地から服へと広がり、やがて小売り業にまで進出していった。消費者の声を直接拾い経営戦略に反映するマーケット・インに徹することで、自ら付加価値を創造していけるからだ。
その点、老若男女を問わず24時間お客さんが訪れるコンビニは可能性の宝庫だ。2015年にチャンスが巡ってきた。サークルKとサンクスを傘下に持つユニーグループ・ホールディングスがファミリーマートとの経営統合を検討するという。実は以前から伊藤忠出身のファミリーマート社長がユニーに持ちかけていた話なのだが、真剣に考えてくれるとの返事をもらった。
ただ、正直に言うと我々が欲しいのはコンビニだけだった。スーパーのユニーまで抱えるのはリスクが大きいのではないか。こう考えた私はある人を訪れた。当時セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さん。言わずと知れた「コンビニの父」だ。
人づてに鈴木さんは挨拶だけの訪問は歓迎しない人だと聞いていたので、いきなり直球を投げ込むことにした。
「ファミリーマートと提携しませんか」
同時にユニーとファミリーマートとの経営統合交渉が進んでいることも打ち明けた。サークルKサンクスと合算すればローソンを抜いてコンビニ2位となる計算だ。もし続けざまに不動の首位であるセブンイレブンと提携すれば、日本に超巨大な小売り連合が誕生することになる。
もちろん勝算があっての提案だ。このコンビニ2強連合構想は実現しなかったが、何度も足を運ぶ中で鈴木さんからこんな助言をいただいた。
「商社にスーパーの経営は不可能ですよ」
やはり、ユニーがネックになるというご意見だった。「この人が言うなら間違いない」。私の仮説が確信に変わった。まずはユニーもろとも統合してファミリーマートとサークルKサンクスの融合を進めるが、いずれユニーは切り離さなければならない。
格好の相手はすでに意中にあった。ドン・キホーテだ。鈴木さんからも助言をいただいた。2段階に分けてユニーの全株式を売却した。ユニーはその後、ドン・キホーテのもとで業容を拡大しており互いにメリットが大きい取引だったと思う。
こうして我々は当初の狙い通りにサークルKとサンクスを手に入れた。約4年がかりの業界再編。だが、これでファミリーマートの経営体制が盤石になったわけではない。
そう気づかせてもらった相手がいる。ソフトバンクグループ創業者の孫正義さんだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ファミリーマートへの出資は丹羽宇一郎さん(右)が決断した
野中郁次郎氏が死去 知識経営の権威「失敗の本質」 89歳[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 1ページ 488文字 PDF有 書誌情報]
知識経営の世界的権威で、「失敗の本質」などの著書で知られる一橋大学名誉教授の経営学者、野中郁次郎(のなか・いくじろう)氏が1月25日、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。89歳だった。(評伝を社会面に)
告別式は近親者のみで行う。2月2日に東京都小平市小川東町1の21の12のシティホール小平小川でお別れの会を開く。喪主は妻、幸子さん。
1935年東京都生まれ。58年に早稲田大政治経済学部を卒業。富士電機製造(現富士電機)を経て、67年に米カリフォルニア大バークレー校経営大学院に進学。82年に一橋大教授に就任した。
旧日本軍が判断を誤り続けた要因を解明した84年の「失敗の本質」(共著)などで知られる。日本企業の革新性の源泉を読み解いた95年の「知識創造企業」(同)は米欧の研究者にも影響を与えた。
個人が持つ知識やノウハウなど、言語やデータになる以前の「暗黙知」を軸に、組織が対話を経て新しい知を生み出すプロセスを定式化した。知識・経験などを共有し、創造的な経営を実践する知識経営は多くの企業で取り入れられた。
2019年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
岡藤正広(26) 幻の合併構想 丸紅に提案「最強の補完」 打倒財閥系へ「紅忠」復活?(私の履歴書)[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1323文字 PDF有 書誌情報]
あれは2010年代半ばのことだ。10年に社長に就任して打ち出した「かけふ改革」が軌道に乗り、若い頃から背中を追い続けてきた三菱商事、三井物産といよいよ真っ向勝負だと策を巡らせていた。その背中は依然として、はるか遠くなのだが諦めてはいけない。
そんな時に、みずほフィナンシャルグループ社長の佐藤康博さんから食事に誘われた。この日は丸紅社長の国分文也さんも同席された。佐藤さんと国分さんは麻布中学・高校の同級生でとりわけ親しく、その後も何度も3人で会食させていただいている。
その席で佐藤さんからこんな話が飛び出した。
「伊藤忠と丸紅が一緒になったらどうですか」
実は、私も以前から温めていた構想だった。互いの長所と短所を見比べれば、これほど補完関係がきれいに成り立つ組み合わせもないと思えるからだ。
例えば、食料では丸紅は穀物など川上に強く、我々はファミリーマートなど川下にあたる小売りにいち早く進出した。ちょうど丸紅が米穀物大手ガビロンを買収した後で、商社の中でも穀物での差別化を進めていた頃のことだ。他にも丸紅は電力が強く、伊藤忠商事は繊維では負けない。それに鉄鋼事業ではすでに事業統合した成果もある。
佐藤さんがどれほど現実味のある話と考えられていたのかは分からないが、わが意を得たり。丸紅と一緒になれば、悲願だった三菱・三井越えが現実のものとなるだろう。
そもそも丸紅と当社は、いずれも初代伊藤忠兵衛さんを創業者に持つ、いわば同根企業だ。もともとは「紅忠(べんちゅう)」という同じ会社だった。これが戦後に解体されて別々の会社となった経緯がある。その両社が今では得手不得手を異にしている。見方を変えれば最強の組み合わせだ。
「合併で一緒になって打倒財閥ですよ」
気づけば国分さんにこんな構想を熱く語る自分がいた。ビジョンを語るだけでは話が前に進まない。
「社長は丸紅さんから出してもらったらいいです」
こんな条件も出した。どちらが人事の主導権を取るかなんてことは、もはやささいなことだ。ただ、そう言われてもこれほどの重大事を即決できるわけがない。
「うちはずっと伊藤忠さんに追いつけ追い越せで来ましたので……」
国分さんが言いよどんだのも無理はない。今、合併に踏み切ると社員たちがどう捉えるか分からないから「もう少し待ってほしい」とおっしゃった。
「そりゃ、そうだろうな」と思い、時期を見計らうことにした。
社内でもごく限られたメンバーで検討を進めることになったのだが、いつしか国分さんとの間で話題に上ることもなくなっていった。同じ「親」を持つとはいえ、それぞれに成長して来た者同士がまた一つ屋根の下に戻るという決断が簡単でないことくらい、私にも痛いほど分かる。
こうして丸紅―伊藤忠の紅忠復活構想は歴史の闇に消えた……。いや、果たしてそう言い切れるだろうか。未来はいつも不確かだ。互いの利害が一致し、より良い未来をつくれるのであれば、可能性を消すべきではないのかもしれない。そんな思いを込めて、この知られざる話をあえてここで紹介することにした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】丸紅と伊藤忠は同根企業でともに初代伊藤忠兵衛を創業者にもつ
岡藤正広(25)受験の教訓 稼ぐにも伸び方それぞれ 成長投資や朝型勤務後押し(私の履歴書)[2025/01/26 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
かけふ改革の「稼ぐ」に関しても様々な改革を行ったが、ここでは全部門一律だった投資基準の見直しを挙げよう。きっかけは機械カンパニーのてこ入れだった。
伊藤忠商事は1970年代に自動車事業に本格進出し、機械カンパニーの中核事業となった。だが、徐々に弱体化して機械の業績は7つあるカンパニーの中で最下位となり、撤退論まで浮上していた。
自動車など製造業はやはり日本経済の屋台骨だ。失いたくはないが、踏みとどまるには相応の投資が必要になる。
そう考えた時に問題だと思ったのが、「株主資本コストを上回る最終利益の確保」を目的とする全社一律の投資基準だった。これでは弱い部門は手を挙げづらい。すると投資が後手に回り、ますます弱くなる。
再建の第一歩は自信をつけさせること。そのためにはカネを回す仕組みを作る必要がある。会社の事業を分野ごとに40ほどに分けて、投資基準を個別に定めた。これが機械の業績が最下位から2位に浮上するきっかけとなった。
この考えは個人にも落とし込み、たとえ業績がパッとしない部署にいても成果を上げれば報いるように評価や報酬のあり方も変えていった。そうでないと優秀な人材が埋もれてしまう。人が財産の商社で、これは致命的だ。
実はこうした改革は、失敗続きだった受験生時代の経験が土台となっている。私が2年も浪人した理由は結核だけではないと思う。単純に勉強の方法が間違っていたのだ。
母校の高津高校は進学校とはいえ、授業は平均的な生徒に合わせる。するとできる生徒はあくびして、できない者はついていけない。「こんなのに付き合っていられない」と、授業を無視して独りよがりな勉強を始めたことが失敗だった。ただ、あの時の疑問は間違いとも言い切れまい。悪平等は組織全体の活力を損ね、生産性を押し下げる。革新を妨げる要因ともなる。
会社は学校ではないが、できる子(事業)もいれば、そうでない子もいるのは同じ。それぞれに伸ばし方があっていいだろうと考えたのだ。
受験の教訓を経営改革に取り入れた例はこれだけではない。私はフレックス勤務を朝型に改めた。きっかけは東日本大震災だ。朝遅くにゾロゾロと出社してくる社員たちを見て思った。「お客さんや被災地の方々が大変な時に、これじゃアカン」
続いてこう考えた。周囲がバリバリと働いている時間帯を逃して良い仕事ができるだろうか、と。こうして思い切った朝型勤務を取り入れた。夜の残業代が減るので早朝割増金を増やし、朝食も用意した。
実は、この働き方にも受験の教訓がある。高校時代の私は学校から帰るとまずは仮眠を取り、夜中に起きて勉強を始めた。すると、いつも寝不足気味で頭がボーっとする。勉強ははかどらない。焦ってまた夜更かし……。結核を患ったのも不摂生が原因じゃないだろうか。
こんな反省から社会人になってから朝型を徹底してきた。今では早朝4時に起きて入浴と朝食を済ませると5時30分に出社する。
これは私個人のライフスタイルでしかない。でも、仕事のパフォーマンスが上がることは間違いないと思い、会社の制度に落とし込んだ。
私の働き方改革に当初はご批判もあった。ただ、失敗からの学びは明日への肥やしになると信じている。もちろんこれが完成形ではない。今後も社員たちと一緒により良い働き方を探していきたい。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】無料の朝食をとる社員(東京都港区の本社)
岡藤正広(24) ハイセイコー 進軍停止は社長の仕事 吉野家株売却で覚悟示す(私の履歴書)[2025/01/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
良くも悪くも伊藤忠商事は調子が良い時には歯止めが利かずに「それ行け、やれ行け」と進軍してしまう文化が残っている。ところがちょっと事業環境が悪くなると、一転してずるずると後退してしまう。その繰り返しだった。
古くは1960年代に石油ビジネスに乗り出すも、70年代の石油危機ですっかり経営の重荷に。バブル末期には財テクや不動産投資に手を出し、巨額の損失を生んだ。
その結果が、財閥系の後塵(こうじん)を拝し続ける万年4位だ。私はこんな体質を昭和の名馬、ハイセイコーに例えてきた。北海道に生まれ地方競馬を席巻したハイセイコーは、日本人の判官びいきもあって絶大な人気を誇った。三冠馬への期待が高まったが勝負のレースで3着に終わった。
肝心なところで財閥系に跳ね返される伊藤忠によく似ている。競馬ファンには怒られるかもしれないが、伊藤忠はいつまでもハイセイコーではダメだ。ここぞというレースに勝つためには浮かれずに実力をつけるしかない。
では、どうすればいいのか。私が考案した稼ぐ、削る、防ぐの「かけふ」改革。その中でリーダーシップが試されるのが「防ぐ」だ。撤退などのシビアな決断はリーダーにしかできないからだ。
就任1年目で、この点を自らに問うた。事業に関わらず「3期連続赤字なら撤退」のルールを徹底したのだが、改革が名ばかりではないと示すためにも、手を付けなければならない事案があった。西武百貨店から株式の20%を取得していた牛丼の吉野家ホールディングスだ。西武との提携の呼び水となった案件だ。
出資した当時、私は西武との連携プロジェクトに関わっていたが、吉野家については食料カンパニーが担当した。これが当初の狙いが大きく外れてしまっていた。
例えば、牛丼に使う牛肉とコメ、タマネギ、ショウガの調達を伊藤忠が担おうとしたのだが、すでに強固な調達ルートを持つ吉野家にとっては必要がない。安易に相乗効果を見込めると踏んだのは当社の方で、吉野家に非はない。
ほかにも伊藤忠内の金融事業と協力して「吉野家の店内にATMを置く」という案もあった。少し考えれば、ATM利用のために牛丼店に立ち寄る人はそうはいまいと分かりそうなものだが、机上の空論で計画を作ってしまったと言うほかない。
もはや伊藤忠が吉野家に20%を出資している意味はない。私は社長1年目で吉野家株の売却を決めた。
ただ、そもそも出資を西武と伊藤忠が頭ごなし的に決めたことを良く思わなかったのだろう。吉野家にはなかなか売却話を聞いてもらえない。どうしたものかと思案していたところ、たまたま会食したゼンショーホールディングスの方から吉野家株に興味があるとの話をいただいた。
「すき家」や「なか卯」を傘下に持つゼンショーは吉野家のライバルだ。20%もの株が渡っては一大事。結局、吉野家が引き取ることになった。
社内に目を移すと、やはり食料カンパニーの反発は大きかった。吉野家への出資は食料出身の丹羽宇一郎さんがまとめた案件。社内でも聖域化していた面が否めない。
だが、相乗効果を生まないなら将来の損失の温床になりかねない。早めに「防ぐ」に限る。無謀な進軍を止められるのは社長だけだ。
なお、7回目で当時の三井物産本社が東京・大手町とあるのは東京・西新橋の記憶違いでした。訂正いたします。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】吉野家への出資は頭ごなし的だった
(2000年9月9日の日経流通新聞)
岡藤正広(23) 蟹穴主義 負け癖 打破した「かけふ」 改革、小さな成功の積み重ね(私の履歴書)[2025/01/24 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 書誌情報]
稼ぐ、削る、防ぐで「かけふ」。社長就任前に自宅で五大商社の決算書に目を落としている際に浮かんだ言葉だった。これには当時の伊藤忠商事が置かれた状況が大きく影響している。今回はやや趣旨を変えて伊藤忠改革の構想を練る上で、なにを考えたかを振り返りたい。
伊藤忠は長年、業界で万年4位と言われていた。数字の上では良い勝負をすることもあるのだが、その思い込みが三菱商事、三井物産、住友商事の財閥系3社との差を実態以上に大きくしていた。
当時の業績はバブル末期に財テクに走ったツケを払った1990年代末と比べれば、そこまで悪いというわけではない。それだけに、私の目には現状に甘んじる空気が社内に流れているように見えた。
成長を期するなら、やはり財閥系に追いつけ追い越せだ。ただし、いきなりトップを狙えと言うと現実味が乏しく社員も本気にならない。身の丈をわきまえながら、もう一歩の努力で手が届きそうな目標をいかに作り、組織をそこに導けるか。これが私なりのマネジメントの極意だ。
ヒントとなったのが、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一さんが著書「論語と算盤」で説いた「蟹(かに)穴主義」だ。蟹は自分の甲羅の大きさに見合った穴を掘るのだという。身の丈にあった行動を取りながら、その甲羅を取り換えて成長していく。
会社の成長も蟹を見習うべきだ。万年4位の負け癖を取り除くには、小さな成功を積み重ねて社員たちに「やればできる」を実感させることが先決。リーダーに問われるのは、手が届きそうな甲羅のサイズをどう設定するかだ。
私が注目したのが売上総利益(粗利益)だった。すでに三菱に次ぐ2位。稼ぐ力は十分にある。だが、経費が大きく、これを差し引いた営業利益となるとガクンと落ちる。そこから特別損失などを引き純利益となると、住友を下回って4位になってしまう。
見方を変え、無駄を削り損失を防げば万年4位はすぐに返上できると考えた。
これが最初のターゲットだ。果たして就任から2年後の2012年3月期決算で純利益でも住友を上回り、万年4位からは脱却した。
その次の甲羅は「非資源でナンバーワン」。伊藤忠が財閥系に劣る資源分野を勝手に除いて対抗しようと考えた。恣意的な数値に基づく目標と言っていただいて結構。勝ち癖を付けさせるために選んだ新しい甲羅だった。
その先は純利益で初の首位。これは16年3月期に達成した。ただし、この時は財閥系が軒並み資源関連の損失を出し、「敵失」に助けられた面も否めない。本当の意味で財閥系と伍する地位を目指そうと掲げたのが純利益、株価、時価総額で首位に立つ「商社三冠」だ。20年6月、ついにこの高みに立った。
社長就任を前に奈良・学園前の自宅で構想を練った日から10年。この間の社員たちの奮闘を思えば、さすがに感無量だった。「万年4位からよくぞここまで」、と。
もっとも、次の甲羅への挑戦はこれからも続く。すべては伊藤忠の優秀な社員たちに持てる力を最大限に発揮してもらい、今より強い会社に、良い会社にするために。
もちろん、目標設定やかけ声だけで勝てるほど財閥系のライバルたちとの戦いは甘くない。少しずつ蟹穴を大きくしていくための実行計画こそが「かけふ」だった。次回から実際にどう戦ったのかを振り返りたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】渋沢栄一の肖像写真(深谷市所蔵)
岡藤正広(22) 会議、誰のため? 無駄が多く「会社潰れる」 手帳に記した9つの改革(私の履歴書)[2025/01/23 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1357文字 PDF有 書誌情報]
私には小さなポケットサイズの手帳に、その時々に思ったことを書き込む習慣がある。当時は「社長になったらやること」を思いつくままに書き込んでいた。
月刊の社内広報誌の見直しから始まり、業務改革など9項目にわたる。現場主義、率先垂範など心得的なものもあるが、「MBA中止」や「社員にクレームをつけさせる」という本当に制度に落とし込んだ項目もある。
そして「会議大嫌い」の一文――。そう、私は昔から会議が大嫌いだったのだ。大阪弁でいう「いらち」、つまり短気でせっかちな性格のせいかもしれない。ただ、昇進するほど会議に関する無駄がなんと多い会社かと痛感するようになった。
あれは丹羽宇一郎さんが会長だった頃だと思うが、丹羽さんが「お金はお客さんのところに落ちている。とにかくお客さんのところに行け」と話されていた。ごもっともなのだが「これだけ会議が多いのに、いつ客先に行けと言わはるんですか」とかみついたことがある。
会議で上司が発言するためにどれだけ多くの部下の時間を潰してしまっているか。例えば、毎週月曜午前に開かれていた各カンパニープレジデントと海外主管者による情報連絡会。あれは私が繊維カンパニーのトップだった頃のことだ。モスクワに出張に行くと、繊維出身の支店長が切実に訴えかけてくれた。
あるカンパニー出身の駐在員たちはこの会議のために1週間、ネタ探しに走り回っているという。モスクワだけではない。このカンパニーでは金曜になると東京が世界中から情報を集約し、月曜の会議でプレジデントが披露する資料を作っているのだという。
開いた口が塞がらないとはこのことだ。私も繊維のプレジデントとしてこの会議に参加していたが、まずは自分で情報収集して分からないことがあれば担当者に直接聞いていた。
確かに、このカンパニーのトップは世界中の情勢に精通しているという調子で見事なプレゼンをしていた。だが、自分の話が終わればホッとしてしまい、他部門の話などロクに聞いちゃいない。
「こんなことをやっていたら会社が潰れる」
本気でそう思った。社長になるとすぐにこの情報連絡会の時間を短縮した。続いて毎週月曜開催から月1回に。ついには廃止してしまった。年に1度、3日かけて開催していた特別経営会議も半日に圧縮した。
もっと重要なのは、会議を実りあるものにするため上司に予習を課したことだ。議題を事前に把握して上司が仮説や結論を持って臨めば会議は報告の場から意思決定の場に変わる。それだけで生産性がどれだけ向上するか。
会議の削減は一例だが、こういった無駄な仕事を徹底的に削るという実に地味な作業から私なりの経営改革は始まった。削るだけではない。無駄な損失を防ぐ、そして稼ぐ力を最大化していく。
稼ぐ、削る、防ぐ――。略して「かけふ」。これが経営改革の合言葉だ。
「岡藤さんは大阪出身だから、やっぱり阪神タイガースのファンなんですね」
今までに何度も聞かれた。「まあ、そんなところですわ」と曖昧に答えたこともあったが実は野球にはあまり関心がない。単に語呂がいいから「かけふ」にしただけだ。ただ、覚えてもらいやすいキャッチフレーズとなり、個人的にはとても気に入っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ポケット手帳に改革案を書き込んだ
岡藤正広(21) 伏魔殿 「東京のモン」に不信感 自信持てず創業者の墓参り(私の履歴書)[2025/01/22 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1389文字 PDF有 書誌情報]
2010年4月に社長に就任し、一家で東京にやって来た。会社からは特に事前の説明もなく、何時に自宅に社用車が来るのかも分からない。
社長室に通されても広い空間で、なんとも居心地が悪い。部屋から出ると隣の部屋から秘書が飛び出してきた。
「なんで俺の動きが分かったんや」
そう思ったのもつかの間。社長室のトイレに入って部屋に戻ると、机の上の書類が整理されていた。わずかな時間のことだ。「あれ? どこかで誰かが俺のことを見てるんか……」。試しにもう一度トイレに行ってみた。すぐに部屋に戻ると、席には新しい書類が置かれているではないか。これを見てゾッとした。
「やっぱり監視されとる。ここは伏魔殿や!」
私の「東京本社=伏魔殿説」を決定づけたのが、このしばらく前の出来事だった。
副社長だった私は、東京の人事制度委員会の委員長に指名された。全社の人事制度を見直そうと議論百出の末に新制度案がようやくまとまったのが金曜のこと。後は週明けに取締役会で提案するだけ。そのまま大阪に帰った。
ところが月曜朝に東京に来てみると、なぜか従来の制度が併記されていた。何日もかけて議論してきたことがどこへやら……。後で分かったことだが「犯人」は先輩にあたる人事担当役員だった。自分が作った制度を「外様」の私に変えられることが恥だとでも思ったのか、両論併記するよう人事部長に命じたという。これにはカッとなった。
「こんなアホなことがあるか。ええ加減にせえ!」
取締役会で真正面に座る当時社長の小林栄三さんにも「やってられませんわ」とかみついた。こんな調子だから「東京のモンは信用でけへん」という思いが強くなった。
やや話は変わるが、私は社長就任翌年から毎年、創業者である初代伊藤忠兵衛さんの墓参りに京都まで通っている。最初は「無事に任期を全うするため力を貸してください」とお願いした。それほど自信がなかったのだ。
ここで告白すると、もともと京都通いは忠兵衛さんの墓参りが目的ではなかった。
尊敬する大先輩である堀田輝雄さんと、お世話になったミラ・ショーンジャパン元副社長、鍛冶正行さん。お二人の墓がそれぞれ京都の寺にあり、ずっと以前から毎年通っていた。忠兵衛さんの墓も京都にあるので、「伊藤忠のトップとしてお参りしないと失礼だ」と思い、毎年訪問するようになった。
ただ、今では忠兵衛さんへの報告は大切な時間だ。20年6月には墓参りの翌営業日に株価が三菱商事を抜き、悲願だった純利益、株価、時価総額での「商社三冠」を達成した。これも忠兵衛さんのお力添えかなと思ったものだ。
だが、やはり直接薫陶を受けた2人の恩人への思い入れは、まったく別物だ。
堀田さんは私が入社した時の衣料部門のトップ。雲の上の存在だったが、親子ほど年の離れた跳ねっ返りの私をかわいがってくれた。鍛冶さんはもともとあるデパートの部長だったのだが、私が駆け出しの受け渡し時代にマージャンに誘ってくれたものだ。全国のデパートを行脚しては「岡藤君のことをよろしくお願いします」と頭を下げてくれた恩は、忘れることはない。
そして現在――。墓参りの目的は感傷に浸ることではない。恩人たちに伊藤忠の成長を約束し、結果で報いると誓うことだ。「東京は伏魔殿」などと言っていられない。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】創業者の墓参は続けている(京都市)
岡藤正広(20) 社長指名 避け続けた東京行き 母の涙によみがえった記憶(私の履歴書)[2025/01/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
「岡ちゃん、春から東京に来てもらえないか」
あれは2008年初めのことだ。社長の小林栄三さんから電話がかかってきた。正直、嫌だなと思った。大阪で繊維一筋の私にとって、東京・青山の本社の印象は「伏魔殿」。どうせ嫌がらせをされるのだろうな、と。
ここは知らぬふりを決め込んでやれと、まともに返事もしなかった。特にお沙汰もなく、ホッとしていたのだが、1年後にまた小林さんから「前の話だけど、東京に来てほしい」との電話を受け取った。この時も同じような調子でやり過ごそうとしたら、小林さんの口調が変わった。
「今回断ったら永久に東京には来れないよ」
覚悟を迫るような声だったが結局、大阪本社に代表権を持つ者が常駐する必要があるという話になって、またしても私は東京行きを逃れた。
そこまで東京行きを嫌がったのには理由がある。大阪を拠点に繊維業界では名が知られるようになっていた私だが他の部門のことはまったく知らず、海外駐在の経験すらない。それに、伊藤忠商事では業務部がエリートコースとされてきた。営業マンとして現場の最前線を走り続けた私には無縁の話だが、所詮は「国内で繊維しか知らないヤツ」という見られ方だ。
「どうせ社長になるわけでもないし、東京なんか行ってられるかい」
またしても無視を決め込んでいた私だったが、小林さんからの電話の数カ月後に、大阪に出張に来ていた丹羽宇一郎会長から「一杯飲もうか」と、ホテルのバーに呼び出された。なにごとだろうと駆けつけると、思いもしないことを告げられた。
「君が社長をやれ」
そして翌10年2月10日。またしても小林さんから電話がかかってきた。「急で悪いけど明日、東京に来てくれ」
指定されたのはニューオータニのすし店「久兵衛」。小林さんは秘書にも言わずに一人で来るという。保秘を徹底するためだ。「岡ちゃんも一人で来るように。車じゃなく電車でな」とクギを刺された。もはや用件は明らかだ。
「岡ちゃんな、今から言うことにノーはないよ。社長をやってほしい」
私にはまだ迷いがあった。
「僕にできますかねぇ。自信がないですわ」
謙遜ではなく、偽らざる本音だった。すると小林さんは「大丈夫。僕も最初はそうだったから」と、ご自身の経験を話してくれた。もはや断りようがない。
社長に決まり多くの方々から「おめでとう」と言われたが、個人的にはめでたくもなんともない。ただ、一度だけ「良かった」と思えることがあった。小林さんに会うため東京に向かう日の朝。奈良の自宅で身支度を済ませ新聞を読んでいると、同居するおふくろが寝床から起きてきた。
「祝日やっていうのにまた出張?」
「いや、俺なぁ、これから社長の指名を受けるんや」
そう返すと、おふくろが大粒の涙を流した。
ふと、古い記憶がよみがえる。結核を患い人前に出ることさえ臆していた20歳の頃。暗闇から這(は)い出る思いで東京行きのきっぷをつかんだ。そういえば、あの時もおふくろは涙を浮かべていたっけ。
その日からちょうど40年。自分なりに精進を続けてきたつもりだ。人生の影の側にいたあの時の自分とは、もう違う。「これも親孝行なのかな」。そう考えた社長指名の日の朝だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】社長就任会見で(右は小林栄三氏、2010年2月)
岡藤正広(19) 縦割り組織 立ちはだかる社内の壁 弊害の打破、今なお試行錯誤(私の履歴書)[2025/01/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1359文字 PDF有 書誌情報]
2000年、伊藤忠商事は西武百貨店との資本業務提携を決めた。丹羽宇一郎社長(当時)の肝煎りプロジェクトなのだが、1998年に出資したファミリーマートに続く小売業への進出だった。
そこで作られた「SIプロジェクト推進室」。西武のSに伊藤忠のIを冠した新組織の室長に任命された。結局、西武の経営危機が深刻化し、組織は1年5カ月で終わったが、多くの学びがあった。
と言っても、あまり良い意味ではない。最大の学びは当社にはびこる縦割り組織の弊害が見えたことだ。幅広い商材を扱う百貨店に対応しないといけないのに、社内の各部署との調整がいちいちめんどくさい。
さらに縦割りの弊害を痛感する出来事が重なった。ちょうどこの頃に繊維部門の部下が契約を取り付けてきたディーン&デルーカ(D&D)の日本展開だ。ニューヨーク発の高級デリカテッセンで、おしゃれなお菓子や気の利いた小物なども取り扱っている。
なぜ繊維部門が食品の小売りかというと、「これからは衣類だけでなく、生活総合産業を目指そう」という方針を打ち出していたからだ。
私は繊維にも籍を残していたので真っ先に相談を受けた。まずは西武に共同運営を持ちかけたがあえなく却下。すかいらーく創業者のご子息と協力することで落ち着いた。
そこまでは良かったのだが、ここで社内に存在する縦割りの壁が立ちはだかった。
「なぜ繊維がそんなことを」。かみついてきたのが食料カンパニーだった。これには「ブランドビジネスの一環」で押し切った。
妥協案として食料カンパニーがコーヒー豆をD&Dに納入することになり、早速社内で人の目がつく場所にコーヒー売り場を設けようとしたのだが、売り場が置かれたのは本社1階の隅の空きスペースだった。当然、まったく目立たない。食料カンパニー内でファミリーマートとの競合が問題視されていたからだ。
それにもうひとつ、私が籍を残していた輸入繊維部をブランドマーケティング部に改名しようとした時のこと。またしても待ったがかかった。
反対する3つのカンパニーに直接、説明に回った。あるカンパニーのトップは冗談ぽく「これは貸しだよ」と言ってくれた。部署名の変更くらいでも、社内の理解を得るのはひと苦労だった。
この時の教訓をもとに19年に新設したのが第8カンパニーだ。繊維や機械、金属など業種別に分かれた従来の7カンパニーに次ぐ異業種横割りを前提とする新組織だ。
ここでもうひとつ、SI室での学びが頭にあった。
こういう横断組織を作る際、人選を各カンパニーに委ねるとエース級は集まらないということだ。実際、SI室には転職を公言しているような人たちも集められていた。優秀でやる気のある人材を集めるため第8カンパニーには立候補を募った。
こうして縦割り打破の仕組みを作ったつもりだが、どうしてなかなか……。部署間の利害調整は思った以上に難題だ。23年に「グループCEOオフィス」を作って私自身がその役割を引き受けたのだが、仕事は増えるばかり。
「縦割り打破なんて永遠に無理なんとちゃうか」と思うこともある。でも、やっぱり諦めてはいけない。今日も自分を奮い立たせ、より良い仕組みを作れないかと試行錯誤を続けている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】繊維部門でディーン&デルーカを始めた
岡藤正広(18)裏切りのM&A 高額で入札、なぜ逃した? 不良資産見抜けず残る教訓(私の履歴書)[2025/01/19 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
私は数々の欧州ブランドを日本に持ってきたが、とりわけ思い入れが強かったのが仏ランバンだ。若い頃からずっと憧れだった。
2001年、そのランバンの日本の権利が売りに出たという情報が入った。交渉は一発で決めた。交渉の最中に相手の目の前でMOU(覚書)を手書きしていく。合意すればその場でサインを求めた。
実は、これは私の常とう手段だ。合意事項の証拠をその場で残す。簡単なものの方が相手もサインしやすいから手書きにする。英語で箇条書き。文面は前日までに想定して頭にたたき込んでおく。
教訓にしたのが以前に触れたトラサルディとの交渉だ。昨日と今日では話が違っており、何度も煮え湯を飲まされた。そんなことがないようにと考えたのが「その場で手書きのMOU」だった。
やはり交渉ごとはキチッと手順を踏み、そのたびに内容を精査するのが王道だ。その意味で記憶に残るのが三景という会社の買収だ。その過程で不可解な事態に直面しただけでなく、最後には背筋がゾッとすることがあった。
産業再生機構の支援を受けていた三景への入札が05年1月に始まると、当社も手を挙げた。実は以前から三景の経営者から「助けてほしい」と言われていたのだが、機構傘下に入ったため手続きに従い入札することになった。
三景は一般的には無名だが服の裏地やボタン、芯地で圧倒的な国内首位。ただ、不動産投資に失敗して経営が傾いていた。当社にとっては是が非でも欲しい会社だが、実におかしな結果となった。
当社が最終的に提示した金額は180億円。だが、MKSパートナーズというファンドが160億円で落札した。
なぜ20億円も高い当社が落とされたのか。理由を聞くと「伊藤忠はガバナンスが強すぎる」と返ってきた。どうやらMKSが三景の経営陣の保身を約束したようだ。
選考過程には今でも納得できない。機構の責任者はあるファンドの出身と聞いたが、同じ業界の「身内」を優先したのか。いずれにせよ不透明な理屈に閉口した。もっと公明正大であるべきだろう。
そもそも助けを求められていた私はハシゴを外された格好だ。救済依頼書を取っておくべきだったが後の祭りだ。
それだけではない。最初の入札で落選した東レが、2次入札に進んだ当社になんと、共同で応募しないかと持ちかけてきた。社長は伊藤忠から出していいからとも。東レの前田勝之助名誉会長からの打診だが「今さら何を」、だ。私は無視を決め込んだ。
「この業界で東レの前田さんに歯向かってやっていけると思っとるんか!」。おかげで上司からはえらい剣幕で怒鳴られ、東レの新年会には呼ばれなくなったのだが。
こうして逃した三景だが、実は3年後に106億円で手に入れた。三景が巨額の不良資産を抱えていたことが発覚し、ピンチに陥ったMKSが再び売りに出すという、なんともお粗末な結末だった。
3年余りでのタナボタ的な買収劇だが、喜んでばかりはいられない。この不良資産の存在には我々も全く気づいていなかったのだ。
もし、あの時に裏切りにあわなかったら多大な損失を被ったのは当社だろう。査定が甘かったと反省している。
意中の会社をより良い条件で手に入れたわけだが、結果オーライでは済まされない。ビジネスの世界では一寸先は闇。そんなことを教えられた買収劇だった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三景の商品を視察する筆者(左)
岡藤正広(17) 我が親分 突然の人事撤回に憤慨 告げ口に翻弄、腹割って話す(私の履歴書)[2025/01/18 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1391文字 PDF有 書誌情報]
1992年4月、我がアパレル第三部に新しい部長が赴任してきた。貿易畑のエースと言われた加藤誠さん。米国からの帰任だった。本当は別の重要ポストへの起用がほぼきまっていたが、ジョルジオ・アルマーニとの契約更改を任された。加藤さんの本意だったかどうかは分からない。
私には、社内で白い目で見られながらもブランドビジネスを切り開いてきた自負がある。もし、ともに戦う気概もなく腰掛けのつもりなら到底、受け入れられない。
それを知らしめようと歓迎会の司会を買って出た。冒頭でこう挨拶するためだ。
「我々は加藤さんを歓迎しません。ここに骨をうずめる覚悟を持っていただきたい」
宴席が凍り付いたが、杞憂に終わった。加藤さんは我々の部に骨をうずめる覚悟をお持ちだったからだ。
伊藤忠の繊維はどうあるべきか――。互いの自宅がすぐ近くで、お客様との会食後にタクシーの中で熱く語り合ったものだ。ある件で加藤さんが落ち込んでいた時には激励会を開き、こんな言葉を刻んだオブジェを贈った。
「加藤さんはいつも、我々の親分です」
誰が見ても盤石の二人三脚だと思ったはずだし、事実そうだった。この人とならブランドビジネスの未来を描ける。上司として、人として、全幅の信頼を置いていた。
ところが一度だけ、ちょっとした行き違いがあった。
2000年から繊維カンパニープレジデントになった加藤さんは、早い時期から「岡藤を僕の後任にするから」と話すようになった。加藤さんは9歳も上なので異例の人事なのだが、私が仕事でこだわるのは結果であり、肩書ではない。「ああそうですか」と素っ気なく答えていた。
それよりやるべきことがあった。ある時、私は加藤さんから大きな問題を抱えたふたつの組織の再建を頼まれた。いずれも私の担当外なのだが繊維カンパニーにとって看過できない状況だったので大ナタを振るうことになった。
すると両組織のトップが加藤さんに泣きついた。「岡藤君は厳しいです」と。自分たちの責任は棚に上げて年下の私にメンツをつぶされたと考えたのだろう。ただ、この2人は加藤さんの元部下だった。情も深い。加藤さんにも迷いが生じたのかもしれない。
突然、加藤さんからこう告げられた。「君はこれからもっと経験を積んで後々に大きくなってほしい」。後任人事の約束を撤回して加藤さんの「次の次」にするという意味だと、私は受け取った。
夜になるとなぜか悔しくて眠れない。翌朝、加藤さんの部屋に駆け込んだ。
「僕は加藤さんを信じてやってきた。なのに、こんなバカなことはないですわ」
社内の地位など、どうでもいい。そんなことより信用を踏みにじられたと思った。
加藤さんはじっと耳を傾け、私の真意を理解してくれた。「そんなに心配することはないよ」。そう言って約束を守ってくれた。
妙な話を蒸し返したが、私にも落ち度がある。結果さえ出せば良いだろうと、事前の相談や報告を怠っていた。大いに反省するところだ。それに、ああまで感情的になることもあるまい。
この一件で学んだ。信頼する人との間でさえ、ささいなことで人間関係は壊れかねないということ。そして、ここぞという時には腹を割って話すべきだということ。失いたくないものがあるのなら。
それも我が親分が黙って受け入れてくれたからだ。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】加藤誠さん(右)とは固い絆で結ばれた
岡藤正広(16) アルマーニ 商談の決め手は節税術 耳疑う情報、つないだ縁(私の履歴書)[2025/01/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1380文字 PDF有 書誌情報]
どうすればファッション界の巨人、ジョルジオ・アルマーニにたどり着けるか。私には心当たりがあった。
1986年7月、私は銀座にあった「たい家」という料亭である人物の送別会を開いていた。アントニオ・グイゼッティといって、イタリアから経団連に派遣されていた。彼はベルガモという街の名家の出らしく、日本のことを見下すような言動にうんざりすることもあったが、この日は別の目的があった。
「帰国したら俺と組まないか。もうけさせたるぞ」
「なにをやろうと」
「アルマーニや。イタリアに帰ったらアポを取ってもらえへんか」
しばらくするとアントニオから連絡が入った。9月にアルマーニの最高幹部が会ってくれるという。
実はここまでに伏線があった。この前年、私はイタリアのトラサルディとの商談に臨んでいた。創業者のおいで実権を握るニコラ・トラサルディが住んでいたのはミラノから車で1時間ほどの場所にあるベルガモだった。
お城のような豪邸にニコラが現れたかと思うと「首相から電話が入った」と言って10分ほどで姿を消してしまった。いくら待っても部屋に戻ってこない。結局、日付も変わろうかという時間になって交渉が再開し、なんとか合意にこぎ着けた。
「ちゃんと清書するから明日またサインしに来てくれ」
「そんなモン、さっさと作ってくれよ」と思いつつ、真っ暗な道を車を飛ばして渋々ミラノに戻った。ほとんど寝る時間もなく翌朝また豪邸に。秘書から渡された契約書を見てギョッとした。
前夜に合意した内容と全く違うではないか。怒りが込み上げてくるがグッとこらえた。その後も何度もベルガモに通って販売戦略などの詳細を詰めていった。
記者発表直前のことだ。ニコラから「日本のことは彼と話を進めてほしい」といってある人物を紹介された。それがアントニオだった。ベルガモではトラサルディ家と並ぶ名家の出身だという。しかも、彼の父はやり手のコンサルタントでイタリアのファッション業界に太いパイプを持っていた。この縁をアルマーニにつなげたのだ。
「アルマーニが海外進出の際に最も関心を持ちそうなことを調べてほしい」。私がこう依頼すると興味深い情報が舞い込んだ。なんと、最大の関心事はマーケティング戦略や広告、店舗展開などではなく節税なのだという。
「ほんまかいな」と耳を疑ったが確かだという。これに賭けようと日本の税制に関して詳細にまとめた100ページ超の提案書を作成した。
そして交渉の席。ミラノにある荘厳な建物に案内された。そこに現れたのがジュゼッペ・ブルゾーネだった。後にアルマーニを世界に広めた実力者だ。その彼に交渉の席でひたすら節税術を説いたのは、なにか滑稽な感覚がした。
実はアルマーニには競合の総合商社だけでなくアパレル企業や百貨店、ゼネコンまで10社近くが接触していたという。我々より良い条件を提示した会社もあったと聞いたが、こちらの勝利に終わった。
「商人は水であれ」が私の持論だ。お客さんに合わせて変幻自在に形を変えよという意味だが、御用聞きに徹すればいいというわけではない。どこに付加価値を見いだし主導権を確保するかが商人の腕の見せどころ。この時は節税対策を示しつつ、当社にとって価値ある契約に落とし込めたと思っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】アルマーニを手掛けた1986年当時
岡藤正広(15) 三井の背中 「利は川下にあり」を学ぶ 商売に不可欠な主導権に道筋(私の履歴書)[2025/01/16 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1404文字 PDF有 書誌情報]
私がオーダーメードシャツの一件にこだわったのは、もちろん東京シャツとの約束があったからだが、もうひとつ理由があった。
「なにか違うことを」と考え続けた駆け出し時代。サンローランで始めたブランドビジネスはようやく見つけた突破口だった。社内ではまだ懐疑論があっただけに、折れるわけにはいかなかった。
それに、サンローランに続いて数々の有名ブランドとのライセンス契約をまとめる中で、私は商社マンとしてこう確信するようになった。
今後の商社の商売で不可欠となるのは、付加価値とイニシアチブ(主導権)だ。
メーカーの言うがままにモノの流れを差配して口銭を得るビジネスでは、いつ仕事を切られるか分からない。だが、伊藤忠にしかできない付加価値があれば、お客様にメリットがある上におのずと取引の主導権はこちらに移る。
この発想には実は、モデルが存在した。私が常にライバル視してきた三井物産だ。
彼らが一流たる所以(ゆえん)は財閥という箔だけではない。取引先の御用聞きに終わることなく、人気の海外ブランドと直接契約して問屋に紹介する一方、直営店も展開していた。三井にしかできない商売であり、主導権が生まれる。
「利は川下にあり」は後に私の持論となるが、三井はずっと先を行っていた。その違いに気づいた私は、三井の繊維部門で敏腕を振るう鈴木正隆さんを徹底的に研究するようになった。私より5歳上で、後に副社長になられた方だ。その考えを学ぼうと、なじみの業界紙に対談を設定してもらったくらいだ。
ただし、三井と同じことをやってもダメだ。三井が海外ブランド品の輸入に強みを持つのなら、我々はライセンス契約を結びデザイン監修を受けた日本製の商品を売るビジネスモデルだ。こうして巨人・三井とも差別化する道を見つけた。
ところで、私がいつも財閥系商社へのライバル心を語るからだろうか。大学卒業の際にある文集に「三菱商事三井物産殲滅(せんめつ)」と書いたということが、まことしやかにメディアで紹介されてきた。これは事実ではない。
それに財閥系の三菱・三井といっても、この頃の私が追い続けたのは繊維の川下ビジネスに強い三井だ。というより鈴木さんの背中だった。
強大なライバルを追いかけるうちにブランドビジネスに確信を持つことになった私は、次なるターゲットを見つけた。世界トップと言っていいジョルジオ・アルマーニだ。
ここで告白しよう。
実は、アルマーニとの交渉のきっかけとなったのは営業マンとしてのビジョンでもなんでもない。私の心に芽生えたちっぽけな反骨心だった。
「ブランドビジネスとか言うてるけど、そんなモンはしょせん『耳』にブランド名をつけるだけでええ生地やからできることやろ」
イタリア帰りの先輩がわざわざ私の席に来て、こんな嫌みをぶつけてきた。服だと生地のように簡単にはいかないぞと言いたいのだろう。
その先輩が飲み会の席などで吹聴していたのが「世界の3G」の話だ。ジョルジオ・アルマーニ、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ、ジャンニ・ヴェルサーチは格が違うのだとか。中でも頭ひとつ抜けているのがアルマーニだという。
「それやったら俺がそのアルマーニやらと話を付けて見返したろうやないか」
こんな屈折した感情がビッグディールの発端だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三井物産・鈴木正隆氏と対談した(1998年2月25日付の繊研新聞)
岡藤正広(14) 理不尽な圧力 業界の雄を「敵に回すな」 門前払いでも通い続けた池袋(私の履歴書)[2025/01/15 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1397文字 PDF有 書誌情報]
紳士服の生地にイヴ・サンローランの名を冠して売る商売は、すさまじいまでの勢いを見せた。当時は一度の商談で20反売れるかどうかのところ、400反ほどが売れた。まさにケタ違いだった。
サンローランだけではない。エマニュエル・ウンガロ、ピエール・カルダン、セリーヌ、ミラ・ショーン……。この後、私は次々と欧州ブランドからライセンス契約を取り付ける。サンローランで開いたブランドビジネスは、新たな形に派生することもあった。
「岡藤さんがやっているサンローラン。うちでやらせてもらえないでしょうか」
問屋経由で東京シャツからこんな相談が舞い込んだ。この会社はそごう系列にルートを持っているのだが、ライバルの早稲田屋がオーダーメードシャツで仏ディオールと組んだ。「このままだと追い落とされかねません」。悲痛な訴えだった。対抗策としてサンローランのシャツを出せないかという。早速、サンローランにも話を付けた。
ここで思わぬ横やりが入った。オンワード樫山から猛烈なクレームが入ったのだ。西武百貨店からの依頼で「オーダーシャツの販売をやめてもらえないか」と言う。西武は当社の繊維部門とは接点がなく、業界の雄である樫山を頼ったのだ。
西武はサンローランの既製シャツの窓口だったが、伊藤忠商事が直接契約したことに衝撃を受けたようだ。
ただ、厳密に言えば契約の内容は異なる。西武が担当し、樫山にサブライセンスを供与していたのは既製シャツだ。一方、我々の契約に基づいて東京シャツが扱うのはオーダーメードなのだが、西武は脅威と感じたのだろう。
「お前は悪くないけど相手は西武とオンワードや」。当社の役員からはこう言われた。デパートとアパレルの両雄を敵に回すなという意味だ。だが、私も東京シャツの期待に応える責任がある。商人としての信用に関わる問題だ。どう考えても理不尽な圧力に屈するわけにはいかない。
「少し時間をください。西武と直接話してみます」
こうして東京・池袋のサンシャインビルへの日参が始まった。事務所で面会を申し込んでも一向に会ってくれないが、諦めたら終わりだ。私の営業の師である峠一さんなら、何ごともなかったかのようにまた訪問するだろう。
週に1度、伊丹空港から空路で東京に通う。すぐに週2度に。羽田から池袋に向かう道すがら、浜松町駅の地下でサンドイッチを食べるのが習慣となった。すっかり顔なじみになった喫茶店のおばちゃんとの何気ない会話が一息つける貴重な時間だった。
商人は諦めてはいけない。その一念で通い続けた。
2カ月ほどが過ぎたある日、扉は突然開いた。こちらも顔なじみになった受付の女性が、「お待ちしていました」と言う。応接室に通されるとダブルのスーツに上品な雰囲気の紳士がいた。
「何度も来ていただいたようで……」。そう言いつつ、妥協案を提示してくれた。サンローランのラベルの位置を襟からスソ裏に回してもらえないかと。これで一件落着。スソ裏ではお客様の目に触れない。当然、周囲から反発もあったが、ここは実利を取るべきだと説き伏せた。
この一件から私は3つのことを学んだ。たとえ相手が巨人でも筋を通すこと。交渉ごとでは100%にこだわらずに利を分かち合うこと。最後に、自分から諦めてはならないということ。いずれも今も社員たちによく話すことだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】国内外を走りまわった
岡藤正広(13) 天国から地獄 「このままでは帰れない」 サンローランから解約通告(私の履歴書)[2025/01/14 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1355文字 PDF有 書誌情報]
英国中部の街、ハダースフィールドは世界三大毛織物産地のひとつに数えられる。ここで高級毛織りメーカーを回って200反ほどを仕入れるとパリに飛んだ。この生地をイヴ・サンローランに承認してもらい日本で売るためだ。
意気揚々と訪問したサンローランのオフィス。ここに大量の生地を並べて交渉相手の登場を待った。
しばらくするとデザイン部門を取り仕切るピエール・レヴィを筆頭に7~8人ほどがずらずらと登場した。あいさつを済ませ並べた生地を見てもらったのだが、なにやら雲行きが怪しい。
「ちょっと席を外します」
そう言うと全員が退席した。10分くらいして戻ってくると、一方的に告げられた。
「例外的ですが、契約を打ち切らせてもらいます」
これには耳を疑った。どういうことだと問いただすと我々が持ち込んだ生地を指さして「どれもイヴ・サンローランのテイストではない」と言うではないか。再考を促しても頑として聞かない。いったん引き下がるしかなかった。
「話が違うやないか。どないなってるんや!」
同行した上司が烈火のごとく怒り始めた。私には反論の余地もない。「お前がなんとかせえ」とだけ言い残して、上司は帰国してしまった。
私はパリの安ホテルに一人残された。意気揚々だった先日までと違い、狭く薄暗い部屋に思える。やることがないのでベッドに寝転んで打開策を考えるが妙案が浮かばない。まさに天国から地獄に突き落とされた心境だ。
私は功を焦りすぎたのだろうか。とんとん拍子で契約がまとまったと思った時には、成功を確信した。それがこのザマだ。食事も喉を通らない。出張予算はとっくにオーバーして手持ちのフランはどんどん減っていく。
「このままおめおめと帰るわけにはいかない」
そんなことを思いながら異国の地でベッドから天井を見つめるだけの日々が、1週間ほど続いた。
気になるのがサンローランの心変わりの理由だった。「うちのテイストではない」と言った意味はなにか。
こちらのテイストを押しつけているのではないか。そう考えると合点がいく。「サンローラン」を打ちだそうとするあまり、クセの強いガラを選んでしまっていたのだ。
サンローラン側が突然、「心変わり」した原因はこれじゃないだろうか――。では、どうすればいいか。ストライプなどの柄物については販売元となる三喜商事には諦めてもらい、残る無地や落ち着いた生地をサンローランに認めてもらえないか。
翌日、再びサンローランのオフィスを訪れた。カシミヤも混ぜて高級感を出した無地を中心にするが、柄物もいくつか認めてもらえないか。そう再提案すると渋々認めてくれた。三喜商事も納得してくれた。これでどうにか帰国することができる。とても成功だとは思えず、なんとか形にできてホッとしたというのが正直なところだった。
帰国して迎えた商談会。会場となる大阪・瓦町の三喜商事本社ショールームを訪れると、私の顔を見るなり女性スタッフが声をかけてくれた。
「サンローラン、よう売れてますよ!」
それを聞いて隣に立つ峠一さんと目が合った。無言でガッチリと握手。「二人で日本一になろう」。いつかそう語り合った青くさいストーリーが動き出した瞬間だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】英国も回った(1980年、右が筆者)
岡藤正広(12) サンローラン 展示会で突然ひらめく 紳士服の生地、決めるのは女性(私の履歴書)[2025/01/13 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1395文字 PDF有 書誌情報]
帝国ホテルのホールに所狭しと並べられた生地の数々。ここで一般の消費者に直接選んでもらってオーダーメードのスーツを作るのだという。
脇に目をやると確かに、お金持ちという風貌の男性がテーブルに座り、展示会を主催する英国屋の営業マンがなにやら話しかけている。それにしても、こんなに山のようにある生地の中からどうやって選ぼうというのだろうか。
そう思いながら観察していると、お金持ちは営業マンの話など聞いてはいない。すると2人の女性がそのテーブルに近づいていった。男性の奥さんと娘さんのようだ。
「パパ、この生地がいいんじゃない」
「んん……、そうかなぁ」
そう言って男性はその場でスーツの生地を決めてしまった。その様子を目の当たりにした私は、突然ひらめいた。
「これや! 男はスーツの生地なんか全然見てへん。女の人が決めてるんや!」
この時にひらめいたアイデアが、紳士服用の生地にいかにも女性が好みそうなブランドの名前を付けて日本で売る、というものだ。ブランド側とはライセンス契約を結んで名前を使わせてもらう。
これなら問屋にお伺いを立てるような従来の商売とは違い、伊藤忠が主導権を握ることができる。「なにか違いを」と考え続けてきたからこそひらめいたのだと思う。
同行した峠一さんにこのアイデアをぶつけると、「女性受けするブランドやったら三喜商事に聞いてみたら?」と返ってきた。これは居ても立ってもいられない。私は大阪に帰るなり三喜商事に足を運んだ。応対してくれたのは創業者の堀田(ほりた)一社長だった。
「紳士服の生地に女性が好むブランド名を付けたら売れるんやないでしょうか」
私がそう言うと、堀田さんは黙って聞いてくれた。普通なら「なぜ男性用の紳士服に女性が好むブランドを」と疑問に思うはずだ。私がその意図を英国屋の展示会で見た風景を交えながら説明すると、堀田さんは理解してくれた。
「ええアイデアやな」
そう言いながら、こう付け加えられた。
「それやったらイヴ・サンローランや」
このひと言で、フランスの高級ブランドであるサンローランをターゲットとすることに決めた。社内で説明しても「なにをアホなことを言うとるんや」と相手にされなかったが、もはや私の耳には入らない。繊維部門のトップ、堀田輝雄常務(後に副会長)が大いに関心を持ってくれたことも心強かった。
果たしてサンローランに出した提案書に対する返信が届いたのは、それから1カ月ほど後のことだった。「検討してもよい」と書かれていた。交渉はとんとん拍子に進み5年契約でまとまった。
こうして動き始めた大型プロジェクト。英国で生地を買い付けてサンローランからブランド使用の承認を得るため、欧州に飛ぶことになった。その直前には当社の堀田常務と三喜商事の堀田社長による共同記者会見が開かれた。
場所は東京・銀座のマキシム・ド・パリ。広告費などを含め、2000万円の予算を使った食事を取りながらの豪華な会見を、私は誇らしげに眺めていた。当時の課の年間利益は7000万円だから大盤振る舞いだ。周囲に取り残されていた私が、アイデアひとつで誰もやってこなかったビジネスの扉を開いたのだ。
この時、フランスで試練が待ち受けているとは、知るよしもなかった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】イヴ・サンローランに着目(中央が三喜商事の堀田一社長。右が筆者)
岡藤正広(11) 一流半の扱い 「いつか日本一になる」 三井物産に猛烈な対抗心(私の履歴書)[2025/01/12 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
伊藤忠商事と取引する英国産毛織物のエージェント、峠一さんとの二人三脚もすっかり板についてくると、私は上司の飯田洋三さんから課された「お前はしゃべらずにメモだけとっておけ」という命令をいつからか免除されるようになった。自分で戦略を立てて客先を回る営業という仕事は、面白かった。
「岡さんはなにか新しい商売を作ってな」
「よっしゃ! 俺は日本一の商社マンになってみせるから、峠さんは日本一のエージェントになってくれよな」
2人してこの業界で天下を取ってやろう――。私たちは酒が入るとこんなことを熱く語り合うようになっていた。なんとも青くさい青春の1コマだが、それもこれも社会人になって自信を失い大きく出遅れてしまっていた私に、商人としての基本をたたき込んでくれた峠さんのおかげだ。
ただし、日本一の頂は遙(はる)かに遠い。そんな現実を突きつけられることが度々だった。
1970年代末の当時、反物を納めるため問屋を回る商社マンの仕事は実に泥臭いものだった。伊藤忠のほか専門商社4~5社が集められると「今回の取引はお前のところにしといたる」といった調子でどこかが指名される。
選ばれる理由は反物の良しあしというより、接待で使った店が気に入ったというようなたわいもないことばかりだった。お客さんの中には、我々商社に対して「使ってやっている」という態度を露骨に見せる人も少なくはなかった。
「こんなんでええはずがない」。駆け出し営業マンの私は、この隷属的な関係を変えられないかと考え続けた。そんな時に見せつけられたのが、名門財閥の力だった。
ある時、先輩から教えられた。「うちは三喜商事と商売してるからサン・フレールとは無理やぞ」。両社は業界の1位と2位。確かにそれが商売の常識なのかもしれない。
ところが、三井物産は堂々とどちらとも取引しているではないか。我々が仕事を与えられる会合にも顔を出さない。同業者に理由を聞くと、「三井は一流やけど伊藤忠は一流半と思われてるからですよ」と一笑に付された。
この頃から、私の中で財閥系への猛烈な対抗心がふつふつと沸きあがってきた。
「三井なにするものぞ」
ただ、なぜ三井はどちらとも取引できるのか、なぜ繊維に強いはずの伊藤忠が一流半の扱いなのか。
答えは単純だった。三井は海外の有名ブランドと直接契約し、日本の問屋に紹介していた。自ら主導権を持ち、我々同業他社にはない付加価値を作っていたのだ。仕事をもらうために接待を競い、同じ時間に同じ場所に集められる我々とは似て非なる商売をしていたということだ。
ならば、私もなにか「違い」を示す商売ができないものか――。そう考え続けていた頃のことだ。
当時は毎週、峠さんと東京に出張していた。ある金曜日の夕方、あと一軒回ったら伊丹行きの最終便に急がないと。そう考えていると、峠さんがこんなことを言った。
「明日、英国屋の生地の展示会があるんやけど、せっかくやから岡さんも一緒に行かへんか」
生地の展示会なんて面白くもないし、わざわざ土曜を潰すのもなぁ。そう思ったが断れなかった。
「そうやなぁ……、ほな行ってみよか」
ここで私は成功への手掛かりを見つけたのだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】日本一の商社マンを目指した若手時代
岡藤正広(10) 営業の師 「水のような商人」が手本 黙って学び、新しい商売探す(私の履歴書)[2025/01/11 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1333文字 PDF有 書誌情報]
「1年間は峠さんについて、お客さんの前では一切しゃべらずにメモだけ取れ」
課長の飯田洋三さんが私の指導役に指名した峠一さんは伊藤忠商事の社員ではない。栗原という、当社とは付き合いが長い英国産毛織物のエージェントの人だった。つまり、飯田さんは社外の人に私の教育を託したのだ。
「そこまで信用されていないのか」。落ち込まずにいられないが、これが私にとっては幸いだった。
峠さんは高校を出てしばらくぶらぶらしているところを、近所に住んでいた栗原の創業者に拾われるようにして繊維業界に飛び込んだ。年齢は私より3つ上だが、営業マンとしてはすでに豊富な経験を持っていた。
飯田さんが認めるだけあって、峠さんはやり手の営業マンだった。見た目はずんぐりむっくりで目がギョロリ。いかにも愛嬌(あいきょう)がある。商談にのぞんでも相手をなだめすかすのがとにかくうまい。
ちょっともめ事があって相手が怒っていてもかわいげのある言い方でやり過ごし、怒りが冷めるのを待つ。すると絶妙なタイミングで反物の見本を取り出し、「こんなんもあるんですけど、どうでっしゃろ」とひと言。相手は「まったく、あんたにはかなわんな」と話に乗ってくる。
「なるほど、これはうまい」。言い回し、間の取り方、勝負をしかけるタイミング、それになんと言っても相手の心をつかむなんとも言えないしぐさ――。そのどれにも毎度、感心させられた。
黙ってメモを取るだけと言われて最初は屈辱だったが、隣でペンを走らせるうちに徐々に峠さんの話術の妙が理解できるようになってきた。
私はよく「商人は水であれ」と言う。お客さんの要望にあわせて水のようにどんな形にでも姿を変えてみせるのが商人のあるべき姿だと思うからだ。峠さんはまさに「水の商人」だった。それに、とにかくお客さんが欲しいと思うものを先回りして用意する人だった。
私は経営者になってから、口を酸っぱくしてマーケット・インの発想を持てと社内で説いてきたが、その範を示してくれていたのが峠さんだったのだ。
単に話の持っていき方がうまいだけではない。峠さんはとにかくしつこい人だった。一度や二度、断られたくらいで引き下がらない。何ごともなかったかのように何度でも客先に出向くのだ。これは後々に私も実践したことだ。
こうして私は社外の営業の師から商売のイロハを教えられた。
同い年と比べ入社が2年遅れている上、営業の現場に出たのは入社5年目。すでに30歳が目前に迫る。最高の師を得たとはいえ、焦りがなかったと言えばになる。
周回遅れで商売の才能がないと思っていた私は、どうすればここで生き残っていけるのか。ずっとそんなことを考えていた。周囲と同じようなことをしていてはダメだ。
峠さんと同じでもいけない。実は、師匠の峠さんからも「岡さんはなにか新しいことをやってくれ。新しい商売を作ってくれな。フォローは俺がするから」とよく言われたものだ。
なにか違うことを――。探し続けても、その答えが見つからない。そうして1年余りが過ぎた。突破口は不意に現れた。きっかけをくれたのはほかでもない、峠さんだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】峠一さん(左)に営業のイロハを学んだ(右が筆者)
岡藤正広(9) カバン持ち 「お前はしゃべるな」 念願の営業異動、屈辱の命令(私の履歴書)[2025/01/10 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1325文字 PDF有 書誌情報]
入社5年目を前にしたある日のこと。課長の飯田洋三さんに大阪・梅田の中華料理店に呼び出された。
「岡藤君、次は必ず営業に出すからな」
私が本意ではない受け渡し担当にずっと「塩漬け」になっていることを、これまでも飯田さんは気にかけてくれていた。この時点で4年。社内外での評判も悪く、もう営業には縁がないと思っていた。もっと正直に言えば、自信がなくなっていた。
翌日、課の面々が集められた。飯田さんが「岡藤君も受け渡しが長いからそろそろ……」と言うと、なんと私の教育担当だった先輩が真っ向から反論した。
「岡藤君はこの業界の営業には向いていないと思います」
すると、飯田さんの隣に座る人が「そうですね」と追随するではないか。飯田さんは「そうは言ってもなぁ」と困った様子だったが、結局は私との約束を守って営業行きの人事を通してくれた。
すっかり自信を失っていた上に、ここまでハッキリと否定された私は「なんとかしたい」と思った。これがまた良くなかった。皆さんの前で挨拶をする際に、業界トップの取引先を例に挙げてそことの商売で「一番を取りたいと思います」と宣言したのだ。
私としては単に抱負を語ったつもりだったが、その問屋を担当している先輩にとっては、努力が足りないと言われているようなものだ。実際、顔に泥を塗られたと受け取ったという。こんな気遣いもできないのは、私が未熟だったと言うしかない。
ちなみに、私にとって最初の上司である飯田さんは、その後も繊維部門でずっと私の上にいた。上司というだけでなく、深く尊敬する人だった。
思えば、私はずっと飯田さんの背中を見てきた。時に励まし、時には叱ってくれた。
後に私が海外ブランドとの契約を次々とまとめて結果を出し始めた頃のことだ。私は自分でも気づかないうちにすっかりテングになっていたのだろう。ある時、飯田さんから封書を渡された。
開くと独特の毛筆で「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と書かれていた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の私のことを、ああやってたしなめてくれるのは飯田さんだけだった。あの自信喪失の4年間もずっと近くで見てくれていたことを知っているので、この書を見た時には大いに反省したものだ。
その飯田さんは営業でも上司となる。初日に呼び出されると、こう命じられた。
「これから1年間、お前は峠さんについて回れ。一緒にお客さんのところを回るんや」
つまりお目付け役が付くということだが、それだけではなかった。
「お客さんの前では、お前は一切しゃべらんように。ノートにメモだけ取っておけ」
これでは営業マンというよりカバン持ちだ。だが、飯田さんからの厳命だ。屈辱でも受け入れるしかない。ここで認められないと今度こそ社内で居場所を失ってしまう。念願だった営業部門での仕事は、こうして始まった。
ただ、今になって飯田さんの親心がよく理解できる。私一人だとお客様とぶつかると懸念されたのだろう。そして、幸運に思う。私の指導役に指名された峠一さんは、私にとって最高の先生であり、自信を失っていた私をいっぱしの商人にしてくれた人だったからだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】営業の師となる峠さん(中)と(右が筆者)
岡藤正広(8) お先真っ暗 「会社人生は終わるんか」 苦悩救ってくれた問屋の番頭(私の履歴書)[2025/01/09 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1342文字 PDF有 書誌情報]
私の最初の仕事は受け渡しという。紳士服の生地を輸入して問屋に渡す。その裏方を差配する。物流、通関、出荷売上金の受け取り。いずれも事前に取り決めているはずが、すんなりとはいかない。問屋が約束通りに生地を引き取らず在庫管理をこちらが負担するのは日常茶飯事。代金の支払いも実にルーズだった。
「契約は守ってください」
問屋にクレームの電話を入れると、「そんな杓子(しゃくし)定規なこと言うて、なんやねん」と返ってくる。
「契約は契約です。それが嫌でしたら最初から契約書にそう書いてください」
若い私はなれ合いというものを認められず、いつもこんな調子で返していた。大阪の繊維業界は狭い。あっという間に「融通が利かんし生意気」という評判が広まった。
問屋からのクレームは契約をまとめる伊藤忠の営業マンにも入ってくる。社内でも「堅いことばっかり言うなよ」とクギを刺されるが、私は折れる気になれなかった。
あうんの呼吸も理解できない頭でっかちの使えない若造――。いつしかこんな評価が定着していった。すると強気だった心が折れそうになる。
「ここは長いものに巻かれるのが得策では……」。サラリーマンとしての処世術というやつを、自分も身につけるべきか。そんなふうに思うと、仕事が手に付かなくなる。心に魔が差して負けそうな自分が、そこにいるのだ。
受け渡しは4年目に突入した。社内外の私への評価は「扱いづらいヤツ」で固まっている。希望する営業はおろか、このまま社内で居場所を失ってしまうんじゃないか。いや、どうやらすでに失っているようだ。
もうお先真っ暗。忘れていたはずの劣等感がよみがえってくる。「俺の会社員人生はこんなところで終わるんか」
そう思い詰めていた時のことだ。なぜか伊部という問屋に足が向いた。「見本を届けに来ました」と適当に理由を付けた記憶がある。
店に入ると、村上真さんというこの問屋の大番頭のような人がいた。私は話しかけるでもなく暗い顔でうつむいていたはずだ。なにかを察してくれたのだろう。
「ちょっと行きますか」
村上さんが声をかけてくれた。近くの居酒屋のカウンターに並んでビールをひとくち。私は思わずこぼした。「僕、先が見えないんです」
会社も年代も違う跳ねっ返りの若造の身の上話に、村上さんは耳を傾けてくれた。しばらくすると、村上さんは出来の悪い教え子を諭すように、こう言った。
「そういう時は変に先を見たらあきまへんで」
村上さんが例に出したのが、入荷の時期になると倉庫に山のように積まれる反物の話だった。一反ずつ服に必要な長さにカットして伝票を付けては出荷していく。一反でスーツ20着分。気が遠くなるような作業を黙々とこなすのが問屋の仕事だという。残業代の代わりに出される素うどんをすすりながら。
「仕事というのはそういうもんでっせ。初めから先ばっかり見たらあかんのですよ」
この言葉が胸に突き刺さった。「俺はなにを勝手に将来のことばかり悲観して塞ぎ込んでるんや。目の前の仕事に集中せんで、なにがプロや」
目が覚めるとはこのことだ。村上さんがついでくれたビールをぐいっと飲み干す。胸に染み入る味がした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】受け渡し時代。そろばんで計算している
岡藤正広(7) 世間知らず 「岡藤は使えない」 配属初日、瀬島龍三副社長を批判(私の履歴書)[2025/01/08 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1362文字 PDF有 書誌情報]
今思えば世間知らずも甚だしい若者だった。
就職活動の際に希望したのは商社だった。最初に受けようと思ったのは住友商事。大学時代を2本のジーンズで過ごした私はスーツを持っておらず、この日もジーンズで面談へと向かった。場違いなのは自分の方なのに「なんか雰囲気が堅いなぁ」と思い、そのまま帰ってしまった。
ただ、本命は別にあった。「やっぱり商社といえば三井物産や」。意気込んで東京・大手町の本社に向かったのだが、アポなし。しかも居候していたビー玉工場の娘さんから借りた日産サニーを無断で駐車場に止めたことを注意されて逃げ帰ってしまった。
残るは丸紅と伊藤忠商事。おふくろが大阪で暮らしていることもあり、大阪勤務が可能な伊藤忠に決めた。
なんとも場当たり的な就職活動だが、そもそも商社を希望したのもおふくろが「商社やったら、海外勤務したら家が建つらしいよ」と言っていたことがきっかけだ。もっとも、私は社長になるまで大阪一筋。ほとんどの商社マンが経験する海外勤務とはついぞ縁がなかったのだが。
こうして伊藤忠の門をくぐった私は希望通り繊維部門に配属された。大阪・本町にあった当時の堂々たる本社ビルに足を踏み入れた時には誇らしい思いだったが、配属初日からやらかしてしまった。
大会議室での新人お披露目会。居並ぶ先輩たちを見ていると、なぜか「ここは一発カマしたれ」と思ったのだ。
「瀬島龍三さんは大本営の人。言ってみれば戦犯じゃないですか。これから会社が世界に打って出て国に尽くそうっていう時に、そんな人が経営を担っていて、皆さんはそれでいいんですか」
その場の空気が凍りついた。瀬島さんは戦時中、大本営で参謀として南東太平洋戦線の作戦を担当した元エリート軍人だ。終戦後は11年もの間、シベリアに抑留されたが帰国を果たすと伊藤忠に入社した。政官財の各界に分厚い人脈を持っていたそうで「昭和の参謀」とも呼ばれた人だ。私が入社した1974年には副社長として経営の中枢を担われていた。
そんな大物を新人がいきなりコキ下ろしたのだ。あの時は「ここは目立たなアカン」と妙な気負いがあったのだろう。その狙いだけは的中した。良い意味ではないのだが。
「なんやあいつは! あれはアカとちがうか」
瞬く間にこんな噂が広がった。そのせいか入社直後の海外留学の面接ではあっさりと落とされてしまった。もし余計なことを言わずにこの試験に合格していたら、私も他の同僚のように海外に派遣され、その後の会社員人生も大きく変わっていただろう。
配属された輸入紳士服地課で、私に割り振られた仕事は受け渡しだ。海外などから取り寄せた商材を顧客に渡す。
単純な仲介業務に見えるが、船や航空機の手配から倉庫での在庫管理、それに手形の入金などやることは多い。裏方的な仕事だが商売の基本を学べるため、多くの商社マンが一度は経験する。
ただし、その多くが1年ほど。商社と言えばやはり世界を飛び回る営業マンとのイメージが強い。
さあ、来年こそ営業の現場に出てバリバリと商談をまとめてやろう――。若い私は出番を待っていたのだが、1年たっても2年たってもお声がかからない。次第に私への辛辣な評価が聞こえてきた。
「岡藤は使えない」
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】就職先は商社を希望していた
岡藤正広(6) 駒場寮 ビー玉工場で一目ぼれ 居候先、家庭教師の代役の代役(私の履歴書)[2025/01/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
同級生より2年遅れながら、晴れて私は大学生になった。初めて暮らす花の都、東京。結核も治り、止まっていた時間が動き始めた。
ただ、住まいには面食らった。仕送りを受けずに自弁だったので、生活費を切り詰めようと東京大学の駒場寮に入ることになった。割り振られたのは5人部屋で、板敷きの部屋がカーテンで仕切られている。入り口には「インド哲学研究会」と書かれていた。
ずいぶんとアカデミックな部屋だなと思ったのもつかの間。その実態は学生運動のアジトだった。毎晩、ドカドカと見知らぬ人たちが部屋に入ってきて、次の闘争がどうとか話している声が聞こえた。
学生運動といえば、私にとっては1浪の時に東大受験のチャンスを奪われた記憶が真新しい。そもそも興味がなかった。5月になって部屋替えが可能と聞くと、真っ先に申請した。割り振られたのは、ハイキングサークルの部屋だった。政治色は皆無。私にとっては居心地がよかった。
仕送りがないので自分で稼がないといけない。割がいいのは、やはり家庭教師だ。すぐに見つかったが、商人のタマゴとしての知恵を働かせたのは大阪に帰省する際のことだろう。モノは試しにと朝日新聞に夏休み限定での家庭教師の広告を載せてみた。
「当方東大生。夏季特訓英数理」。たったの2行だ。当時、大阪ではまだ東大生は珍しかったのか、実家には電話が相次ぎ、そのたびにおふくろに取り次いでもらった。
サークル仲間のお茶の水女子大学の寮には自販機がないと聞き、日本コカ・コーラと掛け合って自販機を置かせてもらったこともある。売り上げの一部を得るためだ。
こんな調子なので東京での生活は、何に困るということもなく過ぎていった。
3年生になって駒場寮を出ないといけなくなっても、亀戸のビー玉工場に居候させてもらって住まいを確保した。家庭教師として通った工場なのだが、その教え子が高校3年だった時、数3を教える必要に迫られた。私は文系だから勉強していない。さて、どうしたものか。
「お茶の水大のサークル仲間に理系の子がいたっけ」。代役をお願いすると快諾してくれた。ところがある日、先約があってどうしても来ることができないという。
「そこをなんとか……」
しつこくお願いしたところ、同じ数学科の友達を代わりに送ってくれるという。こうして、家庭教師の「代役の代役」としてビー玉工場にやって来た彼女に、私は一目ぼれした。玄関を開けるとシャイな彼女は下を向きながら入ってきたのだが、その姿に息をのんだ私は一方的に「この人と結婚するかも」と思ったのだ。この数学女子、黒河有子と私は後に本当に結婚することになった。
時は1970年代前半。石油危機が日本を襲い、卒業を目前に控えた73年秋には高度経済成長も終わりを迎えた。それでも結核に耐え続けたあの浪人生活を思えば、なにも苦にはならない。
私は意気揚々と社会人生活を始めることになった。あの時に私が入り込んだ「影」はもう、自分とは関係のない世界だ。そう思っていた。
それが、またしても周囲から取り残されたという劣等感と戦うことになろうとは……。友人の姿がまぶしすぎて思わず閉じた扉。今度こそ自分の力であの扉を開いてみせる――。若き葛藤の日々が、また始まった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】大学時代に妻(左端)と出会った(隣に筆者)
岡藤正広(5) 結核 痩せ細り強烈な劣等感 2浪の末に東大合格、母の涙(私の履歴書)[2025/01/06 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
高3秋の健康診断で肺に白い影が見つかった。小さい頃に患った肺炎の影響だろうと軽く見ていたのだが、時間がたつと首の腫れがひどくなってくる。病院に行くと頸部(けいぶ)リンパ腺結核と診断された。
「もう受験はあきらめなさい。命の方が大切やろ」。医者からは、そう告げられた。
でも、そんなに簡単に諦めるわけにはいかない。東大に行ってここから抜け出すしか道がない。おふくろを楽にするためにも。
医者からはずっと入院するよう勧められたが、定期的に通院することを条件に自宅療養を許してもらった。東大受験へのラストスパートをかけるためだ。
ところが、机に向かっても体がしんどくて仕方がない。体重も52キロにまで落ちてしまった。あっという間にげっそりと痩せ細っていくのが、自分でも分かった。
結果は、なすすべもなく不合格。もう進学は諦めるべきなのだろうか。思い詰めておふくろに「僕、大学に行ってもええんかな」と聞くと、「なにを言うてるの。そんなことは心配せんでいい」とひと言だけ返ってきた。それを聞いた時に「俺にはもう、これしかない」と意を決した。
それから1年。思いもしない結末が待っていた。
折からの学生運動が激しさを増し、年が明けて1969年になると東大紛争のドタバタが頂点に達した。安田講堂に立てこもった学生たちに、警官隊が放水するシーンをテレビで見た時にはがくぜんとした。直後に東大は入試を中止することを決めた。
もはや東大以外の道は私の頭の中にない。戦わずして2浪が決まってしまった。
この間も、結核は私の体力を奪い続けていた。療養しながら自宅で勉強を続けていたある日の出来事が、今でも忘れられない。
外出しようと玄関の扉を開けると、向こうから近所の友達が歩いてきた。よく晴れた日のこと。野球で鍛えた彼の浅黒くてたくましい表情が、やけに輝いて見えた。私はとっさに扉を閉めてしまった。
薄暗い玄関に隠れて彼が通り過ぎるのを待つわずかな時間……、惨めだった。
俺はなんでこんなところに隠れているんだ。そう思うが、扉を開けられない。俺はこんなに痩せ細ってしまい、何者にもなれないままだ。そう思うと彼の姿を直視できない。強烈な劣等感が押し寄せてくる。
この世界には光と影が存在する。あの時、間違いなく私は影の側にいることを思い知らされた。
こんな私を励まそうと、ある友人が新聞記事を持ってきてくれた。そこには、歴史に名を残し大成した人物の多くは若い頃に大病を患うか親を亡くしている、という趣旨のことが書いてあった。彼の気遣いは今思い出しても胸がじーんと熱くなる。
こうして迎えた東大受験の日。「これが最後」。そう思って臨んだ試験会場には、直前まで確認しようと使い込んだ参考書を持ち込んだ。尊敬する高校の同級生、吉川雄二君の兄から譲り受けたものだ。今も大切に保管している。
そして合格発表の当日。結果は電報で送られてくるのだが、友人が現地で確認して電話をかけてきてくれた。「岡藤、名前あったぞ!」。受話器を握る私の目の前にはおふくろがいた。
「通ったで」。短く告げるとおふくろの目から涙がこぼれた。ホッと肩の荷が下りる思いがした。ついに、私の行く手に光が差したのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】高校時代は友人にも恵まれたが試練があった(手前左端が筆者)
岡藤正広(4)目標は同級生 「彼のようになりたい」 受験直前に父急死、一家の危機(私の履歴書)[2025/01/05 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
私は小学6年で生まれ育った舎利寺から東大阪の花園に引っ越したのだが、学校は越境でそのまま通っていた。中学校も舎利寺小から進む大阪市立生野中学。現在のことは分からないが、60年以上も前の当時は学力レベルが高いとは言えない学校だった。
小学校の頃は成績がトップだったから「中学でも余裕やろう」とタカをくくってしまったのが間違いだった。どんどん成績が落ちてやる気がなくなる。ただ、3年生になるとそうも言っていられない。
そんな時に「すごい奴が転校してきた」という噂が校内に広がった。なんでも、瀬戸内海の小さな島からの転校生らしいが、いきなり1000人いた学年で1位。さらに大阪の中学生にとって定番の五ツ木の模試でも大阪府で1位になったという。
塩見俊次君というその転校生に聞いてみるとすでに高校の勉強を始めているというではないか。インターネットなどない当時のことだ。小島に居た頃から独学だったのは間違いない。話してみると言葉の端々からなんとも言えない自信が伝わってくるのだが、それでいて嫌みがない。
「こんなにすごい奴がいたのか……」。彼我の差の大きさに打ちのめされる一方、初めて他人に「追いつきたい」という思いが芽生えた。
絶対にかなわない。だからこそ「俺もこんなふうになりたい」と思うようになり、猛勉強を始めた。おかげで彼には追いつかないまでも模試では大阪府で3位にまで成績を上げた。この時、もし彼に出会わなければその後の人生は大きく違っていたのではないか。高津高校にも進んでいなかっただろう。
高津高校は学区一の進学校だった。塩見君は違う高校に進学したのだが、いくらなんでも彼ほど優秀な奴はいないだろうと思っていたら、いたのだ。それが吉川雄二君だ。彼のことは今でも尊敬しているし、彼との出会いこそが、本当の意味で私の人生を変えたと思っている。
成績は極めて優秀で現役で東京大学に進んで医者になるのだが、そんなことより会話の次元が違った。
中学の時から大江健三郎やマルセル・プルーストに親しんでいたらしく、さりげなく大作家の話が出てくる。文学だけでなくポアンカレ予想の話をされた時は「ついていけない」と思ったものだ。そんな小難しい話をしても、塩見君と同じように嫌みがない。
またもや自分がちっぽけに思えるのだが、努力さえすれば追いつけないまでも、今の自分よりも先に進めるはずだ。それは中学の頃に塩見君から教えられたことだ。
こうして私も吉川君と同じく東大を目指すようになったのだが、ここで人生で初めて大きな試練に直面する。
あれは受験が迫った高3の12月のことだ。ある日、おじさんから電話がかかってきた。家を飛び出して一人で暮らしていたオヤジが亡くなったという。くも膜下出血だった。長年の行き過ぎた飲酒がたたったようだ。
オヤジのことは今も反面教師だと思っている。短気で手が早い。でも、お人よしで憎めない。なかなか短い言葉では言い表せない。
おふくろは慣れない事務の仕事を始めていたが、生活が苦しくなることは火を見るより明らかだった。だが、試練はオヤジの急死にとどまらなかった。
「俺が東大に行ってこの状況を変えてみせる」
そう決意した自分自身の身に、病魔が迫っていたのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】中学・高校で目標とする友人と出会った
岡藤正広(3) 手抜き工事 つかまされた欠陥住宅 「将来は大企業に」母の願い(私の履歴書)[2025/01/04 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1324文字 PDF有 書誌情報]
オヤジは飲んだくれだった一方で、人から頼られると断れないお人よしの一面もあった。それが理由か、詐欺まがいのもうけ話にたわいもなくひっかけられることも度々だった。幼い私にとっても忘れられない事件がある。
小学6年の時のことだ。その年、我が家は私が生まれ育った大阪市生野区の舎利寺から東大阪市の花園に引っ越していた。知人から声をかけられてオヤジが2階建ての文化住宅を一棟丸ごと買うことになり、我々も1階の一室で暮らすことになったのだ。
この家がとんだ災難のもとだった。住んでみて分かったのだが壁は薄く隣室の会話は筒抜け。2階の人が部屋を歩くと天井がミシミシと音を立てる。「なによ、この安普請は……」。おふくろはよく嘆いていたが我慢するしかない。しばらくして安普請では済まないことが発覚した。
9月半ばに第2室戸台風が大阪を襲った。猛烈な風が吹き始めると天井からバリバリという大きな音が伝わってきた。「はて、なんやろ」。そう思っていると何かが上からドスンと落ちてきた。
「ここにおったら危ない。早く逃げよう」。4歳下の弟も連れて一目散に外に飛び出した。幸いにも向かいには建築中の家がある。こちらは鉄筋で頑丈だ。私たちはその駐車場に逃げ込んだ。しばらくすると、目の前の我が家が音を立て始めた。瓦が飛び屋根がはがれていく。
私たちはぼうぜんとその様子を見つめるだけだ。後で分かったことだが、まともに天井の梁(はり)が通されていないことが原因だった。オヤジは手抜き工事の物件をつかまされたのだ。
ちょうどその頃、近くの駅の前に住友銀行(当時)の独身寮ができた。もちろん手抜き工事の文化住宅とは比較にならない立派な建物だ。ある時、近所のおばさんたちが井戸端会議で「あそこにはエリートばっかり住んでるらしい」と話しているのを、おふくろが耳にしたそうだ。
こんなこともあってか、おふくろは私と弟にはしきりに「将来は大企業のサラリーマンになるんよ」と勧めるようになった。「そうなったら借金取りに追われることもないしなぁ」
一方で、小さい頃には口数が少なかった私だが、小学校高学年になるとやんちゃ仲間も増え、よくみんなでいたずらしたものだ。線路に忍び込んだり、仲間が万引きしたせいでおまわりさんから「ブラックリストに載るぞ」とおきゅうを据えられたり。
ただ、勉強はよくできる方だった。これには両親に感謝しないといけない。いつもケンカばかりの2人だが、教育熱心という点では一致していた。小さい頃から隣の珠算教室に通っていたおかげでそろばんが得意。6年生の時に受けた知能に関するテストでは学年で1位だった。
お山の大将でしかないのだが、すっかりテングになってしまったのが良くなかった。中学に入ると成績はどんどん落ちていった。
ところが、ここで幸運が待っていた。自分よりずっと優秀で「俺もこんな人間になりたい」と思う同級生に出会えたことだ。それも中学、高校と続けざまに。
振り返ればこの頃から、私はいつも誰かの背中を追い続けてきた。心の中に芽生えた劣等感や憧れを前へと進む力に変えて、その先にある「こうありたい」を求めて。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】弟と(右が筆者)
岡藤正広(2) 鶴橋 夫婦げんかに耳塞ぐ 父の成功と変貌、反面教師に(私の履歴書)[2025/01/03 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1330文字 PDF有 書誌情報]
バタバタと響くオート三輪のエンジン音。荷台に並ぶリンゴ箱。その中のひとつに、膝を折り畳んで座っていた。周りの箱には山盛りの野菜が並んでいる。物心がついた頃の、遠い記憶の中にある原風景だ。
車が止まってしばらくすると、それまで頭上を覆っていた幌(ほろ)が開く。目の前にはリンゴ箱に並ぶ野菜を買い求める人たちの顔が並んでいる。
「まーちゃん、そろばんや!」
威勢の良いオヤジの声が飛ぶ。実家の隣のそろばん教室で鍛えた暗算を私が披露すると、驚くお客と自慢げなオヤジの表情が同時に目に入った。そのたびに、私はなんだか気恥ずかしくてうつむいていた。
父の秀雄は戦争から帰ると大阪で野菜の行商を始めた。母の喜代子と出会い、1949年に私が生まれた頃は働き者だったという。だが、私はそんな父の姿をよく覚えていない。
オヤジが仕入れに通う市場は自宅から車で10分ほどの鶴橋にあった。大阪のコリアンタウンとして知られている。今でも闇市だった頃の面影を色濃く残す庶民の街だ。
小さな建物が密集し、駅前の商店街にはアーケードもあるため昼でも薄暗い。オヤジのような商売人たちの威勢の良い声が途絶えることがない。露天に並ぶキムチや焼き肉のにおいが鼻孔を突く。オヤジはここで野菜を仕入れて近隣に売り歩いていた。
私が小学校に入った頃からだろうか。学校から帰ると、いつもおふくろが気難しい表情を浮かべていた。
「まーちゃん、行くよ」
そう言うと鶴橋に連れて行かれたものだ。行き先はスナック。「うちの人が来ませんでしたか」。おふくろが懇願するようにママに尋ねると、「いらしてませんけど」とつれない返事が返ってきた。
「この人も商売なんやから、客のことなんか正直に言うわけないやん」。子供ながらに内心でそう思ったものだ。夕方になると何軒もハシゴして飲み歩くオヤジをつかまえようとするおふくろの姿が、ふびんでならなかった。
働き者のオヤジが変わってしまったのは小さな成功が原因だった。当初は街の人たちに野菜を売っていたが、次第に食堂に卸すようなり、ついに大丸のレストランとの商売にこぎ着けた。すると、日銭を手にしたオヤジは酒に溺れるようになったそうだ。
それからというもの家では夫婦げんかが絶えなくなった。夜になると泥酔したオヤジがおふくろに手を上げ、激しく言い争う声が聞こえてくる。もめ事の原因はいつもオヤジの浪費だった。お金を手にすると、きれいさっぱり飲み代に使ってしまうのだ。ケンカが始まると、幼い私はいつも布団の下で耳を塞いでいた。早く終われ、と。
そんな家庭環境のせいだろうか。小さい頃の私は口数が少なく、絵を描くと全体にうす暗い色彩だったらしい。子供らしくない絵を描くことを心配したおふくろが絵画教室に通わせたくらいだ。
ただ、どんな環境にも学ぶことがある。今にして思うのは、我が家の転落から経営者としての戒めを学んだということだ。あの時のオヤジが反面教師。その教えとは、うまくいっている時ほどそれを継続させるための努力を怠ってはいけないということだ。
いきなり暗い話になってしまったが、これが偽らざる私の原点だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】少年時代には口数は少ない方だった
岡藤正広(1) 田蓑橋 命の危機に見た景色 「自分を変えたい」が原動力に(私の履歴書)[2025/01/01 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1326文字 PDF有 書誌情報]
なぜだろうか。目を閉じるとあのシーンが鮮明によみがえってくる。
大阪・中之島。病室の窓から見下ろすと、堂島川にかかる田蓑橋(たみのばし)を歩く人々の姿が見えた。2月の寒風が吹きつけている。ホームレスらしき男はうつむきながら、ゆっくりと歩を進めていた。
「どこにでも自由に歩いて行けるって、あんなええもんやったんやな」
この時ばかりは心底、こう思った。耳の病気がたたって脳に及ぶ可能性があると指摘され、緊急入院することになった。1991年のことだ。この時、私は41歳。まさに働き盛りを迎える時期だ。
鳴かず飛ばずで「このまま会社員人生が終わるのか」と悲観した駆け出し時代。念願の営業に配属されると「1年間は一切、商談の席で話すな」と命じられ、ひたすらノートを取った屈辱の日々。
鬱憤を跳ね返そうと、30歳になって誰もやらなかった商売を切り開いた。イヴ・サンローラン、トラサルディ、ジョルジオ・アルマーニ……。ヨーロッパ中を駆け回ってファッション業界の大物たちと話を付け、次々と日本に持ち込んだ。
毎日が、実に慌ただしく過ぎていった。駆け出しの頃にはなかなか希望がかなわず、営業の第一線に出るのが人より遅れた。その私がいつの間にか繊維業界で一目置かれるようになっていたのは、今でも不思議な感覚だ。
そんな毎日が、突然止まった。病室の時間というものは世の中から取り残されたような感覚を助長する。「このまま終わってしまったら……」。恐怖が押し寄せる。
あの時もそうだった。高校3年で結核に侵され、医師からは「命の方が大事」と大学受験を諦めるよう促された。「もしかしたら、このまま……」。ガリガリに痩せ細った18歳の私は、病室の天井を眺めながら絶望感とひとり戦っていた。退院してからも、同世代の気力あふれる姿を直視できない自分がいた。
結局、いずれの命の危機も事なきを得た。41歳のこの時はたった20日間の入院生活。病院から出るとまた商談に追われる忙しい毎日が始まった。あの田蓑橋の風景を思い出すこともなくなっていた。社長・会長として伊藤忠商事の経営を預かるようになってから今年で15年。あっという間に過ぎゆく日々の中で過去を振り返るヒマもなかったというのが率直なところだ。
なのに、なぜあの風景がよみがえってくるのだろう。
私の原動力はいつの時代も人に劣後する自分を変えたいという思いだった。結核を患った青春時代も、商社マンとしての駆け出しの頃も、財閥系の強大なライバルたちの背中を追う今も。
どうせ書くなら成功譚(たん)を自慢げに振り返るようなものではつまらない。そもそも私はまだ現役だ。功成り名を遂げたというわけでもない。
その奥にあった迷いや葛藤、時に襲う絶望。私を支配してきた感情とちゃんと向き合うものにしたいと思い、筆を執った。
ところで、私は社長になるまで大阪一筋。今もコテコテの大阪弁で話す。文字にすると多くの方々は読みにくいだろうから、本稿は基本的に標準語とする。セリフは大阪弁が丸出しになってしまうと思うけど。
これから1カ月、ひとりの商人の等身大の歩みを赤裸々に再現していきたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
ジェラルド・カーティス(30) 日米関係の行方 トランプ氏再選で「不確実」 日本は独自の戦略・未来像を(私の履歴書)終[2024/12/31 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
大みそかの今日、来年に思いをはせる人びとの心情を最もよく表す言葉は、日米とも「不確実さ」ではないだろうか。内政でも外交でも、両国がどう変わるかは見通しにくい。
過激な変革を掲げて返り咲くトランプ前大統領は不法移民を国外に追放し、多くの政府機関の力を削(そ)ぎ、規制を大幅に減らし、兆ドル単位の歳出を削るという。
外交では関税を引き上げて自由貿易から「米国第一」への転換を急ぎ、戦後の「世界の指導者」の役割を減らす。政権が終わる4年後の米国の姿を予想するのは難しい。
日本の政治も大きな節目にある。1955年からほぼ政権の座にあった自民党は今や少数与党で、野党の同意なしには法案も通せず、政権の維持も危うい。石破茂政権がいつまで続き、次にどんな政権ができるかは、やはり誰も確信をもてずにいる。
ただ安定した自民党支配体制の土台は、長きにわたり侵食されてきた。その復活は考えにくく、当面、政治は揺れ動くだろう。その後、政党の再編で新しい時代に順応する体制が生まれるかは不明だ。
こうした不確かさにもかかわらず両国の行方は、慎重ながらも楽観している。
まずトランプ氏は強い大統領にはなっても、何もかも思い通りになる独裁者の誕生を米民主主義は許さない。
過激な変化を起こすのは容易でなく、政策への批判が高まれば、国民の支持と称賛を求めるトランプ氏は案外早く軌道修正するかもしれない。成果が出なければ2年後の中間選挙で民主党が挽回し、ブレーキをかけられる。
外交面でも関税を強力な武器だと信じるトランプ氏は、これを存分に使い各国に譲歩を迫るだろう。標的の筆頭は中国で、貿易戦争の危険は高まる。ただ両国とも深刻な対立は望んでおらず、どこかで手打ちを探るはずだ。
トランプ氏は日本にも防衛費の増額などを迫るに違いない。だが日本が過剰反応せず、冷静かつ巧みな外交を心がければ、長い歴史に培われた日米関係はそう簡単に揺らぐまい。絶望は不要だ。
日本の大きな問題はトランプ氏が日本に何を求めるか、ではない。彼の他国への対応が日本の国益に反した場合どうするか、だ。日米の利害は重なる面が多いが、ぴたりと一致はしない。
トランプ氏が北朝鮮の金正恩総書記と再接近する、台湾防衛に疑問を呈す、ウクライナ支援から手を引くなど心配なシナリオはあまたある。
日本は独自の戦略を真剣に考えるときだ。それには日本の未来像と、そこへ至る道筋を指し示す指導力が求められる。今の自民党にも野党にも十分なビジョンと戦略があるようには見えない。
私が半世紀以上も研究してきた日本の政治システムは変わる必要がある。世界の舞台で意思疎通し、国際政治の荒波を生き抜く戦略をもつ新たな指導者層が不可欠だ。
大学教授として最大の喜びは教え子らが良い仕事をして社会に貢献をすることだ。国会議員になった教え子らには期待したい。変化を受け入れる覚悟があれば日本の未来は明るいと私は信じている。
筆をおくにあたり、日本の方々にお礼を申し上げたい。政治家、経済人、学者、ジャーナリストからタクシーの運転手さんまで、親切さと寛大さをもって接してくれた皆様には心から感謝しています。
そして読者の皆様、思い出の旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(米コロンビア大学名誉教授)
=おわり
あすから伊藤忠商事会長CEO 岡藤正広氏
【図・写真】ニューヨーク市ロックフェラーセンターのクリスマスツリー前で
ジェラルド・カーティス(29) 引退 コロンビア大一筋47年 移籍の誘いは幾度となく(私の履歴書)[2024/12/30 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
コロンビア大にいる間、幾度となく別の仕事に誘われた。そのたびに私は残ることを決めた。
最初は助教授だった1972年だ。議員交流の仕事で東京に行く直前、米ブルッキングス研究所のヘンリー・オーウェン外交政策部長から来てほしいと手紙が届いた。研究所には日本関係のプロジェクトで助言を求められ1年ほど前から出入りしていた。
ホテルオークラのベッドに座り考え込んだ。米有数のシンクタンクの誘いは光栄だったが、今コロンビア大を去るべきなのか。もう1日よく考えて返事することにし、会議出席のため部屋を出た。
ホテル前でタクシーを待っているとコロンビア大の同僚がタクシーから降りてきた。後にカーター政権で国家安全保障担当の大統領補佐官となるブレジンスキー教授だ。
不意に「オーウェン氏から聞いたが行くべきでない」と言い、まずはコロンビア大で日本研究の第一人者として評価を得るべきだと説いた。私がまさに考えていたことで、助言はありがたかった。
教えるのは楽しかったし、大学外での活動の幅も広がっていた。翌日、私はオーウェン氏に断りの手紙を書いた。
ハーバード大のエドウィン・ライシャワーとエズラ・ヴォーゲルの両教授から熱心に誘われ、真剣に移籍を考えたこともある。研究休暇で欧州に発(た)つ直前、妻と私はライシャワーとハル夫人の自宅に招かれ他の日本関係の教授らとも会った。
だがロンドンに到着後、コロンビア大から電話があった。移籍を防ぐため政治学部が私を終身雇用の准教授にするとの連絡だった。東アジア研究所の所長就任も依頼された。思い切った対応でコロンビア大が私に期待を示してくれたのはうれしかった。
結局、私は難しい選択をせずに済んだ。採用の優先順位をめぐる意見の相違からハーバード大学長は私に正式なオファーをしなかった。
ライシャワー氏からは謝罪と大学当局への憤りをつづった手紙が届いた。私はコロンビア大にいるのが運命だと納得した。ここは私にとって知の基盤だった。ジェームス・モーリー、ドナルド・キーン、ヒュー・パトリック、キャロル・グラック教授ら国外の最高の日本専門家と働く刺激は何にも代えがたかった。
最後に新たな職の誘いがあったのは12年前だ。ある大手銀行からシニア・アドバイザー職を打診され、アジア統括のトップが面談のため香港から飛んできた。
だが会談はすぐ終わった。彼が「教授の仕事は人脈の金銭化です」と言ったからだ。私は長く日本の人々と信頼に基づく関係を築こうとしてきた。そのコネから利益を絞り出すなど論外だった。
2015年、私は47年に及ぶコロンビア大での教職を退いた。その数カ月前、私は安倍晋三首相にコロンビア大が後任の日本政治・外交の専門家を置けるよう寄付講座の創設を提案し、日本政府は500万ドル(当時で5億円弱)の拠出を決めた。
新設の講座が「ジェラルド・カーティス 日本政治・外交講座」と命名されたのは大変光栄だ。後任を探す間、私のもとで博士号をとり当時は防衛大学校にいた彦谷貴子氏を客員教授として招くことができたのも幸いだった。
私の後任が近く決まれば、コロンビア大での私の履歴書は、いよいよ完結する。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1970年代半ば、同僚のマイロン・コーエン(左)、アンドリュー・ネイサン(右)両教授と
ジェラルド・カーティス(28) 皇室の思い出 皇居で夕食、忘れられぬ夜 妻の作品を美智子さまに贈る(私の履歴書)[2024/12/29 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1408文字 PDF有 書誌情報]
長く日本と関わる中で、大きな幸運だったのは、ささやかながら皇室の方々と接する機会に恵まれたことだ。
1976年、NHKの解説委員だった友人の平沢和重氏から連絡があった。米国と欧州での日本研究の実情について、当時の皇太子、明仁さま(現・上皇さま)にお話しできるか聞かれた。私でよければ喜んで、と返事した。
当日、平沢氏に付き添われ、皇居で明仁さまに米国、英国と他の欧州各国での現代日本の研究に関し1時間ほどお話しした。明仁さまからはいくつもご質問をいただき、特に英王室には親近感を抱かれているご様子だった。
明仁さまに次にお目にかかったのは2002年だ。私は日本への海外の理解を深めた功績に対し国際交流基金賞をいただき、皇居で天皇陛下となられた明仁さまと謁見した。陛下はおめでとう、とお声をかけられ、26年前の講義に言及された。覚えていてくださってうれしかった。
その数日前の授賞式には、当時の皇太子の徳仁さまと雅子さまがお見えになった。幼少期にニューヨークにお住まいだった雅子さまは、同じ街で育った私の娘たちに英語で声をかけられ、にこやかに思い出話をされた。
信じがたいことに幸運は、ここで終わらなかった。
私は在京の英米の大使館が催す音楽ワークショップに呼ばれており、ピアノを弾かれる美智子さま(現・上皇后さま)も時折参加されていた。
美智子さまが鑑賞されていたある夜、私が演奏することになり「ニューヨークのジャズクラブに行かれることはないでしょうから、それを私が持ってきましょう」と言い、曲を披露した。演奏が終わると美智子さまはソファのご自分の側に招いてくださった。
お話しするうち妻の翠(みどり)と私を皇居での夕食に招待したいと声をかけてくださった。喜んで伺いますとお返事すると翌日、侍従から連絡が入った。
当日、車で皇居に向かった。門をくぐってしばらく走ると、手つかずの自然の森が広がっていた。何百年も前の日本へ戻るタイムマシンに乗っているような気分だった。
車を降り待機室に通された。まもなく侍従が「ご案内します」と言うので「ほかの方々は」と聞くと「お二人だけです」という。この時、私たちは招待客が自分たちだけだと知った。
応接間で、天皇陛下と美智子さまに迎えていただいた。しばらくお話しし、隣の部屋の食卓についた。
翠が軽井沢でのお二人のなれそめに触れると美智子さまは楽しそうに当時を回顧された。食後は応接間に戻りさらにお話しした。時間はあっという間にすぎた。
帰りに入り口まで送っていただいたところで、美智子さまが、版画家の翠に「食事した部屋の篠田桃紅さんの作品はいかがでしたか」と聞かれた。翠が話に夢中で気付かなかったと答えると、それならばと美智子さまがおっしゃり4人で長い廊下を戻った。
予定の時間を大幅にすぎて、翠と私は御所を離れた。忘れられない夜となった。
後日、翠が銀座で個展を開くと美智子さまが来場された。ゆっくり作品をご覧になり、ある作品の前で足をとめられた。
翠がプレゼントさせてほしいと願い出ると、快くお受けくださった。美智子様が作品をお持ちくださることを翠は大変光栄に思っている。日本の研究、音楽、芸術家の妻の、いずれが欠けても得られなかった貴重な思い出だ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】2002年、国際交流基金賞を受賞する筆者。左は当時、国際交流基金理事長の藤井宏昭氏
ジェラルド・カーティス(27) 小泉純一郎氏 妥協拒否した型やぶり 小選挙区制が強めた首相の力(私の履歴書)[2024/12/28 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1334文字 PDF有 書誌情報]
在任4年目となった小泉純一郎首相と食事したある夜、彼はしみじみこう言った。
「こんなに長く首相を続けるとは思わなかった」
2001年の就任時、彼は政権の寿命をよくて半年くらいと思っていたと言い、いつ辞めるか分からないから日々、全力投球しているだけだ、とも話した。
長年にわたり多くの首相を見てきたが、自民党有力者への妥協を拒み、それを自らの力に転化したのは小泉氏だけだ。彼は党内の抵抗勢力を攻撃し、テレビを中心とするメディアを駆使して「痛みを伴う改革」だけが日本に残された道だと世論に訴えた。
「失われた10年」のぬかるみにはまり、不人気な森喜朗政権からの変化を望んだ国民に、小泉氏は新鮮な息吹のように感じられた。
彼に驚かされたのは日本人だけでない。ニューヨークの銀行や企業の幹部が集まる外交問題評議会(CFR)での小泉氏の講演を思い出す。
笑みを浮かべながら登壇した彼はワシントンでブッシュ大統領と会った話をした後、突如エルビス・プレスリーの曲を歌い始めたのだ。
永田町政治の「型」をやぶる小泉氏が力を発揮できた背景には、皮肉にも彼が反対した1994年の選挙制度改革がある。衆議院選を中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行させたこの改革に、彼は反対だった。党内の競争が減り緊張感が失われるとの懸念からだ。私も同意見で、利益よりも害悪が勝る、との論評をいくつも書いた。
首相在任中の小泉氏とは、行きつけの赤坂の和食店「津やま」の個室で何度か会っている。食べて飲み、政治を語る彼に、選挙制度の見直しについても聞いた。
彼の見立てでは、見直しの背後にいた小沢一郎氏は新制度のもと自らが首相となり、前例のない政治支配を敷くつもりでいた。「この選挙制度の採用に私は反対した」と小泉氏は言った。「だが制度が採用された今、それを使って首相に何ができるかを私自身が示すことになった」
首相を辞めて約10年後の2017年に津やまで会った時も、小選挙区制が首相の力を強めたとの確信を口にした。
「この制度は平議員には最悪だ。派閥の長にも頼れないし、以前のように党首を批判することもできない」
中選挙区制だったら郵政改革も実現しなかっただろうとも言い、「平議員にはつらいが、行動派の首相には最高の選挙制度だ」と語った。
選挙制度が変わって30年超がたつが、期待された二大政党制は実現していない。それどころか政党すべてを弱める負の影響が目立つ。
一方、一般の議員にない知名度や地元の後援会組織、資金面の支援者をもつ自民党の2世議員の数は増えた。
かつていた起業家的政治家は見当たらなくなり、多くの国会議員が政治的サラリーマンと化した。小選挙区制が行動派の首相には有益だと小泉氏は言うが、実際に誕生したその種の首相は彼自身と安倍晋三氏しかいない。
小泉政権の実績については様々な見方があるが、国民を効果的に説得し、負けを恐れず指導力を発揮するスタイルは日本では新しかった。
小泉氏は日本の指導者が退屈で受け身とは限らないことを日本と世界に示した。問題は、果敢に変革をめざす行動派の首相が、いつ再び現れるかである。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】小泉氏と「津やま」で会食する筆者
ジェラルド・カーティス(26) 東日本大震災 「木を登る」車、今もまぶたに 政府の遅い対応に失望(私の履歴書)[2024/12/27 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
2011年5月9日、私は新幹線で仙台駅に降り立った。2カ月足らず前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を訪れるためだ。
テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」から短いドキュメンタリー撮影のため取材に行かないかと打診があり、即座に引き受けた。
日本の社会や政治に先々まで影響を及ぼすであろう歴史的な大災害の現場を歩き、この目で見て、人々に話を聞きたいと思ったからだ。
東北地方が巨大地震に見舞われたことを知った時、私はニューヨークにいた。本来は日本にいるはずだったが、4月9日に娘の結婚式があり渡航を延ばしていた。
朝、テレビをつけると震災による破壊の映像が次々と映し出された。太平洋岸の町が波にのまれ、多くの人々が海に流されたと知っていたたまれない気持ちになった。
やがて福島第1原発の爆発と住民の避難が報じられ、惨事を遠くからただ眺めるしかない自らにいらだった。
結婚式の数日後、私は東京へと飛んだ。被災地の状況や放射能汚染の全貌を知るのは容易でなく歯がゆかった。テレビ朝日から電話をもらったのは、そんな時だった。
仙台到着の翌日、車で東京から来た撮影班と合流し、3日間、宮城県の被災地を訪ね歩いた。主要道路は寸断したり、瓦礫(がれき)で塞がれたりして通れず、裏道を旅した。
その時に見た光景は、今もまぶたに焼き付いている。無数の車が田んぼの中にひっくり返り、木を登ろうとしているかに見える車もあった。
南三陸の避難所では年配の女性がぽつんと座っていた。夫はどちら? と聞くと「波にさらわれました」と言った。口元に笑みを浮かべようとしたが、目に涙がにじんだ。私は言葉が出なかった。
亘理郡の避難所で、高齢の女性に今、何が最も必要かを聞くと「村のみんなが一緒にいられること」だと答えた。
同じ避難所に、途方に暮れて座る男性らもいた。亘理名産のイチゴの生産者で、震災で温室を破壊されていた。皆、最初は口が重かったが、耳を傾けると心中を吐露した。
「私は70歳で、家も温室も失った。ローンが残る設備も壊された。さらに借り入れなどできない」
東北人の辛抱強さへの称賛を多く聞いたが、内心では皆が余震を恐れ、将来を不安視し、しゃくし定規で遅い政府の対応に失望していた。
石巻に駐在する中央省庁の職員は、霞が関の官僚らが地域事情を熟知する地方公務員に権限を譲らないと憤り、官庁を辞めて自治体のため働こうと思っていると語った。
規則と前例を重んじる日本社会の特徴は、平時には利点が多い。だが危機への対応には柔軟性が求められ、官僚的な手続きは邪魔になる。
震災は日本の人々の忍耐力と品位、秩序や共同体を守る姿勢の強さを見せつけた。
同時に当局の遅く、的外れな対応も目立ち、政治指導者が国民と効果的に対話する力を欠くことも露呈した。
ただ危機への対応を誤ったと菅直人首相を一方的に批判してはバランスを欠く。対応は確かに不十分だったが、自民党が政権党だったとして状況が違ったかは疑問だ。
自民党は電力会社、政治と官僚らによる「原発村」の中核にいた。だが折よく下野していたため責任を問われることなく次の総選挙で政権を奪回し、大きな期待をされていた民主党はやがて消えた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】被災地を取材する筆者(右)=西田恒久氏提供
ジェラルド・カーティス(25) 民主党の興亡 鳩山氏に助言、生かされず 官僚排除で政策は混乱(私の履歴書)[2024/12/26 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1354文字 PDF有 書誌情報]
民主党は2009年8月の衆院選で絶対安定多数を超える議席を獲得し、政権交代を果たした。その民主党に関わった政治家とは、党創設のずっと前から交流があった。
その一人が、民主党の源流とも言える新党さきがけを1993年に結成した武村正義元代表だ。
彼が滋賀県知事だった84年に招待されて知り合い、86年に国会議員に転じて立ち上げたユートピア政治研究会の会合では講義を頼まれた。
鳩山由紀夫氏ら10人の1年生議員とともに政治改革の必要性を訴えたこの研究会は、さきがけの母体となった。
その後、さきがけは93年発足の細川護熙政権、そして社会党と自民党が連立した94年発足の村山富市連立政権に参加し、武村氏はそれぞれで官房長官と蔵相に就いた。
彼が蔵相時代、朝食をともにした時は大蔵官僚との確執を子細に語った。気に入らない政策があると、あの手この手で妨害するという。大臣の決定には従ってもらうと強調しても官僚らは「サボタージュする」と憤っていた。
15年後に誕生する民主党政権も同じ問題に直面し、打つ手を欠いた。同党は「政治主導」を掲げ、官僚でなく政治家が政策を決めると主張したが、問題はこの過程で官僚機構を遠ざけた点だ。
ある経済産業省出身の若手民主党議員は「政権運営を助けるべき官僚らを文字通り部屋から締め出して政策を議論している」と嘆いた。「おかげで副大臣が係長のような細かな作業をしている」
政権交代が視野に入った09年の衆院選前、私は鳩山氏に3点アドバイスをした。第1に普天間基地に関し拙速な判断は避けること。第2に米国を含まず反米に映りうる「東アジア共同体」に肩入れしすぎないこと。第3に官僚機構をうまく活用する戦略を描き、決して彼らを敵として扱わないこと、の3つだ。
だが首相に就いた彼は逆のことをした。普天間基地の県外移設を唱え、東アジア共同体を支持し、官僚機構を排除した。今年6月に会った彼は「先生の言うことをもっと聴けばよかったな」と話した。
当時は、米国家安全保障会議(NSC)からも民主党政権とどう関わるべきか問われた。私は「待ち」の姿勢だと説くメモを送った。政権の本格始動には時間を要すので、早急に普天間問題で判断を迫るべきでないと書いた。
鳩山氏は反米ではなく、東アジア共同体は友好と平和への漠とした構想にすぎないので、過剰反応は避けるべきだと訴えた。だがオバマ政権も耳を貸さず、日本で政権交代が起きたからといって、米国の同意なしに安全保障に絡む政策を変えることは認めないとの姿勢を明確にした。
結局、鳩山政権は9カ月足らずで終わり、菅直人氏が後を継いだ。
菅氏のことは1970年代、彼が婦人運動家の市川房枝氏の参院選挙を手伝っている時から知っていた。
やはり民主党政権の発足直前に会い、米国よりも同じ議院内閣制の英国のほうが政策決定の参考になるので、見てはどうかと勧めた。
これに彼は興味をもち、ロンドンを訪れてブラウン首相らに会った。だが結局、民主党が官僚制度をうまく動かして政策を実現する方法を学ぶことはなかった。むしろ官僚の排除によって政策は混乱した。これが同党をつまずかせる大きな要因になった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】筆者(右)のニューヨークの自宅を訪れた菅直人氏
ジェラルド・カーティス(24) 社会党の人々 伝説の左翼、支えたバー まだ育たぬ自民に代わる野党(私の履歴書)[2024/12/25 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
かつて東京・銀座のコリドー街に「ボア」というバーがあった。ビルの地下に5人ほどが座れるカウンターと数脚のテーブルが置かれていた。
左派のたまり場で、社会党員、革新派のインテリや記者らが集まった。皆、何らかの形で「アンジン」こと安東仁兵衛氏の知り合いだった。
私も愉快で社交的な彼と1970年代の半ばにボアで会い、親しくなった。
50年代、東京大で共産党細胞を率いた安東氏は伝説の左翼だ。後に雑誌「現代の理論」を創刊し、漸次的な社会主義革命を説く「構造改革論」を掲げた。だが共産党指導部の主流派が猛反発。結局、61年に共産党を離れ、後に社会党に移った。
部数が少ない雑誌の収入は知れており、東京大時代の仲間らが寄付などの形で安東氏に小遣いを渡していた。
ある日、安東氏から、西武グループの堤清二氏に会いに行こうと誘われた。二人は東大細胞の仲間で、私も堤氏と面識があった。3人でしばらく雑談後、堤氏は安東氏に封筒を渡した。
安東家の家計を主に支えていたのはボアのママだった妻の敏子さんだ。店がいつも満員だったのは控えめで温かい彼女の人柄のおかげだ。
当時、安東夫妻はわが家の近くに住んでおり、ある日、敏子さんはビーフシチューの鍋を手に現れた。幼い娘たちの子育てに忙しい妻の翠(みどり)を料理から解放しようとの配慮だった。
共産党を去った安東氏の思想は右に振れ、やがて社会党の江田三郎氏と路線が一致した。構造改革論にひかれた彼は62年「江田ビジョン」を発表し、米国並みの生活水準、ソビエト並みの福祉、それに英国の議会制民主主義と日本の平和憲法を組み合わせた国の将来像を唱えた。
だが共産党指導部が安東にそうしたのと同様、社会党左派は江田を攻撃し書記長の座から引きずり下ろした。
76年のある夜、行きつけの神田の天ぷら店で杯を傾けた江田氏は、社会党の将来には全く期待を示さなかった。翌春、彼は急逝した。
江田ビジョンを社会党内で厳しく批判したのが中国寄りの佐々木更三氏だ。だから75年、彼が社会主義の修正を唱える「社会主義的・的政権」という名の本を出版した時には私は驚き、話を聞きに議員会館の事務所を訪ねた。
宮城のズーズー弁には面食らったが主張は明快だった。社会党はとにかく政権をとるべきで、必要なら「的」をいくつも重ね社会主義を柔軟に見直せばいいという。それがデタラメな理屈だとは本人も分かっていたと思う。
帰りに彼は一緒にエレベーターに乗り、正面玄関まで送ってくれた。議員会館には数限りなく足を運んだが、議員に玄関まで見送られたのは最初で最後だった。
96年には、土井たか子氏が党首となった。左派イデオロギーとは無縁な人で、社会民主党に名を変えた同党への国民の支持を取り戻そうとしたが、遅きに失した。
65年前、ドイツ社民党がマルクス主義と決別した時、逆に左に振れたのが致命的だった。長い歴史をもつ日本の社会主義運動には、そうして終止符が打たれた。
土井氏は2008年、私の著書「政治と秋刀魚」の出版記念パーティーで花束をくれた。その茎を翠は鉢に植えた。茎からは枝葉が伸び立派に育ち続けているが、自民党に代わる政権党になれる野党はまだ育っていない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】自著の出版記念パーティーで土井たか子氏(中)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(23) 津川雅彦氏 「知らない日本」の案内人 きっぷのいい名優の磁力(私の履歴書)[2024/12/24 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1372文字 PDF有 書誌情報]
日本政治を研究する私に、未知の日本を教えてくれたのが俳優の津川雅彦氏だ。
知り合ったのは1990年代半ば、ドラマ撮影で米国に来た津川氏を、翠(みどり)がコーディネーターとして世話したのが発端だった。画家ノーマン・ロックウェルが好きな彼を、翠はマサチューセッツ州の美術館まで案内した。
その時「夫は日本の政治には詳しいけど伝統文化には疎いので教えてほしい」と翠が頼み、後日、東京で食事した。年が一緒という以外に共通点はなかったが不思議と気が合い、よく会うようになった。
京都の芸能一家に育った津川氏は日本の伝統文化を守りたいとの強い思いをもち、落語や芝居、相撲に私を招待してくれた。若手の俳優や映画監督を連れて料亭にもよく通い、芸者さんを呼んでお座敷文化の伝承に努めた。
ご相伴にあずかった私は、お座敷には様々な作法や決まりがあり、芸者さんは厳しいけいこを積んだ接客のプロだと知って感銘を受けた。
最初は勝手が分からず戸惑った。出会って間もなく、津川氏は若手俳優や芸者さんと徳島の阿波踊りを見に行く計画を立て、私も呼ばれた。
折しも台風で飛行機が飛べなくなると彼は伊豆の旅館、三養荘を貸し切り、そこで宴会を開くことにした。
新幹線で熱海まで行って駅で待っていると、京都から来た芸者の一団が降り立った。率いていたのは、祇園でも名の通った千子さんという美しい芸者さんだった。
三養荘に着き、まず部屋割りを決めた。芸者さんの評判を守るため、3人一組の部屋にすると津川氏は言った。
宴会では歌やお座敷遊びが続き、慣れない私は落ち着かなかった。疲れ果てて部屋に戻ると10代の舞妓(まいこ)さん2人が待っていた。
同い年の娘がいる私を格好の相談相手と思ったようだ。芸者として身を立てるか、別の道を歩むか。身の上相談に乗るうち夜は更けていった。
この旅で、花柳界の厳格なしきたりに触れた。そうした伝統文化を究極の娯楽とみる津川氏が「真面目な遊び人」であることも知った。
京都嵐山の吉兆で津川氏らと昼食をとった春の日の光景も鮮明に思い出す。眼前の桂川に浮かぶ屋形船。開け放った窓から桜の花びらが風でふき込み、ひらひらと舞い降りて芸者さんの髪を飾った。美しさに思わず息をのんだ。
お座敷に通ううち多くの芸者さんと友人になった。親分格の千子さんは特によくしてくれた。津川氏が由緒ある一力亭で私の還暦を祝ってくれた時は、とっておきの豪華な着物を身につけ、祇園で最も人気の6人の芸者さんを連れて駆けつけてくれた。
ある日、久々に京都に行き千子さんに連絡すると経営するクラブに呼んでくれた。だが時間に正確な彼女が現れない。心配になりお店の人に伝えると従業員が自宅に行き、出がけに心臓まひで亡くなった千子さんを発見した。私は急ぎ津川氏に電話を入れた。悲しい出来事だった。
保守的な考えをもつ津川氏は、安倍晋三首相(当時)と親しかった。ある時、私が首相とゆっくり話したがっていると知ると、その場で秘書官に電話を入れ夕食会を設定してくれた。
当日、首相は北海道から戻る航空便が豪雨で遅れたが、深夜、羽田から西麻布まで車を飛ばして駆けつけた。温かく、きっぷのいい名優の磁力をあらためて思い知った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】津川氏(右)はお座敷文化の伝承に熱心だった
ジェラルド・カーティス(22) 月夜野の家 娘たちに別世界の体験 並んだ靴、「一員」の証し(私の履歴書)[2024/12/23 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1356文字 PDF有 書誌情報]
群馬県北部の月夜野町と出合ったのは1971年、東京在住の友人で、外国人学生に日本語を教える日本研究センターのケネス・バトラー所長が週末、別荘に招待してくれた時だ。
吹雪の舞う日で、応接間から雄大な谷川岳が一望できた。雪が窓を打ち、風で暖炉の火が赤く燃えさかった。
夕食時、周りの別荘の住人も集い愉快なうたげになった。やや飲み過ぎた私は集落に別荘をもつと宣言し、その週末のうちに180坪の土地の地主となっていた。
少ない預金をはたき、たいそうな買い物をしたものだ。何らかの形で日本に根をもちたいとの思いが芽生え始めていたのだと今では思う。それが山林の急斜面の小さな土地でも構わなかったのだ。
この土地に妻の翠(みどり)と私は85年、小さな家を建てた。完成すると地元の北小学校の校長に会いに行った。米国の小学校は日本より1カ月ほど早く終わるので、娘たちを体験留学させたいと思ったのだ。
快諾した松井校長は全校集会で娘たちを紹介し、短い間だけど仲良くしようと呼びかけてくれた。気が付くと娘たちは友達と「そうだっぺ」と方言で話していた。
小学校までは2キロほど離れていたが、松井校長は娘たちが車でなく徒歩で登校するよう求めた。体力づくりになるとの理由だったが、娘たちに山奥の村の生活を学ばせたかったのだとも思う。2人は村のほかの子どもたちと同じように歩いて登下校した。
行きは下り坂だったが、帰りはちょっとしたハイキングだった。この帰り道を、娘たちは月夜野の夏のいい思い出として記憶している。
田んぼでオタマジャクシを探したり、道で会ったおばちゃんにカイコを見せてもらったりしてうれしそうに帰宅した。ニューヨーク育ちの娘たちには別世界の体験だった。
ある日、帰宅した娘らは、その日の出来事を興奮気味に話した。長靴とゴム手袋をつけてトイレを掃除し、雑巾で床を磨いたという。清掃員がいる米国では想像できないことだ。
自ら掃除するなら、教室を散らかしたまま帰宅したり、落書きしたりする児童はいないなと納得した。清潔さと責任の共有という日本社会の際立つ特徴は、こうして育まれるのだとも感じた。
北小が夏休みに入ったある日、クラスメートらを昼食に呼んだ。坂を登ってやってきた20人ほどの子供たちが、うどんとスイカを食べてひとしきり遊んだ。
娘の一人は40年前のこの日のことを思い出し、玄関に並んだ友達の靴を見て、誇らしい気分になったと語った。
なぜ誇らしく? と聞くと「友達に受け入れられたこと、皆が来てくれたこと、そして楽しんでくれたことが理由かな」と振り返った。
登校の初日、不安がっていた娘たちのことを思い出した。玄関に並んだ靴は北小の一員になれたことの証しだったのだな、と気付いた。
多くの地方都市と同様、月夜野町も人口減が著しい。町の名前も、みなかみ町への統合で消え、北小も生徒数の減少で近く閉校となる。
北小の先生や仲間をはじめ月夜野の人々の親切さは娘たちの記憶に鮮明に残る。
「お父さん、あの家は決して売らないでね」と彼女らは私に念を押す。さあ、どうだろう。いずれ娘らが、自分の子どもたちを夏休みに連れて行く日が来るかもしれない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】月夜野の家で玄関に並んだ北小の子どもたちの靴
ジェラルド・カーティス(21)北朝鮮訪問 全体主義の窮屈さ知る 金親子との面会は中止に(私の履歴書)[2024/12/22 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1376文字 PDF有 書誌情報]
北朝鮮を初めて訪れたのは1993年だ。東アジア専門家でカリフォルニア大バークレー校のロバート・スカラピーノ名誉教授が率いる訪問団に加わり、得がたい経験をした。
渡航前、クリントン政権からブリーフィングを受けたせいか、北朝鮮は訪問団が大統領の親書を託されたと信じた。
私たちはシェフ付きの迎賓館で要人待遇を受け、金日成国家主席と息子の金正日氏との面会もセットされた。
まず案内されたのは北東部、豆満江の河口にある羅津・先鋒の経済特区だ。経済の発展をみせる狙いだろうが、搭乗したロシア製ヘリコプターが故障し、北朝鮮軍の基地に不時着する事態となった。
案内役は基地を見せまいと必死だったが、代表団には米軍の元太平洋司令官がいて、駐機中の戦闘機は長く飛んだ形跡がないとすぐ見抜いた。
ヘリコプターの修理が終わり、やってきた給油車をみて皆はあぜんとした。兵士がクランクを手回ししてエンジンをかける旧式だったからだ。北朝鮮の装備と経済の衰えは想像以上のようだった。
特区では皆が一緒に行動するよう指示されたが、私たちは3手に分かれた。それでガイドが足りなくなり、自由に歩き回ることができた。
数列に並んだ簡素な住宅は塀で仕切られ、その上にガラス片が埋め込まれていた。
人の行き来を防ぎ情報を遮断する仕組みで、全体主義社会の窮屈さを知った。栄養失調のせいか、現地の人々の背の低さにも驚いた。
無事平壌に戻った夜10時、長く北朝鮮との裏の窓口を担っていた訪問団の一人から電話が入った。北朝鮮外務省の人々が、最若手の我々2人を飲みに誘ったという。
車に乗り住宅の前に連れて行かれた。入ると中はクラブで、きれいな女性らが接客していた。昼は高麗航空の乗務員だと後で教えてくれた。
私を接客した女性はロシア語と片言の日本語を話した。その会話を聞いて別の女性が話しかけてきた。金沢に住む在日朝鮮人で、日本の同胞の訪朝を手配する旅行会社を経営していると言う。想像もしなかった世界を垣間見た。
翌日、私たちが大統領からの親書を携えていないと知った北朝鮮側は金親子との面会を中止した。そこで面会を前提に差し入れていた贈呈品の返却を求めると、金日成氏あての分だけが戻ってきた。
オバマ政権が発足直後の2009年2月にも訪朝の機会があった。友人で駐韓国大使も務めたフレッチャー法律外交大学院のスティーヴン・ボズワース学長の誘いだ。
核問題などをめぐる6カ国協議を率いた金(キム)桂官(ゲグァン)外務次官との会食の席で、北朝鮮が柔軟な姿勢を見せればオバマ政権と関係改善の余地があると話したが、先方は無反応だった。
専門家の訪朝は北朝鮮の姿勢を探る機会になるが、核開発を断念させたい米国と自国の存続に抑止力が不可欠とみる北朝鮮は、ともに身動きがとれない状況だった。
印象に残るのは訪問団に対応した英語が流ちょうな女性。今の崔(チェ)善姫(ソンヒ)外相だ。あとは平壌冷麺が噂通り美味だったことか。
帰路、北京の空港で乗り継ぎ便を待つ間、ボズワース氏の電話が鳴った。相手はクリントン国務長官だった。北朝鮮担当特別代表への就任依頼で、彼は北朝鮮にさらに深入りすることとなった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】不時着したヘリコプターに給油するトラックは、クランクを手回ししてエンジンをかけた
谷口吉生さん死去 建築家、87歳 NY近代美術館を増改築[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 42ページ 388文字 PDF有 書誌情報]
米ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築や、東京国立博物館法隆寺宝物館などを手がけた世界的な建築家で文化功労者の谷口吉生(たにぐち・よしお)さんが12月16日午前5時11分、肺炎のため死去した。87歳だった。後日「メモリアルの会」を予定している。
東京都出身。慶応大卒業後、米国に渡りハーバード大大学院で建築を学んだ。「洗練されたモダニズム」と称され、周囲の環境に溶け込む設計で知られた。世界の名だたる建築家と競合して勝ち取ったMoMAの増改築では、大きな窓からニューヨークの街並みが見える開放的な空間設計が高い評価を得た。
資生堂アートハウス(静岡県)や東京国立博物館法隆寺宝物館で日本建築学会賞、土門拳記念館(山形県)で日本芸術院賞を受賞。2005年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞するなど多くの賞に輝いた。
2017年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(20) ニューズウィーク 立体的な視点を読者に アドバイザー、日本版を監督(私の履歴書)[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1364文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流と下田会議の仕事が一段落しつつあったころ、もう一つ学問以外の仕事に関わり始めた。
日本の専門家として、これは結果的に最も興味深い仕事の一つになった。
発端は1985年、米ニューズウィーク誌のリチャード・スミス編集長からの電話だった。日本版を近く発売予定で、ダミー版を読んで問題あれば知らせてほしいという。
数時間かけ目を通せば済むと思い快諾した。この数時間は結局、5年強に及んだ。
その間、私はニューズウィーク日本版を監督する責任を負う、編集長の特別アドバイザーとして働いた。
ダミー版を読み始めると、日本版が発売できる状況からほど遠いとすぐに気付いた。
表紙の文言や見出しは日本の週刊誌のように誇張され、記事の中身とかけ離れていた。記事も直訳調で、大事な部分が削られていた。
問題点の詳細な報告をスミス編集長に送ると、彼は輪転機を止めた。そこから日本版の第1号が販売にこぎ着けるまでには、6カ月もの時間と、さらに数冊のダミー版の制作が必要だった。
私の役割はニューズウィーク日本版が、米国版を正確かつ読みやすく翻訳しているよう目を光らせることだった。
スミス編集長は表紙に記事と違う扇動的な文言が並ばないように、とも念を押した。
私の自宅にはニューズウィーク誌が運び込んだファクス機が置かれ、土曜夜は必ず10時までに帰宅して表紙が送られてくるのを待った。
たいていは問題なかったが、時折、東京にいる日本版の編集者らと遅くまで文言を調整する必要があった。このやりとりは、異文化間のコミュニケーションの難しさと醍醐味を教えてくれた。
日本側の編集者らは当初、日本のジャーナリズムには独自の流儀と基準があると主張し、米国人にあれこれ指図されることに腹を立てた。
米国側はニューズウィークは名前だけ貸しているのではないと主張し、日本版の記事が米国版のスタイルとルールに従うよう求めた。
私の役割は、ニューズウィークの見解を、居丈高に聞こえないよう気配りしながら、日本側の誇り高きベテランのジャーナリストらに伝えることだった。一方、米国側に対しては、もっと日本側の気持ちに配慮しながら接し、ニューズウィークのルールも柔軟に適用するよう促した。
ニューズウィーク日本版が成功したのは日米双方の使命が一致していたからだと思う。世界のニュースを内向きの狭い視点でなく、立体的でグローバルな視点で日本の読者に届けるという使命だ。
ニューズウィーク日本版は日本の読者に新たな視点を提供する先駆者となった。
だが私が関わった40年前と今日で状況は大きく変わった。インターネットは週刊ニュース誌の衰退を早めた。日本のジャーナリズム自体もグローバルな視点をもつようになった。フィナンシャル・タイムズを買収した日本経済新聞社は典型だ。
異文化コミュニケーションはいつも難しい。だが、ここ数十年、日米の様々な場面で深まった交流は、双方が同じ目的に向かって辛抱強く歩み続ければ、困難は乗り越えられることを示した。
しかも課題と向き合うこと自体が、関わった人々のやりがいと成長につながる。ニューズウィーク日本版での体験は、それを教えてくれた。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューズウィーク日本版・創刊号の表紙=CCCメディアハウス提供
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 1ページ 592文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。(評伝を政治・外交面、関連記事をスポーツ面に)
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(19) 日米摩擦 誤解解消に努めた80年代 米紙の偏向報道を体験(私の履歴書)[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1387文字 PDF有 書誌情報]
1980年代、日米関係は戦後最悪の時を迎えた。両国の事情を知る私も、歯ぎしりすることが多かった。
米国は政府も与野党も産業界も一斉に日本を批判した。日本が自らの市場を閉ざしたまま不公平な産業政策で工業製品の輸出攻勢をかけ、米国の国際的な地位を脅かしているとの批判だ。
85年のプラザ合意で円高が進むと日本企業は米国の資産を買いあさり批判に油を注いだ。人種差別的な発言も出て双方に悪感情が募った。
私はウォール・ストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズなど米主要紙に寄稿を求められ、誤解に基づく対立激化を冷まそうと努めた。
米国に対しては、勤勉に働き安く良い製品を作る日本人を非道徳的とみなす主張のおかしさを指摘した。
一方、日本に対しては自らの保護主義的な政策を棚に上げて「日本たたき」ばかりを批判する一部の人々を戒め、謙虚に米国や諸外国の不満に耳を傾けなければ反日感情を強めるだけだと説いた。
だが当時、米メディアが注目したのは対日強硬を主張するリビジョニスト(修正主義者)らだ。彼らは従来の日本専門家を弱腰の「菊の会」メンバーだと決めつけた。
報道の偏向は個人的にも体験した。米主要紙から日本に関する電話取材を受けた後、記者は厚かましくもこう言った。「もっと日本に批判的な人を探しているので、誰か紹介してくれますか」
修正主義者の一人が「日本封じ込め」論者のジェームズ・ファローズ氏だ。
彼は子供と銭湯に行った経験を記事にした。時間をかけて体を洗い湯船に漬かると、周りの男たちが出て行ったと書き、それは外国人と一緒の風呂に入りたくないとの人種的偏見だと主張した。
私も若い頃の銭湯での経験を書いたことがある。近所の定食屋の店主がいて挨拶したら、私が日本語を話すと知った人々が語りかけてきて、のぼせてしまった話だ。
個別の出来事から日本人が友好的だとか、人種差別的だとかの判断はできない。ファローズ一家に他の入浴客は場所を譲ろうとしたのに、日本語を話さない同氏が気付かなかっただけかもしれない。
90年代に入ると日米の摩擦は和らいだ。日本でバブルが崩壊し、対日脅威論が下火になったのが一因だ。
皮肉にも、今度は日本経済の弱さが批判された。
98年、私はクリントン大統領の国家安全保障担当補佐官、サンディー・バーガー氏からの電話でホワイトハウスに呼ばれた。日本に関し少人数で議論したいという。
会議が始まるとアル・ゴア副大統領が飛び入り参加し、こうまくし立てた。「橋本龍太郎首相は十分な規模の経済刺激策をとると言ったのに、ウソをついた。彼は世界経済を危険にさらしている」
ゴア氏は2000年の大統領選出馬をにらみ世界経済の減速が自らに不利になると焦っていたのだろう。続けて、こんなアイデアを披露した。
日本を動かす200人の有力経済人を特定し、それぞれの米国内の友人を割り出す。そして、その友人らを介し、橋本首相に何をすべきかを伝える、との内容だった。
どう思うか、とゴア氏は尋ね皆を見渡した。私は現実的でないと思った。他の参加者も同じだったはずだ。誰も提案に前向きな発言はしなかった。数分後、ゴア氏は仏頂面で部屋を出て行った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】米国では労働者たちが日本車を壊すパフォーマンスが繰り広げられた(1981年3月、イリノイ州)=AP
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/19 日本経済新聞 夕刊 1ページ 571文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。
中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。
1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(18) 大臣の誕生 間近で見た組閣の裏側 人事や政策、崩れたシステム(私の履歴書)[2024/12/19 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1366文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏は、首相を辞めたあとも、キングメーカーとして権力を保とうとした。自らが推した宇野宗佑首相が芸者スキャンダルで2カ月余りで辞任すると、今度は海部俊樹氏をかついだ。
同氏が国会で首相に指名される直前のある朝、議員会館そばにある竹下事務所を訪ねた。彼は海部内閣の組閣をほぼ終えたが、閣僚ポストの1つをどうするか悩んでいると言い、紙に表を書いて説明を始めた。左側に派閥名、中央に派閥の人数、右側に各派閥に割り当てるべき閣僚ポストの数、という表だ。
問題は派閥間のバランスの維持と新政権のイメージ向上のため民間から閣僚を一人迎えたいが、受け手が見つからないことだという。
そこへ自民党の幹事長に就いた小沢一郎氏から電話が入った。目星をつけていた作家の曽野綾子氏に閣僚就任を断られたとの内容だった。
竹下氏は、ならば外相ポストに駐米大使の松永信雄氏はどうかと言った。本人は乗り気でないとの感触を得ている、と小沢氏が答えると、竹下氏は「私が頼んでみよう」と言い、電話を切った。
さすがに居心地が悪くなって引き揚げようとすると、竹下氏は「面白いから、いなさい」という。
夜の9時を回っていたワシントンに電話がつながると、彼は過剰なほど丁寧な言葉で松永氏の説得を始めた。
まず夜分遅くの突然の電話をわび、日本にとって今、外交がいかに大事かを説き、ほかに外相を務められる人物はいない、と美辞麗句を並べ立てた。その様子を私はただただ、感心して眺めていた。
松永氏が熟慮して折り返し電話したいと言うと、竹下氏は「大使にそんなことをさせるわけにはいかない。こちらから明日の同じ時間にお電話を差し上げます」と言って静かに圧力をかけた。そして電話を切ると、すぐ私のほうを向き「ダメだな」と言った。
1時間以上も長居して帰る時、竹下氏はエレベーターまで見送りに来てこう言った。
「カーティスさん、あなたは以前、代議士の誕生について書かれましたが、きょうは大臣の誕生がわかったね」
海部内閣が発足した数日後、私は海部邸の夕食会に呼ばれた。
この席には、まさに閣僚就任を断った曽野綾子氏と、その夫で同じ小説家の三浦朱門氏がいた。ほかに哲学者の梅原猛氏と経団連事務総長の三好正也氏が招かれていた。
海部氏は、招待者に所信表明演説の助言を求めた。驚くことに、政策に関しては官僚が演説を用意していて個人の見解を表明する余地はほぼない、と言い切った。
代わりに「日本人のアイデンティティー」について何を言うべきか意見を聞きたいという。私は「日本人にアイデンティティーの危機はない。むしろ様々な人種、民族や宗教が混在する米国のほうが問題だ」と言い、「日本人は自らの特異性を強調しすぎていないか」と私見を述べたが、反応は鈍かった。私は残りの時間、聞き役に回った。
当時は閣僚人事は派閥の力学を操る自民党内の実力者が差配し、政策は官庁が握っていた。時を経て良くも悪くもこのシステムは崩れた。
権力は首相官邸に集中し、野心ある官僚は「忖度(そんたく)」して官邸が嫌うことは言わない。派閥も解消されたが、これに変わる統治の仕組みも見えない。失敗を繰り返した政治改革の歴史から、今度は学ぶことができるのだろうか。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】松永氏(右)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(17) 竹下登氏 政治の駆け引き、楽しむ 反発招いた消費税導入に誇り(私の履歴書)[2024/12/18 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1304文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏との出会いは1970年代の初めだ。彼はニューヨークに来た超党派議員団の一人で、夕食会の後、社会党の河上民雄氏と3人でホテルのバーに行った。
もともと政治学者だった河上氏はコロンビア大に1年在籍したことがあり、当時、大学院生だった私は親しい友人になっていた。だが、その日は時差ボケでバーに着くとテーブルに突っ伏して寝てしまい、竹下氏と私が2人で話すことになった。
彼は政治を心底楽しんでいるのが分かった。話は明け透けで面白く、気がつくと時計の針は夜中の0時を回っていた。以降、東京で度々会うようになった。
当時、自民党では地方政治を経て国会議員となった党人派と高級官僚出身の官僚派がにらみ合っていた。
政策通を自任する官僚派は党人派を「どぶ板政治家」と蔑んだ。だが党人派には政治のプロとしての自負があり、選挙民のことを手に取るように知っていた。そして権力闘争や駆け引きを楽しんだ。竹下氏はその一人だった。
印象に残る出来事がある。78年11月、現役の福田赳夫首相が、自民党総裁選で対抗馬の大平正芳氏に敗れた数日後のことだ。大平氏の予想外の勝利に、田中派の一員として尽力した竹下氏は事務所で満面の笑みを浮かべていた。
この総裁選で自民党は党員が投票する予備選挙を初めて導入した。党の全国組織委員長だった竹下氏は、田中派議員の後援会の人々を党員として大量登録し、大平支持票の積み上げに奔走した。勝利を確信していた福田氏は油断し、大平氏に大差で負けた。
福田氏は国会議員による本選で戦う手もあったが「予備選で負けた候補は本選挙出馬を辞退すべきだ」と言っていたため諦めるほかなく、在任2年で首相も辞任した。
竹下氏は戦いのいきさつを詳細に語り、しきりに「面白かった」と振り返った。
9年後の87年に首相になった彼も、1年半あまりで辞任を迫られた。消費税導入とリクルートの未公開株をめぐるスキャンダルで、支持率が急落したのが理由だ。
辞任から数週間後の1989年6月、自宅を訪ねると竹下氏は庭に咲く蘭(らん)をじっと眺めていた。そして、運ばれてきたお茶を飲みながら、静かに心境を明かした。
消費税が国民の反発を招くのは分かっていたが財政安定には必要で、実現させたことは誇りに思う、と言った。
リクルート事件については「昔は許されたことが今は許されない。時代が変わったので、しかたがない」とつぶやいた。
それから、ふいに笑みを浮かべて、田中角栄氏と当時実力者だった金丸信氏のお金の配り方の違いを知りたいか、と私に聞いた。
いわく金丸氏は政治資金をもらいに来る議員に封筒入りの札束を渡すとじっと見つめ、議員が中の1万円札を数え、礼を言うまで待つ。
一方、田中氏は相手が封筒を開けようとするとそれを制し「よしゃ、よしゃ、これを持って帰って頑張れ」と送り出す。議員が後で封筒を開くと、予想を超える札束が入っていたという。
竹下さんはどちらですか、と私は聞きかけてやめた。彼の模範がいつも田中氏だったことは、聞かずともわかったからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューヨークの筆者の自宅を訪問した竹下登氏夫妻
ジェラルド・カーティス(16) 中曽根康弘氏 「国際的なナショナリスト」 知られざるリベラルな側面(私の履歴書)[2024/12/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1370文字 PDF有 書誌情報]
私が1966年に再来日して出会い、旧大分2区を舞台に「代議士の誕生」を書くきっかけを作ってくれた中曽根康弘氏は、その後も会いに行くと時間を割いてくれた。
出会いから16年後の82年には首相となり、5年にわたりその座にとどまった。
その間、国内では国鉄や電電公社の民営化を進める一方、日米同盟の重要性を唱えてロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築くなど外交にも力を入れた。
日米の首脳がファスト・ネームで呼び合う習慣はその後も続いたが、「ロン・ヤス」は本物だったと思う。
米国の影響下で起草された憲法の改正を主張し、首相になっても「戦後の総決算」を訴えた。右派のナショナリストとの印象があるが、私は「国際的なナショナリスト」という表現が正しいと思う。
偏屈な日本中心の視点ではなく、世界における日本の立ち位置を常に考えつつ、洗練された目で外交・国際問題を観察していて学ぶことが多かった。教養があり、哲学的に深い人物だった。
強く印象に残るのが憲法改正をめぐる考え方の変化だ。2013年2月のインタビュー時にこう発言した。
「憲法の改正はだんだん遠ざかる。一般の人たちはそれほど改正の必要を感じない。憲法の独自性とか、誕生の秘密性とか、そういう問題は我々の時代には非常に強かったが、時間がたってみたら、そのような意識はほとんどなくなって、中身が良いか悪いか(が大事になり)そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている」
日本は歴史上、外のものを多く輸入、消化し、自分のものとしてきた。憲法も誕生の過程はともかく、時を経て日本国民に受け入れられたのだから全面改正の必要はなく、不都合な部分に手を入れればいい。そういう思いなのだと私は受け止めた。
在任中の1985年、中曽根氏は首相として初めて終戦の日の8月15日に靖国神社を公式参拝した。これに関しても2006年に長時間のインタビューをした。
戦死した英霊を国として正式に靖国神社で追悼する必要から参拝したが、アジア諸国への波紋も考慮し一回限りにした、との現実主義的な判断を明かした。A級戦犯の合祀(ごうし)やアジアへの侵略戦争を正当化する神主には厳しい言葉を投げかけた。
このインタビューは予想される政治的な影響に配慮して当時はお蔵入りとなったが、19年に書籍掲載の許可を求めると、オーケーが出た。
中曽根氏には知られざるリベラルで個人主義的な側面もあった。11年、恒例の「今年の漢字」が「絆」だと公表されると残念がった。理由を尋ねると「日本には絆による悪いしがらみも多くある」と述べ、個人を過度に縛る家族や反社会勢力の絆を挙げた。
私との関係は大事にしてくれた。10年に私がアークヒルズでサクソフォーン奏者の渡辺貞夫氏とジャズ公演をすると知ると、90歳を超えた中曽根氏は観(み)に行きたいと言って足を運んでくれ、私のピアノのすぐ横の席から身を乗り出して演奏を見守っていた。
最後に会ったのは100歳の時。国際情勢への関心をいささかも失っていなかった。
翌年、101歳で大往生した。少し前にほほ笑みながら読んでくれた自作の詩を思い出した。「夢見るのは飽きた。今は寝るだけだ」
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏とは亡くなるまで関係が続いた
ジェラルド・カーティス(15) 中国訪問 鄧氏と会談、白黒の記憶 南京で迷子になり赤面(私の履歴書)[2024/12/16 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1378文字 PDF有 書誌情報]
1981年の5月、デビッド・ロックフェラー氏をはじめ日米欧三極委員会の一部メンバーと中国を訪れた。
毛沢東の死去で5年前に文化大革命が終わり、その2年後に最高権力者となった鄧小平氏が改革開放へとかじを切った大変面白い時期だった。
この訪問は私の中で白黒写真のように記憶されている。人々の服も、街も、何もかもが灰色にくすんでいた。
自転車が主な交通手段で、1人当たり国内総生産(GDP)は290ドルと日本の1万500ドルに大きく劣った。
鄧氏の登場で発展への期待は高まっていたが、現地で会った側近らは慎重だった。
彼らは58年の大躍進から文化大革命に至る経済政策の混乱を厳しく批判し、その爪痕の大きさを指摘した。同時に混乱は毛沢東への個人崇拝の副産物であり、その芽は摘まれたとも強調した。
鄧氏本人との会談は、ある午後遅く、小さく飾り気のない部屋で行われた。会談を社交行事でなく、実務的なものにしたいとの意図だろう。
鄧氏は質問に答えながら、1時間半にわたり高度な経済成長を実現する自らの計画を語った。日米欧が中国と足並みをそろえ、世界平和への最大の脅威であるソ連の覇権主義に対抗する必要があるとも強調した。小柄な体の隅々から力がほとばしっていた。
鄧氏とロックフェラー氏が並んで部屋の前に座り、残りの参加者と向き合う座席配置で、二人の間、鄧氏のそばに唾壺(だこ)が置かれていた。
時折、鄧氏がロックフェラー氏側に体を傾ける形で、その中につばを吐いた。そのたびにロックフェラー氏は小さくのけ反った。
台湾の扱いは、会談終盤に訪問団の一人が聞かなければ話題にならなかっただろう。聞かれると鄧氏は「10年、50年、あるいは100年かかるかもしれないが、台湾は本土と統一されよう」と答えた。
この問題は棚上げし目の前の課題に集中しよう、とのメッセージは明らかだった。
ただ鄧氏の言葉に訪問団の一人は反応した。後にドイツ首相となるシュレーダー氏が突如立ち上がって言った。
「10年、あるいは50年かかるかもしれないが、ドイツもいつか統一する」
そのわずか9年後、東西ドイツが統一するとは、彼も思っていなかったのだろう。
今日、台湾問題は棚上げ状態を解かれ、米中緊張の大きな要因になっている。
個人崇拝を防ぐ集団指導の仕組みも、習近平国家主席によって骨抜きにされた。そして毛沢東並みの権力者が、再び中国に誕生した。鄧氏の側近たちが心配した過ちが、まさに繰り返されつつある。
さて北京での会議後、参加者の一部は南京、杭州、上海を回った。南京の思い出は、白黒どころか真っ赤だ。自身が迷子になって赤面したせいだ。
玄武湖公園の美しい景色に見とれ、振り向くと一団が乗るバスが去っていた。
その場で待てばいいのに、私は南京駅に向けて歩いた。そこからホテルに戻ろうと思ったのだ。
だが公園を出るとすぐ方向感を失った。何とか駅に着いて途方にくれていると公安警察に発見され、ようやくホテルに戻ることができた。
旅の友の一人で、70年代前半に駐日米大使だったロバート・インガソル氏は、その後も会うと必ず南京の迷子事件を持ち出し私を冷やかした。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ロックフェラー氏らとともに中国を訪問し鄧小平氏と会談(前から2列目中央、ロックフェラー氏の後ろが著者)
ジェラルド・カーティス(14)カーター政権 日米中関係、NSCで議論 政権参加の誘いも幻に(私の履歴書)[2024/12/15 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1337文字 PDF有 書誌情報]
日米欧三極委員会は、1973年にチェース・マンハッタン銀行会長だったデビッド・ロックフェラー氏が創設した。
世界で存在感を高める日本と米欧の先進民主主義国の有力者らをつなぎ、対話を促すことが主な狙いだった。米欧の有力者らと交流を深めたい日本の経済人や政治家は、強い関心を向けた。
その三極委員会の年次総会に出席するため私は1975年5月、京都を訪れた。
ホテルから会議場に向かう貸し切りバスの中で、1人の男性が通路を歩きながら同乗する一人ひとりと言葉を交わしていた。「こんにちは。私はジミー・カーターといいます。ジョージア州知事で大統領選に立候補しています」
名前は知っている、という程度の知識しか私にはなかった。他の会議参加者も彼が次の大統領になるとは考えてもいなかったはずだ。だが三極委員会を率いていたズビグネフ・ブレジンスキー氏はそうなると信じていた。
彼は、1976年の大統領選でカーター氏の政策アドバイザーとなり、翌年カーター政権が発足すると、ホワイトハウスの国家安全保障担当補佐官に就いた。
コロンビア大の政治学部で私の同僚だったブレジンスキー氏は、ソビエト連邦の専門家ながら国際問題全般に幅広い知識を持っていた。
そして大学で研究を続けるより、ワシントンで現実の政策づくりに携わりたがっているのは明らかだった。
カーター政権の4年間、私は頻繁にワシントンに出かけた。日米の議員交流をめぐって議員らと話す傍ら、ブレジンスキー氏や米国家安全保障会議(NSC)の人々と議論する機会も増えたからだ。
NSCで特によくやりとりしたのは中国の専門家で、やはりコロンビア大の同僚でもあったマイク・オクセンバーグ氏だ。ニクソン政権が道筋をつけた中国との国交正常化についてカーター大統領とブレジンスキー氏が詰めていて、米日中の3カ国の関係について意見を求められた。
忘れられないのは最年少の35歳で東アジア・太平洋担当の国務次官補となったリチャード・ホルブルック氏で、同氏が主催する東アジア政策に関するブレーンストーミング会合は印象深かった。
国務省の名物だった彼は不(ぶ)躾(しつけ)で喋(しゃべ)りすぎ、上司がいてもお構いなしに、あらゆる議論を仕切りたがった。だが彼はとびきり頭が切れ、主張もしっかりしていた。
彼には国務長官になる明確な目標があり、クリントン政権で駐ドイツ大使や国連大使を歴任した。その間、会うことはなく、久しぶりに再会したのは2000年代初め、投資家のジョージ・ソロス氏がニューヨーク市マンハッタンの5番街にある自宅で催した朝食会でのことだった。
彼は全く変わっておらず、日本について話した私を含め数人が短いプレゼンテーションをする間、ずっと電話を受けたりかけたりしていた。
結局、彼は国務長官になる夢を達成できないまま、10年12月に職務中に倒れて亡くなった。
カーター政権の4年目、私はホワイトハウスのNSC幹部からの電話で政権に参加する意向がないかと尋ねられた。だが1980年の大統領選はロナルド・レーガンの勝利に終わり、私は決断に悩まずに済んだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1975年の日米欧三極委員会に参加する筆者(右から2人目)
ジェラルド・カーティス(13) 三木武夫氏 電話で聞いた政争の裏側 着物にたまるピーナツの殻(私の履歴書)[2024/12/14 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
初めて三木武夫氏と会ったのは1971年だ。日本は米大統領の訪中宣言、ドルと金の兌換(だかん)停止の二つのニクソン・ショックに揺れていた。
日米関係の懸念について語った私のインタビューが雑誌に載り、読んだ三木氏から声がかかって事務所を訪ねた。話は弾み渋谷区南平台の自宅に招かれるようになった。
三木氏は戦前の37年に初当選し、戦中も大政翼賛会の公認なしで当選し続けた。そんな彼の話は、日本政治を研究する私には大変貴重だった。マッカーサー元帥から首相就任を打診され断った経緯なども話してくれた。
自宅を訪ねたある夕刻、彼は着物姿でくつろいでいた。ソファに並んで話しながら卓上の鉢に入ったピーナツを次々と口に放り込んだ。むいた殻は着物の前にたまる。それをみた睦子夫人に叱られると素直に立って殻を払った。仲睦(むつ)まじい夫婦だった。
74年、田中角栄首相が金権政治を批判され在任2年強で退くと三木氏が後を継いだ。彼のクリーンなイメージで党勢の回復を狙った自民党の実力者らは、弱小の三木派なら操りやすいとも考えた。だが思惑に反し彼は政治改革に本腰を入れ、党内に「三木おろし」の旋風が吹いた。
76年夏、東京に戻った私は三木氏の右腕になった同時通訳者の国弘正雄氏を通じ面談を依頼した。南平台の自宅前は新聞記者が集まっているため電話で話すことになった。
滞在先の宿舎には10円玉を入れて話す赤電話しかなかった。三木首相との電話は長引き、翠は押し入れにかかった背広のポケットを探り、ハンドバックをひっくり返して10円玉をかき集めてくれた。
三木氏は後釜を狙う福田赳夫氏と大平正芳氏が官邸に来て、党の支持を失ったから辞任せよと迫った、と明かした。彼はこう応じたという。
「私を党の総裁にしたのは自民党だから辞めさせたいなら辞めさせればいい。だが私を総理大臣にしたのは自民党でなく国会だ。辞めさせるなら、どうぞ不信任案を出しなさい。ただ、その場合、私はどうするか分かりませんよ」
衆院の解散や自民党の分裂を匂わせ脅かしたのだと三木氏は説明した。そして笑いの混じった声で「福田も大平も顔色が変わって、慌てて去っていったよ」と言った。
「私はずっと首相を続ける気はない。だが首相を選ぶ権利は自民党でなく国会にある。カーティスさん、日本の政治には憲政の常道が大事だ」
「憲政の常道」は明治憲法下で育ちつつあった政党政治体制の慣習を示す言葉だ。戦前からの政治家である彼にとって、戦前と戦後の政治は連続しているのだと感じた。
結局、三木氏は首相にとどまったが、衆院の任期満了に伴う12月5日の総選挙で自民党は結党以来初めて、衆議院で公認候補の当選者数が過半を割った。三木氏は辞任し福田氏が首相に就いた。
首相退任の数日後、国弘氏から連絡があり、神奈川県の真鶴にある三木氏の別荘に招待された。こぢんまりした木造の家屋で、応接間からは太平洋が見えた。
話を楽しみにしていたが、政争で疲れ果てた三木氏は食卓に座ったまま首を傾け、すぐ眠りに落ちた。睦子夫人と翠、国弘氏と私が小声で話していると彼は時折目を覚まし、ピーナツを口に放り込んではまた眠った。それが三木氏と会う最後の機会となった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】三木武夫氏の別荘で。右から三木氏、筆者、妻の翠、国弘氏
ジェラルド・カーティス(12) 国際結婚 恩師の交友が縁で出会う 夫婦げんかは「文化」のせい(私の履歴書)[2024/12/13 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
妻の翠(みどり)とは1968年に出会った。日本から来たばかりの21歳の彼女は、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで広告デザインを学んでいた。
この出会いは、コロンビア大のハーバート・パッシン教授と翠の父親、深井武夫との交友のおかげだ。
武夫は南満州鉄道に勤める技術者の息子として中国の大連で育った。立教大に入学時、初めて日本の地を踏んだ。
卒業後お見合い結婚して中国に戻り、華北綜合調査研究所に勤めた。終戦後は身ごもっていた妻の妙子と本国に引き揚げ、妙子の実家がある神戸で翠が生まれた。
「翠」は中国で重宝される翡翠(ひすい)にちなんだ名前だ。武夫が帰国時、中国人の友人は自らのつてで家財を売って必要な資金を作ってくれた。「中国人は情が深い」と武夫は翠に言っていた。
妙子も商社勤めの父の転勤先、インドの旧ボンベイで生まれ、インドネシアのジャカルタで育って11歳で日本に渡った。ともに外地育ちの両親は国際的で進歩的な視野をもち、武夫は翠に「女でも、何でも良いから自分のものを持ちなさい」と言い聞かせた。
戦後、時事通信社に入った武夫はGHQ(連合国軍総司令部)の民間情報教育局にいたパッシン氏に世論調査を学び、その推薦でコロンビア大とミシガン大に留学した。パッシン宅のパーティーに翠がいたのはそんな縁からだ。
出会った翌日、私は翠を食事に誘い、付き合い始めた。だが数カ月後、武夫のがんが発覚し帰国してしまう。
マッキャンエリクソン博報堂でアートディレクターとなった翠は働きながら弟の純とともに看病を続けた。武夫は1年後、54歳で亡くなった。
「始めたことをやり遂げなさい」との生前の父の言葉に従って翠は73年にニューヨークで復学し、2年後に卒業した。74年、私たちは結婚し、二人の娘に恵まれた。
翠は子育ての傍らコロンビア大で著名画家ジェーン・ウィルソンの実技講座を受講した。やがて芸術学部の修士課程で学びたい気持ちが湧き願書を出したが、不合格だった。
翌年、翠はバスでウィルソン氏と会い、娘たちは小学生になったか聞かれた。なったと答えると「では、また願書を出したらいい」と言われた。前回の不合格は幼児がいては学位取得は難しいとの判断からだ、との示唆だった。
願書では20の作品のスライドに、写真2点を追加した。「創造1」は8歳のエリサ、「創造2」は6歳のジェニファーだった。翠は入学を許され、講義や版画制作を心から楽しんだ。
卒業時、版画の教授は仕事を続けるならスタジオが必要だと指南した。翠はニュージャージー州に100人もの芸術家が集う元倉庫のスタジオをみつけ、子供を学校に送ると地下鉄で通った。夢だった版画家になった翠は以来、多忙な職業人生を送っている。
ある夕食会で翠の隣に座った元財務官の細見卓氏は「奥さん、良妻賢母などになろうと思わない方が良いですよ。男が『家が一番良い』と言い出したら、だめです」と言った。翠は「励ましの言葉で嬉(うれ)しかった」と振り返る。
国際結婚は大変でしょうと言われるが、他の結婚を知らないので戸惑う。どんな結婚も時折、誤解は起きる。ただ夫婦げんかを終わらせるのは楽だ。「やっぱり文化が違うからね」と、互いでなく文化のせいにすればいいからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】結婚披露宴で妻の翠と
ジェラルド・カーティス(11) 下田会議 民間対話で理解深め合う 日米の政治学者、育んだ友情(私の履歴書)[2024/12/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1399文字 PDF有 書誌情報]
1960年代後半、日米関係は緊密さを増しつつ経済や安全保障面のほころびも目立ち始めていた。理解を深め合うには、政府間とは別に民間の対話が必要になっていた。
これを担ったのが1967年に初会合を開いた下田会議だ。以降27年間、日米の識者が両国の懸案を語り合い、政府に助言する場となった。
先にお話しした日米議員交流も第1回下田会議の席上、マイク・マンスフィールド米上院院内総務が提案して生まれた。その流れもありコロンビア大のパッシン教授が下田会議と日米議員交流の双方のまとめ役を務めていた。
だが69年の第2回下田会議では、期せずして私がその大役を担うこととなる。打ち合わせで東京を訪れた時、パッシン教授が私にまとめ役を委ねたい、と日本側の担当者を前に提案したのだ。
まとめ役の「共同エディター」は日米に一人ずついて、協力して議題の設定、会議後の共同声明の起草や論文集の編集を行う。パッシン教授は新鮮な視点をもつ若い私が適任だと説明した。
これに日本側事務局を率いる山本正氏は難色を示した。日本側エディターは私より13年も年配で、すでに外交問題の権威だった神谷不二氏。博士号もとっていない若年の私ではバランスがとれない、との言い分だった。
パッシン教授は会議前に私は博士になるし、神谷氏も賛成するはずだと応じた。結局、山本氏は折れ、神谷氏も快く提案を受け入れた。
その後、山本氏は40年にわたり付き合う親友になった。幸先の悪い出会いが深い友情へと発展しうる好例だ。彼はほどなく日本国際交流センターを設立し、下田会議や議員交流のほか、多くの民間外交の枠組みを担ってゆく。
第2回の下田会議は69年9月、静岡県下田市のホテルで開催した。初日、ひやりとする事件が起きた。
右翼活動家の赤尾敏氏が日章旗を掲げたヤクザっぽい男たちを従えてホテルのロビーに現れ、会議に参加する日本の政治家の道徳的な荒廃などを大声で批判した。その後、会議場に乱入しようとして警官隊に取り押さえられた。
翌日は日本労働組合総評議会(総評)が押しかけた。米帝国主義に反対する声明を無感情に読み上げる姿に迫力はなく、内容に説得力がないと自覚しているようだった。
無事始まった会議の焦点は安全保障問題だった。
日本側は米国の関心が中国に移り、日本との関係を十分考慮せずに同国と国交を回復させるのではと心配した。
参加者の1人は、1960年代前半に駐米大使だった朝海浩一郎氏がみたという悪夢に言及した。朝起きたら米国が日本に通告なく中国を承認していたという悪夢だ。
米側は沖縄返還が日本に及ぼす影響に関心を寄せた。返還後は日本がより防衛上の責任を果たすとの期待の一方、ナショナリズムの高まりで日本が軍事大国化をめざすのではと懸念する声も出た。
下田会議は私にとって、現実主義に徹した新世代の国際政治学者と知り合う機会にもなった。神谷氏や東京大の佐藤誠三郎、京都大の高坂正堯らの各氏で、彼らは政府に求められれば助言をしたが、御用学者からは縁遠く、必要とあれば公然と批判もした。
厳格な学術的研究を行う傍ら自らの考えを広く一般に伝える努力も惜しまなかった。私は彼らから多くを学び、新たな友情も育んだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】69年の下田会議で米国側のエディターをつとめた筆者(左から2人目)。左端は日本側エディターの神谷不二氏
ジェラルド・カーティス(10) 日米議員交流 貿易・外交ぶつけ合う主張 地元へ補助金誘導、どの国でも(私の履歴書)[2024/12/11 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1350文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流プログラムがうまく立ち上がったのは、太平洋の反対側で力を増す経済大国をもっと知りたいと願う若き議員らのおかげだ。
その多くは、後に米政府で重責を担い、日本の政治家とも関係を保ち続けた。
トーマス・フォーリー、ドナルド・ラムズフェルド、ハワード・ベーカー、ウォルター・モンデール、ノーマン・ミネタの各氏は、日本をより深く理解したいとの思いがとりわけ強かった。
フォーリー、ベーカー、モンデールの3氏は駐日米国大使として政治家人生を締めくくった。第43代ジョージ・ブッシュ大統領のもと国防長官に就いたラムズフェルド氏も、実は駐日米国大使への指名を望んでいたとされる。
1970年代前半という時代ゆえ、日本経済の急成長がもたらす好機と課題に焦点が当たったのは当然だろう。日米の貿易摩擦や、これに伴う日本の外交戦略の変化の可能性、さらには沖縄返還や米中接近の意味合いをめぐり双方が主張をぶつけ合った。
驚いたのは、政策でなく政治に話題が移ると双方の議員の距離が一気に縮まったことだ。対照的な文化、選挙の制度やルール、慣習の違いにもかかわらず、選挙民の支持をどう勝ち取るかの手法は根底の部分でごく似通っていることを議員らは発見した。
首都と選挙区を行き来して政府の補助金を地元の開発事業に誘導し、有権者に恩を売って政治資金を集める。そうした日常は、日米だけでなく選挙で選ばれるどの民主主義国の議員でも共通だった。
会議中、ある米側議員が熱心にメモをとっていた。後ろを歩きながらのぞくと選挙区の支持者宛ての絵はがきが束になっていた。会議が米ワシントンで開かれた時には、日本側の政治家も、同じく後援会の支援者宛てにポストカードを書いていたはずだ。
会議期間中、夕食で1日の日程が終わると米側議員らは宿泊先のホテルオークラの誰かの部屋に集った。話し上手な共和党と民主党の議員が一堂に会し、ウイスキー片手に明け透けに語り合う会は、いつも大いに盛り上がった。
ある夜、ボトルも空いてきたころ議員の1人が日本の議員から「根回し」という言葉を聞いた、と話した。公式の会議前に意見をすりあわせる非公式な相談だと説明した上で、「米議会でも同じことをしているのにネマワシのようなきちんとした言葉がないのは残念だ」と言った。
「ならばネマワシを米議会でも流行らせよう」と別の議員が提案し、一同が賛同した。そのようなわけで米議会ではしばらくの間、一部議員が「この問題では、もっとネマワシが必要だね」などと言い合っていた。
結局、ネマワシの言葉は米国では浸透しなかった。50年前の私は、妥協なしに主張をぶつけ合うだけの政治がここまで米国で広がり、合意を得ようとの意志さえ失われるとは想像もしていなかった。
今日と違い、当時の議員らには所属政党にかかわらず、ある種の仲間意識があった。共和、民主の両党は政策をめぐり衝突しても互いを尊重し信用していた。妥協こそが民主主義的な政府を機能させる肝だとも信じていた。
こうした考えが失われつつあるのは残念であり心配だ。しかも事態は改善するどころか、ますます悪化しているように映る。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日米の議員交流を通じ両国の橋渡しに尽力した(奥の中央が筆者)
ジェラルド・カーティス(9) 学者の誕生 好条件の誘いに即決 コロンビア大の職員に(私の履歴書)[2024/12/10 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1351文字 PDF有 書誌情報]
衆院選が終わって半年ほどの1967年夏、皆に別れを告げ別府を去る時が来た。
私は大量のメモと研究成果をスーツケースに詰め込んでニューヨークへ戻り、早速、博士論文の執筆にかかった。
日本の草の根の政治について描きたいことの輪郭が次第に整い始めていた11月のある日、モーリー教授から連絡が入った。中西部にあるイリノイ大学が春学期に日本政治を教える教員を探していて、めったにない機会なので受けるべきだと勧められた。
講義が始まるのは、ほんの2カ月先の1月だった。博士論文の執筆にはまだまだ時間がかかると教授に伝えると、必要な書類を持って行き、現地で教えながら論文を書けばいいという。私は言われる通りにすることにした。
大学で教えるのは楽しかったが、キャンパスのあるアーバナ・シャンペーンに住むことはニューヨーク育ちの私には耐えがたかった。
端的に言えば、トウモロコシ畑の海に浮かぶ離れ小島に隔離されたような気分になったからだ。
早くニューヨークか東京に戻りたいとの気持ちが日々募り、学期が終わる頃には次の仕事が見つかるか否かにかかわらず、ここを離れようと心の中で決めていた。
ちょうどそんな時、コロンビア大の社会学者で著名な日本専門家、ハーバート・パッシン教授から電話が入った。
コロンビア大の東アジア研究所がフォード財団の支援で日米の議員交流プログラムを立ち上げる予定なので、コロンビア大に戻って手伝ってほしい、との趣旨だった。
さらにコロンビア大の政治学部が私を職員にし、当初は講師、博士号をとれば助教授にする予定だとも告げられた。あまりのタイミングと条件の良さに、私はその場で申し出を受けた。
イリノイ大学での講義が終わって数日後、私は早々に荷物をまとめるとニューヨーク方面へ車を発進させた。
早く戻りたい一心だったのだろう。気付かずに時速100マイル(約160キロメートル)近いスピードを出していたようで、そう走らないうちに高速道路で警官に止められた。地元の警察署まで誘導され、結構な額の罰金を払わされた。
そこからは安全運転でニューヨークに戻り、無事にコロンビア大学で働き始めた。1968年秋のことだ。翌年、博士論文の口頭試験を無事に通ると助教授に昇格した。
比較政治論と日本政治について教える傍ら、私はパッシン教授とともに米日の議員交流プログラムの立ち上げに奔走した。
ワシントンに行き、プログラムに参加し東京に行ってくれる議員を募った。国務省にも立ち寄り、儀礼的に日本部長に話を伝えた。
無愛想な部長は、挨拶もそこそこに思いをぶちまけた。いわく日米関係は国務省がうまくかじ取りしており、素人が首を突っ込んでくるのを快く思っていない、何もしなくて結構、とのことだった。
その姿勢と振る舞いには、占領時代の発想が滲(にじ)み出ていた。日米関係は国務省と国防総省が「占有」しており、この先もそうあり続けるべきだ、との発想である。
それでも我々はめげずに議員交流プログラムの立ち上げに力を注いだ。結果的に日米で超党派の多くの議員が関心を示し、誰も予想しない成果を生むことができた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】パッシン教授(中)と日米の議員交流に奔走した。左は日本国際交流センターの山本正氏
ジェラルド・カーティス(8) 代議士の誕生 地方の実情、「選挙の教科書」 佐藤氏の器の大きさに感謝(私の履歴書)[2024/12/08 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1349文字 PDF有 書誌情報]
成功とは能力、努力と運のたまものだという。多くの人は自らの成功を誇り、運が果たした役割を軽視しがちだ。
日本の選挙事情を追った「代議士の誕生」が1971年の出版時から注目され今も読み継がれているのは、多分に運に負う部分が大きい。
別府駅に到着した私をわざわざ迎えてくれた佐藤文生候補が寛大な人物で、選挙運動をつぶさに観察させてくれたのは大きな幸運だった。
佐藤夫人が私を一家に温かく迎えてくれたのも、中学、高校、大学生の3人の息子さんが丁寧に大分弁を教えてくれたのもそうだ。
おかげで佐藤氏の後援会の会合で挨拶を求められたときは、まず「めんどしいけんど(恥ずかしいですが)」と前置きして大分弁で話し、打ち解けることができた。
「インタビューを頼まれたら応じてやってくれ」という佐藤氏の口添えもあり、多くの支援者らが地方での政治の実情を率直に語ってくれた。
後援会の酒席でも佐藤氏に付いてお流れを頂戴し、支援者と語ることができた。内輪の会合に顔を出した外国人を警戒する人々もいたが、酔いで立てなくなるまで杯を交わすと「根性がある」と認められ仲間として迎えてくれた。
やがて選挙参謀の秘密会合にも立ち会うことを許され、票や金銭の微妙な話も見聞きさせてもらえた。
選挙が近づくと選挙区内の各所から幹部の運動員がやってきて、選挙参謀と足りない票数などについて話す。そして車に「選挙ポスター」の束を乗せて去って行く。
実際に中に入っていたのはポスターでなく100円や500円の札束だった。幹部らは自らの取り分を抜き、残りを集票担当の下位の運動員たちに「足代」として配った。
戸別訪問を禁じた選挙法をかいくぐるため当時の別府市長は故人への挨拶を装った。「ごめんない」といって支持者宅に上がり仏壇に封筒を置いて手を合わせたが、封筒の中身は誰もが知っていた。投票への事前のお礼だった。
政治家はどの国でも、政治資金の規制をすり抜ける天才だ。それ故に今日の政治改革をめぐる議論は的外れに感じる。選挙には良くも悪くもお金がかかり、足りなければ政治家は合法か否かにかかわらず何らかの手段で資金を集める。そうでなければ金持ちだけが政治を担うことになる。
むろん、どこかにタガをはめないと、米国のように事実上無限にお金を使える狂った仕組みになる。だが大事なのはパーティー券の金額上限といった規制ではなく、透明性だ。お金の出入りに厳しい情報公開を義務付けることが、後ろ暗い資金の流れを断つにはよほど有効だ。
私の幸運に話を戻せば、佐藤氏が選挙に勝ったのは何よりの僥倖だった。彼が負けていたら、私の博士論文はものにならなかったろう。
後日談になるが、この博士論文をコロンビア大出版会が書籍化した後、思いがけず日本語の訳書の話が持ち上がった。佐藤氏にこれを告げるとショックを受けた様子だったが、すぐに「君を信頼する」といって出版前に原稿を見たいとも言わなかった。
当初はサイマル出版会、今は日経BPから出ている日本語訳は、政治家にも「選挙の教科書」として広く読まれ、私の人脈も広げてくれた。
佐藤氏の器の大きさには感謝するばかりだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】佐藤文生氏が初当選した1967年衆院選の投票を見守る筆者
ジェラルド・カーティス(7) 博士論文 別府で見た選挙の実態 中曽根氏の紹介、佐藤邸に居候(私の履歴書)[2024/12/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
博士論文の調査のため日本に戻ったのは1966年、25歳の時だった。
その少し前、コロンビア大で日本語の文献講読を指導してくれた大学院の先輩、岡本俊平氏と食堂で昼食をとっていると、父親の友人の国会議員に頼まれ選挙運動を手伝った話が出た。聞くうちに「これは面白い」と思った。
当時、私は吉田茂の研究のための奨学金を得ていたが、机に座って書けるような論文には気が乗らなかった。
日本に戻り選挙を通し草の根の民主主義の実情を研究しよう。そう考え研究内容の変更を申し出たらモーリー教授の支援もあり認められた。
東京に着いてすぐ、モーリー教授の教え子で、ライシャワー駐日大使の報道官だったナサニエル・セイヤー氏に電話した。赤坂の外堀通り沿いにあったホテル・ニュージャパンで会い、論文の構想を話した。すると有力議員の秘書を紹介するよと言い、歩いてすぐの一ツ木通りにある議員事務所に向かった。自民党の中曽根康弘氏の仮事務所だった。
秘書の小林克己氏に構想を説明すると裏の部屋に消え、戻ると中曽根とじかに話してくださいと言う。案内された部屋には長身で見栄えのする48歳の中曽根氏がいた。カリスマがあり重要人物の雰囲気が漂っていた。話を聞き、すぐ協力を申し出てくれた。
当時、日本の研究者にはライシャワー氏のように戦前、宣教師の家族として日本に住んだ第1世代、そしてモーリー教授、ハーバート・パッシン教授や日本文学のドナルド・キーン教授のように戦中に米陸軍や海軍の日本語専門学校で学んだ第2世代がいた。
私は戦後の第3世代だ。米欧とは違うものの成功した日本の民主主義に好奇心を抱き、その仕組みを理解しようとの姿勢が第3世代の特徴だ。中曽根氏は、それを好意的に受け止めたのだと思う。
どの政治家を研究するのがいいだろう、と彼は数人の候補を挙げた。東北と鹿児島の選挙区も挙がったが、方言に苦労するだろうと選択肢から外した。残ったのが別府市がある旧大分2区だった。
前回の選挙は負けたが今回は有望という佐藤文生氏に中曽根氏は電話し、私の世話を頼んだ。佐藤氏が断れるはずもない。受話器を渡された私が「よろしくお願いします」と言うと「どうぞおいでください」と返事が返ってきた。
翌日、私はスーツケースと電子タイプライターを手に寝台列車に乗った。天井に頭がぶつかるほど狭い寝台で始まった酒盛りに私も交ぜてもらい、楽しい旅路となった。
翌朝、別府駅で地元新聞の取材を受けた。私にとって初の記者会見だ。掲載された記事は私を「青い目の研究者」と呼んだ。西洋から来た外国人への当時の人々の思い込みだったが、茶色い私の目が青く見えるのが不思議で、何度も鏡をのぞき込んだ。
まず直面した問題が滞在先だ。別府に温泉旅館は多いが、長期滞在できる先がなかった。困っていると佐藤氏の夫人が「うちに泊まりなさい」と言ってくれた。これは大変ありがたかった。
さらに幸いだったのは居候した部屋が応接間の隣で、選挙資金などの際どい話が筒抜けだったことだ。「どうせ聞こえるんだから来なさい」と佐藤氏が言い、金銭の授受までも隠さず見せてくれた。
こうして選挙運動を内部から深く観察できる極めて貴重で有益な一年が始まった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏(右)、佐藤文生氏(左)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(6) 1964年 東京 下宿は西荻窪の4畳半 銭湯帰りにスナックへ(私の履歴書)[2024/12/06 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
1963年、私は日本研究で博士課程に進み、同時に日本語を本気で学び始めた。
当時のコロンビア大には日本語の集中講義があった。
夏に初級、秋に中級、翌春に上級の講義を立て続けに履修し、1年で3年分の日本語を学んだ。寝ても覚めても日本語漬けで、ついには夢の中でも日本語を話していた。
外国語はほかにも学んだことがあったが、日本語には魅了される何かがあった。
表記の仕組みは複雑ながら面白く、文の構成は思考方法の転換を要した。角や棘(とげ)がない柔らかで丸みを帯びた音はメロディーのようで、音楽的な言葉だなと感じた。
教科書は控えめに言っても時代遅れだった。終戦から18年を経ていたが、初めて学んだ文章は「私は兵隊です」だった。それでも私の日本語は徐々に上達していった。
博士課程に進む時、モーリー教授に「1年やって自分に合わないと感じたら、ほかのことをしなさい」と言われた。その1年が終わる頃、私は続ける決断をした。
のみならず東京で日本語を10カ月間みっちり学ぶフェローシップも申請した。これが認められ、私は64年、初めて東京へ旅立った。
この年の東京は熱気に満ちていた。経済は2桁成長を続けていた。4年前に池田勇人首相は10年で所得を倍増させると言ったが、達成は前倒しになりそうな勢いだった。
所得も伸び、次の世代はさらに豊かになるとの楽観論が広がっていた。子の世代の生活に不安を募らせる人々が多い今日とは正反対だ。
政治的には当時の日本は分裂していた。60年、日米安全保障条約の改定をめざした岸信介首相は、史上最大のデモが起きるなか、国会で条約の批准を強行した。
全学連は強力で、労組活動も社会党や共産党と政治的に結びついていた。保守勢力は憲法を改正し日本が自前の軍を持つべきだと訴えていた。
つまり日本は経済が急速に拡大し、戦後の民主主義が根を張り、楽観と緊張がせめぎ合う刺激的な国だった。
同年の東京オリンピックも高揚感に油を注いでいた。オリンピックの開催は日本が民主主義国家、そして勃興する経済大国として、再び世界の表舞台に立った証し。日本の人々にとっては希望に満ちた新時代の号砲だった。
私は西荻窪に下宿した。小さな中庭に面した4畳半は入り口と部屋が狭い通路でつながれ、流しとガスコンロ、和式トイレがついていた。シャワーや風呂はなく、冬は小型石油ストーブの前で震えた。
とはいえ家賃は月3000円。1ドル360円時代だから8ドル強の格安で、文句はなかった。
スパルタ的な生活環境ゆえの楽しみもあった。冬に凍ったガラス戸を開け、庭を見ながら漢字を暗記していると、中庭の反対側の部屋に住む年配女性と世間話になり、日本の作法など教えてもらった。
銭湯の帰りにはラーメン屋や地元のスナックに寄った。すっかり日本の生活になじみ、帰国の日が迫ると、また日本に戻ることばかり考えた。1年近い滞在で学んだのは、もっともっと学びたいことがあるという事実だった。
博士論文を書くため日本に戻ってやろう、とひそかに目標を定めた。それにはまず、どんな論文を書くか決める必要があった。いいアイデアがひらめいたのは、またもや偶然だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】東京五輪は、日本の人々にとって希望に満ちた新時代の号砲だった
ジェラルド・カーティス(5) コロンビア大学 恩師は日本外交の専門家 大戦時、海軍で暗号解読(私の履歴書)[2024/12/05 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1306文字 PDF有 書誌情報]
私の人生を変えることになるゼミは、科目一覧には「米国の対外政策」とのみ記されていた。
だが、このゼミを担当するジェームス・モーリー教授は実は日本の外交史に通じた専門家だった。そしてゼミも、日米の外交関係に焦点をあてながら、米国の対外政策を学ぶという内容だった。いずれもゼミを履修した後に知ったことだ。
モーリー教授と日本との関わりは、日米開戦の直後に遡る。海軍に志願した若き日の彼は、まず海軍の日本語学校に送られ日本語をたたき込まれた。これが終わると首都ワシントンで、大日本帝国海軍が通信に使う暗号を解読する任務についた。
何年も後になるが、モーリー教授からその頃の話を聞いたことがある。
戦争初期は、暗号解読によって米軍が日本の戦艦を見つけ沈没させたとの連絡が入ると、解読チームの人員は立ち上がって歓声を上げていた。
だが戦争が長引くにつれ、モーリー青年の心境に変化が生じ「自分のせいで、どれだけの人々が犠牲になっただろう」と考えるようになった。
犠牲になった兵士らは敵ではなく、自分と同じように国のために志願したか徴兵された若者ではないかと気づき、いたたまれない気持ちになったという。
この経験から戦争が終わると彼は大学に戻って日本について学ぶことを決めた。日本人がどのような人々かを知り、悲劇が繰り返されるのを防ぎたい、との思いからだった。その情熱をモーリー教授はゼミにも持ち込み、私も大いに感化された。
だが当時の私は日本に関する知識が乏しく、研究リポートの課題が出ると何を題材にすべきか皆目見当がつかなかった。そこで教授に助言を求めると、1932年から41年の日米開戦まで駐日米国大使だったジョセフ・グルーについて調べてはどうかとアドバイスされた。
グルーは米国の厳しい対日経済制裁について、日本の文民指導者の力をくじき軍国主義者を勢いづかせるだけだ、と当初は反対していた。
だが後に翻意して制裁に賛成する電文を本国に送り、これが真珠湾攻撃の伏線にもなった。この経緯と背景をさぐることをモーリー教授は勧めたのだ。
時間をかけて多くの資料を読み込み、丹念に史実を調べた。そして成果を皆の前で発表する日がやってきた。
私が話す間、モーリー教授はせわしなくペンを動かしていた。これから容赦ない批判が飛んでくるのだろう、と私は観念した。
だから発表が終わってモーリー教授が好意的なコメントをした時は、安心すると同時に驚いた。さらに教授は私を相手に当時の日米関係をめぐって長く話し込んだ。
数日後、教授は私をオフィスに呼び、コロンビア大に残って博士課程に進み、日本語も勉強してはどうかと勧めた。
なぜだか、それが正しい選択である気がして、決断に時間はかからなかった。
博士課程に進んだ後どうするか、この時点で明確な計画はなかった。だが日本について深く知り、日本語も学ぶという考えには胸が躍った。
曲折をたどってきた道が、また大きな曲がり角にさしかかっていた。今回は、その先に生涯続く、長くてまっすぐな道が延びていた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日本研究への道を開いたコロンビア大の恩師、モーリー教授
ジェラルド・カーティス(4) 転校 音楽を諦め学問の道へ 夜はピアノで学費を稼ぐ(私の履歴書)[2024/12/04 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1348文字 PDF有 書誌情報]
天才とは1%のひらめきと99%の努力だ、と発明家のトーマス・エジソンは言った。
だとすれば私がピアノの天才になり得ないのは明らかだった。1%のひらめきに必要な創造性に自信はなかったし、毎日何時間も汗水垂らしてピアノに向かうほどの情熱がないことも、フレドニア校で学び始めてすぐに気付いた。
日本語に興味をもち履修してからは、むしろ漢字の練習に何時間も没頭していた。
そんな時に出会ったのがフレドニア校で歴史を教えていたカリスマ的な教授だった。私には強く影響を受けた教授が何人かいるが、その最初のひとりだ。
私が課題の一環で書いたリポートを読んだ教授は、私をオフィスに呼んだ。そしてプロの音楽家にならないなら、社会科学の教育が充実した大学に移るべきだと勧めた。
君なら最高難度の大学でも十分通用する、とまで言ってくれた。その言葉が、私に決断を迫る一押しとなった。
後に私が自身の教え子を鼓舞しようと努めてきたのは、こうした恩師の好意を払い戻したいとの思いからだ。
ともあれ私はフレドニア校を去ることにした。問題はどこに転校するかだった。
悩んでいる頃、折よくフレドニア校にいる友人を訪ねてきた音楽家と出会った。彼はかつてニューメキシコ州のアルバカーキに住んだ時の話をしてくれた。メキシコ国境に近いその街での生活は、米国にいながら外国で暮らしているようだったと言った。
彼は、私がバーやナイトクラブで難なくピアノ演奏の仕事に就けるとも太鼓判を押した。私は16歳の時からニューヨークの音楽家組合に加入しており、その組合員証が役に立つはずだという。
旅心をくすぐられた私はアルバカーキに移り、ピアノ演奏でお金を稼ぎながら学費の安いニューメキシコ大で学ぶことを決めた。こうして2年間暮らしたフレドニアに別れを告げ、私は西に向かった。
すぐにカクテルラウンジでの仕事も見つかり週4夜、演奏することになった。
ニューメキシコ大には傑出した教授が何人もいた。その一人がコロンビア大の博士号をもち、国際関係を教えていたエドウィン・ホイト教授だ。彼は、いくつか授業を履修した私にコロンビア大の大学院に進むよう勧めた。自らの恩師で、国連研究の権威であり助言役も務めるレランド・グッドリッチ教授に学んだらいい、という。
1962年にニューメキシコ大を卒業した私はウッドロー・ウィルソン財団の奨学金を得て、アドバイス通り政治学の修士号を得るためコロンビア大の大学院に進んだ。
私の初めての学術論文は64年、国際機関を扱う権威ある学術誌「インターナショナル・オーガナイゼーション」に載った。58年にレバノンで起きた政治・宗教対立と国連の役割を論じる内容で、もとは大学院の授業でグッドリッチ教授に提出したものだ。
大学院では、米外交政策に関するゼミへの参加も必須だった。いくつか候補があったが、私は深い考えもなく、時間的に最も都合のいいゼミを選んだ。ゼミの担当教授が誰で、どんな人物なのかなど、見当もつかなかった。
偶然や幸運が、人生の行方を決定づける時がある。私にとって、まさにそんな瞬間が訪れたのは、ジェームス・モーリー教授が教えるゼミに参加した時だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューメキシコ大時代の筆者
ジェラルド・カーティス(3) ブルックリン 野球に熱中した少年時代 大谷活躍でドジャース許す(私の履歴書)[2024/12/03 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1365文字 PDF有 書誌情報]
今日のブルックリンは若者を中心に人気の居住区だが、1950年代は犯罪やいじめ、公立学校の質を心配する家庭に敬遠されていた。
わが家も私が9歳の時に北隣のクイーンズ区に引っ越し、私は58年の高校卒業までそこに住み続けた。
私が通ったファー・ロッカウェイ高校は公立だったが、3人のノーベル賞受賞者を出している。同時に史上最大のネズミ講詐欺で知られる金融家バーナード・マドフの出身校でもある。彼は2年先輩で、妻のルースは同級生だった。
クイーンズとブルックリンには同じくらい暮らしたが、私にとっての故郷は常にブルックリンだ。ブルックリンには下町の情緒がある。初めての東京暮らしで浅草をとても気に入ったのも、2つの全く異なる街に共通の風情を感じたからだ。
ブルックリンの一番の思い出は野球のブルックリン・ドジャースで、シーズンに何度かは、父が私をエベッツ球場に連れて行ってくれた。
今も目をつぶると、メジャーリーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンなど、1950年代初めの名選手の姿が鮮明に浮かび上がる。
私の友達はみな熱烈な野球ファンで、今の子供がポケモンカードを交換するのと同じく、ベースボールカードの交換に熱中した。
だが野球への関心が一気に冷める事件が起きた。57年、ドジャースが地元ブルックリンを裏切りロサンゼルスに移ってしまったのだ。失った関心が最近また復活したのは、大谷翔平選手がドジャースで活躍しているおかげだ。ブルックリンを去ったドジャースを、67年ぶりにやっと許せる気持ちにもなってきた。
私は6歳からピアノも習い始めた。両親がそれを教育の大事な一部と考えたためだ。
最初は友達と遊びたくて練習は最低限だった。だが、やがて楽しくなり、ポップやジャズを進んで弾き始めた。
16歳になると友人らとバンドを組み、ニューヨーク州中部キャッツキル山地の避暑地で演奏する仕事を得た。宿泊無料、演奏料は週35ドルという好条件だった。
50年代はキャッツキルの全盛期で、一帯は赤カブを使ったウクライナのスープにちなんで「ボルシチ・ベルト」と呼ばれた。東欧出身のユダヤ系移民の多くが、ここで夏季休暇を過ごしたためだ。
多くの庶民的なホテルが建ち、その一つホテル・タンズビルが私たちを雇った。高校と大学の4年間、夏はここに住み込んで演奏した。
平日はダンス音楽を奏で、土曜夜はニューヨークから来たゲストらのショーで演奏した。当日の午後に楽譜をもらい、簡単なリハーサルをして午後8時に本番となる。
ボルシチ・ベルトは歌手、コメディアン、演奏家の卵にとって訓練の場で、その多くが、きらびやかな芸能の道を切り開いて行った。
高校卒業が迫ると、大学で音楽を学ぼうと決めた。高い学費は払えなかったので、ニューヨーク州立大学のフレドニア校に願書を出した。
州の西の端、バッファロー近くの小さな町にある大学で、当時は州立大の音楽・演劇学校の一部だった。入学が認められ、1958年9月に現地での生活が始まった。
ここを2年後に去り、プロの音楽家になる道も捨てて、4年後の東京行きへとつながる道を歩み始めようとは、当時は知るよしもなかった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ジャズバンドを組み、夏には避暑地で住み込みで演奏した(右から2人目が著者)
ジェラルド・カーティス(2) 一家の歴史 父、ウクライナ逃れ移民に ロシア侵略で重なった運命(私の履歴書)[2024/12/02 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
私はニューヨーク市のブルックリン区で1940年に生まれた。父はウクライナ生まれの移民1世、母は祖父母が東欧出身の米国生まれだ。
父は21年、祖母に連れられ5人の姉妹とともに米国に来た。その8年前、出稼ぎで米国に渡っていた祖父が、第1次世界大戦とロシア革命のあおりで帰国できなくなり一家を呼び寄せた。
当時、オデッサに近い故郷の村には帝政ロシア軍の残党が流れ込み、襲撃や蛮行を繰り返していた。ユダヤ系の祖父は、不安定な国際情勢の中で一家に危険が及ぶことを危惧してもいた。
何とかウクライナを逃れた父一家の旅路はその後も困難の連続で、ベルギーのアントワープからニューヨーク行きの船に乗るまでに約2年を要した。
2022年にロシアのプーチン大統領がウクライナを侵略するまで、同国と父の関係をそう意識することはなかった。だが多くのウクライナの人々が国外に逃れる様子を見て、100年前の父一家がたどった運命と重なった。
そしてプーチンが当時のロシアの指導者と同じく、ウクライナを帝国の一部とみなしていることを痛感した。
プーチンが理解していなかったのは、ウクライナに強いナショナリズムが育っていたことだ。さらに同国はユダヤ系のゼレンスキー氏を大統領に選ぶまでに、反ユダヤ主義を克服している。
プーチンはウクライナの領土だけでなく、同国の民主主義と近代主義の歩みも否定し抵抗に遭っているのだ。
13歳で初めて米国の土を踏んだ父は、1~2年しか米国で学校に通わなかったが、英語は流ちょうだった。一方、祖父はロシア語、ウクライナ語と東欧のユダヤ人が話すイディッシュ語を話しながら英語は学ばずじまいだった。優しい祖父だったが、言葉の壁のせいで深い会話をした記憶はない。
ただ大学でロシア語を勉強中、腕試しに手紙を書いたことがある。祖父はそれを手にロシア系ユダヤ人が集まる近所の店に出かけ、誇らしげに友人らに孫の手紙を読んで聞かせた、と父親が後に教えてくれた。
父親は電報配達員、雑貨店店員、タクシー運転手などの職に就き、短期間、ブルックリンの東欧系ユダヤ人相手の食品店も経営していた。
職がない時は母親が家計を支え、どんなに苦しくても失業保険を申請することはなかった。政府の世話になるのは物乞いと同じだと固く信じていた。70歳まで働き続け、その5年後に亡くなった。
母方の家族に父方ほどのドラマはない。母親はマンハッタン西岸からハドソン川をはさんだ向かいのニュージャージー州で育った。ポーランド出身の祖父は祖国では靴屋を営み、ハンガリー出身の祖母は郷土料理が得意だった、という程度の知識しかない。
勉強好きの母は弁護士になるのが夢だったが、大恐慌で父親の会社が倒産して大学に行けず、法律事務所で秘書の仕事に就いた。
母はこれを生涯悔やみ、私を弁護士にしたがったが、それが私の夢になることはなかった。
それでも一人っ子の私に、両親は自らが果たせなかった大学進学を強く望んだ。だから私が大学院まで進み、コロンビア大の教授に就いたことをとても喜んだ。
もっとも、私が日本を専門とする学者になろうとは彼らも、私自身も想像できなかった。そこに至るには、まだいくつもの曲折があった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】幼い頃の筆者
ジェラルド・カーティス(1) 曲折の道のり 間近で観察した日本政治 夢にも思わなかった学者の道(私の履歴書)[2024/12/01 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1302文字 PDF有 書誌情報]
若くして将来、何をしたいかわかっている人たちはいる。その人たちは途中で迷いや落胆があっても、人生はおおむね真っすぐの道のりをたどる。
一方、そうでない人も多いはずだ。道に悩み、仕事をしながらも満足感が得られない。仕事に対しての情熱が高まらない。
回想の冒頭からこういうことを書くのは、今回の「私の履歴書」を読んでくれる、特に若い読者にメッセージを届けたいと思うからだ。
将来、何をしたいか分からないのは、少しもおかしなことではない。不確かさ、不安、失敗は成長の通過点だ。大事なのは、情熱の対象を探し続けることだ。それを追求すること自体が、生きることに意味をもたせる。
それに運が良ければ曲がり角をいくつも曲がるうちに、自分に一番合う仕事が見つかるかもしれない。私はまさにそんな幸運な一人だ。
高校時代は一時、プロの音楽家になろうと思っていた。だが、いくら音楽が好きでもプロとして成功するだけの才能は備わっていなかった。
いや、それよりも音楽家になろうという情熱が湧いてこないことを、認めざるを得なかった。
その後、国際政治に興味をもち、大学を卒業して米コロンビア大大学院の政治学部に入ったが、将来どんな道を歩むかは迷っていた。国連で働くか、ジャーナリストか外交官になる考えは浮かんだが、学者、あるいは日本の専門家になるとは、その時が来るまで夢にも思わなかった。
詳しくは追って書くが、ひょんなことから日本語の勉強を始め、ある日、何時間も机に座って夢中で漢字を練習している自分に気づいた。
「これだ」と思ったのは日本と日本語をもっと知りたい、と迷いなく感じたからだ。振り返れば、その時から私は想像すらしなかった道を歩み始めた。日本政治を専門とする学者としての道である。
60年前、私は初めて日本の地を踏み、東京で丸1年、日本語の習得に汗を流した。
当時の日本は高度経済成長のただ中で、政治の舞台でも保守と革新の激しい闘争が繰り広げられていた。これらに東京オリンピックの興奮も加わり、大変エキサイティングな時代だった。
そんな熱気に包まれ、何か日本関係の仕事に就ければ、とは考えていた。だが、まさか47年間もコロンビア大学で日本政治を教え、ニューヨークと東京を行き来し、多くの日本の政治家と知り合うことになるとは思いもよらなかった。
日本について自分が書いたものを日本の方々が読み、評価していただき、日経新聞に私の履歴書まで書くことになる未来など想定外だったのはいうまでもない。
政治学の研究の多くは、制度とその機能に重点が置かれる。だが私の最大の関心は政治に関わる人、つまり政治家と有権者である。
幸いにも私は半世紀以上にわたり、多様な政治的信条を持つ多くの日本の政治家と知り合うことができた。おかげで日本の草の根の民主主義を自身の目で間近で観察する貴重な体験ができた。
どこまでも奥深く、しかも進化し続ける日本で、私が経験したことを、日本の皆様と分かち合う機会を得られたのは、とてもうれしい。しばし思い出話にお付き合いいただければ幸いです。(米コロンビア大学名誉教授)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
辰野勇(29)尽きぬ好奇心 人は居場所探して生きる 「峠の先の景色」を見とどけたい(私の履歴書)終[2024/11/30 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
3年ほど前から自宅に野良猫がすみ着いた。キジトラとキジ白の2匹だ。キジトラは雄で、風来坊の風(ふう)と名付け、キジ白は雌で花と名付けた。今や我が家になくてはならない存在だ。とりわけ家内は文字通りの猫かわいがりで、何事も猫中心の生活である。
奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)跡を譲り受けた自宅の庭にはエノキや紅葉が生えていて、猫たちは木登りしたり、自由気ままに庭中を走り回ったりしている。たまに小鳥やトカゲをつかまえて家に持ち込んで見せに来る以外、平和に我々を癒やしてくれている。
動物写真家の岩合光昭さんのテレビ番組「世界ネコ歩き」に出演したのが我が家の自慢だ。岩合さんとは1990年に始まったオペル冒険大賞の審査員としてご一緒したのを縁に30年以上の付き合いだ。現在モンベルクラブの会報誌の表紙に彼が撮影した野生動物の写真を使わせていただいている。世界の大自然を舞台に危険な動物を撮影するのはある意味、覚悟をもった冒険といえるかもしれない。
すみ着いた我が家の猫たちを観察していると、面白いことに気づかされる。四季折々、その季節で一番居心地の良いところを見つけて、ちゃっかり居座っている。
あるとき、映画監督の木村大作さんから映画に出ないかと誘われた。木村さんは黒澤明監督作品のキャメラマンを務め、自らも監督をして映画を製作している。「劔岳 点の記」は彼の作品だ。
2014年に公開された映画のタイトルは「春を背負って」。松山ケンイチさん、蒼井優さんが主役で、富山県の立山の山小屋を舞台に、主人(小林薫さん)が亡くなった後、都会の大企業で働いていた息子(松山さん)が山に戻って小屋を継ぐ話だ。
私の出番は山小屋を訪れる登山者で、セリフは二言だけだが、笛を吹いて亡き先代を弔う役回りだった。
撮影が順調に終わって木村さんがぽつりとつぶやいた。「人間てえのはな、居場所を探して生きてんだよ」。その言葉が妙に私の心に刺さった。「そうか、そうだよな、考えてみれば、人は誰もが自分の居場所を探して生きている」。それは猫たちを見ていると納得できる。暑いときは日陰に、寒いときは身を寄せ合って生きている。
今回、「私の履歴書」の連載で、普段は先々のことばかり考えて行動してきた私が、改めて自分の歩んできた道を振り返る機会をいただいた。
齢(よわい)77歳、考えてみれば私もまた、「自分の居場所」を探し求めてきた。自然に身を置き、家族に囲まれ、友人に囲まれ、志をともにする仕事の仲間たちとともに事業を進めてきた。
現在モンベルの社長を務める長男の岳史と長女の智代が合計6人の孫を連れて、私の喜寿のお祝いをしてくれた。
2度のがん手術で救われた私の命である。
これから先の人生で、間違いなく今この瞬間が一番若い。無論、年を重ねれば、いや応なく肉体的なパフォーマンスは衰える。しかし一方で積み重ねた経験と、尽きることのない発見がある。それを糧に今も成長し続けている。
来年はモンベルを創業して50周年を迎える。きっと50年前の私が、今の自分を見たら驚くに違いない。
「人はなぜ山に登るのか」。それは「峠の先に見える景色を見とどけたい」という「好奇心」ではあるまいか。
私のそんな思いはこれからも続く。
(モンベル創業者)
=おわり
あすから米コロンビア大学名誉教授 ジェラルド・カーティス氏
【図・写真】自宅で猫を抱いてくつろぐ
ラタン・タタさん(タタ・グループ元会長) 「ナノ」披露に秘めた決意(追想録)[2024/11/29 日本経済新聞 夕刊 2ページ 930文字 PDF有 書誌情報]
腰痛の話で盛り上がったことがある。身長の高い人間は腰痛持ちが多いというが、ラタン氏の場合、一世一代の晴れ舞台で激痛に見舞われた。2008年3月のことだ。
場所はジュネーブのモーターショー会場。10万ルピー(約18万円)という低価格小型車「ナノ」を海外で初めて披露するタイミングで不運にもまったく動けなくなった。
立てない。歩けない……。
体の位置を少しずらすだけで激痛が走る。ビデオメッセージで代用する案も検討したが「皆がプレゼンを待っているので絶対にキャンセルしたくなかった。対面で思いを伝えたかった」とキッパリ。
意を決して痛み止め注射を打ち、医者を同伴し、ストレッチャーに乗って強行軍で移動。両脇から抱えられないとトイレにも行けない状態だったが、本番では「ナノ」の脇に立ち、決死の思いでプレゼンを乗り切ったという。
面白い秘話がある。
会場で待機する間、立っているのがつらくなり、近くの部屋に逃げ込んだ。そこはトヨタ「レクサス」のブース。するとスタッフが近づいてきて新製品を説明し始めた。
「どうやら私の正体に気付かなかったらしい。でも接客があまりに熱心だからレクサスのハイブリッド車を危うく買わされそうになったよ!」
こう振り返りながら、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
身長6フィート(約183センチ)、体重83キロ――。ラタン氏に体格を尋ねると、偶然にも私とまったく同じだった。2014年7月掲載の「私の履歴書」を準備するため、私は日本とインドを1年以上往復しながら密着取材を重ねていた。
毎日、重いバッグを持ち歩き、しかもホテルの冷房が効きすぎて部屋が冷え切っていたことが響いたのだろう。取材中、私も同じようにひどい腰痛に苦しんでいると伝えてみた。
「それは大変だ。よし、私が使っている薬をあげよう。30分で痛みがなくなるよ」
ラタン氏は自分の引き出しを開け、錠剤を幾つか手渡してくれた。パッケージに入った飲みかけの鎮痛剤や胃腸薬……。結局、それらを飲む機会はなく、出張中のお守り代わりで終わったが、今ではラタン氏が残した形見の一つとして大切に保管している。
=10月9日没、86歳
(編集委員 小林明)
【図・写真】ラタン氏からもらった鎮痛剤と胃腸薬
辰野勇(28) 仲間たち 「白髪五人男」大いに遊ぶ カヌーがつないだ縁ひろがる(私の履歴書)[2024/11/29 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1429文字 PDF有 書誌情報]
1973年、平凡社「アニマ」の創刊号が自宅に送られてきた。一輪のオニユリの脇で無邪気に小首をかしげたキタキツネの表紙の写真が印象的だった。後に映画化されたキタキツネ物語の原作者、竹田津実さんの作品である。
1980年、モンベルで新しくファミリー路線の企画を進める中、あのキタキツネの写真を使わせてほしいと考えた私は北海道小清水町の竹田津さんの自宅を訪ねた。閑散とした町並みを地吹雪が吹き抜ける初冬の夕刻、チャイムを押すと竹田津さんが玄関に出てこられ、「まあ上がりなさい」と迎え入れてくれた。
庭のケージの止まり木にはシマフクロウがいた。獣医でもある竹田津さんが傷ついて運び込まれた生き物を治療しているとのことだった。部屋ではエゾモモンガが自由に飛び回っている。その光景を見て私はあっけにとられた。
写真を使わせてもらいたいと言い出せず、夜半になって宿に帰ろうと玄関に向かうと、竹田津さんから「ところで君は何しに来たの?」と声をかけられた。「実は……あの写真を使わせてもらえませんか」と思い切って伝えると、「なんだそんなこと、早く言えばいいのに」とアルバムを手渡してくれた。
モンベルを創業して5年目、まったく知名度のなかった我々を信頼し、快く受け入れてくださったことに感謝した。以来、モンベル小清水店や東川店の出店など、そのご縁は今に至るまで続いている。
作家でカヌーイストの故野田知佑さんとは、80年代に岐阜県の郡上八幡で開かれた長良川河口堰(ぜき)建設反対のシンポジウムの交流会で出会った。彼はビールを片手に、私の横にどっかと腰を下ろした。名刺を差し出し、「野田です」と挨拶された。
ヘルメットを被らず、折り畳みカヌーに荷物を積み込んで川を旅する彼を批判するカヤッカーもいた。ヘルメットを被って激流を下る私が、そんな批判派の親玉と考えていたらしい。岩だらけの激流を下るのならヘルメットの着用は勧めるが、それほどでもない流れでヘルメットを被るか被らないかは本人が決めればいい。ほんの5分、10分話しただけで意気投合した。
以来、様々な川を一緒に下った。四万十川や千曲川、さらにカナダのユーコン川など、今は懐かしい思い出だ。
カヌーイストの立場で、日本の川の環境を守りたいという思いを共有する、多くの仲間たちとの出会いがあった。C・W・ニコルさんや椎名誠さんとは、そんな価値観でつながった。
ある時、出版記念パーティーの2次会で、野田知佑、夢枕獏、藤門弘、佐藤秀明、そして私の5人が集まった。誰言うともなく「白髪五人男」を結成することになった。野田知佑と夢枕獏は作家、佐藤秀明はプロカメラマン、藤門弘はシェーカー家具を作る木工作家だ。
5人は「親父(おやじ)たちの休日」と称して度々集まった。全員が集まることは難しかったが四万十川の岩間の沈下橋の上で、歌舞伎役者を気取って見えを切った思い出は懐かしい。インドネシアのバリ島やネパール、シルクロード、新疆ウイグル、ゴビ砂漠。どの旅も、仕事にはせず、完全にプライベートの付き合いだ。
一緒にいて心地よいのは互いの距離感だ。必要な時は声を掛け合って集まるが、互いに過度の干渉は望まない。
腕白(わんぱく)な兄弟をまとめる長男格の野田さんは2022年に亡くなってしまったが、「白髪四人男」になった「親父たちの休日」はこれからも続く。
(モンベル創業者)
【図・写真】5人は毎年集まっていた(右端が筆者、高知・四万十川)
辰野勇(27) 野遊び 山で横笛・野点・俳句 世界を旅し「和の心」思う(私の履歴書)[2024/11/28 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1481文字 PDF有 書誌情報]
1996年、テレビ朝日「ニュースステーション」のディレクター、大谷映芳さんからチベットに行かないかと誘いを受けた。彼は早稲田大学山岳部出身で、世界第2の高峰、K2西稜(せいりょう)ルートの日本人初登頂者でもある。予定日をあけて待機していると「明日、出発するかもしれないから東京に来ておいてください」と連絡があった。急いで東京へ行き、指定されたホテルで迎えを待っていると、局のワゴン車が到着した。
中には番組の案内役、渡辺貞夫さんがいた。ジャズ界の大御所との対面に私は少なからず緊張したが、彼の気さくな人柄にすぐに打ち解けた。
我々はラサへの空路の玄関である中国・成都に飛んだ。チベットにカメラを持ち込んでテレビ取材することに中国政府は神経をとがらせて、なかなか許可が下りなかった。足止めをくっている間、貞夫さんと2人で街を散策した。
楽器屋を見つけて上海横笛を買い求めた。貞夫さんが教えてくれるという。こんな贅沢(ぜいたく)はない。すっかり横笛にはまってしまった。以来、どこに行くにも笛を持ち歩くようになった。山はもちろん川下りにも持参して笛を吹く。その音色には日本人の心の芯に共鳴する懐かしさがあった。
私の生まれた堺市は千利休が茶の湯を広めた地だ。茶道には茶籠という携帯型の茶道具がある。旅のつれづれに茶を楽しむ趣向である。私も登山に茶籠を持参して、野点を楽しんでいた。
陶器の茶わんは味わいがあるが、多少重いし、割れる心配もある。そこで私は、山でも気軽に楽しめる「アウトドア野点セット」を考案した。2001年のことである。
発売後しばらくして、裏千家の、現家元の弟、伊住政和宗匠から「会いたい」との連絡があった。てっきり苦言を呈されるのかと思ったら、モンベル本社を訪れた伊住さんから「面白いことを始められましたね。一緒に活動しませんか」と提案された。
その上、日本の伝統文化・産業の魅力を広める事業への協力を求められた。残念なことに2年後、44歳で伊住さんは急逝された。私はその遺志を受け継いで設立されたNPO法人「和の学校」の理事に推挙され、活動している。
この9月、5年ぶりにスイスアルプスのハイキングに出かけた。アイガー北壁を見上げる草原で一服。更にマッターホルンを掛け軸に見立て、湖畔に毛氈(もうせん)を敷いて野点を楽しんだ。正客はツェルマット村の女性村長ロミーさんだ。最近は海外でも抹茶の愛好者が増えている。野点のあとは笛を吹き、興がのれば、「野筆」を取り出して俳句など一句ひねってみる。
「野筆」は東京・浅草の書道具専門店「宝研堂」の4代目で製硯師(せいけんし)の青柳貴史さんの協力を得てモンベルが作った製品だ。その昔、芭蕉も携えた筆と墨ツボを組み合わせた「矢立」の現代版とでも言おうか、硯(すずり)石と筆、墨をケースに収納したコンパクトなセットである。
硯石に使った玄昌石の産地、宮城県石巻市雄勝町(おがつちょう)は東日本大震災で被災して大打撃を被った。復興の一助になれば幸いと考えた。筆の選定は青柳さんのお母さんにお願いした。そして、墨は私が住む奈良の油煙墨を使うことにした。山の沢水をスポイトで吸い上げ、一滴硯石に垂らして、10回程度墨を磨(す)れば十分だ。俳句でも、墨絵でも、山の思い出を描きとめられる。私は普段、どこに行くときも野筆を持ち歩いて楽しんでいる。
日本には古来「野遊び」の文化がある。世界を旅すればするほど、「和の心」への思いは募る。
(モンベル創業者)
【図・写真】マッターホルンを望む場所でロミーさん(右)と野点(9月)
辰野勇(26) 大学で教える 「憧れる生き方見つけて」 歩みを伝え学生の将来応援(私の履歴書)[2024/11/27 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1466文字 PDF有 書誌情報]
大学に行かなかった私が初めて大学の門をくぐったのは40代のことだった。京都教育大学から非常勤講師の依頼があり、カヌーや登山を教えた。剣岳の登山や四国吉野川の激流下りを共にした教え子の但馬裕子さんは、人生が変わったと感動してくれた。
そんな彼女が数年後、がんで余命宣告を受け、最後に私に会いたいと言っているとの伝言を受けた。その直前、庭仕事の最中、背骨の横突起を骨折した私は、医者から安静にするよう指示され、米国出張を取りやめて自宅にいた。彼女の思いが私の出張をとどまらせたのかもしれない。
私は患部をコルセットで固定し、車を運転して三重県名張市の病院に向かった。病床の彼女は満面の笑みを浮かべ喜んでくれた。「1週間後、三重県で講演を頼まれているからまた来るよ」というと、「ストレッチャーに乗せてもらってでも聞きに行きたい」と言ってくれた。しかし、それを待たず彼女は逝ってしまった。彼女の短い生涯の一番輝いた瞬間を共有したのだという思いがこみ上げた。
その後、多くの私立大学からの依頼で講演を引き受けた。初めて客員教授を拝命したのは、びわこ成蹊スポーツ大学で、筑波大学から移籍した、当時の飯田稔学長(故人)からの依頼だった。彼は「野外教育」という分野を確立した第一人者だ。私は、自分の経験や、その過程で得た様々な知見を学生たちと共有した。
客員教授の職は数年前に終えたが、モンベルのアウトドアチャレンジ事業を通じて今も引き続き関わっている。
大学だけではなく、大型客船の飛鳥2やピースボートにも依頼に応じて乗船し、講演した。2012年のピースボートではキューバから大西洋を横断して西アフリカのセネガルまで乗船した。キューバではフィデル・カストロ氏の力強い講演を拝聴して、歴史の一場面に遭遇した思いがした。その後、大西洋の洋上で同船の同じ聴衆に16回、毎回異なるテーマで講演した。
語ることで自らの思いを整理することができる。語る側も聞く側も、同じ時間を共有する一期一会の出会いである。私の住む奈良県の天理大学でも14年に客員教授を拝命し、講義のほかに立山連峰での登山合宿やカヤック実習など、実技の授業を続けている。
近年は京都大学の特任教授を拝命して学部を越えた学生たちに講義する。京都大はマナスル(8163メートル)など、未踏峰の初登頂や極地の学術探検のパイオニアを輩出した憧れの大学だった。高校時代、学業を怠けた私には京都大への入学など夢のまた夢だった。その大学のキャンパスで教鞭(きょうべん)をとるとは、つくづく人生の巡り合わせの不思議に驚かされる。
京都大で講義を終えた後、1人の女子学生が私に質問してきた。「私は2浪でようやく入学することができましたが、今は自分がやりたいことが見つかりません」という。大学には行かず好きな道をひたすら歩んできた私は、「どうしたら好きなことが見つかるか」という彼女の質問への答えを持ち合わせていなかった。
きっと彼女は大学に入ることを唯一最大の目標にして頑張ってきたに違いない。「本を読みなさい。たくさんの人と出会って憧れる生き方を見つけなさい」。それが私の彼女への応援の言葉だった。私がそうであったように一冊の本との出会いが、彼女の人生を決定づけるかもしれない。
喜寿を迎えた今年、北海道大学の客員教授も拝命することになった。私の生きざまに触れることが若い学生たちの将来への一助になれば幸いだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】天理大の学生とカヤックの野外実習(2024年9月、奈良・吉野川)
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(下) 修羅場くぐって脱「孤高」(私の課長時代)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1283文字 PDF有 書誌情報]
2000年に事務派遣を手掛ける神奈川県の営業部の責任者に異動する辞令がでました。売り上げ目標で未達が続く部署です。「出世コースから外された」。00年ごろには役員になることを目指していた私はそう受け止めました。
■不本意な異動も「やるからには勝ち組に」
辞令に納得ができない私に篠原欣子社長(現パーソルホールディングス名誉会長)は「(今の部署から)誰も連れて行かず、異動先の状況を変えられたら絶対にいい経験になる。修羅場をくぐるだけ人は成長する」と言うのです。
相応の修羅場はこれまでも経験してきましたし、「今さらそんなことを言われなくても分かっている」と正直思いました。3時間近く話し合い、最終的に異動を受け入れました。
やるからには「部署を『勝ち組』にしたい」という思いが強くありました。着任後はまず部署共通の目標を決めようとキックオフミーティングを招集しました。モチベーションがばらばらだった現場からは「目標を掲げる意味はあるのか」「会議に2時間も使うな」という不満が出ました。
■担当エリア総力を挙げて案件獲得
目標を打ち出すのに深夜0時まで議論する日もありました。毎週、県内計7拠点を全て回り、部下の営業に同行したり総勢70人と1対1の面談をしたり、現状の課題や部下の思いを知ることに努めました。モチベーションの向上に励み、当初の不満は徐々に減っていきました。
そうした中、ある通信系の会社から業務の一部を一括受託するビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)案件を受注する機会が訪れました。当時は会社に経験もノウハウもなく、神奈川エリアで総力を挙げて案件獲得に臨むことになりました。
「本当にできるのか」というネガティブな声もありましたが、「やらない選択肢はない」とあるマネジャー。「強い組織をつくれた」と実感しました。プレゼン内容が評価されて案件を受注でき、数期ぶりに目標を達成できました。
■未経験へのチャレンジが人を育てる
「和田さんは孤高のリーダーだ。後ろを振り向いたら誰もいませんよ」。異動を受け入れる前、そう同僚から指摘されていました。いま思えば、当時の私は全て自分一人でやろうとする傲慢な面がありました。
部署全員が一丸となって目標を達成する経験を経て、そうした部分を自分なりに改善できたと思います。もしかしたら篠原社長(当時)の言っていた「修羅場」とは、こうした経験だったのかもしれません。
会社員人生では不本意な異動もあるでしょう。私は社員に「その経験はきっと役に立つ」と体験談を交えて助言しています。それまでとは違った視点を持つためにも必要ですし、経験のないことにチャレンジすればするだけ人は育つのだと信じています。
〈あのころ〉 規制緩和の影響で派遣労働者の活用の場が広がった。派遣社員に加え契約社員も積極活用する企業が増え、雇用形態も多様化。2000年には派遣を経由し正規採用する紹介予定派遣が解禁。人材派遣各社は転職支援の人材紹介事業への進出や拡大を急いだ。
【図・写真】社内の催しに参加する和田社長(右奥、1990年代)
辰野勇(25) 経営哲学 「世界一幸せな会社」目指す 将来見据えた困難な決断こそ(私の履歴書)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1425文字 PDF有 書誌情報]
「登山」と「経営」には共通点がある。登山家は勇敢で命知らずと思われるかもしれないが、実は怖がりで、先々のことを心配して準備する。リスクマネジメントという意味では経営も同様だ。
これまで様々な決断をしてきた。日々の経営判断で「決裁」を下すのは、囲碁や将棋でいう「定石」で手を進めるようなもので、おおむね成功の確率の高い選択をする。
これに対して「決断」は、将来を見据えて、今、あえて困難な道を選ぶことだと私は思う。たとえ目先の成功確率が高くても、将来の存続が危ぶまれる道は選ばず、リスクを覚悟して決断してきた。この判断も私は登山や冒険で鍛えられてきたように思う。
私が敬愛したビジネスマンの1人に故槙英男さんがいる。彼は愛媛県松山市に生まれ、夜間中学を卒業した後、東レの愛媛工場に勤め、会社の募集に応募してアメリカ留学を果した。そして血のにじむ努力の末、首席で卒業した。
私がお会いしたのは彼が米国デュポン社の極東担当の事業部長に就かれていた時だった。折にふれ私に経営についてご教示くださった。
印象に残るのは3人のレンガ積み職人の話である。1人目に「何をしているのですか」と尋ねると「ご覧のようにレンガを積んでいます」と答えた。2人目は「レンガを積んで壁を造っています」と答えた。そして3人目は「レンガを積んで大聖堂を造っています。子供が大きくなったとき、お父さんがこの教会のレンガを積んだと伝えることを楽しみに毎日レンガを積んでいます」と答えたという。
1人目の職人はただただレンガを積めと言われて積んでいるが、3人目の職人は積んだレンガが何になるか、完成の先を思い描きながらレンガを積んでいる。
これら3人のレンガ積みの人生の質は、まるで違う。リーダーにとって一番大切な使命は、携わる仕事の目的やその意味を部下に語り続けることだと槙さんに教えられた。
ある時、四国の高松市のアウトドアショップの経営者から「モンベルも大きくなりましたね。これから先、どんな会社にされたいですか」と尋ねられた。シンプルな質問だが、一言で答えるのは難しい。こんなとき私は「あなたはどうですか」と相手に同じ質問を返してみる。
そうすれば相手がどんな答えを期待しているかおおむね理解できる。すると彼は「四国で一番のアウトドアショップを目指しています」と答えた。私はとっさに「世界一の会社にしたい」と答えた。
しかし、2人の会話の中では「何について一番なのか」は定義されていない。彼が言う「四国で一番」とは、四国で一番の規模や売り上げを意味していると私はくみ取った。ちょっと恥ずかしいが、私は「世界で一番幸せな会社」を目指したいと告げた。
頑張って、たとえ大きな会社になったとしても、その座を維持するために頑張り続けなければならない。それは私の望むところではない。「世界で一番の幸せ」は、自分がそう思えれば、この瞬間になれる。そして、考え一つでそうあり続けることができる。
無論、企業を存続するための努力はしなければならない。他者に勝つ必要はないが、会社を潰すわけにはいかないからだ。それは、登山で遭難しないための準備と努力をするのと同じかもしれない。
たとえ頂上に登ることができなくても、行為そのものが意味をもつ。好きを仕事にすることを望んだ私は、それを生業にできていること自体で目的は満たされている。
(モンベル創業者)
【図・写真】30年先を見越して経営計画を作っていた
辰野勇(24) 「岳人」 休刊予定の登山誌を継承 「山と人」「自然と文学」追求(私の履歴書)[2024/11/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
2014年1月、中日新聞東京本社の事業局長がモンベル本社に来訪された。そして山岳雑誌「岳人」を8月で休刊するとの説明を受けた。
「岳人」は「山と渓谷」とともに登山界をけん引してきた媒体だ。この雑誌は、私が生まれた1947年、京都大学山岳部の有志によって創刊され、49年に中日新聞が引き継ぎ、長年発行されて来た。
初心者から中級者の幅広い登山者層を対象にした「山と渓谷」に対して、「岳人」は上級もしくは先鋭的な登山情報を扱ってきた。私自身、日本アルプスの穂高岳や剱岳の岩壁に新しいルートを開拓するたびに「記録速報」のコーナーに投稿してきた。
「岳人」で紹介されることが登山家としてのステータスであり憧れでもあった。年を経て、未踏の岩壁も登りつくされ、先鋭的な登山から「山ガール」や「シニア登山」に象徴される健康志向の一般登山へ社会の関心が移行する中で、「岳人」の立ち位置が混迷していたように思える。そんな中での休刊の決断だった。
私にとって「岳人」の休刊はいわば卒業した小学校が廃校になるような、そんな寂しさがあった。私は、局長の説明をお聞きして、少し考えた後、「うちで引き継がせてもらえますか」と尋ねてみた。
確たる自信も裏付けもなかったが、今のモンベルなら「何とかなる」。そんな曖昧な直感でしかなかったが、この老舗の看板を引き継がせてもらえるなら、それは光栄なことだ。その後中日新聞の経営陣もこれを了承してくださり、引き継ぎが決定した。
中日新聞から1人、服部文祥が移籍することになった。彼はK2の登頂者でありサバイバル登山の分野で知られる登山家でもある。その他の編集メンバーを社の内外から募った。合計5人の編集体制を整え、私は編集長として雑誌の方向性を示すことにした。
当初は季刊誌として年4冊、あるいは隔月で年6冊が無難では、の意見もあったが、私はあくまで月刊、年12冊にこだわった。失速させたくないという思いがあった。
14年9月号を新生「岳人1号」として刊行を始めた。意気込みはよかったが、月々追われる月刊雑誌の編集は想像以上に大変だった。その大変さも、「好き」だからこそできる苦労には違いない。
もう一つの問題は、モンベルが発刊する雑誌には登山やアウトドアの競合他社の広告がもらえないということだ。雑誌出版事業の採算は広告収入が大きく影響するが、それをあてにできないのは大きな負担になる。
更に売れ残った雑誌の返本も問題だ。古紙として再生するとはいえ資源の無駄で、費用負担も少なくない。刷り部数の無駄をなくすため、書店での販売以外にも、モンベルの全国150店舗と年間定期購読に注力することにした。
118万人の会員がいるモンベルクラブの山岳部という位置づけであれば読者の顔も見えるし、我々が伝えたい思いも共有できると考えた。
山を登る行為には精神性があり、物語がある。役立つ登山情報とともに山や自然を愛する人たちの感性に訴える企画を1冊に込められるのも雑誌ならではである。「岳人」のテーマは「山と人」「自然と文学」とすることにした。
2024年11月号の特集は安全登山への思いを込めて「山岳遭難に備える」をテーマにした。そして今月発売の12月号のテーマは「なぜ山に登るのか」である。「そこに山があるから」と答えたジョージ・マロリーのあの名言の解釈を、私は生物学者の福岡伸一さんとの対談で語り合った。
(モンベル創業者)
【図・写真】編集打ち合わせ中の筆者(右)(大阪市西区)
辰野勇(23) 災害多発列島 東日本大震災で物資支援 津波対策のPFDを開発・提供(私の履歴書)[2024/11/24 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1432文字 PDF有 書誌情報]
2011年3月、東日本大震災が発生した。仙台市内のモンベルの3店舗も津波や揺れで大きな被害を受けたが、幸い従業員は無事だった。阪神大震災以来の大災害だ。私はアウトドア義援隊の活動開始を即決した。
翌日、まず社員2人を現地に派遣して情報収集にあたらせた。その翌日、私も単身ハイブリッド車で東北に向かった。現地でのガソリン入手が困難と予測したからだ。長期支援を覚悟して、まず支援基地を探すことにした。
最初にモンベル仙台店を考えたが、規模が小さいうえ市街地にあり基地にしづらかった。福島原発から100キロメートル以内にあることも懸念材料だった。放射能の影響が怖かった。蔵王山で隔てられた山形県側なら多少なりとも安全だろうと素人なりに考えた。
山形市役所の紹介で天童市にあるミツミ電機の使われていない建物をお借りすることになった。支援物資の集積にも十分な規模で、全国から集まるボランティアたちも持参したテントを建物の中に張って寝泊まりできる。
被災地支援は戦場のようにロジスティック(後方支援)体制の確保から始まる。これは登山で私が身に付けた知恵かもしれない。まず自分たちの安全を確保してはじめて他人を支援することができる。
全国から送られてきた物資を仕分けたうえで車に積んで被災地にとどける。天童からは国道48号線で峠を越えて宮城県側に向かう。早朝から出かけて夜遅く基地に戻る。
被災地の惨状の中で支援物資を届けた被災者から笑顔でかけられる「ありがとう」の言葉にボランティアは救われた。その1人が災害規模の大きさに対して、自分たちにできる支援の限界に焦りを感じていた。彼に私は「1人が1人の支援ができれば、それでいい。100人いれば100人の被災者を支援できる。自分たちにできることをやればいい」と声をかけた。
発生から3カ月の間に配布した支援物資はおよそ300トン、実に2トントラック150台分に相当する。
震災では宮城県石巻市立大川小学校の多くの児童が津波の犠牲になった。「ライフジャケット(PFD)を着用していれば救えたかもしれない」と考えた私は、普段はクッションとして身近に置き、いざという時はカバーを外して着用できるPFDを開発、「浮くっしょん」と名付けた。
今後起こるに違いない南海トラフ地震の津波への備えにしてほしいと考え、対象地域の知事や市町村長を訪ねた。採用するか否かは自治体が決めることだが、津波の備えとしてPFDが有効だと気づいた限り、それを首長にお伝えするのが私の責務だと考えた。
津波から時がたち、人々の危機管理意識も近年は薄らいできたように思えた。私は、高知県黒潮町や四万十市、和歌山県串本町など津波が懸念される自治体に「浮くっしょん」を寄贈することにした。まさにその矢先、日向灘沖で地震が起き、初の南海トラフ地震臨時情報が発表された。来たるべき時に怠りなく対処する準備の必要性を痛感した。
熊本地震や岡山の豪雨災害、長野では千曲川の氾濫、そして更に今年1月発生した能登半島地震、さらに追い打ちをかける豪雨災害など、近年多発する自然災害の都度、微力ながら、アウトドア義援隊の活動を継続している。
災害多発列島と化した日本で、アウトドア活動の知見を生かしたノウハウと経験を、災害時の復興支援のみならず、災害発生以前からの備えにお役立ていただきたいと願う。(モンベル創業者)
【図・写真】東日本大震災の被災家屋で泥出しを手伝った(宮城県石巻市)
辰野勇(22) 地域を元気に 人口少ない市町村に出店 アウトドア活動の拠点に(私の履歴書)[2024/11/23 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
若き日、足しげく通った大山(だいせん)は鳥取県の西部に位置する。あるとき、登山口にある、使われていない大山町の施設に出店しないかと当時の森田増範町長から打診された。その頃、広島や岡山を含めて中国地方には直営店が全くなかった。標高750メートル、冬は日本海からの季節風を受け大雪に閉ざされる立地で、採算は見込めなかったが、私の大山登山のベースのつもりで、2008年、店舗を設けた。
かつて大山寺参道やスキー客でにぎわった街並みもシャッターが下りて活気を失っていた。「出店してくれて景色が変わった」と近隣の店舗の主人に喜んでいただいた。
その後、北海道では大雪山の麓にある人口7800人の東川町、同5000人のオホーツクの小清水町、更に2300人の南富良野町には北海道最大の直営店を出店した。
東北では、秋田県美郷町、にかほ市、山梨県は富士吉田市、長野県飯山市、佐久穂町、福井県大野市、広島県坂町、高知県本山町、熊本県南阿蘇村など、アウトドアフィールドに隣接した自治体から要請を受けて出店してきた。
多くの店舗にはビジターセンターを併設し、アウトドア活動の拠点作りを目指している。この取り組みを進めていく中で少子高齢化など地域が抱える様々な問題を知った。そして、アウトドアがそれらの問題に対応するキーワードになる手ごたえを感じた。
私は、これまでかかわった取り組みを通じて、アウトドアが果たす社会的な役割をまとめてみた。「モンベル7つのミッション」である。
(1)自然環境保全意識の向上
(2)子供たちの生きる力を育む
(3)健康寿命の増進
(4)自然災害への対応力
(5)エコツーリズムを通じた地域経済活性
(6)1次産業(農林水産業)への支援
(7)高齢者・障害者のバリアフリー実現
これらのミッションの実現をテーマに現在、13の府県と市町村、大学、民間企業など156の団体・組織と包括連携協定を結んでいる。人口減少が加速する中、地域と118万人のモンベルクラブ会員をつないで、交流人口として、地域の活性化を図るお手伝いができる。
フレンドショップや06年に始まったフレンドエリアに登録いただいた店舗や施設からはモンベルクラブ会員への割引やサービスの提供を頂いている。地方の恵まれた自然環境はアウトドアを愛好する会員にとっての活動の場だ。
09年に始めた「SEA TO SUMMIT」は、海、里、山の恵みに感謝するイベントだ。開催エリアで環境シンポジウムを開いた翌日、海や川をカヌーで漕(こ)ぎ、登山口まで自転車で漕ぎあがり、徒歩で頂上を目指す。「皆生・大山」の大会を皮切りに今年も9カ所で開催した。
その素晴らしいフィールドを年間通して親しんでもらう取り組みが「ジャパンエコトラック」だ。カヌーや自転車、ウオーキングなど人力で旅するルートを全国に設定して、地方を訪れる利用者を喚起する取り組みである。
協議会の代表理事は東京大名誉教授の養老孟司さんにお願いした。現在35地域が登録されている。アプリケーションの位置情報を利用するとお薦めスポットが紹介され、楽しんでいただける。
コンテンツは日本語以外に英語や中国語などインバウンドへの対応も進めている。出店の計画は現在秋田県北秋田市、福島県三春町、只見町、茨城県大子町、岡山県矢掛町、鏡野町で具体化し、更に北海道留萌市や芽室町などとも取り組みが進行している。
(モンベル創業者)
【図・写真】大山の麓に設けた直営店(鳥取県大山町)
辰野勇(21) 障害者とともに 日本初のカヌー教室開催 可能性への挑戦を応援(私の履歴書)[2024/11/22 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1445文字 PDF有 書誌情報]
奈良市の社会福祉法人「青葉仁(あおはに)会」の榊原典俊さんは、アウトドアを愛好する教育者で、障害を持った人を入所で支援する施設を運営している。就労支援の一環でモンベルの商品を扱ってもらっており、そのご縁で、私は同会の理事を拝命したこともある。
同会の懇親会で、ポリオの障害のある青年が私にビールをつぎながら「カヌーを教えてください」と話しかけてきた。以前、京都府笠置町の木津川を楽しそうに漕(こ)ぎ回っているカヌーを見て、自分でもやってみたいと思ったらしい。
まひで歩行も困難な彼がカヌーを漕げるだろうか。一瞬戸惑ったが、考えてみれば、下半身が不自由でも、手が使えればパドル操作はできるかもしれない。私はその可能性を見極めてみたいと考えた。
早速榊原さんと相談して障害者カヌー教室を開催することにした。それは社会貢献などという高尚な動機ではなく、彼らの可能性を見極めたいという個人的な好奇心から始まった。
1991年、奈良県五條市を流れる吉野川で日本初の障害者カヌー教室「パラマウント・チャレンジ・カヌー」を開催した。河原には15人の障害者とボランティアのスタッフ100人が集まった。体を艇にフィットさせるためにスポンジの詰め物を用意するなど、障害の部位に応じて工夫をこらした。パドル操作の基本を教えた後、彼らの乗った艇を水面に送り出した。
しばらくすると参加者の1人、吉田義朗が叫んだ。「俺、障害者やったん忘れてた!」。彼は18歳の時、事故で脊椎を損傷した。中途障害で歩けなくなった人は、歩けていた頃の夢を見る。そして朝、目を覚まして、歩けない現実にがくぜんとするという。
水の上で自由にカヌーを漕ぎまわっているとき、夢に見たあの光景のように、つい自分が障害を持っていることを忘れていたというのだ。これこそ障害を持った人たちに新たな可能性を開くスポーツだと私は確信した。
ただ、「パドルは腕だけではなく体全体を使って漕ぎなさい」と吉田に教えても、車いすで鍛えた腕力が邪魔をして正しいパドル操作ができなかった。そんなある日、室内プールで開いたカヌー教室にサリドマイド胎芽症の少年が参加した。この少年は四肢の末梢が欠損する先天異常で上腕が10センチほどしかなかった。
さすがに無理かと思ったが、「パドルを顎に挟んでください」という。すると、短い腕を使って器用にパドルを操作しながら艇を漕ぎ始めた。30分ほどで左右のターンもできるようになった。
それを見た吉田が再び声を上げた。「そうか、体で漕ぐとはこういうことか」。腕のない少年は体を使って漕ぐしかない。立派な腕を持った大人が腕のない少年に漕ぎ方を教えられたのだ。障害を持たない私たちが、与えられた、あるいは残された機能のどれだけを使い切っているのか、改めて自分に問い返した。
吉田はその後モンベルに入社し、直営店の店長を務め、日本障害者カヌー協会を設立して、初代の会長になった。「障害者にカヌーをさせても大丈夫ですか? けがでもさせたら大変」と忠告する人もいた。しかし私は、彼らの可能性への挑戦を応援したい。
16年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックのカヌースプリント競技で、瀬立(せりゅう)モニカさんが8位の成績を収めた。更に、東京では7位、今年開催されたパリでは6位と、成績を伸ばしている。それは他者との競争というよりも、自分自身との闘いのように私には思える。
(モンベル創業者)
【図・写真】障害者のカヌー教室で教える筆者(右)
辰野勇(20) 阪神大震災 アウトドア義援隊を結成 倉庫の全寝袋とテント提供(私の履歴書)[2024/11/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1436文字 PDF有 書誌情報]
1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が発生した。堺市の自宅で経験したことのない強い揺れで目を覚ました。立ち上がることができず、家具が倒れてくるのを足で支えようと身構えた。幸い、家屋に大きな被害はなかった。
テレビをつけると、緊急速報が流れていた。当初は「2名が亡くなった」との報道だったが、画面に映るヘリコプターからの映像にはあちこちから煙が上がる様子が映し出されていた。時がたつにつれて犠牲者の数は増えた。
そんな時、神戸市に住む商社時代の上司の麻植(おえ)正弘さんから電話があった。家の屋根が壊れたのでブルーシートがほしいという。その時点では、まだ電話が通じていた。ピックアップトラックに息子らを乗せ、ブルーシートや水を調達して現地に向かった。
武庫川の橋を渡ったとたん、街並みが一変した。倒壊した家屋からはガスの匂いが充満して、まるで爆撃を受けた戦場の風景だった。幸い麻植さんは無事で、家の全壊は免れていたが屋根の瓦はずり落ちていた。更に、神奈川の友人からも電話が入り、魚崎のアパートに住む両親と連絡がつかないから確認してほしいと頼まれた。引き続き彼の実家に移動した。到着した時は、すでに夜になっていた。暗闇の中にたたずむ人がいた。友人の父で、アパートの2階にいて難を免れた。
しかし、お母さんの部屋があった1階は押し潰されていた。何度も呼びかけたが応答がない。がれきの間に手を入れて探ってみると寝袋とおぼしき感触にふれた。お父さんに聞けば日頃からモンベルの寝袋で寝ていたという。膨大ながれきを手作業で取り除くのは不可能だった。翌日、消防の協力を得て、お母さんを搬出することができたが、すでに亡くなっていた。
ご遺体を収容する場所を探したが、どこもいっぱいで、ようやく診療所の建物を開放した仮の安置所にお連れした。室内には、布切れ一枚かけられていない多くの遺体が並べられていた。私は、一旦車に戻って仮眠をとろうとしたが眠れなかった。
許容を超えた現実を目にして、悲しいという感覚はまひしていた。なぜか涙がとめどなく流れた。せめてご遺体を寝袋に入れて差し上げようと思いついた。しかし、家を失った人たちが路上でがれきを燃やして寒さをしのいでいる姿を見て、寝袋は「生き残った方々に使ってもらおう」と考えを変えた。
会社の業務を一旦停止し、支援に専念することを決断した。早速、倉庫にあったすべての寝袋2000個と500張のテントを被災地に運び込んだ。しかし、我々にできる支援には限界がある。私は、支援活動を「アウトドア義援隊」と名付けて、知人や企業に被災地支援を呼びかける文書をファクスで送信した。
「人=ボランティア、物=義援物資、金=義援金」のいずれかを協力してほしいと訴えた。すぐに全国各地から協力を申し出る返信があった。インターネットのない時代、素早い反応に私は感銘した。そこには、日本人が祖先から培ってきた共助の精神がある。同時に、登山を実践するなかで身に付けた危機管理が有事の対応力を発揮し、テントや寝袋などのアウトドア用具が役立つことを実感した。
その後、新潟県中越地震など頻繁に起こる災害に対してアウトドア義援隊の活動が引き継がれていった。
そして、2011年3月、日本列島を揺るがす「東日本大震災」が発生した。モンベルはアウトドア義援隊の活動を通じて被災地の支援に専念することになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】被災者に使ってもらった(神戸市灘区)
辰野勇(19) モンベルクラブ 会員100万人の予言実現 モノからコトへ一貫サービス(私の履歴書)[2024/11/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
「自分たちの欲しいものを作りたい」。そんな思いで創業したモンベルは登山やカヌーに必要な道具や衣料を開発してきた。そして、「こんなものが欲しかった」と共感してくださるお客さまに支えられてきた。私にとってお客さまは同じ価値観を共有する同志のような存在だ。そして、自然を愛し生きる喜びを共感する仲間だとも考えている。
私が所属した社会人山岳会「大阪あなほり会」ではガリ版で刷り上げた手作りの会報誌を発行していた。会員の山行記録や登山情報を共有することで互いの連帯が強まった。モンベルでも同様に、お客さまとの情報交換や価値観の共有をはかりたいと考え、1986年「モンベルクラブ」を立ち上げた。そして、その運営資金として年間1500円の会費をお預かりすることにした。当初はカタログ送付以外に何の特典やサービスもなかった。それでも一人また一人と入会者が加わった。
私は山岳会と同様に会報誌の必要性を感じていた。しかし人手がなくて実現には時間を要した。そしてようやく会報「OUTWARD」の発刊にいたった。「外に出かけよう」の意味を込めて私が命名した。創刊号には山岳雑誌「山と渓谷」の編集長と私の対談や、山や川の情報、道具の手入れ方法など、読者に身近な話題を掲載した。
山小屋やペンションオーナーに「モンベルフレンドショップ」として会員に宿泊割引や飲み物のサービスなどをしてもらえるようにお願いした。その後、この取り組みはキャンプ場や温浴施設、飲食店などに拡大した。更に村や町、島など地域ぐるみで複数の施設を一括して登録するフレンドエリアに参加する自治体も増え、現在2300を超える店舗や施設が参加している。
事業も、製品の販売だけでなく、旅行業の認可を得て、会員を山や川にご案内する「MOC=モンベル・アウトドア・チャレンジ」のイベント業も始めた。まさに「モノ」から「コト」の提供まで一貫したサービス事業である。
登山用具は使い方を間違えれば事故につながりかねない。お客さまに正しい使い方を知っていただくための取り組みでもある。更に、社員らが直接ガイドすることでお客さまとの親睦もはかれる。もちろん、私自身もガイドとして会員の皆さんをご案内する。ガイド業は、私が高校を卒業した時、なりたくてなれなかった山の生業(なりわい)だった。つくづく望みは、思い続ければいつかかなうものだと思う。
2001年からは、管理システムもでき、会員へのポイント付与を始めることができた。お買い上げ金額に応じてポイントを付与する。
徐々に会員への特典も増え、モンベルクラブの会員組織は拡大していった。
05年、創立30年の記念式典で私は社員に思いを告げた。「創業した時、30年後のモンベルを私は想像した。今、ほぼそれが実現している。さらに30年後にも会社が存在しているとしたら、やはり私には想像できる。要素は二つ。モンベルが社会にとって必要とされ続けていること。そしてその事業の経済バランス、すなわち採算が取れていることだ」
当時、モンベルクラブの会員数はおよそ8万人だった。私は「30年後、きっと100万人になる」と予言した。それから16年後の21年には100万人を突破し、現在120万人に近づきつつある。モンベルクラブ会員の支持こそが企業存続を占うバロメーターだと私は考えている。
(モンベル創業者)
【図・写真】会員向けのカタログや会報誌
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(上) 取引先を倒産危機に、クビ覚悟(私の課長時代)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1367文字 PDF有 書誌情報]
■夢は起業から「分社のトップ」へ
勤務先の輸入商社が1990年に倒産し、91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)に入社しました。人材派遣会社の起業を志し、ノウハウを学ぶためです。技術者を派遣する部署などで新規開拓に励みました。
ほどなく技術者派遣の全国拠点をまとめるエリアマネジャーとなり、大きな予算と権限が与えられました。人材派遣事業の成長には基盤と資金力が必要です。エリアマネジャーの仕事を通じ、ゼロから立ち上げる難しさに気付きました。当初の起業の夢は「技術者派遣事業を分社化し、その会社のトップになる」という夢に変わりました。
■「二股をかけるのか」激怒した大口顧客
それから数年後のある日、大阪出張中に「すぐ東京に戻ってこい」と上司から電話がありました。顧客のA社が激怒しているというのです。A社とはIT(情報技術)支援系の合弁会社の設立を進めていました。
慌てて東京に戻り、A社の担当者と話すと、問題は合弁会社の前から取り組んでいた同業のB社との共同プロジェクトでした。報道で計画を知ったらしく、「敵対する会社と二股をかけるのか。我々かB社か、どちらを選ぶか決めてくれ」と迫ってきました。
A社はB社とも取引していますし、同業とはいえ上場大手のA社に対してB社は未上場の新興です。競合になるとは全く思っていませんでしたが、大口顧客であるA社を優先し、B社とのプロジェクトを中断する苦渋の決断をしました。
当初は「どちらを選ぶのか」と迫ってきたA社ですが、それでも怒りは収まりません。合弁会社の話を白紙にした上、B社との取引も停止してしまいました。
■リスクヘッジの大切さ学ぶ
B社への影響は深刻でした。プロジェクトに投じた資金が無駄になった上、A社との取引停止で収益が大幅ダウンし、倒産危機に。自分のせいでB社は潰れるかもしれない――。それまで味わったことのない怖さと申し訳なさを感じました。
テンプスタッフからの資金援助もあってB社は倒産は免れましたが、私が大きな仕事を2つもダメにした事実は変わりません。「会社を辞めた方がよいでしょうか」。当時の篠原欣子社長(現名誉会長)にそう尋ねると、「自分の利益のためではなく、事業を伸ばそうとしたのでしょう。二度としてはいけないが、1度目は仕方がない」と返ってきました。その後の奮起を支える言葉になりました。
今思うと、テンプスタッフと万全の体制を築きたいA社と、A社ともB社とも良い結果を生みたいという私と認識のズレがありました。「千丈の堤も蟻(アリ)の穴より崩れる」。このトラブルの渦中で、A社の担当者から聞かされた言葉です。あらゆる事態を想定することの大切さを学んだ経験でもありました。
〈あのころ〉 1986年に労働者派遣法が制定され、人材派遣業界は90年代に黎明(れいめい)期から成長期への過渡期を迎えた。バブル崩壊後も派遣社員の需要は高く、業界への新規参入が相次いだ。96年には派遣労働の対象が広告デザインやアナウンサーを加えた計26職種になった。
わだ・たかお 1986年(昭61年)立命館大法卒。91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)入社。IT(情報技術)部門などに従事。パーソルHD取締役執行役員などを経て21年4月から現職。61歳。
辰野勇(18) 海外の川下り レジェンドらと激流へ 夜は満天の星、夢のような時間(私の履歴書)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
1982年、米国のヨセミテ渓谷を流れるトゥオルミー川を私は3人の友人と下った。パタゴニアの創業者イボン・シュイナード、ノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンス、彼はアイガー北壁の米国人初登攀(とうはん)者で、ノースフェイスの名はこれに由来する。そしてヨセミテの岩壁登攀ルートを開き、自らの名をブランドにして立ち上げたロイヤル・ロビンス。
いずれも米国を代表するアウトドア企業の創業者であり、クライミング界のレジェンドでもある。川の難易度を表すグレードは1級から6級まで。最も困難、あるいは不可能とされるのが6級だが、この川のグレードは5級。巨大な落ち込みが連続する。
皆でコースを下見するためにカヤックから降りたが、ただ1人ダグは下見せずに飛び込んでいった。そのガッツに私は驚かされた。ちなみに彼は自家用小型飛行機を1度ならず2度もガス欠で不時着させている。そんな伝説の冒険家たちがアウトドアフィールドの時代をリードしてきた。
彼らが用意してくれたカヤックは当時の日本にはなかったポリエチレン製で、岩にぶつけてもびくともしない。この驚異的なカヤックを製造するパーセプション社から1艇買い求めて日本に持ち帰り、その後モンベルで輸入販売することにした。
米国のグランドキャニオンを流れるコロラド川のリーズフェリーからダイヤモンドクリークまでの364キロメートルを3週間かけて下った。ちなみに日本人としては初、その後を含めて3度も私はこの川を下った。川を下るには許可がいる。個人が申し込めば10年以上待たねばならなかったが、割り当てを持ったツアー会社やパーセプションの創業者ビル・マスターのチームに私は加わらせてもらった。
大半は穏やかな流れだが、毎秒1500トンの激流は尋常ではない。夜は満天の星を仰ぎながら砂浜で寝る。そんな夢のような時間を過ごした。
中米コスタリカで開催された「プロジェクトRAFT」の世界大会に誘われ、世界中のゴムボートやカヤックを愛好する仲間たちと熱帯雨林の川を下ったこともある。RAFTはゴムボートを意味するが、R=ロシア、A=アメリカ、F=for、T=チームワークの略でもある。国際関係が難しい時代の民間交流の企画でもあった。
ネパールのトリスリ川やマルシャンディ川はヒマラヤの雪解け水を源流とする激流だ。私はカヤックに食料や装備を積み込んで数日かけて下った。カナダのユーコン川は、全盲や脊椎損傷などの障害をもった仲間たちと一緒に1週間かけて下った。きっと彼らにとって忘れえぬ思い出になったに違いない。
オーストラリアのタスマニアの海では、オランダ人タスマンがこの島を訪れた大航海期の先住民アボリジニの数奇な物語に思いを巡らせた。
90年代から2000年代はこんな川や海をカヤックの旅で満喫した。
チベット高原を西から東に流れる全長2900キロメートルのヤルツァンポ川が、ギャラペリ山(7294メートル)とナムチェバルワ山(7782メートル)に挟まれた大峡谷に流れ込み、180度方向を変える「大屈曲点」の踏査は冒険家たちのロマンだ。川はやがてインドのプラマプトラ川となりガンジス川に続く。
テレビ局からこの川の番組取材の誘いを受けて同行することにした。「未踏の激流をカヤックで下れるだろうか」。その可能性を見極めたいと願っていたが、圧倒的なパワーの激流を前にして私はなすすべがなかった。
(モンベル創業者)
【図・写真】グランドキャニオンのコロラド川も下った
辰野勇(17) 直営店 価格リストラ断行を決断 値引き競争回避、専門店歓迎(私の履歴書)[2024/11/18 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1422文字 PDF有 書誌情報]
現在全国に127の直営店を展開しているが、第1号は1991年、JR大阪駅の商業施設「ギャレ大阪」に開設した店舗だった。当時モンベルは「グレートアウトドア」をキャッチフレーズにして商標登録していた。JR西日本から、新設する商業施設のコンセプトにこの言葉を使いたいという依頼があり、併せて出店も要請された。
創業以来、商品は問屋を通して登山専門店で販売しており、直接消費者には売っていなかった。数百種類の製品があっても店頭に並ぶのは店のフィルターを通して選ばれた商品に限られていた。確実に売れる商品しか扱ってもらえない。これを米国では「チェリーピッキング」と呼ぶ。熟れて食べられるサクランボしか摘まないという例えだ。
登山という専門的な分野では、少数であっても必要な品物はある。まして新しく開発した実績のない製品を消費者に知ってもらうには、自分たち自身の費用とリスクをかけて直営店を出すしかないと考えていた。そんな矢先のこの提案に私は出店を決断した。
1日20万人以上利用者がある大阪駅の立地は申し分ない。しかしモンベルの隣に大阪で最も大きな我々の取引先が出店するという。大口販売先との取引を失うことをも覚悟して出店に踏み切ったが、その販売会社との取引は途絶えることなく続けられた。
しかし、また新たに別の問題に直面した。「値引き販売」である。市場ではモンベルが提示した「希望小売価格」から30%近くの値引きが常態的に行われていた。他店の価格と見比べて自店の販売価格を決める価格競争が行われていた。本来の顧客サービスとは違う煩わしさがあった。
一方、メーカーの我々は希望小売価格を明示している限り、値引きはできない。我々の直営店で買った商品が隣の店では約3割引きで売られているのを見て、返品されるお客様も少なくなかった。
そこで、私は次なる大きな決断をすることになる。卸価格は据え置いたまま、メーカー希望小売価格を一気に3割程度引き下げるという前代未聞の決断だ。実現すれば小売店間の販売価格差がなくなり、ユーザーの不公平感も解消される。私は全国の販売店を回って理解を求めた。
そのころ米国では大型アウトドアショップがプライベートブランド品を自社で企画し製造販売して消費者から支持されていた。いわゆる「ダイレクトマーチャンダイズ」である。いずれ彼らも日本の市場に参入するかもしれない。護送船団方式ともいわれる旧来の「メーカー、卸、小売り」の流通構造では対処できなくなるだろう。それに備えた価格戦略であることを取引先のオーナーに説いた。
私は、この身勝手な価格リストラを受け入れてもらえないことを覚悟していたが、ほとんどの販売先が取引を継続してくれた。丁寧な商品説明をモットーにする登山専門店は「他店との値引き競争を意識せずに丁寧な商売ができる」とむしろ歓迎してくれた。しかし、定価からの「値引き」を唯一の販売手段にしてきた大型ディスカウントチェーン店は、その優位性が無くなって取引から撤退した。
まもなくして、米国の大型アウトドアチェーン店が1千坪の巨大な規模で東京都町田市に進出してきた。「黒船の到来。来るべきものが来た」と覚悟を決めたが、わずか1年後、彼らは採算が見込めないことを悟って撤退し、モンベルがそれを引き継ぐことになった。価格リストラがなければこの展開はなかったに違いない。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪駅近くにできた最初の直営店
辰野勇(16) 冒険大賞 成果ではなく計画を評価 リスクとる若者らを支援(私の履歴書)[2024/11/17 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1463文字 PDF有 書誌情報]
人はなぜ冒険するのか。時には命のリスクをかけても他人のやらないことに挑戦する、そのモチベーションはどこからくるのか。ゴリラ研究で知られる山極壽一さんは「どのゴリラも登ったことがないという理由で、危険を冒して岩壁を登るような酔狂なゴリラはいない」と断言する。
すなわち冒険は人間に与えられた特性だというのだ。それが事実なら、我々が享受する文明の起源は、限界を超えてきた冒険の歴史のたまものなのかもしれない。これを「リーディングエッジ」と称して、欧米人は敬意を表する。
1992年、米国で開催された「冒険大賞」の選考委員を依頼された。世界中から寄せられた冒険の計画を審査して、優れた企画に資金を授与する。「なし遂げた結果」に対して贈るのではなく、計画を実行するために必要な支援をするのが目的だ。
若き日に海外渡航費で苦労した私はこのコンセプトに共感した。ある時、選考委員の一人である米国の心理学者に「人はなぜ冒険をするのだろう」と投げ掛けた。すると彼は「命を懸けて冒険しようという人間はせいぜい全人口の0・3%だ」と言う。
そしてそれは、登山や川下りなどの野外活動に限らず、医療や先端技術の開発などあらゆる分野で、人間の限界を押し広げてきたという。7人の選考委員は、米国、英国、カナダ、イタリアなど世界各国から集められていた。
ドイツ人のニコが「今年の応募者の内、何人が命を落とすと思う?」とつぶやいた。応募者は自己責任で行為を実践する。事実、チベットの大峡谷にカヤックで挑んで行方不明になった応募者もいた。
選考会は毎年場所を変えて開催された。各地で用意されるアクティビティーも楽しみだった。98年は北イタリアのドロミテ山麓の町コルチナで開かれた。まとめ役のジョン・ハーリンjrが、「岩登りに行こう」と提案した。
彼は米国人で、アイガー北壁に直登ルートを開拓中に滑落死したジョン・ハーリンの息子だ。我々が出かけたのはビアフェラータと呼ばれるドロミテのユニークな登攀(とうはん)システムで、岩壁の取り付き部から頂上までの標高差500メートルにワイヤロープが固定されていて、登山者はハーネス(安全ベルト)を装着し、ワイヤにカラビナを掛けながら登っていく。
万一落下しても杭のところで止まる。無論、まったく危険がないわけではない。熟達した経験者だからこそ楽しめるアトラクションだ。
私は、日本でも冒険を志す若者を応援したいと考えて、「モンベルチャレンジ支援プログラム」を立ち上げた。我々も「成果にではなく計画」を評価して対象者を選んだ。更に2005年には、実績を含めて継続する素晴らしい取り組みに贈る「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設した。
手作りボートでスイスから日本を目指した中島正晃さん、がんと闘いながら自転車で世界一周に挑むシール・エミコさん、日本人のルーツを探る3万年前の航海の再現プロジェクトなど、これまで多彩な挑戦に賞を授与したが、ほとんどのプロジェクトは完結していない。犬ぞりによる北極圏での環境調査を続けていた山崎哲秀さんは北極海の流氷の割れ目に落ちて消息を絶った。
さらにアフガニスタンの人道支援団体、ペシャワール会の代表、中村哲さんはテロの凶弾に倒れた。最新の受賞者は、旅の途中2人の子を産み育てながら13年間、世界を自転車で旅するスイス人家族のパシュさんたちだ。これからも冒険を志すチャレンジャーを支援したいと考えている。(モンベル創業者)
【図・写真】イタリアの農場で審査委員らと(右から2人目が筆者)
辰野勇(15) 黒部峡谷初下降 「いける!」難所脱出し完遂 足かけ4年がかり、カヤックで(私の履歴書)[2024/11/16 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1477文字 PDF有 書誌情報]
黒部川は北アルプスの鷲羽岳(2924メートル)を源にして日本海に注ぐ全長85キロメートルの河川だ。世界でもまれにみる急峻(きゅうしゅん)なこの川を源流部から河口までカヤックで下る挑戦を始めたのは1987年だった。
チャンスは残雪が消える8月から新雪が降り始める10月までの3カ月足らずしかない。峡谷の上部、「上の廊下」の初下降に挑むため、9月、ヘリに7艇のカヤックと装備をつり下げて薬師沢が合流する河原に降り立った。
モンベル社員の有志を中心に総勢7人のメンバーがカヤックを漕(こ)ぎ出した。源流部に近い最初の数キロは水量も少なく、積み重なった大きな岩と岩の間を縫うように川は流れていた。漕ぎ下るというよりも岩の間を滑り下りていくような感覚だった。
たびたび行く手を遮られて、艇を担ぐポーテージを余儀なくされた。テントや食料などを積んだカヤックは重い。徐々に水量も増し、落差2、3メートルの滝が連続する場所もあったが、流れの勢いはさほど強くない。この日は突然の増水にそなえて河原から離れた台地でビバークした。
翌朝漕ぎ始めたが、次から次に滝が現れ、そのつど艇から降りて偵察するので時間がかかった。日没後の暗闇の中を漕ぎ、ダム湖畔に上陸してこの年の挑戦は終わった。
黒部ダムの下流、「下の廊下」と呼ばれる峡谷の下降は2年がかりになった。
88年10月、ダムの大量放水がないことを確かめて7艇のカヤックをダムの直下に下ろした。流れは速く、転覆する艇が相次いだ。
継続を諦めた2艇を樹林帯に縛り付けて野宿。翌朝、残りの5艇で川下りを再開したが、落差4、5メートルの滝が連続する。流れが穏やかになったかと思うと突然、川が消えて滝が現れる。緊張のあまり口が渇いてつばがはけない。精神的な疲労の限界を感じた。この年はここで引き揚げて翌年下降を続行することにした。小高い岩盤にハーケンを打ち込んで5艇のカヤックを縛り付けて下山した。
翌89年、雪解けを待って現地に行くと、縛り付けておいた艇はすべて雪に押しつぶされていた。前年に離脱して樹林帯に縛り付けた2艇が無事だったのでそれを使うことにした。白竜峡と呼ばれる峡谷には落差15メートルの滝がある。
まるで竜が炎を吐き出しているように見えるところから、私は「竜の炎」と呼ぶことにした。「15メートルの落差を落ちて無事に着水できるだろうか」。当初は艇を担いで迂回するしかないと考えたが、流れを見て観察するうちに、「下れるかも」と思い始めた。
別の仲間はやめておきますと言う。私は一旦カヤックに乗り込んだが心を決めかねていた。「やめろ、死ぬぞ」と「大丈夫だ」という心のささやきが頭の中で交錯した。「いける!」と思った瞬間、私は迷いなく漕ぎだした。
滝つぼに5メートルほど潜っただろうか。浮上したらパドルが3つに折れていた。1人になった私は最後の核心部S字峡の返し波につかまり転覆してしまった。エスキモーロールと呼ぶ技で起きようとしたが岩に押し付けられて上がれない。諦めて一旦艇から抜け出したが、周りに助けてくれる仲間はいない。
水中で息をこらえ、艇が岩から離れるのを待って再びロールを試みた。数十秒間の判断だった。ロールに成功して窮地を脱した。そしてようやくこの年のゴール仙人谷ダムまで漕ぎ下ることができた。
その翌年、仙人谷ダム下の欅平から仲間と一緒に漕ぎ下り、全員で日本海に到達した。足かけ4年のカヤックによる黒部川初下降が完結した。
(モンベル創業者)
【図・写真】「下の廊下」の落差5メートルの大滝をカヤックで下った
辰野勇(14) パタゴニア 登山家創業者と出会う 自社ブランド構築に注力(私の履歴書)[2024/11/15 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出会ったのは1980年、ドイツの登山用品店シュースタのパーティー会場だった。彼はヨセミテ渓谷などの大岩壁を初登攀(とうはん)した著名な登山家でもある。登山や創業の話を交えて互いにものづくりに対する考えを交わした。
30分足らずの会話だったが、意気投合した。ちょうど同社の製品を扱う日本の代理店との契約が終わるとのことで、「やってみないか?」と尋ねられた。他社のブランドを扱うことには、まったく興味はなかったが、イボンの人柄に興味を持った。
彼は日本に来るといったがかなわず、逆に私が米国を訪ねることになった。ロサンゼルスの空港に、Tシャツと短パン姿で彼が迎えに来てくれた。さびだらけのワーゲンの砂まみれの後部座席にはワインの空き瓶が転がっていた。
彼の家は太平洋を見渡すベンチュラの海岸に立っていた。カヤック2艇を並べ、「波乗りしよう」という。サーフィンの経験はないが、カヤックならできる。しばらく一緒にサーフカヤックを楽しんだ後、心地よい波音を聞きながら商談を始めた。それまでヨーロッパアルプスに親しんできた私は、自由で開放的な米国人の気質と風土に一種のカルチャーショックを受けた。
悲惨なベトナム戦争を体験した米国の若者たちが興した自然回帰のムーブメントが登山界においても「クリーンクライミング」という新しい登山スタイルを作り上げていた。ハーケンやボルトを岩場に残さず、登った痕跡を一切残さない「LEAVE NO TRACE」のコンセプトである。イボンもまたその先駆者の一人だった。
彼の別荘のあるワイオミング州に聳(そび)えるグランドティトンの岩壁に新しいルートを2人で開いたり、ヨセミテの岩場を一緒に登ったりした。ビジネス以前に、良き山仲間としての交流が深まった。パタゴニア製品の日本での販売を手伝う一方、モンベルが得意とする新素材の分野で彼らの商品開発をサポートした。デュポン社のハイパロンを使った雨具もその一つだった。乾燥したカリフォルニアに比べて、夏は高温多湿の日本で開発した商品は、米国内でも高く評価された。
他方、木綿で作られたラグビージャージーやショーツなどのパタゴニア製品は日本の登山市場になかなかなじまなかった。その後、ポリエステルのフリース、「シンチラ」が発売されるやいなや多くの支持を集め、一気にビジネスが拡販していった。パタゴニアの製品が売れれば売れるほど、私の中で釈然としない気持ちが芽生えた。
自分たちが欲しいものを作り、消費者から共感を得る喜びを、モンベルというブランドに重ねて進めてきた我々のアイデンティティーが薄らいでいくような不安が膨らんだ。そのころパタゴニアの売り上げは、モンベル全体の約4分の1にもなっていた。M&A(合併・買収)が日常的な米国で、もし経営体制が代わったら、販売権は保証されない。たとえ今の売り上げを失っても、モンベルブランドの構築に注力すべきだと考えた。
折も折、来日していたパタゴニアの副社長、クリス・マックデービッドさんに思い切って切り出した。「クリス、日本での販売は自分たちでやってくれないか」。突然の申し出に驚いた彼女に、私は思いを打ち明けた。そしてパタゴニアの日本法人設立と責任者の採用面接を手伝った。それは互いに遺恨のない爽やかな別れだった。
(モンベル創業者)
【図・写真】イボン(右)と一緒にヨセミテの岩壁を登った
辰野勇(13) 海外進出 寝袋を西ドイツに初輸出 売り残した冬物、南半球へ(私の履歴書)[2024/11/14 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1458文字 PDF有 書誌情報]
「登山家は怖がりだ」こういうと、「怖いのなら、山になど登らなければいい」と返される。しかし「まだ見ぬものを見とどけたい」という好奇心がその恐怖心を抑制する。怖がりが故に最悪の状況を想像して準備する。晴天でも雨具は携行するし、日帰りの登山でも懐中電灯を持っていく。これが登山家のリスクマネジメントである。
3人で登山用品メーカー、モンベルを創業したが、恒久的に事業を続けられるだろうかという不安があった。創業メンバーも年をとる。常に若い仲間を迎え入れなければ平均年齢が高くなり会社は競争力を失う。平均年齢を若く保つために毎年社員を増やせば会社の規模は大きくなる。
少なくとも最初のメンバーが定年を迎えるまでの30年間は成長しなければならない。無論これは終身雇用の日本型経営に基づく考えだ。山仲間でもある創業メンバーとは生涯一緒に仕事をしたいと思っていた。当時、日本の登山市場の規模は500億円程度と推定されていた。30年後にその20%、100億円まで業績を伸ばせる可能性を目安と考えた。しかし、国内にそれだけの市場がなければ海外に販路を広げる必要がある。
創業3年の78年の夏、商品サンプルを携えて西ドイツのケルンで開催されていた国際的なスポーツ用品の展示会を視察した。その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訪ねた。ここは私がアイガー北壁を登るとき装備を買いそろえた店でもある。
店員に「日本から商談に来た」と告げると、役員室に案内された。部屋に入ると初老の紳士が迎えてくれた。「ダクロンホロフィル2」の寝袋を広げて、「私はアイガー北壁を登った。私の作った寝袋を買っていただきたい」と片言のドイツ語で告げた。
紳士の表情が少し緩んだ。「北壁に登ったのか」。紳士は、そう言って寝袋を手に取ってくれた。彼の名はケレン・スペーガー。ヒマラヤの8千メートル峰にも登頂した登山家だった。製品を丁寧に見たうえで「検討させてもらうよ」とやさしく返答してくれた。
ミュンヘン駅裏の木賃宿に戻って、きしむベッドに横たわり、アイガー北壁の実績が認められた喜びをしみじみかみしめた。
朗報が届いたのはその年のクリスマスイブだった。寝袋100個と防寒衣料などの注文書が送られてきた。欧州の老舗専門店にモンベルの品物が並べられることを想像するだけで心が高ぶった。
79年は暖冬で大量の冬物商品を売り残してしまった。資金繰りを考えれば、価格を下げても量販店に買い取ってもらうのが常套(じょうとう)手段だが、それをすればブランドのイメージを貶(おとし)める心配がある。
「南半球はこれから冬が始まる。今からでも買ってもらえるかもしれない」という単純な発想でニュージーランドに飛び立った。文字通りの飛び込みセールスだ。クライストチャーチのホテルで電話帳に記載されたスポーツ用品店に片っ端から電話して訪問した。製品の評価は高かったが、輸入するにはライセンスが必要で、高額の関税がかけられていた。そんな事情も知らないまま、思いつけばすぐに行動する私の性格を象徴するエピソードだ。
空港で南極が上に描かれた世界地図を見つけた。北半球に住む我々がいかに自分たち中心の既成概念にとらわれているのかを知る機会でもあった。ニュージーランドでは少量だが注文をいただいた。その後、スイスと米国に現地法人を設立し、40カ国のビジネスパートナーとの取引が始まることになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】最初に商品を売り込んだ西ドイツのスポーツ店「シュースタ」
辰野勇(12) カヤック 新しい自分の居場所に 判断力と決断力、山と共通点(私の履歴書)[2024/11/13 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1430文字 PDF有 書誌情報]
カヤックを始めたのは1974年。丸正産業の上司、麻植(おえ)正弘さんから「面白いからやってみないか」と誘われた。場所は琵琶湖から流れ出る瀬田川だ。艇を浮かべ、見よう見まねにパドルを漕(こ)ぎ出した。流れは見た目以上に複雑で、転ばないようバランスを取らなければならない。目の高さで水面が流れていく感覚が新鮮だった。
初心者の段階で出場した「第3回関西ワイルド・ウォーター競技大会」でまさかの優勝をしてしまった。いわゆるビギナーズラックである。それで、すっかりカヤックの面白さにはまってしまった。当時、カヤック人口は少なく、新たな可能性を予感した。
多くの仲間を山で失った喪失感もあり、ここに新しい自分の居場所を見つけた気がした。危険な山登りに没頭していた私の興味を「山からそらせよう」とカヤックに誘った麻植さんの術中にまんまとはまってしまったのである。
この頃、アイガー北壁登攀(とうはん)者の高田光政さんや大倉大八さんなど、往年の登山家たちが期せずしてカヤックを始めていた。私は高田さんから使わなくなったファルトボート(組み立て式カヤック)を譲ってもらい、あちこちの川に出かけるようになった。
カヤックとロッククライミングには共通点があるように思えた。難しい瀬を越える時、一瞬の判断力と決断力が求められる。そして一歩踏み出せば後戻りはできない。クライマーたちがカヤックを志向する感性が理解できた。「昔六甲、今琵琶湖」。高校時代は毎週のように六甲山のロックガーデンに通い、今は琵琶湖から流れる瀬田川に通っている。そんな私を妻があきれてそう言い表した。
登山を愛好するモンベルの社員たちにもカヤックを勧めた。77年、初めての社員旅行は、琵琶湖に浮かぶ竹生島にカヤックでツーリングすることにした。総勢7人で湖北の菅浦(すがうら)から漕ぎ出して竹生島に上陸。宝厳寺(ほうごんじ)の参拝をすませて、カヤックで戻り始めた頃から、琵琶湖特有の伊吹颪(おろし)が吹いて三角波が立ちだした。
とめどなく襲ってくる波に翻弄されてタンデム艇(2人乗り)1艇が転覆してしまった。起こして2人を再び乗艇させようとしたが、波に揉まれて這(は)い上ることが出来ない。その時、遠くを航行していた遊覧船が方向を変えて近づいてきた。「救助してほしいか?」と拡声器から呼びかけがあった。申し訳ないとは思ったが、結局、全員引き上げてもらった。初の社員旅行はそんな強烈な思い出を残した冒険旅行になってしまった。
翌78年秋には富山県の黒部ダムに組み立て式のファルトボートを持ち込んだ。静かな湖面から紅葉を楽しみながらのんびり漕ぎ進んでいると、監視艇が近づいてきて「すぐに上がりなさい!」と拡声器から怒声がした。「河川をせき止めたダム湖に艇を浮かべるのに規制があるのか?」。道のない未踏の岩場を登ってきた私には素朴な疑問だった。
社員数が40人を超えた年には長野県の飯田市を流れる天竜川に出かけた。前日の豪雨で川は増水していたが、私を含む7人が「いける」と判断してカヤックを漕ぎだした。ところが私以外の全員が転覆してしまい、1人で他のメンバーの救助と艇の回収をしなければならない羽目に陥ってしまった。何とか全員を無事に川岸に上げることが出来たが、この時はともに行動する仲間の技量を見極めておく必要を痛感した。
(モンベル創業者)
【図・写真】社員旅行でも楽しんだ(和歌山県の北山川。後列左から5人目が筆者)
辰野勇(11) 新素材 軽量・小型寝袋、業界に反響 機能追求の先にこそ「美しさ」(私の履歴書)[2024/11/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
1975年、登山用品の開発と製造販売を目指してモンベルを創業したものの、新しく市場に参入するのは容易ではなかった。工場にお願いして作ってもらった寝袋を登山専門店に飛び込みで売り込んだが、実績のない我々に与えられた注文はわずかだった。
そんな時、スーパーマーケットの商品企画を任された企業に勤める友人から、新規に企画したショッピングバッグの製造を依頼された。商社時代の人脈や経験を生かして生地を調達し、縫製工場を手配した。バッグは予想を超える売れ行きで、納期に間に合わせるため、社員の真崎文明、増尾幸子と一緒に徹夜でホック打ちや梱包の作業をした。
このショッピングバッグのおかげで初年度、1億6千万円の売り上げを達成することができた。この利益を使って登山用品の開発を始めることになる。この仕事で得た実績は、繊維メーカーや縫製工場との関係を構築する上でも大きな役割を果たした。
モンベル最初のヒット商品開発のきっかけになったのは丸正産業時代の上司、麻植(おえ)正弘さんがくれた新素材の情報だった。米国デュポン社が開発したダクロンホロフィル2という中空の化学繊維である。軽くて暖かく、ぬれてもすぐに乾く。寝袋の中綿としては画期的な素材だ。
当時、暖かく軽量でコンパクトになるダウンの寝袋は高価で庶民には高根の花だった。一方、化学繊維の中綿は安価だが重くてかさばり、持ち運びが不便だった。
早速、新素材の原綿を米国から輸入し、奈良県桜井市のふとん工場、北西商店で試作を始めた。シリコン加工した表面が滑って打綿するのに苦労したが、何とか製品化に成功した。製品は保温力や軽量コンパクト性に加え、ダウンにはない速乾性を備えていた。更に、表地に帝人がコンピュータのリボンテープ用に開発した極薄で高密度の素材を使用することで軽量化と接触感も飛躍的に向上した。
ところが、試作品を大阪市の登山用品専門問屋に持ち込むと、「こんなに小さいのに価格が高いのはおかしい」と取り扱ってもらえなかった。当時、化繊綿の寝袋の価格は中綿の重さで評価されていた。新素材の機能を評価してもらえなかったのである。
仕方なく東京の問屋を訪ねて性能を説明すると、「わかりました。うちで扱わせてもらいます」と、一挙に2千個の注文をもらった。この新しい寝袋は米国デュポン社の知名度を追い風に登山業界に大きな反響を巻き起こした。
この成功を受け、次に雨具の開発を進めた。雨が多い日本の気候で雨具は登山者にとって最も重要な用具である。素材に選んだのはこれもデュポン社の合成ゴム、ハイパロンだった。改めて同社の開発素材を研究したところ、防水性と耐久性に優れた素材の存在に気づかされた。
76年に製品化した「ハイパロンレインウェア」は、デュポン社の知名度もあり、長く売れ続けるモンベルの代表的な商品になった。「自分たちのほしいモノを作る」という我々の熱意が認められ、創業して間もない零細企業のモンベルに対してデュポン社はダクロンホロフィル2の寝袋使用に関する独占使用権を与えてくれた。
LIGHT&FAST(軽量と迅速)とFUNCTION IS BEAUTY(機能美)。無駄なく機能を追求したものこそ美しい。創業以来求めてきた商品開発のコンセプトである。
(モンベル創業者)
【図・写真】初のヒット商品となった
辰野勇(10) 独立 28歳を機に山仲間と創業 自己資金ゼロ、社名は無国籍(私の履歴書)[2024/11/10 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1456文字 PDF有 書誌情報]
丸正産業では製品企画など新しい事業を試みたが、すべてがうまくいったわけではない。当時、アルミのフレームにザックを取り付けた「バックパック」が米国で流行し始めていた。米国からの引き合いもあり、国内で製造して輸出する企画を立てたが、フレームパイプの製造や型代の償却など、新規投資の回収が不確実だと上司に却下された。
新素材を開発して販売先の企画担当者に提案したものの、価格が合わないと取り合ってもらえなかった。時間をかけて開発した素材も取引先の担当者の考えでボツになる。商品開発の決定権が自分にないことへのもどかしさが募った。登山の経験を生かして、自分たちのほしいものが作れる会社を立ち上げようと強く考えるようになった。
高校時代から、将来は山に関連した仕事に就きたいと考えていた。すし屋を営んでいた両親の後ろ姿を見て育った私にとって、仕事に就くことは、すなわち自らが事業を起こすことだと考えていた。「20歳では早すぎる、30歳では遅すぎる」。いつのころからか、28歳がその潮目のように考えるようになっていた。
ただ、会社を辞めるにあたって、気になることがあった。それは、丸正産業への就職を世話してくれた麻植(おえ)正弘さんとの約束だった。入社の前に「一生、ここで働く気はあるのか?」と聞かれ、私はその場で「はい」と答えていた。それは決してその場逃れの偽りではなかった。その時は将来の自分の夢の実現に確信を持てていなかったのだ。
28歳が近づいた5月の連休、麻植さんに誘われて、2人で石川県の白山に春山のスキーツーリングに出かけた。宿の湯船につかりながら、そろそろ退職の思いを打ち明けようかと口を開こうとしたとき、逆に麻植さんから「お前、会社を辞めたいと考えているのか?」と切り出されてしまった。「許さんぞ。でもな、もし家業のすし屋を手伝うというのなら致し方ない。ヨーロッパにでも行って勉強してくるのもいいかも」と、理解に苦しむ言葉をかけられた。
翌日、2人で残雪の稜線(りょうせん)をシールと呼ばれる滑り止めをスキーの裏に貼り付けて歩きながら、前夜の麻植さんの言葉の真意を考えていた。そして、私は気づいた。彼は私の考えていることなどすっかりお見通しだったのだと。先を行く麻植さんの後ろを追いかけて「俺、家業のすし屋を手伝います。会社を辞めさせてください」と告げた。麻植さんは「そうか」と一言。それ以上の言葉はなかった。
28歳の誕生日、1975年7月31日付で丸正産業を退職した。翌、8月1日、大阪市西区の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業した。わずか7坪の小さなオフィスだった。設立に最低必要な資本金200万円を母から借りて銀行に預け、預かり証明書を持って設立登記を済ませた。その1週間後には全額を銀行から引き出して母に返済した。創業時の資金は正真正銘ゼロからの出発となった。
私の独立を知って大阪あなほり会の真崎文明と増尾幸子が、在籍していた会社を辞めて創業メンバーに加わってくれた。2人はヨーロッパアルプス遠征から帰国した1カ月後、正式に入社した。
社名のモンベルは真崎と考えて決めた。MONTBELLの最後にEを付ければフランス語で「美しい山」を意味する。あえて発音しないEを取り除いたのは、これはフランス語でも英語でもない言葉であり、将来グローバルな市場に参入するには特定の“国籍”を持たない社名にするのがいい、と考えたからだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】創業メンバーは山仲間ばかり(中央が筆者)
吉田簑助さん死去 文楽人形遣い 人間国宝、91歳[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 42ページ 415文字 PDF有 書誌情報]
文楽界をけん引した人形浄瑠璃文楽の人形遣いで人間国宝の吉田簑助(よしだ・みのすけ、本名=平尾勝義=ひらお・かつよし)さんが11月7日、死去した。91歳だった。告別式は11月12日正午から大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館。喪主は妻、匡子さん。
大阪市生まれ。人形遣いだった父、二代目桐竹紋太郎に連れられて幼い頃から大阪・四ツ橋の文楽座に通い、1940年に6歳で三代目吉田文五郎に入門。43年初舞台。61年に三代目吉田簑助を襲名した。
初代吉田玉男の相手役として存在感を高め、「曽根崎心中」のお初や「本朝廿四孝」の八重垣姫など女形の多くを当たり役とした。
98年に脳出血で倒れ、リハビリを経て翌年に舞台復帰。後進の育成にも熱心で、三代目桐竹勘十郎ら多くの弟子を育てた。94年に人間国宝、2009年文化功労者。07年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
【図・写真】吉田簑助さんの真骨頂は女形だった(2018年)
辰野勇(9) 商社へ 繊維部配属、素材に出合う 仲間の死、世の無常を実感(私の履歴書)[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1461文字 PDF有 書誌情報]
就職の声を掛けてくれたのは商社、丸正産業の営業幹部の麻植(おえ)正弘さんだった。関西学院大の出身で、南米アンデス山脈にも遠征経験のあった登山家だ。大阪・梅田の白馬堂の店舗の近くに会社があったので、よく店に来られ、顔なじみになっていた。
1970年12月、同社に入り、繊維部産業資材課に配属された。この部署は繊維や人工皮革といった素材をメーカーから仕入れて靴やカバンを製造する2次メーカーに納める仕事をしていた。スポーツ用品を取り扱う企業とも取引があった。以前から営業の柱になってきた製品や大口の営業先との取引を引き継ぐ傍ら、採算が取れるなら、社員が企画した事業を新規に開拓することも許された。
私は夢中になって登山用具の開発に没頭した。その過程で織物の糸の特性を学んだ。とりわけ、水を含まず軽量で強靱(きょうじん)な合成繊維に興味をもった。雨具や寝袋、テントにいたるまで、これまで使ってきた製品の弱点や欠点を補う魔法の素材のように思えた。
すでに取引のあった神戸市の住友ゴム工業には、植村直己さんとともに日本人で初めてエベレストに登頂した平林克敏さんがおられた。ポリエステルのフィルムにアルミを蒸着した登山用の緊急保温シートを提案すると、採用していただき、ラテン語で命を意味する「スピロー」という商品名を考えてくださった。さっそく特許を申請し、後に丸正産業の社長賞を頂いた。
同じ神戸市でテントの縫製をされていた友光幸二さんが考案した画期的なテントの商品化も提案した。高強度で軽量のジュラルミンのパイプを曲げてテントをぶら下げる。シンプルで組み立てが容易な自立型のテントで、これまでの常識を覆すものだった。
商社で勤務する中、山に行く機会は少なくなった。一時は世界の登山界の先頭を走っている自負さえあったが、その後、計画したヒマラヤ登山は実現できず、気が付けば周回遅れのランナーのような、そんな焦燥感を覚えていた。
74年1月、なまけた体を鍛えようと、自宅から金剛山までの往復70キロを歩いた。疲れて帰宅した翌日、大阪あなほり会の仲間の一人、唐津誠が滑落事故を起こしたという知らせが入った。兵庫県西宮市の仁川渓谷にある三段壁と呼ばれる岩場での事故だった。
さっそく病院に駆け付けた。内臓破裂の重傷で、私が面会した数時間後に彼は息を引き取った。10代の若い命が消えていく姿を目の当たりにして、人の世のはかなさを痛感した。前年の12月にも、山仲間の一人が四国石鎚山の岩場で疲労凍死していた。
事故が続いたため登山の自粛を皆で決めたが、翌2月、あろうことか、別の仲間が交通事故で亡くなった。悪い流れを断ち切ろうと皆で話し合い、登山を再開することにした。すると3月、今度は一緒にザイルを結んだこともある亀井庄吉が奥穂高岳の滝谷で雪崩に巻き込まれて行方不明になった。
その日の夜行列車で現地に向かった。雪が降り積もる中での捜索は困難を極めた。捜索隊が再び雪崩に遭う二重遭難の危険と向き合いながら、5日後、捜索の打ち切りを決断した。新穂高温泉の宿で待機していた亀井のお父さんに「生存の可能性は厳しい」と告げると、「ありがとうございました」と頭を下げられた。断腸の思いでその場を去らざるを得なかった。
5月の連休明け、雪崩発生地点からかなり離れた残雪の中から亀井の遺体が発見された。極限の登山を続けていれば「いつか死ぬ」。徐々に山への思いが薄らいでいった。
(モンベル創業者)
【図・写真】会合で他社の担当者らと懇談(右から2人目が筆者)
辰野勇(8) 登山教室 技術教える合理性に共感 新婚旅行の3日後に退職(私の履歴書)[2024/11/08 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1382文字 PDF有 書誌情報]
アイガー北壁の登攀(とうはん)に成功した中谷三次と私は、次の目標マッターホルンに向かった。ツェルマットに聳(そび)えるこの山は英国人、エドワード・ウィンパーによって初登頂されている。我々が挑んだ北壁は、アイガー北壁に並ぶアルプス三大北壁の一つとして登山家たちの憧れの的だった。
登攀の途中、少なからず危うい場面にも遭遇したが、幸い一夜のビバークで登頂に成功することができた。期せずして我々は、1年のうちに2つの北壁を登った最初のパーティーとなった。残る一つはフランスのシャモニーにあるグランドジョラス北壁だ。
既に9月半ばにさしかかっていたが、最後の望みをかけて挑戦した。結果は、風雪の嵐に見舞われ、命からがら退却を余儀なくされた。アイガー北壁の日本人第2登と、史上最年少の記録を成果として、21歳の私のヨーロッパ山行が終わった。そしてこれが、まさに私の将来を決定づける「原点」となった。
シャモニーでは「登山学校」の存在に驚かされた。日本で登山技術を習得するには、山岳部か山岳会の先輩から指導を受けるしかなかった。少なくとも金銭を支払って登山技術を習得するという概念がなかった。山岳部や山岳会は厳格で、個人の山行にも規制があった。一方、経験を積んだ熟練の会員も、後輩の指導に時間が取られ、自分が山行する時間が制約された。
そんな中、一定の技量を持った仲間が同等の立場で山行を行う「同人」が台頭し、新しい形態の山岳会のありようとなってきた。私は仲間と大阪あなほり会を結成し、自由で開かれた組織を目指した。
基本技術は登山学校で習得してから会に入る。この合理的な考えに共感した。日本でも登山学校を立ち上げたいと考えた。勤務していた白馬堂の友田彦士社長に日本初のロッククライミングスクールの開校を提案した。講師は中谷三次と私に加え、高田光政氏にもお願いした。アイガー北壁を登った3人である。
最初の講習会は1970年5月、登り慣れた御在所岳の藤内壁で開催した。公募と同時、真っ先に申し込んできたのが、当時高校生で、後に一緒にモンベルを創業することになる真崎文明だった。あどけない少年だったが、山に対する思いは人一倍熱かった。
10月、高校時代の同級生、喜代子と結婚した。ところが、新婚旅行から帰って3日後、上司との意見の食い違いから白馬堂を退職することになった。想定外の出来事だった。帰宅して妻に伝えると、「そうですか」と一言。泰然とした表情でうなずいた。
翌日からおよそ一月の無職の間、妻を勤務先に送り迎えする日々が続いた。不思議なことにこの間、有り余る時間がありながら、一度も山には登らなかった。生活を支える仕事があって初めて、山に登る思いが湧いてくる。「自分の山好きも大したことはない」のだと気づかされた。
70年にはいろいろなことがあった。大阪で開催された万博で私はネパールのナショナルデーに他の登山家と一緒に太陽の塔のあるお祭り広場の大屋根からロープで降りるパフォーマンスを披露した。社会は熱気に満ち、様々な新しい試みが生まれていた。
新たな就職先を探す中、白馬堂の常連客から「うちに来ないか」と声をかけられた。繊維に強い中堅の総合商社だ。この転職が新たな方向の道につながっていく。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪あなほり会の仲間と(右から2人目が筆者)
辰野勇(7) アイガー北壁 雪崩に遭遇、九死に一生 氷河の先に次の目標望む(私の履歴書)[2024/11/07 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1465文字 PDF有 書誌情報]
冬の屏風岩でザイルを結び合った中谷三次とは、その後名だたる北アルプスの岩壁の登攀(とうはん)に挑戦した。そんなある日、高校時代から抱き続けてきたアイガー北壁登攀の夢を打ち明けた。彼は一瞬驚いた様子だったが、「お前が行くなら一緒に登ろう」とその場で同意してくれた。
実現への準備を始めた。日本人として唯一登攀を果たした高田光政氏から情報を聞くことにした。彼は登攀中に滑落事故でパートナーの渡部恒明氏を失うという壮絶な経験をされている。岩壁を登る好機や天候条件など、貴重な話を聞くことができた。
1969年6月、横浜から船でナホトカに渡り、シベリア鉄道で欧州に向かった。出航の前夜は70年安保闘争でバリケードが張り巡らされた横浜国立大学の学生寮のおいの部屋に宿泊した。旅の途中のチェコスロバキアでは、列車に自動小銃で武装したソ連の兵士が乗り込んできて乗客を厳しく検閲した。「プラハの春」が終わり、世界が騒然としていた時代でもあった。
ようやくたどり着いたスイスのグリンデルワルトでは、温かく迎えられた。槇有恒氏ら日本人登山家が残してくれた友好の証しと感謝した。アイガーの麓の牧草地アルピグレンでホテルを経営するネビカ夫人に牧童のわら小屋を格安で借りて拠点にした。
近くの岩場でのトレーニングを怠らず、村の通りに設置された気圧計で天候を予測しながら登攀の好機をうかがった。登攀の成否は天候が左右する。大陸と大西洋の高気圧が帯状につながった時、1週間の好天が約束される。
7月21日午前2時、暗闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りに北壁の取りつき点に向かい、いよいよ標高差1800メートルの大岩壁に挑む。困難な割れ目と呼ばれる岩壁帯を登り切れば、一枚岩をザイルにぶら下がって振り子のように横移動する「ヒンターシュトイサートラバース」と呼ばれる核心部を突破する。
アイガー北壁の登攀の歴史では数々の悲劇が繰り返されてきた。ここは、2008年に製作された映画「アイガー北壁」の遭難の舞台だ。その後、「第1雪田」「第2雪田」を越えて「死のビバーク」と名付けられた狭い岩棚に着いた。ここを越えると退却が困難になる。まだ日は高かったが、翌日の天気を確認することにしてビバークした。
翌朝、観天望気(空を見て天気を予測する)で登り続けることを決意した。荷物を1グラムでも軽くして一刻も早く登り切るために退却用のロープや食料、カメラは置いていくことにした。「ランペ」と呼ばれる岩溝から先は中谷にリード(先頭)を譲る。
「神々のトラバース」を越え「白い蜘蛛(くも)」の雪壁にさしかかったとき、先頭を行く中谷を岩雪崩が襲った。「手を隠せ!」。私は怒鳴った。中谷は突き刺したピッケルを握って必死で耐えた。ザイルで結んだ二人の距離は約20メートル。落石がザイルを直撃して、あわや切断される寸前だった。
高校の国語の教科書で読んだハラーの著「白い蜘蛛」の場面が脳裏をかすめた。「頂上への割れ目」を抜けて最後の氷壁を登り切ったら頂上だった。狭い雪稜(せつりょう)の上に立ち、見渡す限りの山並みの先にマッターホルンの頂を見た。アイガーに次いで困難とされていたアルプス3大北壁の一つである。
登攀の最中「成功したら、後は地中海でも旅して、うまいものを食べよう」と励まし合っていた。が、頂を踏んだ途端、次の目標が眼前の氷河の先に現れた。「マッターホルン、次はあれかな……」。2人で顔を見合わせた。
(モンベル創業者)
【図・写真】北壁登攀中の筆者。撮影できたのはこの1枚だけ
辰野勇(6) 登山熱 前穂高の屏風岩を登攀 ひどい凍傷、装備の大切さ痛感(私の履歴書)[2024/11/06 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1446文字 PDF有 書誌情報]
高校を卒業後、住み込み店員として就職した玉澤スポーツでは開店前の掃除から閉店後の防火バケツの設置まで、様々な仕事を任せられた。主力商品は野球用品で登山用具の取り扱いが少なかったので、責任者にお願いして、少し売り場を拡張して頂いた。
休日には三重県鈴鹿山系の御在所岳の藤内壁に出かけた。岩場はクライミングに適した花こう岩の一枚岩だ。休みの前日、仕事を終えてから最終電車に飛び乗って湯の山温泉駅で下車、藤内壁の基地「藤内小屋」を目指した。
暗闇の中、ヘッドライトの光を頼りに黙々と歩を進めるのだが、毎週通ううち、道端の石や立木を見るだけで小屋までの距離が予測できるようになった。小屋の前のベンチで仮眠して、日の出とともに行動を開始した。高低差150メートルの垂直の岩場では、単独で滑落してもザイル操作で自己確保をする方法など、様々な登攀(とうはん)技術を習得した。
熱心に山に通う姿を見た社長から「両親から預かった子に危険なことはさせられない」と岩登りを自重するように注意を受けた。社員の体を心配しての忠告だったが、こればかりは従うわけにいかず、退職することを決意した。わずか7カ月の勤めではあったが、社会人としての基本や仕事の多くを学ばせていただいたことを感謝している。
堺市に戻った私は高校時代の恩師、副田欽一郎先生の紹介で大阪駅の近くにあった登山用品店の「白馬堂」に勤めることになった。これまでの登山経験を生かして品物を販売するのは楽しかった。登山の専門店ということで、山登りに対して会社の理解があり、山への挑戦は加速した。
そんななか、西穂高岳の岐阜県側にそびえる笠ケ岳の錫杖(しゃくじょう)岩に厳冬期、1人で挑む計画を立てた。その話を聞きつけた友人の中村幸男から「一人で登るのはむちゃだ。死ぬぞ」と脅された。たまたま彼の義兄の中谷三次も相棒がいなくて、同じ時期に1人で前穂高岳北尾根の末端にある屏風岩に登る計画を立てており、一緒に登れと勧められた。
中谷は私より10歳年上で、既に多くの困難な岩場を登った実績があり、登山界では一目置かれる存在だった。ほとんど面識のなかった彼とは電話連絡で計画を進めた。
ところが計画を実行する直前、以前から入院していた父が危篤状態に陥ってしまった。中谷には「父が危篤で、もし亡くなったら行けるが、危篤状態が続けば行けない」と告げた。後に中谷から「あんな罰当たりなことを言う男はおらん。見込みがあると思った」と当時の心境を教えられた。父は12月29日に息を引き取り、翌年1月5日から屏風岩の登攀を実行した。
厳しい冬期の屏風岩登攀中、安価なアクリル製の手袋が災いして左手の中指と薬指が凍傷にかかって感覚を失ってしまった。この時、装備の大切さを肌身で実感した。この体験がその後、私が登山用品を開発する会社を興す動機付けになったのは確かだ。
生きて帰ることさえできれば指を失ってもいいと覚悟したが、なんとか登り切って下山を果たし、上高地の木村殖(しげる)さんの小屋に駆け込んで、凍傷の指を、塩を入れたぬるま湯でほぐしてもらった。
松本市の病院で診察を受けると、応急処置がよかったおかげで指は切断しなくてもいいと告げられた。ようやく「屏風岩冬季登攀、初下降」の記録を達成した喜びを実感した。
この登攀を通じて中谷三次との信頼関係が確立し、その後、彼との様々な岩壁への挑戦が始まることになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】穂高岳北尾根にある屏風岩を登攀する筆者
25年02月03日
一条ゆかり(3) 一変した生活 誕生前後に差し押さえ 姉らと異なる「おしん」な日々(私の履歴書)[2025/02/03 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
私が生まれて2カ月後に「家中に赤い紙が貼られていた」と、10歳上の長姉、泰子は記憶している。借金で財産が差し押さえられていたのだろう。私の誕生と前後して裕福に暮らしていた家を、夜逃げ同然に出たと聞いた。母は私を堕胎することも考えたが、祖母が止めたという。
私は1949年9月19日、岡山県玉野市で生まれた。姉姉兄兄兄と続く兄姉(きょうだい)の末娘で、典子と名付けられた。本名は藤本典子。
貧しくなったとはいえ、私の最初の記憶は楽しいものだ。母方の祖母が暮らす海のそばの小さな二階屋に家族で身を寄せた。海で遊んで、スイカを食べて、真っ黒に日焼けした。五右衛門風呂に入って、やけどをするから風呂釜にもたれてはいけないと注意されたのに、うっかりやってしまって「アチチ」となったのもいい思い出だ。
それにしてもなぜ、父は財産を失ったのか。祖父が死んで、第2次世界大戦が起きたことが大きい。戦況の悪化で日本軍は国民に金属などを供出するように求めたが、父は正直すぎるほど協力した。
加えて父親(私の祖父)の2人目の妻と折り合いが悪く、すったもんだの末、あろうことか財産を放棄した。借金の保証人にもなったという。お人よしのボンボンで、いつも人にたかられていた。自分は少ししか飲まないのに、酒の席ではどんどん人が集まって、全員の酒代を払った。
裕福だった頃、長姉と1つ下の姉、嘉子にはそれぞれねえやが付いていたらしい。ねえや……ちょっと書いてて腹が立ってきた。家にはピアノもあった。当時の玉野でピアノを持っていたのは我が家ともう1軒、あとは学校だけだったという。
桃の節句の写真が残っている。母の膝の上にいる姉より大きな人形が飾られている。背後のひな人形や、天井からつるした飾りも豪華だ。何もなかった私のひな祭りとの違いにびっくり。漫画「有閑倶楽部」にある、主要キャラクターの一人の美童が市松人形に襲われるエピソードは、この写真からイメージした。
さて我が家は、祖母の家の次に長屋に越した。よく時代劇に出てくる長屋と同じ造りで、細長い家の両端に共同の水道があって、部屋は6畳と2畳、そして小さな台所。ここで父母と6人の子供、計8人が暮らした。
母はいつも働いていた。結婚前は教師で、日本舞踊や三味線やピアノもできたから、それらを人に教える仕事や、行商などもやっていた。加えて家事もあった。子供時代、母が横になっている姿を見たことがない。
そして私は「おしん」になった。NHK連続テレビ小説「おしん」の子供時代である。長屋から平屋のアパート(6畳と2畳と2畳)に引っ越した小学生の頃から、母の下働きとして、1人でマキを割って釜でご飯を炊いた。姉たちは帰りが遅く、兄たちは家事をしない。母に抗議すると「男は台所に入るもんじゃない」。
保育園を2年通い、友達は幼稚園に行くのに私は行けなかった。幼稚園は下校時間が早いため、保育園を3年行けと言われ嫌だった。結果、引きこもりを選び、家族の誰かが帰ってくるまで1人、家の前の道路で、ろう石で絵を描いた。すると徐々にギャラリーが増えて「上手!」「お姫様描いて」などと褒められた。これが、後に漫画家になる私の原点かもしれない。
(漫画家)
【図・写真】裕福だったころのひな祭りでの母と姉
一条ゆかり(2)父は王妃様 世間知らずのお金持ち しっかり者の母が支える(私の履歴書)[2025/02/02 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1361文字 PDF有 書誌情報]
「父はマリー・アントワネットみたい」と、私は思っていた。
裕福な家に生まれたらしい。瀬戸内海に面した、今の岡山県玉野市。旧三井造船の創業の地である。祖父がここで造船関連の会社をおこし、大きくした。父、藤本清はその長男だった。
祖父は仕事も遊びもガンガンのエネルギッシュな人だったという。関西各地の花街へ豪遊の旅に出ることもしばしば。父もハイカラで、英国の生地でスーツをあつらえ、靴はオーダーメイドだったとか。モダンボーイである。15の時から芸者遊びをして、マージャンとビリヤードが上手だった。いかにも100年前の日本の富裕層である。
東京の立教大学を中退。後継者である息子がお人よしで世間知らずであることを不安に思った祖父は、しっかり者の嫁を探した。おめがねに適(かな)ったのが母、薫だ。旧姓は村上。中世の瀬戸内海で一大勢力を誇った海賊、村上水軍の末裔(まつえい)だという。
母も革靴を履いて自転車に乗り、テニスもやるモダンガールだった。お茶やお花、三味線、日本舞踊に都々逸、ピアノなども習い「娘の武芸十八般を身につけたわよ」と豪語していた。岡山の師範学校(現代の教育大学)を出て、結婚前は小学校の教師をして、株で財産を失った家族の生活を支えていた。一方で、若くして目を患い、視力が弱かった。
見合いの席は料亭で、父は白い麻の三つ揃(ぞろ)いにパナマ帽。すらりと背の高い父を、母は一目で気に入った。ともに明治末期の戌(いぬ)年生まれ。お金持ちのボンボンと名家の娘の結婚は、地元で新聞記事になるほど話題だったそうだ。
父は、祖父の会社でボーッとしているだけなのに、かなりの給料をもらえたらしい。働けよ。
しかしそんな暮らしがやがて一変する。私が物心ついた頃には、我が家は借金漬けで、今日の食べ物を心配するありさまだった。母は、自分の着物など売れるものは何でも売った。そしてよく大量のそうめんを買ってきた。私を含めて6人の子供に食べさせるには、当時、米を買うより安上がりだったのだ。
周囲も心配したのか、近隣の少し裕福な家から、2歳上の兄を養子にしたいという話があった。1人では寂しいだろうから、妹(つまり私)も一緒にどうかと。母は断った。養子に行けば今よりマシと期待していた私は母に「え~何で断ったの?」。殴られた。母にぶたれたのは、これを含めて人生で2度だ。
こんなこともあった。ある日、母が「お金が無い。どうしよう?」と焦っていた。すると父は平然と「金が無いなら銀行に行けばいいだろ」。
何もないのに銀行に行けばお金を引き出せるとでも思っているのか? この頃5~6歳だった私はすっかりあきれた。私が父を王妃マリー・アントワネットだと思うのは、この日の記憶からだ。
誤解のないように言えば、子煩悩で優しい人。友達にするには最高の人だが、夫にするには正直事故物件レベルだと思う。
後年、家の中で唐子(からこ)の描かれた豪華な大皿を見つけた。これは何かと母に尋ねると「端が欠けていて売れなかったのよ」。ほかにもパーコレーターというのか、コーヒーを淹(い)れる道具があった。「当時は田舎でそんなものを使う人がいなくて、やっぱり売れなかった」と母。苦労がしのばれた。(漫画家)
【図・写真】父母(奥)、祖母(手前右端)と姉・兄たち
一条ゆかり(1) 真面目な不良 少女漫画 ギリギリを攻め 性描写もアクションも描く(私の履歴書)[2025/02/01 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
バイクの免許を取ったのは高校2年の時だった。漫画を描いて徹夜をした明け方、よく瀬戸内の海岸にバイクを飛ばした。この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かにつけて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。
何が何でも漫画家になる。その一心だったけれど、団塊の世代の最後の年に生まれた私が幼い頃は、漫画は悪書扱いで、母をはじめ、周囲の大人は「漫画家になりたい」と言うと「何言ってるの?」「バカじゃないの?」という反応だった。
でも漫画家は、学歴も性別も年齢すら関係なく、実力で勝負できる。私には何もなかったから、そういう仕事につきたかった。そして一過性のヒットメーカーではなく、長く生き残る存在になりたい。死ぬまで漫画家でいるにはどうしたらいいのかと、デビュー前から考えていた。
とはいえ編集者の言いなりは嫌。100%、自分自身の考えを世に出して、それを認められたかった。「真面目」「いちず」「けなげ」な少女が出てくる、昔ながらの少女漫画は嫌いで、もっと不良性を帯びたものが描きたかった。女であっても、気に入らなかったら相手を殴るくらいのキャラクターにしたい。
少女の夢物語より、貧しい青年が犯罪に手を染めてのし上がるピカレスクロマンに引かれた。
中学生の頃、好きな小説で読書感想文を書く課題で、私が選んだのはドストエフスキーの「罪と罰」。高校時代の同じ課題ではスタンダール「赤と黒」だ。アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」も大好き。そして好きな映画の1、2、3位は「風と共に去りぬ」「ディア・ハンター」「アラビアのロレンス」。さらに、子供時代は見ることもできなかった貴族の世界を感じられるヴィスコンティ監督作……。
こうした昔の洋画の世界を、少女漫画で表現したかった。「かわいい女の子さえ描けばいいんでしょ」とバカにされていた少女漫画に、風景や建物、家具、車やバイクなど背景を精密に描き込んだ。光や影、アングルなども工夫した。私は1人で、映画のにおいのする漫画を作りたかったのだ。
結果「あなたが少女漫画の世界を広げた」と言ってもらえるならうれしい。「不良」「性描写」はもちろん「同性愛」「近親相姦(そうかん)」も1970年代から描いている。20年以上も連載し、累計発行部数が3000万部に及んだ「有閑倶楽部」はアクション・コメディだ。昔の少女漫画ではNGだったものを、じわじわと、ギリギリの際を攻めるように描いてきた。
私自身も不良っぽく振る舞ってきたが、恥ずかしながら、根はとても真面目。バイクに乗っていたのは、車酔いがひどく自動車が苦手だったからでもある。学校の成績は良かったし、家事全般は一応、何でもできる。自分中心ではなく、自分以外を中心にしても考え、行動できる大人になりたいという目標も持っていた。半面、このような真面目さを、人に見せるのはかっこ悪いとも思ってきた。いわば「真面目な不良」なのだ。
真面目に漫画を頑張りすぎて、重い腱鞘(けんしょう)炎を患い、緑内障も悪化、今は漫画の仕事は控えているが、私の人生は漫画に捧(ささ)げたと思っている。そんな私のこれまでを、振り返ってみよう。(漫画家)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
岡藤正広(30) あの日の約束 「日本一」と誇れる会社に トップ15年、最後の仕事(私の履歴書)終[2025/01/31 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
こういうのを虫の知らせと言うのだろうか。ふと、かつての戦友のことを思い出した。私に営業のイロハを教えてくれた峠一さんだ。
「そういや、峠さんはどうしてるんやろう」。共通の知人に聞くと、その人が大阪にある峠さんの自宅を訪ねてくれた。空き家になっていたという。お隣さんに聞くと、峠さんはすでに亡くなっていた。晩年はご家族とも疎遠になり、孤独死だったという。私が2010年に社長になって1年近くたった頃のことだ。
「俺はいつか日本一の商社マンになってみせる」。そんな夢を峠さんに語った若き日から40年余り。伊藤忠商事を率いてがむしゃらに駆け抜けてきた。不安でいっぱいだった就任当初を思えば、よくがんばったものだろう。
それでも思う。私はあの日の、峠さんとの約束をかなえたと言えるだろうか。
伊藤忠のトップを拝命して15年。当初は社長を6年やって後任にバトンを託そうと考えていたことを思えば、ずいぶんと長い時間が過ぎた。日本経済新聞の担当記者からは毎年のように「いつまで現役を?」と聞かれるが、私の仕事はまだ完結していない。
業績や市場からの評価では財閥系と伍するところまできた。だが、私は伊藤忠をもっと良い会社にしなければならない。そう心に誓ったのが20年7月のことだ。苦労を重ねて私と弟を育ててくれた母が息を引き取った。最期に手を取ると、もう私の手を握り返す力も残っていなかった。
今でも後悔している。最期にたったひと言でいい。おふくろに感謝の思いを伝えたかった。新型コロナウイルスのため5月に迎えた93歳の誕生日を家族で祝ってやれなかったことが心底悔やまれる。
飲んだくれのオヤジが転落する中で一家を支えてくれたおふくろ。街に住友銀行(当時)の独身寮ができると近所でちょっとした話題になり、エリートたちが暮らす立派な建物をうらやましそうに眺めていた姿を思い出す。
私たち兄弟に「将来は大企業に行ってな」と言うようになったのはあの頃からだ。借金取りに追われるような生活からは抜け出してほしいという、切なる願いだった。
伊藤忠をどんな会社にしたいか。その尺度は業績や株価だけではない。それより社員たちが家族や世間に誇れるような立派な会社にしたい。
あの時のおふくろに「少しは恩返しできたでしょ」と胸を張って言えるような。最期に手を握った時、伝えられなかった感謝の言葉に代えられるような――。その高みには、まだ達していない。
もちろん、いつまでも現役というわけにもいくまい。後継者はまだ決めていないが意中の人は複数いる。若い人が割って入る可能性も大いにあるし、期待したいところだ。
ビジネスの世界では厳しい競争が待っている。より良い明日をつかむために、我々は勝たなければならない。だから後継者には商売の勝負勘を持ち、勝ちグセを身につけているかを問いたい。
だが、それだけでは不十分だろう。社員たち一人ひとりを思いやれる寛大さを持つ人に、この会社のバトンを託したいと思っている。
かつて峠さんに「日本一の商社マンになる」と約束した。経営者となった今はどうか。伊藤忠を社員たちが誇れるような、天国の母に誇れるような日本一の会社にしてみせる。それこそが私にとっての約束であり最後になすべき仕事だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
=おわり
あすから漫画家 一条ゆかり氏
【図・写真】私には胸に秘めた目標がある(東京都港区の本社)
岡藤正広(29) 恩返し デサント買収強行の内幕 ビジネスに禁物の私情が交錯(私の履歴書)[2025/01/30 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
ビジネスに私情を持ち込むのは禁物だ。だが、やはり人間がやること。完全に私情を捨て去ることができないのもまた、事実ではなかろうか。あの時の私もそうだった。
2019年1月31日。早朝7時に開いた臨時取締役会で、私はこう宣言した。
「これは飯田さんの弔い合戦や。飯田さんの無念を晴らすためにも、私は命をかけてこれをやり抜く」
有無を言わせない口調だったと思う。実際、反対意見は出なかった。こうして前代未聞と言われたデサントへの敵対的買収が決まった。
伊藤忠商事とデサントは長年、関係が深かったのだが1980年代にデサントの経営が行き詰まった。米ゴルフブランドが不振で大量の在庫を抱えたことが原因だった。
支援を求められた伊藤忠は85年、再建のためにエースを送り込んだ。私が師と仰ぐ飯田洋三さんだ。私の新人時代の課長だった。駆け出しの私が取引先とトラブルを起こしたと聞けば、一緒に出向いて真っ先に頭を下げてくれるような上司だった。
本来ならいずれ伊藤忠を背負って立つ器の人だったと思う。飯田さんがデサントに送り込まれると聞いた時は、驚きを禁じ得なかった。
飯田さんは文句も言わずに尽力された。「3年で再建する」という宣言通りに、3年で巨額の赤字から見事に黒字転換を果たされた。工場閉鎖や人員削減など苦しい決断の連続だったと思う。
その後も引き留められてデサント社長となった飯田さんを襲ったアディダス・ショック。売上高の4割、利益の8割を占める独アディダスから契約を打ち切られる危機も飯田さんの陣頭指揮で乗り切った。飯田さんこそがデサントの中興の祖だ。私のひいき目ではあるまい。
業績が持ち直すと、飯田さんは相談役に退いた。経営が軌道に乗れば伊藤忠は不要とばかりに古参幹部たちが創業家を担ぎ、2013年に伊藤忠出身の社長が突然解任される騒動があった。筆頭株主の当社には「3年だけ社長をやらせてほしい」と打診があり、認めたのだがその後も居座ることに。しばらくすると再び経営不振に陥った。
その件について私が問いただすと、なんと隠しどりされた音声が週刊誌に持ち込まれた。その少し前にはデサントは突然、ワコールホールディングスとの提携を決めた。社長解任時と同様に緊急動議。つまり不意打ちだ。
筆頭株主としてもはや看過できないと考えた。飯田さんが再建した会社をもう一度立て直すためにも。
冒頭の取締役会で私が居並ぶ役員陣に覚悟を示したのは、こんな事情が背景にあったからだ。その直前、飯田さんにお会いしに行った。
「僕は飯田さんのためにも命をかけてやります。必ず仇(かたき)を取りますから」
まるで任侠(にんきょう)映画のセリフのようだが、飯田さんは達観されたものだった。「無理するなよ。中小企業をいじめていると誤解されないようにな」。こんな忠告をいただいたが、情だけでなく利も伴うため買収を押し通した。
こうして成立したデサント買収。報告に行くと飯田さんはいたく喜んでおられた。その表情を見て、少しは恩返しができたのかなと思った。
繰り返す。ビジネスに私情は禁物だ。特に私は多くの株主からの期待に応える責任を持つ上場企業の経営者だ。ただ、あの敵対的買収の裏にこんな個人的な思いがあったこともまた偽らざる事実だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】飯田洋三さん(右)と(2019年3月)
岡藤正広(28) 孫さんの提案 「真の総合商社」の試金石 ファミマの可能性を思い知る(私の履歴書)[2025/01/29 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1406文字 PDF有 書誌情報]
あれは2017年末のことだ。ある方の紹介でソフトバンクグループ社長の孫正義さんと会食した際に、孫さんから社外取締役への就任を打診された。「光栄ですが、ちょっと今は余力がありませんので」と丁重にお断りした。すると、孫さんからすかさず二の矢が飛んできた。
「うちと50%ずつでファミリーマートをやりませんか」
折半で共同買収しないかということだ。「なぜ携帯会社のソフトバンクがファミリーマートを?」。これには思わずポカンとしてしまった。だが、孫さんの話に耳を傾けるうちに合点がいった。
孫さんはインターネットを主戦場にしてきた。そこで生まれるデータをどう押さえるかが、ネットビジネスの勝敗を決める。そもそも携帯電話に参入したのも、モバイルでネットが使われる時代を見越してのことだったという。
モバイルは使う場所を問わない。スマホでの決済を通じて、これまでネットが行き届かなかったリアルの世界のデータにまで手が届くようになる。どんな人たちが、いつ、どこで、どんなものにお金を払っているのか――。そういう視点で見ると、全国に店を持ち老若男女が24時間訪れるコンビニは膨大な購買データを集めるプラットホームということになる。
今振り返れば、孫さんの提案はソフトバンクがスマホ決済のPayPayを始める直前のことだ。ファミリーマート共同買収の狙いは、決済を通じてリアルのデータを取ることにあったのだろう。やはり考えることのスケールが大きいとうならされる。
それと同時に、ファミリーマートの持つ力を理解しているつもりで、そうではなかったと思い知らされた。我々には見えなかったコンビニの価値が、デジタル産業のビジョナリーには見えていたのだ。
そう考えるとオチオチしていられない。コンビニに興味を持つのは孫さんだけだろうか。ここはもっと深く、ファミリーマートの経営に関わるべきだと考えた。
2018年に出資比率を50.1%に高めて子会社化し、20年には残る全株を取得して完全子会社にした。投じた資金は総額で7000億円になる。実は、いずれやるべきだと思っていたのだが私の背中を押したのは、あの時の孫さんの提案だった。
こうして伊藤忠の川下ビジネスの柱として手元にたぐり寄せたファミリーマート。その力を引き出せるかは、未来の伊藤忠にとっての試金石になると考えている。
当社は「総合商社」と言われる。確かに手掛ける事業の範囲は相当なものだ。ただ、そのひとつずつが有機的に連動しているかと言われれば、そうとも言い切れない。専門家集団の集団と言えば聞こえは良いかもしれないが。
言うまでもなくコンビニは我々の身の回りで必要なものが、限られたスペースにぎゅっと詰まったビジネスだ。そこで試されるのが、本当の意味での総合力だろう。問われるのが縦割りの打破だ。そのために19年に新設したのが第8カンパニーだった。繊維や機械など縦割りの業種別に分かれた7つのカンパニーの力を結集させるのが目的だ。
ファミリーマートが我々に問うのは真の総合商社への脱皮だ。伊藤忠の専門家たちは力を合わせて何か新しい価値を創れているか。読者の皆さんが次に緑の扉をくぐられる際には、是非そんな視点で店内を観察していただけないだろうか。もちろん、厳しいご意見を歓迎します。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】孫正義さんはコンビニの真価を見抜いていた(2024年11月)
春秋(1月28日)[2025/01/28 00:00 日経速報ニュース 570文字 ]
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年、本紙に寄稿した「私の履歴書」は意表をつく連載だった。ふつうは近況の報告などから始まるが、初回タイトルは「開戦の日」。連載のほぼ半分を太平洋戦争の前線での従軍と敗戦後の抑留、復員体験にあてた。
▼インド洋の島で作業員が感染症でバタバタ倒れているのに、上官はマラリア蚊を防ぐ服の新調を認めない。マレー半島の捕虜収容所では高官たちの本性をみた。部下の戦犯容疑をかぶって獄についた者、戦死者に罪をおわせ自分と部下をまもった者。いっぽう「のらりくらりと立ち回って責任逃れを図る者」もいたという。
▼ベストセラーの著書「失敗の本質」で知られる経営学者の野中郁次郎さんが亡くなった。日本軍の敗北の原因を分析、いまの組織運営に役立つ教訓を引き出した。過去の成功体験に酔い都合のわるい事実にほおかむりする。東日本大震災で起きた原発事故を、閉鎖的コミュニティーがもたらした「人災」とも喝破していた。
▼博報堂の社長だった近藤さんはゆがんだ人事を見直し、同族会社の体質を近代的な経営に改めた。業界の悪弊の改革に乗り出すと、本社近くの駅で中傷のビラがまかれ、脅しもうけた。が、かつての青年士官は動じない。従軍体験のない現代のリーダーは今後「失敗の教訓」をどう生かすか。野中さんからの宿題であろう。
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年(春秋)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 1ページ 566文字 PDF有 書誌情報]
博報堂の最高顧問をつとめた近藤道生(みちたか)さんが2009年、本紙に寄稿した「私の履歴書」は意表をつく連載だった。ふつうは近況の報告などから始まるが、初回タイトルは「開戦の日」。連載のほぼ半分を太平洋戦争の前線での従軍と敗戦後の抑留、復員体験にあてた。
▼インド洋の島で作業員が感染症でバタバタ倒れているのに、上官はマラリア蚊を防ぐ服の新調を認めない。マレー半島の捕虜収容所では高官たちの本性をみた。部下の戦犯容疑をかぶって獄についた者、戦死者に罪をおわせ自分と部下をまもった者。いっぽう「のらりくらりと立ち回って責任逃れを図る者」もいたという。
▼ベストセラーの著書「失敗の本質」で知られる経営学者の野中郁次郎さんが亡くなった。日本軍の敗北の原因を分析、いまの組織運営に役立つ教訓を引き出した。過去の成功体験に酔い都合のわるい事実にほおかむりする。東日本大震災で起きた原発事故を、閉鎖的コミュニティーがもたらした「人災」とも喝破していた。
▼博報堂の社長だった近藤さんはゆがんだ人事を見直し、同族会社の体質を近代的な経営に改めた。業界の悪弊の改革に乗り出すと、本社近くの駅で中傷のビラがまかれ、脅しもうけた。が、かつての青年士官は動じない。従軍体験のない現代のリーダーは今後「失敗の教訓」をどう生かすか。野中さんからの宿題であろう。
岡藤正広(27) 利は川下にあり 「コンビニの父」の助言 セブンイレブンに提携打診で(私の履歴書)[2025/01/28 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
ファミリーマートは伊藤忠商事の経営が苦しいさなかの1998年にセゾングループから打診を受けて資本参加した会社だ。丹羽宇一郎さんが社長昇格の直前にまとめたディールで、最後にはセゾンの実力者として知られた西武百貨店会長の和田繁明さんと無言で対峙した「沈黙の30分」は語り草になっている。
巨額損失を出し人員削減に追い込まれ、商社不要論までささやかれた苦しい状況での決断だ。1350億円で3割を出資することには、社内で反論も根強かったと聞く。繊維一筋の私にとっては縁遠い話だったが、今となっては伊藤忠の財産だと思う。
「利は川下にあり」
これは私の経営戦略の柱をなす考えだ。スーツ生地を輸入して国内で販売する仕事をしていた私が、生地の展示会で目撃したシーンをヒントにブランドビジネスを築いていった。商材は生地から服へと広がり、やがて小売り業にまで進出していった。消費者の声を直接拾い経営戦略に反映するマーケット・インに徹することで、自ら付加価値を創造していけるからだ。
その点、老若男女を問わず24時間お客さんが訪れるコンビニは可能性の宝庫だ。2015年にチャンスが巡ってきた。サークルKとサンクスを傘下に持つユニーグループ・ホールディングスがファミリーマートとの経営統合を検討するという。実は以前から伊藤忠出身のファミリーマート社長がユニーに持ちかけていた話なのだが、真剣に考えてくれるとの返事をもらった。
ただ、正直に言うと我々が欲しいのはコンビニだけだった。スーパーのユニーまで抱えるのはリスクが大きいのではないか。こう考えた私はある人を訪れた。当時セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さん。言わずと知れた「コンビニの父」だ。
人づてに鈴木さんは挨拶だけの訪問は歓迎しない人だと聞いていたので、いきなり直球を投げ込むことにした。
「ファミリーマートと提携しませんか」
同時にユニーとファミリーマートとの経営統合交渉が進んでいることも打ち明けた。サークルKサンクスと合算すればローソンを抜いてコンビニ2位となる計算だ。もし続けざまに不動の首位であるセブンイレブンと提携すれば、日本に超巨大な小売り連合が誕生することになる。
もちろん勝算があっての提案だ。このコンビニ2強連合構想は実現しなかったが、何度も足を運ぶ中で鈴木さんからこんな助言をいただいた。
「商社にスーパーの経営は不可能ですよ」
やはり、ユニーがネックになるというご意見だった。「この人が言うなら間違いない」。私の仮説が確信に変わった。まずはユニーもろとも統合してファミリーマートとサークルKサンクスの融合を進めるが、いずれユニーは切り離さなければならない。
格好の相手はすでに意中にあった。ドン・キホーテだ。鈴木さんからも助言をいただいた。2段階に分けてユニーの全株式を売却した。ユニーはその後、ドン・キホーテのもとで業容を拡大しており互いにメリットが大きい取引だったと思う。
こうして我々は当初の狙い通りにサークルKとサンクスを手に入れた。約4年がかりの業界再編。だが、これでファミリーマートの経営体制が盤石になったわけではない。
そう気づかせてもらった相手がいる。ソフトバンクグループ創業者の孫正義さんだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ファミリーマートへの出資は丹羽宇一郎さん(右)が決断した
野中郁次郎氏が死去 知識経営の権威「失敗の本質」 89歳[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 1ページ 488文字 PDF有 書誌情報]
知識経営の世界的権威で、「失敗の本質」などの著書で知られる一橋大学名誉教授の経営学者、野中郁次郎(のなか・いくじろう)氏が1月25日、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。89歳だった。(評伝を社会面に)
告別式は近親者のみで行う。2月2日に東京都小平市小川東町1の21の12のシティホール小平小川でお別れの会を開く。喪主は妻、幸子さん。
1935年東京都生まれ。58年に早稲田大政治経済学部を卒業。富士電機製造(現富士電機)を経て、67年に米カリフォルニア大バークレー校経営大学院に進学。82年に一橋大教授に就任した。
旧日本軍が判断を誤り続けた要因を解明した84年の「失敗の本質」(共著)などで知られる。日本企業の革新性の源泉を読み解いた95年の「知識創造企業」(同)は米欧の研究者にも影響を与えた。
個人が持つ知識やノウハウなど、言語やデータになる以前の「暗黙知」を軸に、組織が対話を経て新しい知を生み出すプロセスを定式化した。知識・経験などを共有し、創造的な経営を実践する知識経営は多くの企業で取り入れられた。
2019年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
岡藤正広(26) 幻の合併構想 丸紅に提案「最強の補完」 打倒財閥系へ「紅忠」復活?(私の履歴書)[2025/01/27 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1323文字 PDF有 書誌情報]
あれは2010年代半ばのことだ。10年に社長に就任して打ち出した「かけふ改革」が軌道に乗り、若い頃から背中を追い続けてきた三菱商事、三井物産といよいよ真っ向勝負だと策を巡らせていた。その背中は依然として、はるか遠くなのだが諦めてはいけない。
そんな時に、みずほフィナンシャルグループ社長の佐藤康博さんから食事に誘われた。この日は丸紅社長の国分文也さんも同席された。佐藤さんと国分さんは麻布中学・高校の同級生でとりわけ親しく、その後も何度も3人で会食させていただいている。
その席で佐藤さんからこんな話が飛び出した。
「伊藤忠と丸紅が一緒になったらどうですか」
実は、私も以前から温めていた構想だった。互いの長所と短所を見比べれば、これほど補完関係がきれいに成り立つ組み合わせもないと思えるからだ。
例えば、食料では丸紅は穀物など川上に強く、我々はファミリーマートなど川下にあたる小売りにいち早く進出した。ちょうど丸紅が米穀物大手ガビロンを買収した後で、商社の中でも穀物での差別化を進めていた頃のことだ。他にも丸紅は電力が強く、伊藤忠商事は繊維では負けない。それに鉄鋼事業ではすでに事業統合した成果もある。
佐藤さんがどれほど現実味のある話と考えられていたのかは分からないが、わが意を得たり。丸紅と一緒になれば、悲願だった三菱・三井越えが現実のものとなるだろう。
そもそも丸紅と当社は、いずれも初代伊藤忠兵衛さんを創業者に持つ、いわば同根企業だ。もともとは「紅忠(べんちゅう)」という同じ会社だった。これが戦後に解体されて別々の会社となった経緯がある。その両社が今では得手不得手を異にしている。見方を変えれば最強の組み合わせだ。
「合併で一緒になって打倒財閥ですよ」
気づけば国分さんにこんな構想を熱く語る自分がいた。ビジョンを語るだけでは話が前に進まない。
「社長は丸紅さんから出してもらったらいいです」
こんな条件も出した。どちらが人事の主導権を取るかなんてことは、もはやささいなことだ。ただ、そう言われてもこれほどの重大事を即決できるわけがない。
「うちはずっと伊藤忠さんに追いつけ追い越せで来ましたので……」
国分さんが言いよどんだのも無理はない。今、合併に踏み切ると社員たちがどう捉えるか分からないから「もう少し待ってほしい」とおっしゃった。
「そりゃ、そうだろうな」と思い、時期を見計らうことにした。
社内でもごく限られたメンバーで検討を進めることになったのだが、いつしか国分さんとの間で話題に上ることもなくなっていった。同じ「親」を持つとはいえ、それぞれに成長して来た者同士がまた一つ屋根の下に戻るという決断が簡単でないことくらい、私にも痛いほど分かる。
こうして丸紅―伊藤忠の紅忠復活構想は歴史の闇に消えた……。いや、果たしてそう言い切れるだろうか。未来はいつも不確かだ。互いの利害が一致し、より良い未来をつくれるのであれば、可能性を消すべきではないのかもしれない。そんな思いを込めて、この知られざる話をあえてここで紹介することにした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】丸紅と伊藤忠は同根企業でともに初代伊藤忠兵衛を創業者にもつ
岡藤正広(25)受験の教訓 稼ぐにも伸び方それぞれ 成長投資や朝型勤務後押し(私の履歴書)[2025/01/26 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
かけふ改革の「稼ぐ」に関しても様々な改革を行ったが、ここでは全部門一律だった投資基準の見直しを挙げよう。きっかけは機械カンパニーのてこ入れだった。
伊藤忠商事は1970年代に自動車事業に本格進出し、機械カンパニーの中核事業となった。だが、徐々に弱体化して機械の業績は7つあるカンパニーの中で最下位となり、撤退論まで浮上していた。
自動車など製造業はやはり日本経済の屋台骨だ。失いたくはないが、踏みとどまるには相応の投資が必要になる。
そう考えた時に問題だと思ったのが、「株主資本コストを上回る最終利益の確保」を目的とする全社一律の投資基準だった。これでは弱い部門は手を挙げづらい。すると投資が後手に回り、ますます弱くなる。
再建の第一歩は自信をつけさせること。そのためにはカネを回す仕組みを作る必要がある。会社の事業を分野ごとに40ほどに分けて、投資基準を個別に定めた。これが機械の業績が最下位から2位に浮上するきっかけとなった。
この考えは個人にも落とし込み、たとえ業績がパッとしない部署にいても成果を上げれば報いるように評価や報酬のあり方も変えていった。そうでないと優秀な人材が埋もれてしまう。人が財産の商社で、これは致命的だ。
実はこうした改革は、失敗続きだった受験生時代の経験が土台となっている。私が2年も浪人した理由は結核だけではないと思う。単純に勉強の方法が間違っていたのだ。
母校の高津高校は進学校とはいえ、授業は平均的な生徒に合わせる。するとできる生徒はあくびして、できない者はついていけない。「こんなのに付き合っていられない」と、授業を無視して独りよがりな勉強を始めたことが失敗だった。ただ、あの時の疑問は間違いとも言い切れまい。悪平等は組織全体の活力を損ね、生産性を押し下げる。革新を妨げる要因ともなる。
会社は学校ではないが、できる子(事業)もいれば、そうでない子もいるのは同じ。それぞれに伸ばし方があっていいだろうと考えたのだ。
受験の教訓を経営改革に取り入れた例はこれだけではない。私はフレックス勤務を朝型に改めた。きっかけは東日本大震災だ。朝遅くにゾロゾロと出社してくる社員たちを見て思った。「お客さんや被災地の方々が大変な時に、これじゃアカン」
続いてこう考えた。周囲がバリバリと働いている時間帯を逃して良い仕事ができるだろうか、と。こうして思い切った朝型勤務を取り入れた。夜の残業代が減るので早朝割増金を増やし、朝食も用意した。
実は、この働き方にも受験の教訓がある。高校時代の私は学校から帰るとまずは仮眠を取り、夜中に起きて勉強を始めた。すると、いつも寝不足気味で頭がボーっとする。勉強ははかどらない。焦ってまた夜更かし……。結核を患ったのも不摂生が原因じゃないだろうか。
こんな反省から社会人になってから朝型を徹底してきた。今では早朝4時に起きて入浴と朝食を済ませると5時30分に出社する。
これは私個人のライフスタイルでしかない。でも、仕事のパフォーマンスが上がることは間違いないと思い、会社の制度に落とし込んだ。
私の働き方改革に当初はご批判もあった。ただ、失敗からの学びは明日への肥やしになると信じている。もちろんこれが完成形ではない。今後も社員たちと一緒により良い働き方を探していきたい。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】無料の朝食をとる社員(東京都港区の本社)
岡藤正広(24) ハイセイコー 進軍停止は社長の仕事 吉野家株売却で覚悟示す(私の履歴書)[2025/01/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
良くも悪くも伊藤忠商事は調子が良い時には歯止めが利かずに「それ行け、やれ行け」と進軍してしまう文化が残っている。ところがちょっと事業環境が悪くなると、一転してずるずると後退してしまう。その繰り返しだった。
古くは1960年代に石油ビジネスに乗り出すも、70年代の石油危機ですっかり経営の重荷に。バブル末期には財テクや不動産投資に手を出し、巨額の損失を生んだ。
その結果が、財閥系の後塵(こうじん)を拝し続ける万年4位だ。私はこんな体質を昭和の名馬、ハイセイコーに例えてきた。北海道に生まれ地方競馬を席巻したハイセイコーは、日本人の判官びいきもあって絶大な人気を誇った。三冠馬への期待が高まったが勝負のレースで3着に終わった。
肝心なところで財閥系に跳ね返される伊藤忠によく似ている。競馬ファンには怒られるかもしれないが、伊藤忠はいつまでもハイセイコーではダメだ。ここぞというレースに勝つためには浮かれずに実力をつけるしかない。
では、どうすればいいのか。私が考案した稼ぐ、削る、防ぐの「かけふ」改革。その中でリーダーシップが試されるのが「防ぐ」だ。撤退などのシビアな決断はリーダーにしかできないからだ。
就任1年目で、この点を自らに問うた。事業に関わらず「3期連続赤字なら撤退」のルールを徹底したのだが、改革が名ばかりではないと示すためにも、手を付けなければならない事案があった。西武百貨店から株式の20%を取得していた牛丼の吉野家ホールディングスだ。西武との提携の呼び水となった案件だ。
出資した当時、私は西武との連携プロジェクトに関わっていたが、吉野家については食料カンパニーが担当した。これが当初の狙いが大きく外れてしまっていた。
例えば、牛丼に使う牛肉とコメ、タマネギ、ショウガの調達を伊藤忠が担おうとしたのだが、すでに強固な調達ルートを持つ吉野家にとっては必要がない。安易に相乗効果を見込めると踏んだのは当社の方で、吉野家に非はない。
ほかにも伊藤忠内の金融事業と協力して「吉野家の店内にATMを置く」という案もあった。少し考えれば、ATM利用のために牛丼店に立ち寄る人はそうはいまいと分かりそうなものだが、机上の空論で計画を作ってしまったと言うほかない。
もはや伊藤忠が吉野家に20%を出資している意味はない。私は社長1年目で吉野家株の売却を決めた。
ただ、そもそも出資を西武と伊藤忠が頭ごなし的に決めたことを良く思わなかったのだろう。吉野家にはなかなか売却話を聞いてもらえない。どうしたものかと思案していたところ、たまたま会食したゼンショーホールディングスの方から吉野家株に興味があるとの話をいただいた。
「すき家」や「なか卯」を傘下に持つゼンショーは吉野家のライバルだ。20%もの株が渡っては一大事。結局、吉野家が引き取ることになった。
社内に目を移すと、やはり食料カンパニーの反発は大きかった。吉野家への出資は食料出身の丹羽宇一郎さんがまとめた案件。社内でも聖域化していた面が否めない。
だが、相乗効果を生まないなら将来の損失の温床になりかねない。早めに「防ぐ」に限る。無謀な進軍を止められるのは社長だけだ。
なお、7回目で当時の三井物産本社が東京・大手町とあるのは東京・西新橋の記憶違いでした。訂正いたします。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】吉野家への出資は頭ごなし的だった
(2000年9月9日の日経流通新聞)
岡藤正広(23) 蟹穴主義 負け癖 打破した「かけふ」 改革、小さな成功の積み重ね(私の履歴書)[2025/01/24 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1388文字 書誌情報]
稼ぐ、削る、防ぐで「かけふ」。社長就任前に自宅で五大商社の決算書に目を落としている際に浮かんだ言葉だった。これには当時の伊藤忠商事が置かれた状況が大きく影響している。今回はやや趣旨を変えて伊藤忠改革の構想を練る上で、なにを考えたかを振り返りたい。
伊藤忠は長年、業界で万年4位と言われていた。数字の上では良い勝負をすることもあるのだが、その思い込みが三菱商事、三井物産、住友商事の財閥系3社との差を実態以上に大きくしていた。
当時の業績はバブル末期に財テクに走ったツケを払った1990年代末と比べれば、そこまで悪いというわけではない。それだけに、私の目には現状に甘んじる空気が社内に流れているように見えた。
成長を期するなら、やはり財閥系に追いつけ追い越せだ。ただし、いきなりトップを狙えと言うと現実味が乏しく社員も本気にならない。身の丈をわきまえながら、もう一歩の努力で手が届きそうな目標をいかに作り、組織をそこに導けるか。これが私なりのマネジメントの極意だ。
ヒントとなったのが、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一さんが著書「論語と算盤」で説いた「蟹(かに)穴主義」だ。蟹は自分の甲羅の大きさに見合った穴を掘るのだという。身の丈にあった行動を取りながら、その甲羅を取り換えて成長していく。
会社の成長も蟹を見習うべきだ。万年4位の負け癖を取り除くには、小さな成功を積み重ねて社員たちに「やればできる」を実感させることが先決。リーダーに問われるのは、手が届きそうな甲羅のサイズをどう設定するかだ。
私が注目したのが売上総利益(粗利益)だった。すでに三菱に次ぐ2位。稼ぐ力は十分にある。だが、経費が大きく、これを差し引いた営業利益となるとガクンと落ちる。そこから特別損失などを引き純利益となると、住友を下回って4位になってしまう。
見方を変え、無駄を削り損失を防げば万年4位はすぐに返上できると考えた。
これが最初のターゲットだ。果たして就任から2年後の2012年3月期決算で純利益でも住友を上回り、万年4位からは脱却した。
その次の甲羅は「非資源でナンバーワン」。伊藤忠が財閥系に劣る資源分野を勝手に除いて対抗しようと考えた。恣意的な数値に基づく目標と言っていただいて結構。勝ち癖を付けさせるために選んだ新しい甲羅だった。
その先は純利益で初の首位。これは16年3月期に達成した。ただし、この時は財閥系が軒並み資源関連の損失を出し、「敵失」に助けられた面も否めない。本当の意味で財閥系と伍する地位を目指そうと掲げたのが純利益、株価、時価総額で首位に立つ「商社三冠」だ。20年6月、ついにこの高みに立った。
社長就任を前に奈良・学園前の自宅で構想を練った日から10年。この間の社員たちの奮闘を思えば、さすがに感無量だった。「万年4位からよくぞここまで」、と。
もっとも、次の甲羅への挑戦はこれからも続く。すべては伊藤忠の優秀な社員たちに持てる力を最大限に発揮してもらい、今より強い会社に、良い会社にするために。
もちろん、目標設定やかけ声だけで勝てるほど財閥系のライバルたちとの戦いは甘くない。少しずつ蟹穴を大きくしていくための実行計画こそが「かけふ」だった。次回から実際にどう戦ったのかを振り返りたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】渋沢栄一の肖像写真(深谷市所蔵)
岡藤正広(22) 会議、誰のため? 無駄が多く「会社潰れる」 手帳に記した9つの改革(私の履歴書)[2025/01/23 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1357文字 PDF有 書誌情報]
私には小さなポケットサイズの手帳に、その時々に思ったことを書き込む習慣がある。当時は「社長になったらやること」を思いつくままに書き込んでいた。
月刊の社内広報誌の見直しから始まり、業務改革など9項目にわたる。現場主義、率先垂範など心得的なものもあるが、「MBA中止」や「社員にクレームをつけさせる」という本当に制度に落とし込んだ項目もある。
そして「会議大嫌い」の一文――。そう、私は昔から会議が大嫌いだったのだ。大阪弁でいう「いらち」、つまり短気でせっかちな性格のせいかもしれない。ただ、昇進するほど会議に関する無駄がなんと多い会社かと痛感するようになった。
あれは丹羽宇一郎さんが会長だった頃だと思うが、丹羽さんが「お金はお客さんのところに落ちている。とにかくお客さんのところに行け」と話されていた。ごもっともなのだが「これだけ会議が多いのに、いつ客先に行けと言わはるんですか」とかみついたことがある。
会議で上司が発言するためにどれだけ多くの部下の時間を潰してしまっているか。例えば、毎週月曜午前に開かれていた各カンパニープレジデントと海外主管者による情報連絡会。あれは私が繊維カンパニーのトップだった頃のことだ。モスクワに出張に行くと、繊維出身の支店長が切実に訴えかけてくれた。
あるカンパニー出身の駐在員たちはこの会議のために1週間、ネタ探しに走り回っているという。モスクワだけではない。このカンパニーでは金曜になると東京が世界中から情報を集約し、月曜の会議でプレジデントが披露する資料を作っているのだという。
開いた口が塞がらないとはこのことだ。私も繊維のプレジデントとしてこの会議に参加していたが、まずは自分で情報収集して分からないことがあれば担当者に直接聞いていた。
確かに、このカンパニーのトップは世界中の情勢に精通しているという調子で見事なプレゼンをしていた。だが、自分の話が終わればホッとしてしまい、他部門の話などロクに聞いちゃいない。
「こんなことをやっていたら会社が潰れる」
本気でそう思った。社長になるとすぐにこの情報連絡会の時間を短縮した。続いて毎週月曜開催から月1回に。ついには廃止してしまった。年に1度、3日かけて開催していた特別経営会議も半日に圧縮した。
もっと重要なのは、会議を実りあるものにするため上司に予習を課したことだ。議題を事前に把握して上司が仮説や結論を持って臨めば会議は報告の場から意思決定の場に変わる。それだけで生産性がどれだけ向上するか。
会議の削減は一例だが、こういった無駄な仕事を徹底的に削るという実に地味な作業から私なりの経営改革は始まった。削るだけではない。無駄な損失を防ぐ、そして稼ぐ力を最大化していく。
稼ぐ、削る、防ぐ――。略して「かけふ」。これが経営改革の合言葉だ。
「岡藤さんは大阪出身だから、やっぱり阪神タイガースのファンなんですね」
今までに何度も聞かれた。「まあ、そんなところですわ」と曖昧に答えたこともあったが実は野球にはあまり関心がない。単に語呂がいいから「かけふ」にしただけだ。ただ、覚えてもらいやすいキャッチフレーズとなり、個人的にはとても気に入っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】ポケット手帳に改革案を書き込んだ
岡藤正広(21) 伏魔殿 「東京のモン」に不信感 自信持てず創業者の墓参り(私の履歴書)[2025/01/22 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1389文字 PDF有 書誌情報]
2010年4月に社長に就任し、一家で東京にやって来た。会社からは特に事前の説明もなく、何時に自宅に社用車が来るのかも分からない。
社長室に通されても広い空間で、なんとも居心地が悪い。部屋から出ると隣の部屋から秘書が飛び出してきた。
「なんで俺の動きが分かったんや」
そう思ったのもつかの間。社長室のトイレに入って部屋に戻ると、机の上の書類が整理されていた。わずかな時間のことだ。「あれ? どこかで誰かが俺のことを見てるんか……」。試しにもう一度トイレに行ってみた。すぐに部屋に戻ると、席には新しい書類が置かれているではないか。これを見てゾッとした。
「やっぱり監視されとる。ここは伏魔殿や!」
私の「東京本社=伏魔殿説」を決定づけたのが、このしばらく前の出来事だった。
副社長だった私は、東京の人事制度委員会の委員長に指名された。全社の人事制度を見直そうと議論百出の末に新制度案がようやくまとまったのが金曜のこと。後は週明けに取締役会で提案するだけ。そのまま大阪に帰った。
ところが月曜朝に東京に来てみると、なぜか従来の制度が併記されていた。何日もかけて議論してきたことがどこへやら……。後で分かったことだが「犯人」は先輩にあたる人事担当役員だった。自分が作った制度を「外様」の私に変えられることが恥だとでも思ったのか、両論併記するよう人事部長に命じたという。これにはカッとなった。
「こんなアホなことがあるか。ええ加減にせえ!」
取締役会で真正面に座る当時社長の小林栄三さんにも「やってられませんわ」とかみついた。こんな調子だから「東京のモンは信用でけへん」という思いが強くなった。
やや話は変わるが、私は社長就任翌年から毎年、創業者である初代伊藤忠兵衛さんの墓参りに京都まで通っている。最初は「無事に任期を全うするため力を貸してください」とお願いした。それほど自信がなかったのだ。
ここで告白すると、もともと京都通いは忠兵衛さんの墓参りが目的ではなかった。
尊敬する大先輩である堀田輝雄さんと、お世話になったミラ・ショーンジャパン元副社長、鍛冶正行さん。お二人の墓がそれぞれ京都の寺にあり、ずっと以前から毎年通っていた。忠兵衛さんの墓も京都にあるので、「伊藤忠のトップとしてお参りしないと失礼だ」と思い、毎年訪問するようになった。
ただ、今では忠兵衛さんへの報告は大切な時間だ。20年6月には墓参りの翌営業日に株価が三菱商事を抜き、悲願だった純利益、株価、時価総額での「商社三冠」を達成した。これも忠兵衛さんのお力添えかなと思ったものだ。
だが、やはり直接薫陶を受けた2人の恩人への思い入れは、まったく別物だ。
堀田さんは私が入社した時の衣料部門のトップ。雲の上の存在だったが、親子ほど年の離れた跳ねっ返りの私をかわいがってくれた。鍛冶さんはもともとあるデパートの部長だったのだが、私が駆け出しの受け渡し時代にマージャンに誘ってくれたものだ。全国のデパートを行脚しては「岡藤君のことをよろしくお願いします」と頭を下げてくれた恩は、忘れることはない。
そして現在――。墓参りの目的は感傷に浸ることではない。恩人たちに伊藤忠の成長を約束し、結果で報いると誓うことだ。「東京は伏魔殿」などと言っていられない。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】創業者の墓参は続けている(京都市)
岡藤正広(20) 社長指名 避け続けた東京行き 母の涙によみがえった記憶(私の履歴書)[2025/01/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
「岡ちゃん、春から東京に来てもらえないか」
あれは2008年初めのことだ。社長の小林栄三さんから電話がかかってきた。正直、嫌だなと思った。大阪で繊維一筋の私にとって、東京・青山の本社の印象は「伏魔殿」。どうせ嫌がらせをされるのだろうな、と。
ここは知らぬふりを決め込んでやれと、まともに返事もしなかった。特にお沙汰もなく、ホッとしていたのだが、1年後にまた小林さんから「前の話だけど、東京に来てほしい」との電話を受け取った。この時も同じような調子でやり過ごそうとしたら、小林さんの口調が変わった。
「今回断ったら永久に東京には来れないよ」
覚悟を迫るような声だったが結局、大阪本社に代表権を持つ者が常駐する必要があるという話になって、またしても私は東京行きを逃れた。
そこまで東京行きを嫌がったのには理由がある。大阪を拠点に繊維業界では名が知られるようになっていた私だが他の部門のことはまったく知らず、海外駐在の経験すらない。それに、伊藤忠商事では業務部がエリートコースとされてきた。営業マンとして現場の最前線を走り続けた私には無縁の話だが、所詮は「国内で繊維しか知らないヤツ」という見られ方だ。
「どうせ社長になるわけでもないし、東京なんか行ってられるかい」
またしても無視を決め込んでいた私だったが、小林さんからの電話の数カ月後に、大阪に出張に来ていた丹羽宇一郎会長から「一杯飲もうか」と、ホテルのバーに呼び出された。なにごとだろうと駆けつけると、思いもしないことを告げられた。
「君が社長をやれ」
そして翌10年2月10日。またしても小林さんから電話がかかってきた。「急で悪いけど明日、東京に来てくれ」
指定されたのはニューオータニのすし店「久兵衛」。小林さんは秘書にも言わずに一人で来るという。保秘を徹底するためだ。「岡ちゃんも一人で来るように。車じゃなく電車でな」とクギを刺された。もはや用件は明らかだ。
「岡ちゃんな、今から言うことにノーはないよ。社長をやってほしい」
私にはまだ迷いがあった。
「僕にできますかねぇ。自信がないですわ」
謙遜ではなく、偽らざる本音だった。すると小林さんは「大丈夫。僕も最初はそうだったから」と、ご自身の経験を話してくれた。もはや断りようがない。
社長に決まり多くの方々から「おめでとう」と言われたが、個人的にはめでたくもなんともない。ただ、一度だけ「良かった」と思えることがあった。小林さんに会うため東京に向かう日の朝。奈良の自宅で身支度を済ませ新聞を読んでいると、同居するおふくろが寝床から起きてきた。
「祝日やっていうのにまた出張?」
「いや、俺なぁ、これから社長の指名を受けるんや」
そう返すと、おふくろが大粒の涙を流した。
ふと、古い記憶がよみがえる。結核を患い人前に出ることさえ臆していた20歳の頃。暗闇から這(は)い出る思いで東京行きのきっぷをつかんだ。そういえば、あの時もおふくろは涙を浮かべていたっけ。
その日からちょうど40年。自分なりに精進を続けてきたつもりだ。人生の影の側にいたあの時の自分とは、もう違う。「これも親孝行なのかな」。そう考えた社長指名の日の朝だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】社長就任会見で(右は小林栄三氏、2010年2月)
岡藤正広(19) 縦割り組織 立ちはだかる社内の壁 弊害の打破、今なお試行錯誤(私の履歴書)[2025/01/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1359文字 PDF有 書誌情報]
2000年、伊藤忠商事は西武百貨店との資本業務提携を決めた。丹羽宇一郎社長(当時)の肝煎りプロジェクトなのだが、1998年に出資したファミリーマートに続く小売業への進出だった。
そこで作られた「SIプロジェクト推進室」。西武のSに伊藤忠のIを冠した新組織の室長に任命された。結局、西武の経営危機が深刻化し、組織は1年5カ月で終わったが、多くの学びがあった。
と言っても、あまり良い意味ではない。最大の学びは当社にはびこる縦割り組織の弊害が見えたことだ。幅広い商材を扱う百貨店に対応しないといけないのに、社内の各部署との調整がいちいちめんどくさい。
さらに縦割りの弊害を痛感する出来事が重なった。ちょうどこの頃に繊維部門の部下が契約を取り付けてきたディーン&デルーカ(D&D)の日本展開だ。ニューヨーク発の高級デリカテッセンで、おしゃれなお菓子や気の利いた小物なども取り扱っている。
なぜ繊維部門が食品の小売りかというと、「これからは衣類だけでなく、生活総合産業を目指そう」という方針を打ち出していたからだ。
私は繊維にも籍を残していたので真っ先に相談を受けた。まずは西武に共同運営を持ちかけたがあえなく却下。すかいらーく創業者のご子息と協力することで落ち着いた。
そこまでは良かったのだが、ここで社内に存在する縦割りの壁が立ちはだかった。
「なぜ繊維がそんなことを」。かみついてきたのが食料カンパニーだった。これには「ブランドビジネスの一環」で押し切った。
妥協案として食料カンパニーがコーヒー豆をD&Dに納入することになり、早速社内で人の目がつく場所にコーヒー売り場を設けようとしたのだが、売り場が置かれたのは本社1階の隅の空きスペースだった。当然、まったく目立たない。食料カンパニー内でファミリーマートとの競合が問題視されていたからだ。
それにもうひとつ、私が籍を残していた輸入繊維部をブランドマーケティング部に改名しようとした時のこと。またしても待ったがかかった。
反対する3つのカンパニーに直接、説明に回った。あるカンパニーのトップは冗談ぽく「これは貸しだよ」と言ってくれた。部署名の変更くらいでも、社内の理解を得るのはひと苦労だった。
この時の教訓をもとに19年に新設したのが第8カンパニーだ。繊維や機械、金属など業種別に分かれた従来の7カンパニーに次ぐ異業種横割りを前提とする新組織だ。
ここでもうひとつ、SI室での学びが頭にあった。
こういう横断組織を作る際、人選を各カンパニーに委ねるとエース級は集まらないということだ。実際、SI室には転職を公言しているような人たちも集められていた。優秀でやる気のある人材を集めるため第8カンパニーには立候補を募った。
こうして縦割り打破の仕組みを作ったつもりだが、どうしてなかなか……。部署間の利害調整は思った以上に難題だ。23年に「グループCEOオフィス」を作って私自身がその役割を引き受けたのだが、仕事は増えるばかり。
「縦割り打破なんて永遠に無理なんとちゃうか」と思うこともある。でも、やっぱり諦めてはいけない。今日も自分を奮い立たせ、より良い仕組みを作れないかと試行錯誤を続けている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】繊維部門でディーン&デルーカを始めた
岡藤正広(18)裏切りのM&A 高額で入札、なぜ逃した? 不良資産見抜けず残る教訓(私の履歴書)[2025/01/19 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
私は数々の欧州ブランドを日本に持ってきたが、とりわけ思い入れが強かったのが仏ランバンだ。若い頃からずっと憧れだった。
2001年、そのランバンの日本の権利が売りに出たという情報が入った。交渉は一発で決めた。交渉の最中に相手の目の前でMOU(覚書)を手書きしていく。合意すればその場でサインを求めた。
実は、これは私の常とう手段だ。合意事項の証拠をその場で残す。簡単なものの方が相手もサインしやすいから手書きにする。英語で箇条書き。文面は前日までに想定して頭にたたき込んでおく。
教訓にしたのが以前に触れたトラサルディとの交渉だ。昨日と今日では話が違っており、何度も煮え湯を飲まされた。そんなことがないようにと考えたのが「その場で手書きのMOU」だった。
やはり交渉ごとはキチッと手順を踏み、そのたびに内容を精査するのが王道だ。その意味で記憶に残るのが三景という会社の買収だ。その過程で不可解な事態に直面しただけでなく、最後には背筋がゾッとすることがあった。
産業再生機構の支援を受けていた三景への入札が05年1月に始まると、当社も手を挙げた。実は以前から三景の経営者から「助けてほしい」と言われていたのだが、機構傘下に入ったため手続きに従い入札することになった。
三景は一般的には無名だが服の裏地やボタン、芯地で圧倒的な国内首位。ただ、不動産投資に失敗して経営が傾いていた。当社にとっては是が非でも欲しい会社だが、実におかしな結果となった。
当社が最終的に提示した金額は180億円。だが、MKSパートナーズというファンドが160億円で落札した。
なぜ20億円も高い当社が落とされたのか。理由を聞くと「伊藤忠はガバナンスが強すぎる」と返ってきた。どうやらMKSが三景の経営陣の保身を約束したようだ。
選考過程には今でも納得できない。機構の責任者はあるファンドの出身と聞いたが、同じ業界の「身内」を優先したのか。いずれにせよ不透明な理屈に閉口した。もっと公明正大であるべきだろう。
そもそも助けを求められていた私はハシゴを外された格好だ。救済依頼書を取っておくべきだったが後の祭りだ。
それだけではない。最初の入札で落選した東レが、2次入札に進んだ当社になんと、共同で応募しないかと持ちかけてきた。社長は伊藤忠から出していいからとも。東レの前田勝之助名誉会長からの打診だが「今さら何を」、だ。私は無視を決め込んだ。
「この業界で東レの前田さんに歯向かってやっていけると思っとるんか!」。おかげで上司からはえらい剣幕で怒鳴られ、東レの新年会には呼ばれなくなったのだが。
こうして逃した三景だが、実は3年後に106億円で手に入れた。三景が巨額の不良資産を抱えていたことが発覚し、ピンチに陥ったMKSが再び売りに出すという、なんともお粗末な結末だった。
3年余りでのタナボタ的な買収劇だが、喜んでばかりはいられない。この不良資産の存在には我々も全く気づいていなかったのだ。
もし、あの時に裏切りにあわなかったら多大な損失を被ったのは当社だろう。査定が甘かったと反省している。
意中の会社をより良い条件で手に入れたわけだが、結果オーライでは済まされない。ビジネスの世界では一寸先は闇。そんなことを教えられた買収劇だった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三景の商品を視察する筆者(左)
岡藤正広(17) 我が親分 突然の人事撤回に憤慨 告げ口に翻弄、腹割って話す(私の履歴書)[2025/01/18 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1391文字 PDF有 書誌情報]
1992年4月、我がアパレル第三部に新しい部長が赴任してきた。貿易畑のエースと言われた加藤誠さん。米国からの帰任だった。本当は別の重要ポストへの起用がほぼきまっていたが、ジョルジオ・アルマーニとの契約更改を任された。加藤さんの本意だったかどうかは分からない。
私には、社内で白い目で見られながらもブランドビジネスを切り開いてきた自負がある。もし、ともに戦う気概もなく腰掛けのつもりなら到底、受け入れられない。
それを知らしめようと歓迎会の司会を買って出た。冒頭でこう挨拶するためだ。
「我々は加藤さんを歓迎しません。ここに骨をうずめる覚悟を持っていただきたい」
宴席が凍り付いたが、杞憂に終わった。加藤さんは我々の部に骨をうずめる覚悟をお持ちだったからだ。
伊藤忠の繊維はどうあるべきか――。互いの自宅がすぐ近くで、お客様との会食後にタクシーの中で熱く語り合ったものだ。ある件で加藤さんが落ち込んでいた時には激励会を開き、こんな言葉を刻んだオブジェを贈った。
「加藤さんはいつも、我々の親分です」
誰が見ても盤石の二人三脚だと思ったはずだし、事実そうだった。この人とならブランドビジネスの未来を描ける。上司として、人として、全幅の信頼を置いていた。
ところが一度だけ、ちょっとした行き違いがあった。
2000年から繊維カンパニープレジデントになった加藤さんは、早い時期から「岡藤を僕の後任にするから」と話すようになった。加藤さんは9歳も上なので異例の人事なのだが、私が仕事でこだわるのは結果であり、肩書ではない。「ああそうですか」と素っ気なく答えていた。
それよりやるべきことがあった。ある時、私は加藤さんから大きな問題を抱えたふたつの組織の再建を頼まれた。いずれも私の担当外なのだが繊維カンパニーにとって看過できない状況だったので大ナタを振るうことになった。
すると両組織のトップが加藤さんに泣きついた。「岡藤君は厳しいです」と。自分たちの責任は棚に上げて年下の私にメンツをつぶされたと考えたのだろう。ただ、この2人は加藤さんの元部下だった。情も深い。加藤さんにも迷いが生じたのかもしれない。
突然、加藤さんからこう告げられた。「君はこれからもっと経験を積んで後々に大きくなってほしい」。後任人事の約束を撤回して加藤さんの「次の次」にするという意味だと、私は受け取った。
夜になるとなぜか悔しくて眠れない。翌朝、加藤さんの部屋に駆け込んだ。
「僕は加藤さんを信じてやってきた。なのに、こんなバカなことはないですわ」
社内の地位など、どうでもいい。そんなことより信用を踏みにじられたと思った。
加藤さんはじっと耳を傾け、私の真意を理解してくれた。「そんなに心配することはないよ」。そう言って約束を守ってくれた。
妙な話を蒸し返したが、私にも落ち度がある。結果さえ出せば良いだろうと、事前の相談や報告を怠っていた。大いに反省するところだ。それに、ああまで感情的になることもあるまい。
この一件で学んだ。信頼する人との間でさえ、ささいなことで人間関係は壊れかねないということ。そして、ここぞという時には腹を割って話すべきだということ。失いたくないものがあるのなら。
それも我が親分が黙って受け入れてくれたからだ。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】加藤誠さん(右)とは固い絆で結ばれた
岡藤正広(16) アルマーニ 商談の決め手は節税術 耳疑う情報、つないだ縁(私の履歴書)[2025/01/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1380文字 PDF有 書誌情報]
どうすればファッション界の巨人、ジョルジオ・アルマーニにたどり着けるか。私には心当たりがあった。
1986年7月、私は銀座にあった「たい家」という料亭である人物の送別会を開いていた。アントニオ・グイゼッティといって、イタリアから経団連に派遣されていた。彼はベルガモという街の名家の出らしく、日本のことを見下すような言動にうんざりすることもあったが、この日は別の目的があった。
「帰国したら俺と組まないか。もうけさせたるぞ」
「なにをやろうと」
「アルマーニや。イタリアに帰ったらアポを取ってもらえへんか」
しばらくするとアントニオから連絡が入った。9月にアルマーニの最高幹部が会ってくれるという。
実はここまでに伏線があった。この前年、私はイタリアのトラサルディとの商談に臨んでいた。創業者のおいで実権を握るニコラ・トラサルディが住んでいたのはミラノから車で1時間ほどの場所にあるベルガモだった。
お城のような豪邸にニコラが現れたかと思うと「首相から電話が入った」と言って10分ほどで姿を消してしまった。いくら待っても部屋に戻ってこない。結局、日付も変わろうかという時間になって交渉が再開し、なんとか合意にこぎ着けた。
「ちゃんと清書するから明日またサインしに来てくれ」
「そんなモン、さっさと作ってくれよ」と思いつつ、真っ暗な道を車を飛ばして渋々ミラノに戻った。ほとんど寝る時間もなく翌朝また豪邸に。秘書から渡された契約書を見てギョッとした。
前夜に合意した内容と全く違うではないか。怒りが込み上げてくるがグッとこらえた。その後も何度もベルガモに通って販売戦略などの詳細を詰めていった。
記者発表直前のことだ。ニコラから「日本のことは彼と話を進めてほしい」といってある人物を紹介された。それがアントニオだった。ベルガモではトラサルディ家と並ぶ名家の出身だという。しかも、彼の父はやり手のコンサルタントでイタリアのファッション業界に太いパイプを持っていた。この縁をアルマーニにつなげたのだ。
「アルマーニが海外進出の際に最も関心を持ちそうなことを調べてほしい」。私がこう依頼すると興味深い情報が舞い込んだ。なんと、最大の関心事はマーケティング戦略や広告、店舗展開などではなく節税なのだという。
「ほんまかいな」と耳を疑ったが確かだという。これに賭けようと日本の税制に関して詳細にまとめた100ページ超の提案書を作成した。
そして交渉の席。ミラノにある荘厳な建物に案内された。そこに現れたのがジュゼッペ・ブルゾーネだった。後にアルマーニを世界に広めた実力者だ。その彼に交渉の席でひたすら節税術を説いたのは、なにか滑稽な感覚がした。
実はアルマーニには競合の総合商社だけでなくアパレル企業や百貨店、ゼネコンまで10社近くが接触していたという。我々より良い条件を提示した会社もあったと聞いたが、こちらの勝利に終わった。
「商人は水であれ」が私の持論だ。お客さんに合わせて変幻自在に形を変えよという意味だが、御用聞きに徹すればいいというわけではない。どこに付加価値を見いだし主導権を確保するかが商人の腕の見せどころ。この時は節税対策を示しつつ、当社にとって価値ある契約に落とし込めたと思っている。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】アルマーニを手掛けた1986年当時
岡藤正広(15) 三井の背中 「利は川下にあり」を学ぶ 商売に不可欠な主導権に道筋(私の履歴書)[2025/01/16 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1404文字 PDF有 書誌情報]
私がオーダーメードシャツの一件にこだわったのは、もちろん東京シャツとの約束があったからだが、もうひとつ理由があった。
「なにか違うことを」と考え続けた駆け出し時代。サンローランで始めたブランドビジネスはようやく見つけた突破口だった。社内ではまだ懐疑論があっただけに、折れるわけにはいかなかった。
それに、サンローランに続いて数々の有名ブランドとのライセンス契約をまとめる中で、私は商社マンとしてこう確信するようになった。
今後の商社の商売で不可欠となるのは、付加価値とイニシアチブ(主導権)だ。
メーカーの言うがままにモノの流れを差配して口銭を得るビジネスでは、いつ仕事を切られるか分からない。だが、伊藤忠にしかできない付加価値があれば、お客様にメリットがある上におのずと取引の主導権はこちらに移る。
この発想には実は、モデルが存在した。私が常にライバル視してきた三井物産だ。
彼らが一流たる所以(ゆえん)は財閥という箔だけではない。取引先の御用聞きに終わることなく、人気の海外ブランドと直接契約して問屋に紹介する一方、直営店も展開していた。三井にしかできない商売であり、主導権が生まれる。
「利は川下にあり」は後に私の持論となるが、三井はずっと先を行っていた。その違いに気づいた私は、三井の繊維部門で敏腕を振るう鈴木正隆さんを徹底的に研究するようになった。私より5歳上で、後に副社長になられた方だ。その考えを学ぼうと、なじみの業界紙に対談を設定してもらったくらいだ。
ただし、三井と同じことをやってもダメだ。三井が海外ブランド品の輸入に強みを持つのなら、我々はライセンス契約を結びデザイン監修を受けた日本製の商品を売るビジネスモデルだ。こうして巨人・三井とも差別化する道を見つけた。
ところで、私がいつも財閥系商社へのライバル心を語るからだろうか。大学卒業の際にある文集に「三菱商事三井物産殲滅(せんめつ)」と書いたということが、まことしやかにメディアで紹介されてきた。これは事実ではない。
それに財閥系の三菱・三井といっても、この頃の私が追い続けたのは繊維の川下ビジネスに強い三井だ。というより鈴木さんの背中だった。
強大なライバルを追いかけるうちにブランドビジネスに確信を持つことになった私は、次なるターゲットを見つけた。世界トップと言っていいジョルジオ・アルマーニだ。
ここで告白しよう。
実は、アルマーニとの交渉のきっかけとなったのは営業マンとしてのビジョンでもなんでもない。私の心に芽生えたちっぽけな反骨心だった。
「ブランドビジネスとか言うてるけど、そんなモンはしょせん『耳』にブランド名をつけるだけでええ生地やからできることやろ」
イタリア帰りの先輩がわざわざ私の席に来て、こんな嫌みをぶつけてきた。服だと生地のように簡単にはいかないぞと言いたいのだろう。
その先輩が飲み会の席などで吹聴していたのが「世界の3G」の話だ。ジョルジオ・アルマーニ、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ、ジャンニ・ヴェルサーチは格が違うのだとか。中でも頭ひとつ抜けているのがアルマーニだという。
「それやったら俺がそのアルマーニやらと話を付けて見返したろうやないか」
こんな屈折した感情がビッグディールの発端だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】三井物産・鈴木正隆氏と対談した(1998年2月25日付の繊研新聞)
岡藤正広(14) 理不尽な圧力 業界の雄を「敵に回すな」 門前払いでも通い続けた池袋(私の履歴書)[2025/01/15 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1397文字 PDF有 書誌情報]
紳士服の生地にイヴ・サンローランの名を冠して売る商売は、すさまじいまでの勢いを見せた。当時は一度の商談で20反売れるかどうかのところ、400反ほどが売れた。まさにケタ違いだった。
サンローランだけではない。エマニュエル・ウンガロ、ピエール・カルダン、セリーヌ、ミラ・ショーン……。この後、私は次々と欧州ブランドからライセンス契約を取り付ける。サンローランで開いたブランドビジネスは、新たな形に派生することもあった。
「岡藤さんがやっているサンローラン。うちでやらせてもらえないでしょうか」
問屋経由で東京シャツからこんな相談が舞い込んだ。この会社はそごう系列にルートを持っているのだが、ライバルの早稲田屋がオーダーメードシャツで仏ディオールと組んだ。「このままだと追い落とされかねません」。悲痛な訴えだった。対抗策としてサンローランのシャツを出せないかという。早速、サンローランにも話を付けた。
ここで思わぬ横やりが入った。オンワード樫山から猛烈なクレームが入ったのだ。西武百貨店からの依頼で「オーダーシャツの販売をやめてもらえないか」と言う。西武は当社の繊維部門とは接点がなく、業界の雄である樫山を頼ったのだ。
西武はサンローランの既製シャツの窓口だったが、伊藤忠商事が直接契約したことに衝撃を受けたようだ。
ただ、厳密に言えば契約の内容は異なる。西武が担当し、樫山にサブライセンスを供与していたのは既製シャツだ。一方、我々の契約に基づいて東京シャツが扱うのはオーダーメードなのだが、西武は脅威と感じたのだろう。
「お前は悪くないけど相手は西武とオンワードや」。当社の役員からはこう言われた。デパートとアパレルの両雄を敵に回すなという意味だ。だが、私も東京シャツの期待に応える責任がある。商人としての信用に関わる問題だ。どう考えても理不尽な圧力に屈するわけにはいかない。
「少し時間をください。西武と直接話してみます」
こうして東京・池袋のサンシャインビルへの日参が始まった。事務所で面会を申し込んでも一向に会ってくれないが、諦めたら終わりだ。私の営業の師である峠一さんなら、何ごともなかったかのようにまた訪問するだろう。
週に1度、伊丹空港から空路で東京に通う。すぐに週2度に。羽田から池袋に向かう道すがら、浜松町駅の地下でサンドイッチを食べるのが習慣となった。すっかり顔なじみになった喫茶店のおばちゃんとの何気ない会話が一息つける貴重な時間だった。
商人は諦めてはいけない。その一念で通い続けた。
2カ月ほどが過ぎたある日、扉は突然開いた。こちらも顔なじみになった受付の女性が、「お待ちしていました」と言う。応接室に通されるとダブルのスーツに上品な雰囲気の紳士がいた。
「何度も来ていただいたようで……」。そう言いつつ、妥協案を提示してくれた。サンローランのラベルの位置を襟からスソ裏に回してもらえないかと。これで一件落着。スソ裏ではお客様の目に触れない。当然、周囲から反発もあったが、ここは実利を取るべきだと説き伏せた。
この一件から私は3つのことを学んだ。たとえ相手が巨人でも筋を通すこと。交渉ごとでは100%にこだわらずに利を分かち合うこと。最後に、自分から諦めてはならないということ。いずれも今も社員たちによく話すことだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】国内外を走りまわった
岡藤正広(13) 天国から地獄 「このままでは帰れない」 サンローランから解約通告(私の履歴書)[2025/01/14 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1355文字 PDF有 書誌情報]
英国中部の街、ハダースフィールドは世界三大毛織物産地のひとつに数えられる。ここで高級毛織りメーカーを回って200反ほどを仕入れるとパリに飛んだ。この生地をイヴ・サンローランに承認してもらい日本で売るためだ。
意気揚々と訪問したサンローランのオフィス。ここに大量の生地を並べて交渉相手の登場を待った。
しばらくするとデザイン部門を取り仕切るピエール・レヴィを筆頭に7~8人ほどがずらずらと登場した。あいさつを済ませ並べた生地を見てもらったのだが、なにやら雲行きが怪しい。
「ちょっと席を外します」
そう言うと全員が退席した。10分くらいして戻ってくると、一方的に告げられた。
「例外的ですが、契約を打ち切らせてもらいます」
これには耳を疑った。どういうことだと問いただすと我々が持ち込んだ生地を指さして「どれもイヴ・サンローランのテイストではない」と言うではないか。再考を促しても頑として聞かない。いったん引き下がるしかなかった。
「話が違うやないか。どないなってるんや!」
同行した上司が烈火のごとく怒り始めた。私には反論の余地もない。「お前がなんとかせえ」とだけ言い残して、上司は帰国してしまった。
私はパリの安ホテルに一人残された。意気揚々だった先日までと違い、狭く薄暗い部屋に思える。やることがないのでベッドに寝転んで打開策を考えるが妙案が浮かばない。まさに天国から地獄に突き落とされた心境だ。
私は功を焦りすぎたのだろうか。とんとん拍子で契約がまとまったと思った時には、成功を確信した。それがこのザマだ。食事も喉を通らない。出張予算はとっくにオーバーして手持ちのフランはどんどん減っていく。
「このままおめおめと帰るわけにはいかない」
そんなことを思いながら異国の地でベッドから天井を見つめるだけの日々が、1週間ほど続いた。
気になるのがサンローランの心変わりの理由だった。「うちのテイストではない」と言った意味はなにか。
こちらのテイストを押しつけているのではないか。そう考えると合点がいく。「サンローラン」を打ちだそうとするあまり、クセの強いガラを選んでしまっていたのだ。
サンローラン側が突然、「心変わり」した原因はこれじゃないだろうか――。では、どうすればいいか。ストライプなどの柄物については販売元となる三喜商事には諦めてもらい、残る無地や落ち着いた生地をサンローランに認めてもらえないか。
翌日、再びサンローランのオフィスを訪れた。カシミヤも混ぜて高級感を出した無地を中心にするが、柄物もいくつか認めてもらえないか。そう再提案すると渋々認めてくれた。三喜商事も納得してくれた。これでどうにか帰国することができる。とても成功だとは思えず、なんとか形にできてホッとしたというのが正直なところだった。
帰国して迎えた商談会。会場となる大阪・瓦町の三喜商事本社ショールームを訪れると、私の顔を見るなり女性スタッフが声をかけてくれた。
「サンローラン、よう売れてますよ!」
それを聞いて隣に立つ峠一さんと目が合った。無言でガッチリと握手。「二人で日本一になろう」。いつかそう語り合った青くさいストーリーが動き出した瞬間だった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】英国も回った(1980年、右が筆者)
岡藤正広(12) サンローラン 展示会で突然ひらめく 紳士服の生地、決めるのは女性(私の履歴書)[2025/01/13 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1395文字 PDF有 書誌情報]
帝国ホテルのホールに所狭しと並べられた生地の数々。ここで一般の消費者に直接選んでもらってオーダーメードのスーツを作るのだという。
脇に目をやると確かに、お金持ちという風貌の男性がテーブルに座り、展示会を主催する英国屋の営業マンがなにやら話しかけている。それにしても、こんなに山のようにある生地の中からどうやって選ぼうというのだろうか。
そう思いながら観察していると、お金持ちは営業マンの話など聞いてはいない。すると2人の女性がそのテーブルに近づいていった。男性の奥さんと娘さんのようだ。
「パパ、この生地がいいんじゃない」
「んん……、そうかなぁ」
そう言って男性はその場でスーツの生地を決めてしまった。その様子を目の当たりにした私は、突然ひらめいた。
「これや! 男はスーツの生地なんか全然見てへん。女の人が決めてるんや!」
この時にひらめいたアイデアが、紳士服用の生地にいかにも女性が好みそうなブランドの名前を付けて日本で売る、というものだ。ブランド側とはライセンス契約を結んで名前を使わせてもらう。
これなら問屋にお伺いを立てるような従来の商売とは違い、伊藤忠が主導権を握ることができる。「なにか違いを」と考え続けてきたからこそひらめいたのだと思う。
同行した峠一さんにこのアイデアをぶつけると、「女性受けするブランドやったら三喜商事に聞いてみたら?」と返ってきた。これは居ても立ってもいられない。私は大阪に帰るなり三喜商事に足を運んだ。応対してくれたのは創業者の堀田(ほりた)一社長だった。
「紳士服の生地に女性が好むブランド名を付けたら売れるんやないでしょうか」
私がそう言うと、堀田さんは黙って聞いてくれた。普通なら「なぜ男性用の紳士服に女性が好むブランドを」と疑問に思うはずだ。私がその意図を英国屋の展示会で見た風景を交えながら説明すると、堀田さんは理解してくれた。
「ええアイデアやな」
そう言いながら、こう付け加えられた。
「それやったらイヴ・サンローランや」
このひと言で、フランスの高級ブランドであるサンローランをターゲットとすることに決めた。社内で説明しても「なにをアホなことを言うとるんや」と相手にされなかったが、もはや私の耳には入らない。繊維部門のトップ、堀田輝雄常務(後に副会長)が大いに関心を持ってくれたことも心強かった。
果たしてサンローランに出した提案書に対する返信が届いたのは、それから1カ月ほど後のことだった。「検討してもよい」と書かれていた。交渉はとんとん拍子に進み5年契約でまとまった。
こうして動き始めた大型プロジェクト。英国で生地を買い付けてサンローランからブランド使用の承認を得るため、欧州に飛ぶことになった。その直前には当社の堀田常務と三喜商事の堀田社長による共同記者会見が開かれた。
場所は東京・銀座のマキシム・ド・パリ。広告費などを含め、2000万円の予算を使った食事を取りながらの豪華な会見を、私は誇らしげに眺めていた。当時の課の年間利益は7000万円だから大盤振る舞いだ。周囲に取り残されていた私が、アイデアひとつで誰もやってこなかったビジネスの扉を開いたのだ。
この時、フランスで試練が待ち受けているとは、知るよしもなかった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】イヴ・サンローランに着目(中央が三喜商事の堀田一社長。右が筆者)
岡藤正広(11) 一流半の扱い 「いつか日本一になる」 三井物産に猛烈な対抗心(私の履歴書)[2025/01/12 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
伊藤忠商事と取引する英国産毛織物のエージェント、峠一さんとの二人三脚もすっかり板についてくると、私は上司の飯田洋三さんから課された「お前はしゃべらずにメモだけとっておけ」という命令をいつからか免除されるようになった。自分で戦略を立てて客先を回る営業という仕事は、面白かった。
「岡さんはなにか新しい商売を作ってな」
「よっしゃ! 俺は日本一の商社マンになってみせるから、峠さんは日本一のエージェントになってくれよな」
2人してこの業界で天下を取ってやろう――。私たちは酒が入るとこんなことを熱く語り合うようになっていた。なんとも青くさい青春の1コマだが、それもこれも社会人になって自信を失い大きく出遅れてしまっていた私に、商人としての基本をたたき込んでくれた峠さんのおかげだ。
ただし、日本一の頂は遙(はる)かに遠い。そんな現実を突きつけられることが度々だった。
1970年代末の当時、反物を納めるため問屋を回る商社マンの仕事は実に泥臭いものだった。伊藤忠のほか専門商社4~5社が集められると「今回の取引はお前のところにしといたる」といった調子でどこかが指名される。
選ばれる理由は反物の良しあしというより、接待で使った店が気に入ったというようなたわいもないことばかりだった。お客さんの中には、我々商社に対して「使ってやっている」という態度を露骨に見せる人も少なくはなかった。
「こんなんでええはずがない」。駆け出し営業マンの私は、この隷属的な関係を変えられないかと考え続けた。そんな時に見せつけられたのが、名門財閥の力だった。
ある時、先輩から教えられた。「うちは三喜商事と商売してるからサン・フレールとは無理やぞ」。両社は業界の1位と2位。確かにそれが商売の常識なのかもしれない。
ところが、三井物産は堂々とどちらとも取引しているではないか。我々が仕事を与えられる会合にも顔を出さない。同業者に理由を聞くと、「三井は一流やけど伊藤忠は一流半と思われてるからですよ」と一笑に付された。
この頃から、私の中で財閥系への猛烈な対抗心がふつふつと沸きあがってきた。
「三井なにするものぞ」
ただ、なぜ三井はどちらとも取引できるのか、なぜ繊維に強いはずの伊藤忠が一流半の扱いなのか。
答えは単純だった。三井は海外の有名ブランドと直接契約し、日本の問屋に紹介していた。自ら主導権を持ち、我々同業他社にはない付加価値を作っていたのだ。仕事をもらうために接待を競い、同じ時間に同じ場所に集められる我々とは似て非なる商売をしていたということだ。
ならば、私もなにか「違い」を示す商売ができないものか――。そう考え続けていた頃のことだ。
当時は毎週、峠さんと東京に出張していた。ある金曜日の夕方、あと一軒回ったら伊丹行きの最終便に急がないと。そう考えていると、峠さんがこんなことを言った。
「明日、英国屋の生地の展示会があるんやけど、せっかくやから岡さんも一緒に行かへんか」
生地の展示会なんて面白くもないし、わざわざ土曜を潰すのもなぁ。そう思ったが断れなかった。
「そうやなぁ……、ほな行ってみよか」
ここで私は成功への手掛かりを見つけたのだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】日本一の商社マンを目指した若手時代
岡藤正広(10) 営業の師 「水のような商人」が手本 黙って学び、新しい商売探す(私の履歴書)[2025/01/11 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1333文字 PDF有 書誌情報]
「1年間は峠さんについて、お客さんの前では一切しゃべらずにメモだけ取れ」
課長の飯田洋三さんが私の指導役に指名した峠一さんは伊藤忠商事の社員ではない。栗原という、当社とは付き合いが長い英国産毛織物のエージェントの人だった。つまり、飯田さんは社外の人に私の教育を託したのだ。
「そこまで信用されていないのか」。落ち込まずにいられないが、これが私にとっては幸いだった。
峠さんは高校を出てしばらくぶらぶらしているところを、近所に住んでいた栗原の創業者に拾われるようにして繊維業界に飛び込んだ。年齢は私より3つ上だが、営業マンとしてはすでに豊富な経験を持っていた。
飯田さんが認めるだけあって、峠さんはやり手の営業マンだった。見た目はずんぐりむっくりで目がギョロリ。いかにも愛嬌(あいきょう)がある。商談にのぞんでも相手をなだめすかすのがとにかくうまい。
ちょっともめ事があって相手が怒っていてもかわいげのある言い方でやり過ごし、怒りが冷めるのを待つ。すると絶妙なタイミングで反物の見本を取り出し、「こんなんもあるんですけど、どうでっしゃろ」とひと言。相手は「まったく、あんたにはかなわんな」と話に乗ってくる。
「なるほど、これはうまい」。言い回し、間の取り方、勝負をしかけるタイミング、それになんと言っても相手の心をつかむなんとも言えないしぐさ――。そのどれにも毎度、感心させられた。
黙ってメモを取るだけと言われて最初は屈辱だったが、隣でペンを走らせるうちに徐々に峠さんの話術の妙が理解できるようになってきた。
私はよく「商人は水であれ」と言う。お客さんの要望にあわせて水のようにどんな形にでも姿を変えてみせるのが商人のあるべき姿だと思うからだ。峠さんはまさに「水の商人」だった。それに、とにかくお客さんが欲しいと思うものを先回りして用意する人だった。
私は経営者になってから、口を酸っぱくしてマーケット・インの発想を持てと社内で説いてきたが、その範を示してくれていたのが峠さんだったのだ。
単に話の持っていき方がうまいだけではない。峠さんはとにかくしつこい人だった。一度や二度、断られたくらいで引き下がらない。何ごともなかったかのように何度でも客先に出向くのだ。これは後々に私も実践したことだ。
こうして私は社外の営業の師から商売のイロハを教えられた。
同い年と比べ入社が2年遅れている上、営業の現場に出たのは入社5年目。すでに30歳が目前に迫る。最高の師を得たとはいえ、焦りがなかったと言えばになる。
周回遅れで商売の才能がないと思っていた私は、どうすればここで生き残っていけるのか。ずっとそんなことを考えていた。周囲と同じようなことをしていてはダメだ。
峠さんと同じでもいけない。実は、師匠の峠さんからも「岡さんはなにか新しいことをやってくれ。新しい商売を作ってくれな。フォローは俺がするから」とよく言われたものだ。
なにか違うことを――。探し続けても、その答えが見つからない。そうして1年余りが過ぎた。突破口は不意に現れた。きっかけをくれたのはほかでもない、峠さんだった。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】峠一さん(左)に営業のイロハを学んだ(右が筆者)
岡藤正広(9) カバン持ち 「お前はしゃべるな」 念願の営業異動、屈辱の命令(私の履歴書)[2025/01/10 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1325文字 PDF有 書誌情報]
入社5年目を前にしたある日のこと。課長の飯田洋三さんに大阪・梅田の中華料理店に呼び出された。
「岡藤君、次は必ず営業に出すからな」
私が本意ではない受け渡し担当にずっと「塩漬け」になっていることを、これまでも飯田さんは気にかけてくれていた。この時点で4年。社内外での評判も悪く、もう営業には縁がないと思っていた。もっと正直に言えば、自信がなくなっていた。
翌日、課の面々が集められた。飯田さんが「岡藤君も受け渡しが長いからそろそろ……」と言うと、なんと私の教育担当だった先輩が真っ向から反論した。
「岡藤君はこの業界の営業には向いていないと思います」
すると、飯田さんの隣に座る人が「そうですね」と追随するではないか。飯田さんは「そうは言ってもなぁ」と困った様子だったが、結局は私との約束を守って営業行きの人事を通してくれた。
すっかり自信を失っていた上に、ここまでハッキリと否定された私は「なんとかしたい」と思った。これがまた良くなかった。皆さんの前で挨拶をする際に、業界トップの取引先を例に挙げてそことの商売で「一番を取りたいと思います」と宣言したのだ。
私としては単に抱負を語ったつもりだったが、その問屋を担当している先輩にとっては、努力が足りないと言われているようなものだ。実際、顔に泥を塗られたと受け取ったという。こんな気遣いもできないのは、私が未熟だったと言うしかない。
ちなみに、私にとって最初の上司である飯田さんは、その後も繊維部門でずっと私の上にいた。上司というだけでなく、深く尊敬する人だった。
思えば、私はずっと飯田さんの背中を見てきた。時に励まし、時には叱ってくれた。
後に私が海外ブランドとの契約を次々とまとめて結果を出し始めた頃のことだ。私は自分でも気づかないうちにすっかりテングになっていたのだろう。ある時、飯田さんから封書を渡された。
開くと独特の毛筆で「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と書かれていた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の私のことを、ああやってたしなめてくれるのは飯田さんだけだった。あの自信喪失の4年間もずっと近くで見てくれていたことを知っているので、この書を見た時には大いに反省したものだ。
その飯田さんは営業でも上司となる。初日に呼び出されると、こう命じられた。
「これから1年間、お前は峠さんについて回れ。一緒にお客さんのところを回るんや」
つまりお目付け役が付くということだが、それだけではなかった。
「お客さんの前では、お前は一切しゃべらんように。ノートにメモだけ取っておけ」
これでは営業マンというよりカバン持ちだ。だが、飯田さんからの厳命だ。屈辱でも受け入れるしかない。ここで認められないと今度こそ社内で居場所を失ってしまう。念願だった営業部門での仕事は、こうして始まった。
ただ、今になって飯田さんの親心がよく理解できる。私一人だとお客様とぶつかると懸念されたのだろう。そして、幸運に思う。私の指導役に指名された峠一さんは、私にとって最高の先生であり、自信を失っていた私をいっぱしの商人にしてくれた人だったからだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】営業の師となる峠さん(中)と(右が筆者)
岡藤正広(8) お先真っ暗 「会社人生は終わるんか」 苦悩救ってくれた問屋の番頭(私の履歴書)[2025/01/09 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1342文字 PDF有 書誌情報]
私の最初の仕事は受け渡しという。紳士服の生地を輸入して問屋に渡す。その裏方を差配する。物流、通関、出荷売上金の受け取り。いずれも事前に取り決めているはずが、すんなりとはいかない。問屋が約束通りに生地を引き取らず在庫管理をこちらが負担するのは日常茶飯事。代金の支払いも実にルーズだった。
「契約は守ってください」
問屋にクレームの電話を入れると、「そんな杓子(しゃくし)定規なこと言うて、なんやねん」と返ってくる。
「契約は契約です。それが嫌でしたら最初から契約書にそう書いてください」
若い私はなれ合いというものを認められず、いつもこんな調子で返していた。大阪の繊維業界は狭い。あっという間に「融通が利かんし生意気」という評判が広まった。
問屋からのクレームは契約をまとめる伊藤忠の営業マンにも入ってくる。社内でも「堅いことばっかり言うなよ」とクギを刺されるが、私は折れる気になれなかった。
あうんの呼吸も理解できない頭でっかちの使えない若造――。いつしかこんな評価が定着していった。すると強気だった心が折れそうになる。
「ここは長いものに巻かれるのが得策では……」。サラリーマンとしての処世術というやつを、自分も身につけるべきか。そんなふうに思うと、仕事が手に付かなくなる。心に魔が差して負けそうな自分が、そこにいるのだ。
受け渡しは4年目に突入した。社内外の私への評価は「扱いづらいヤツ」で固まっている。希望する営業はおろか、このまま社内で居場所を失ってしまうんじゃないか。いや、どうやらすでに失っているようだ。
もうお先真っ暗。忘れていたはずの劣等感がよみがえってくる。「俺の会社員人生はこんなところで終わるんか」
そう思い詰めていた時のことだ。なぜか伊部という問屋に足が向いた。「見本を届けに来ました」と適当に理由を付けた記憶がある。
店に入ると、村上真さんというこの問屋の大番頭のような人がいた。私は話しかけるでもなく暗い顔でうつむいていたはずだ。なにかを察してくれたのだろう。
「ちょっと行きますか」
村上さんが声をかけてくれた。近くの居酒屋のカウンターに並んでビールをひとくち。私は思わずこぼした。「僕、先が見えないんです」
会社も年代も違う跳ねっ返りの若造の身の上話に、村上さんは耳を傾けてくれた。しばらくすると、村上さんは出来の悪い教え子を諭すように、こう言った。
「そういう時は変に先を見たらあきまへんで」
村上さんが例に出したのが、入荷の時期になると倉庫に山のように積まれる反物の話だった。一反ずつ服に必要な長さにカットして伝票を付けては出荷していく。一反でスーツ20着分。気が遠くなるような作業を黙々とこなすのが問屋の仕事だという。残業代の代わりに出される素うどんをすすりながら。
「仕事というのはそういうもんでっせ。初めから先ばっかり見たらあかんのですよ」
この言葉が胸に突き刺さった。「俺はなにを勝手に将来のことばかり悲観して塞ぎ込んでるんや。目の前の仕事に集中せんで、なにがプロや」
目が覚めるとはこのことだ。村上さんがついでくれたビールをぐいっと飲み干す。胸に染み入る味がした。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】受け渡し時代。そろばんで計算している
岡藤正広(7) 世間知らず 「岡藤は使えない」 配属初日、瀬島龍三副社長を批判(私の履歴書)[2025/01/08 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1362文字 PDF有 書誌情報]
今思えば世間知らずも甚だしい若者だった。
就職活動の際に希望したのは商社だった。最初に受けようと思ったのは住友商事。大学時代を2本のジーンズで過ごした私はスーツを持っておらず、この日もジーンズで面談へと向かった。場違いなのは自分の方なのに「なんか雰囲気が堅いなぁ」と思い、そのまま帰ってしまった。
ただ、本命は別にあった。「やっぱり商社といえば三井物産や」。意気込んで東京・大手町の本社に向かったのだが、アポなし。しかも居候していたビー玉工場の娘さんから借りた日産サニーを無断で駐車場に止めたことを注意されて逃げ帰ってしまった。
残るは丸紅と伊藤忠商事。おふくろが大阪で暮らしていることもあり、大阪勤務が可能な伊藤忠に決めた。
なんとも場当たり的な就職活動だが、そもそも商社を希望したのもおふくろが「商社やったら、海外勤務したら家が建つらしいよ」と言っていたことがきっかけだ。もっとも、私は社長になるまで大阪一筋。ほとんどの商社マンが経験する海外勤務とはついぞ縁がなかったのだが。
こうして伊藤忠の門をくぐった私は希望通り繊維部門に配属された。大阪・本町にあった当時の堂々たる本社ビルに足を踏み入れた時には誇らしい思いだったが、配属初日からやらかしてしまった。
大会議室での新人お披露目会。居並ぶ先輩たちを見ていると、なぜか「ここは一発カマしたれ」と思ったのだ。
「瀬島龍三さんは大本営の人。言ってみれば戦犯じゃないですか。これから会社が世界に打って出て国に尽くそうっていう時に、そんな人が経営を担っていて、皆さんはそれでいいんですか」
その場の空気が凍りついた。瀬島さんは戦時中、大本営で参謀として南東太平洋戦線の作戦を担当した元エリート軍人だ。終戦後は11年もの間、シベリアに抑留されたが帰国を果たすと伊藤忠に入社した。政官財の各界に分厚い人脈を持っていたそうで「昭和の参謀」とも呼ばれた人だ。私が入社した1974年には副社長として経営の中枢を担われていた。
そんな大物を新人がいきなりコキ下ろしたのだ。あの時は「ここは目立たなアカン」と妙な気負いがあったのだろう。その狙いだけは的中した。良い意味ではないのだが。
「なんやあいつは! あれはアカとちがうか」
瞬く間にこんな噂が広がった。そのせいか入社直後の海外留学の面接ではあっさりと落とされてしまった。もし余計なことを言わずにこの試験に合格していたら、私も他の同僚のように海外に派遣され、その後の会社員人生も大きく変わっていただろう。
配属された輸入紳士服地課で、私に割り振られた仕事は受け渡しだ。海外などから取り寄せた商材を顧客に渡す。
単純な仲介業務に見えるが、船や航空機の手配から倉庫での在庫管理、それに手形の入金などやることは多い。裏方的な仕事だが商売の基本を学べるため、多くの商社マンが一度は経験する。
ただし、その多くが1年ほど。商社と言えばやはり世界を飛び回る営業マンとのイメージが強い。
さあ、来年こそ営業の現場に出てバリバリと商談をまとめてやろう――。若い私は出番を待っていたのだが、1年たっても2年たってもお声がかからない。次第に私への辛辣な評価が聞こえてきた。
「岡藤は使えない」
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】就職先は商社を希望していた
岡藤正広(6) 駒場寮 ビー玉工場で一目ぼれ 居候先、家庭教師の代役の代役(私の履歴書)[2025/01/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
同級生より2年遅れながら、晴れて私は大学生になった。初めて暮らす花の都、東京。結核も治り、止まっていた時間が動き始めた。
ただ、住まいには面食らった。仕送りを受けずに自弁だったので、生活費を切り詰めようと東京大学の駒場寮に入ることになった。割り振られたのは5人部屋で、板敷きの部屋がカーテンで仕切られている。入り口には「インド哲学研究会」と書かれていた。
ずいぶんとアカデミックな部屋だなと思ったのもつかの間。その実態は学生運動のアジトだった。毎晩、ドカドカと見知らぬ人たちが部屋に入ってきて、次の闘争がどうとか話している声が聞こえた。
学生運動といえば、私にとっては1浪の時に東大受験のチャンスを奪われた記憶が真新しい。そもそも興味がなかった。5月になって部屋替えが可能と聞くと、真っ先に申請した。割り振られたのは、ハイキングサークルの部屋だった。政治色は皆無。私にとっては居心地がよかった。
仕送りがないので自分で稼がないといけない。割がいいのは、やはり家庭教師だ。すぐに見つかったが、商人のタマゴとしての知恵を働かせたのは大阪に帰省する際のことだろう。モノは試しにと朝日新聞に夏休み限定での家庭教師の広告を載せてみた。
「当方東大生。夏季特訓英数理」。たったの2行だ。当時、大阪ではまだ東大生は珍しかったのか、実家には電話が相次ぎ、そのたびにおふくろに取り次いでもらった。
サークル仲間のお茶の水女子大学の寮には自販機がないと聞き、日本コカ・コーラと掛け合って自販機を置かせてもらったこともある。売り上げの一部を得るためだ。
こんな調子なので東京での生活は、何に困るということもなく過ぎていった。
3年生になって駒場寮を出ないといけなくなっても、亀戸のビー玉工場に居候させてもらって住まいを確保した。家庭教師として通った工場なのだが、その教え子が高校3年だった時、数3を教える必要に迫られた。私は文系だから勉強していない。さて、どうしたものか。
「お茶の水大のサークル仲間に理系の子がいたっけ」。代役をお願いすると快諾してくれた。ところがある日、先約があってどうしても来ることができないという。
「そこをなんとか……」
しつこくお願いしたところ、同じ数学科の友達を代わりに送ってくれるという。こうして、家庭教師の「代役の代役」としてビー玉工場にやって来た彼女に、私は一目ぼれした。玄関を開けるとシャイな彼女は下を向きながら入ってきたのだが、その姿に息をのんだ私は一方的に「この人と結婚するかも」と思ったのだ。この数学女子、黒河有子と私は後に本当に結婚することになった。
時は1970年代前半。石油危機が日本を襲い、卒業を目前に控えた73年秋には高度経済成長も終わりを迎えた。それでも結核に耐え続けたあの浪人生活を思えば、なにも苦にはならない。
私は意気揚々と社会人生活を始めることになった。あの時に私が入り込んだ「影」はもう、自分とは関係のない世界だ。そう思っていた。
それが、またしても周囲から取り残されたという劣等感と戦うことになろうとは……。友人の姿がまぶしすぎて思わず閉じた扉。今度こそ自分の力であの扉を開いてみせる――。若き葛藤の日々が、また始まった。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】大学時代に妻(左端)と出会った(隣に筆者)
岡藤正広(5) 結核 痩せ細り強烈な劣等感 2浪の末に東大合格、母の涙(私の履歴書)[2025/01/06 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
高3秋の健康診断で肺に白い影が見つかった。小さい頃に患った肺炎の影響だろうと軽く見ていたのだが、時間がたつと首の腫れがひどくなってくる。病院に行くと頸部(けいぶ)リンパ腺結核と診断された。
「もう受験はあきらめなさい。命の方が大切やろ」。医者からは、そう告げられた。
でも、そんなに簡単に諦めるわけにはいかない。東大に行ってここから抜け出すしか道がない。おふくろを楽にするためにも。
医者からはずっと入院するよう勧められたが、定期的に通院することを条件に自宅療養を許してもらった。東大受験へのラストスパートをかけるためだ。
ところが、机に向かっても体がしんどくて仕方がない。体重も52キロにまで落ちてしまった。あっという間にげっそりと痩せ細っていくのが、自分でも分かった。
結果は、なすすべもなく不合格。もう進学は諦めるべきなのだろうか。思い詰めておふくろに「僕、大学に行ってもええんかな」と聞くと、「なにを言うてるの。そんなことは心配せんでいい」とひと言だけ返ってきた。それを聞いた時に「俺にはもう、これしかない」と意を決した。
それから1年。思いもしない結末が待っていた。
折からの学生運動が激しさを増し、年が明けて1969年になると東大紛争のドタバタが頂点に達した。安田講堂に立てこもった学生たちに、警官隊が放水するシーンをテレビで見た時にはがくぜんとした。直後に東大は入試を中止することを決めた。
もはや東大以外の道は私の頭の中にない。戦わずして2浪が決まってしまった。
この間も、結核は私の体力を奪い続けていた。療養しながら自宅で勉強を続けていたある日の出来事が、今でも忘れられない。
外出しようと玄関の扉を開けると、向こうから近所の友達が歩いてきた。よく晴れた日のこと。野球で鍛えた彼の浅黒くてたくましい表情が、やけに輝いて見えた。私はとっさに扉を閉めてしまった。
薄暗い玄関に隠れて彼が通り過ぎるのを待つわずかな時間……、惨めだった。
俺はなんでこんなところに隠れているんだ。そう思うが、扉を開けられない。俺はこんなに痩せ細ってしまい、何者にもなれないままだ。そう思うと彼の姿を直視できない。強烈な劣等感が押し寄せてくる。
この世界には光と影が存在する。あの時、間違いなく私は影の側にいることを思い知らされた。
こんな私を励まそうと、ある友人が新聞記事を持ってきてくれた。そこには、歴史に名を残し大成した人物の多くは若い頃に大病を患うか親を亡くしている、という趣旨のことが書いてあった。彼の気遣いは今思い出しても胸がじーんと熱くなる。
こうして迎えた東大受験の日。「これが最後」。そう思って臨んだ試験会場には、直前まで確認しようと使い込んだ参考書を持ち込んだ。尊敬する高校の同級生、吉川雄二君の兄から譲り受けたものだ。今も大切に保管している。
そして合格発表の当日。結果は電報で送られてくるのだが、友人が現地で確認して電話をかけてきてくれた。「岡藤、名前あったぞ!」。受話器を握る私の目の前にはおふくろがいた。
「通ったで」。短く告げるとおふくろの目から涙がこぼれた。ホッと肩の荷が下りる思いがした。ついに、私の行く手に光が差したのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】高校時代は友人にも恵まれたが試練があった(手前左端が筆者)
岡藤正広(4)目標は同級生 「彼のようになりたい」 受験直前に父急死、一家の危機(私の履歴書)[2025/01/05 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
私は小学6年で生まれ育った舎利寺から東大阪の花園に引っ越したのだが、学校は越境でそのまま通っていた。中学校も舎利寺小から進む大阪市立生野中学。現在のことは分からないが、60年以上も前の当時は学力レベルが高いとは言えない学校だった。
小学校の頃は成績がトップだったから「中学でも余裕やろう」とタカをくくってしまったのが間違いだった。どんどん成績が落ちてやる気がなくなる。ただ、3年生になるとそうも言っていられない。
そんな時に「すごい奴が転校してきた」という噂が校内に広がった。なんでも、瀬戸内海の小さな島からの転校生らしいが、いきなり1000人いた学年で1位。さらに大阪の中学生にとって定番の五ツ木の模試でも大阪府で1位になったという。
塩見俊次君というその転校生に聞いてみるとすでに高校の勉強を始めているというではないか。インターネットなどない当時のことだ。小島に居た頃から独学だったのは間違いない。話してみると言葉の端々からなんとも言えない自信が伝わってくるのだが、それでいて嫌みがない。
「こんなにすごい奴がいたのか……」。彼我の差の大きさに打ちのめされる一方、初めて他人に「追いつきたい」という思いが芽生えた。
絶対にかなわない。だからこそ「俺もこんなふうになりたい」と思うようになり、猛勉強を始めた。おかげで彼には追いつかないまでも模試では大阪府で3位にまで成績を上げた。この時、もし彼に出会わなければその後の人生は大きく違っていたのではないか。高津高校にも進んでいなかっただろう。
高津高校は学区一の進学校だった。塩見君は違う高校に進学したのだが、いくらなんでも彼ほど優秀な奴はいないだろうと思っていたら、いたのだ。それが吉川雄二君だ。彼のことは今でも尊敬しているし、彼との出会いこそが、本当の意味で私の人生を変えたと思っている。
成績は極めて優秀で現役で東京大学に進んで医者になるのだが、そんなことより会話の次元が違った。
中学の時から大江健三郎やマルセル・プルーストに親しんでいたらしく、さりげなく大作家の話が出てくる。文学だけでなくポアンカレ予想の話をされた時は「ついていけない」と思ったものだ。そんな小難しい話をしても、塩見君と同じように嫌みがない。
またもや自分がちっぽけに思えるのだが、努力さえすれば追いつけないまでも、今の自分よりも先に進めるはずだ。それは中学の頃に塩見君から教えられたことだ。
こうして私も吉川君と同じく東大を目指すようになったのだが、ここで人生で初めて大きな試練に直面する。
あれは受験が迫った高3の12月のことだ。ある日、おじさんから電話がかかってきた。家を飛び出して一人で暮らしていたオヤジが亡くなったという。くも膜下出血だった。長年の行き過ぎた飲酒がたたったようだ。
オヤジのことは今も反面教師だと思っている。短気で手が早い。でも、お人よしで憎めない。なかなか短い言葉では言い表せない。
おふくろは慣れない事務の仕事を始めていたが、生活が苦しくなることは火を見るより明らかだった。だが、試練はオヤジの急死にとどまらなかった。
「俺が東大に行ってこの状況を変えてみせる」
そう決意した自分自身の身に、病魔が迫っていたのだ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】中学・高校で目標とする友人と出会った
岡藤正広(3) 手抜き工事 つかまされた欠陥住宅 「将来は大企業に」母の願い(私の履歴書)[2025/01/04 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1324文字 PDF有 書誌情報]
オヤジは飲んだくれだった一方で、人から頼られると断れないお人よしの一面もあった。それが理由か、詐欺まがいのもうけ話にたわいもなくひっかけられることも度々だった。幼い私にとっても忘れられない事件がある。
小学6年の時のことだ。その年、我が家は私が生まれ育った大阪市生野区の舎利寺から東大阪市の花園に引っ越していた。知人から声をかけられてオヤジが2階建ての文化住宅を一棟丸ごと買うことになり、我々も1階の一室で暮らすことになったのだ。
この家がとんだ災難のもとだった。住んでみて分かったのだが壁は薄く隣室の会話は筒抜け。2階の人が部屋を歩くと天井がミシミシと音を立てる。「なによ、この安普請は……」。おふくろはよく嘆いていたが我慢するしかない。しばらくして安普請では済まないことが発覚した。
9月半ばに第2室戸台風が大阪を襲った。猛烈な風が吹き始めると天井からバリバリという大きな音が伝わってきた。「はて、なんやろ」。そう思っていると何かが上からドスンと落ちてきた。
「ここにおったら危ない。早く逃げよう」。4歳下の弟も連れて一目散に外に飛び出した。幸いにも向かいには建築中の家がある。こちらは鉄筋で頑丈だ。私たちはその駐車場に逃げ込んだ。しばらくすると、目の前の我が家が音を立て始めた。瓦が飛び屋根がはがれていく。
私たちはぼうぜんとその様子を見つめるだけだ。後で分かったことだが、まともに天井の梁(はり)が通されていないことが原因だった。オヤジは手抜き工事の物件をつかまされたのだ。
ちょうどその頃、近くの駅の前に住友銀行(当時)の独身寮ができた。もちろん手抜き工事の文化住宅とは比較にならない立派な建物だ。ある時、近所のおばさんたちが井戸端会議で「あそこにはエリートばっかり住んでるらしい」と話しているのを、おふくろが耳にしたそうだ。
こんなこともあってか、おふくろは私と弟にはしきりに「将来は大企業のサラリーマンになるんよ」と勧めるようになった。「そうなったら借金取りに追われることもないしなぁ」
一方で、小さい頃には口数が少なかった私だが、小学校高学年になるとやんちゃ仲間も増え、よくみんなでいたずらしたものだ。線路に忍び込んだり、仲間が万引きしたせいでおまわりさんから「ブラックリストに載るぞ」とおきゅうを据えられたり。
ただ、勉強はよくできる方だった。これには両親に感謝しないといけない。いつもケンカばかりの2人だが、教育熱心という点では一致していた。小さい頃から隣の珠算教室に通っていたおかげでそろばんが得意。6年生の時に受けた知能に関するテストでは学年で1位だった。
お山の大将でしかないのだが、すっかりテングになってしまったのが良くなかった。中学に入ると成績はどんどん落ちていった。
ところが、ここで幸運が待っていた。自分よりずっと優秀で「俺もこんな人間になりたい」と思う同級生に出会えたことだ。それも中学、高校と続けざまに。
振り返ればこの頃から、私はいつも誰かの背中を追い続けてきた。心の中に芽生えた劣等感や憧れを前へと進む力に変えて、その先にある「こうありたい」を求めて。(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】弟と(右が筆者)
岡藤正広(2) 鶴橋 夫婦げんかに耳塞ぐ 父の成功と変貌、反面教師に(私の履歴書)[2025/01/03 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1330文字 PDF有 書誌情報]
バタバタと響くオート三輪のエンジン音。荷台に並ぶリンゴ箱。その中のひとつに、膝を折り畳んで座っていた。周りの箱には山盛りの野菜が並んでいる。物心がついた頃の、遠い記憶の中にある原風景だ。
車が止まってしばらくすると、それまで頭上を覆っていた幌(ほろ)が開く。目の前にはリンゴ箱に並ぶ野菜を買い求める人たちの顔が並んでいる。
「まーちゃん、そろばんや!」
威勢の良いオヤジの声が飛ぶ。実家の隣のそろばん教室で鍛えた暗算を私が披露すると、驚くお客と自慢げなオヤジの表情が同時に目に入った。そのたびに、私はなんだか気恥ずかしくてうつむいていた。
父の秀雄は戦争から帰ると大阪で野菜の行商を始めた。母の喜代子と出会い、1949年に私が生まれた頃は働き者だったという。だが、私はそんな父の姿をよく覚えていない。
オヤジが仕入れに通う市場は自宅から車で10分ほどの鶴橋にあった。大阪のコリアンタウンとして知られている。今でも闇市だった頃の面影を色濃く残す庶民の街だ。
小さな建物が密集し、駅前の商店街にはアーケードもあるため昼でも薄暗い。オヤジのような商売人たちの威勢の良い声が途絶えることがない。露天に並ぶキムチや焼き肉のにおいが鼻孔を突く。オヤジはここで野菜を仕入れて近隣に売り歩いていた。
私が小学校に入った頃からだろうか。学校から帰ると、いつもおふくろが気難しい表情を浮かべていた。
「まーちゃん、行くよ」
そう言うと鶴橋に連れて行かれたものだ。行き先はスナック。「うちの人が来ませんでしたか」。おふくろが懇願するようにママに尋ねると、「いらしてませんけど」とつれない返事が返ってきた。
「この人も商売なんやから、客のことなんか正直に言うわけないやん」。子供ながらに内心でそう思ったものだ。夕方になると何軒もハシゴして飲み歩くオヤジをつかまえようとするおふくろの姿が、ふびんでならなかった。
働き者のオヤジが変わってしまったのは小さな成功が原因だった。当初は街の人たちに野菜を売っていたが、次第に食堂に卸すようなり、ついに大丸のレストランとの商売にこぎ着けた。すると、日銭を手にしたオヤジは酒に溺れるようになったそうだ。
それからというもの家では夫婦げんかが絶えなくなった。夜になると泥酔したオヤジがおふくろに手を上げ、激しく言い争う声が聞こえてくる。もめ事の原因はいつもオヤジの浪費だった。お金を手にすると、きれいさっぱり飲み代に使ってしまうのだ。ケンカが始まると、幼い私はいつも布団の下で耳を塞いでいた。早く終われ、と。
そんな家庭環境のせいだろうか。小さい頃の私は口数が少なく、絵を描くと全体にうす暗い色彩だったらしい。子供らしくない絵を描くことを心配したおふくろが絵画教室に通わせたくらいだ。
ただ、どんな環境にも学ぶことがある。今にして思うのは、我が家の転落から経営者としての戒めを学んだということだ。あの時のオヤジが反面教師。その教えとは、うまくいっている時ほどそれを継続させるための努力を怠ってはいけないということだ。
いきなり暗い話になってしまったが、これが偽らざる私の原点だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
【図・写真】少年時代には口数は少ない方だった
岡藤正広(1) 田蓑橋 命の危機に見た景色 「自分を変えたい」が原動力に(私の履歴書)[2025/01/01 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1326文字 PDF有 書誌情報]
なぜだろうか。目を閉じるとあのシーンが鮮明によみがえってくる。
大阪・中之島。病室の窓から見下ろすと、堂島川にかかる田蓑橋(たみのばし)を歩く人々の姿が見えた。2月の寒風が吹きつけている。ホームレスらしき男はうつむきながら、ゆっくりと歩を進めていた。
「どこにでも自由に歩いて行けるって、あんなええもんやったんやな」
この時ばかりは心底、こう思った。耳の病気がたたって脳に及ぶ可能性があると指摘され、緊急入院することになった。1991年のことだ。この時、私は41歳。まさに働き盛りを迎える時期だ。
鳴かず飛ばずで「このまま会社員人生が終わるのか」と悲観した駆け出し時代。念願の営業に配属されると「1年間は一切、商談の席で話すな」と命じられ、ひたすらノートを取った屈辱の日々。
鬱憤を跳ね返そうと、30歳になって誰もやらなかった商売を切り開いた。イヴ・サンローラン、トラサルディ、ジョルジオ・アルマーニ……。ヨーロッパ中を駆け回ってファッション業界の大物たちと話を付け、次々と日本に持ち込んだ。
毎日が、実に慌ただしく過ぎていった。駆け出しの頃にはなかなか希望がかなわず、営業の第一線に出るのが人より遅れた。その私がいつの間にか繊維業界で一目置かれるようになっていたのは、今でも不思議な感覚だ。
そんな毎日が、突然止まった。病室の時間というものは世の中から取り残されたような感覚を助長する。「このまま終わってしまったら……」。恐怖が押し寄せる。
あの時もそうだった。高校3年で結核に侵され、医師からは「命の方が大事」と大学受験を諦めるよう促された。「もしかしたら、このまま……」。ガリガリに痩せ細った18歳の私は、病室の天井を眺めながら絶望感とひとり戦っていた。退院してからも、同世代の気力あふれる姿を直視できない自分がいた。
結局、いずれの命の危機も事なきを得た。41歳のこの時はたった20日間の入院生活。病院から出るとまた商談に追われる忙しい毎日が始まった。あの田蓑橋の風景を思い出すこともなくなっていた。社長・会長として伊藤忠商事の経営を預かるようになってから今年で15年。あっという間に過ぎゆく日々の中で過去を振り返るヒマもなかったというのが率直なところだ。
なのに、なぜあの風景がよみがえってくるのだろう。
私の原動力はいつの時代も人に劣後する自分を変えたいという思いだった。結核を患った青春時代も、商社マンとしての駆け出しの頃も、財閥系の強大なライバルたちの背中を追う今も。
どうせ書くなら成功譚(たん)を自慢げに振り返るようなものではつまらない。そもそも私はまだ現役だ。功成り名を遂げたというわけでもない。
その奥にあった迷いや葛藤、時に襲う絶望。私を支配してきた感情とちゃんと向き合うものにしたいと思い、筆を執った。
ところで、私は社長になるまで大阪一筋。今もコテコテの大阪弁で話す。文字にすると多くの方々は読みにくいだろうから、本稿は基本的に標準語とする。セリフは大阪弁が丸出しになってしまうと思うけど。
これから1カ月、ひとりの商人の等身大の歩みを赤裸々に再現していきたい。
(伊藤忠商事会長CEO)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
ジェラルド・カーティス(30) 日米関係の行方 トランプ氏再選で「不確実」 日本は独自の戦略・未来像を(私の履歴書)終[2024/12/31 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
大みそかの今日、来年に思いをはせる人びとの心情を最もよく表す言葉は、日米とも「不確実さ」ではないだろうか。内政でも外交でも、両国がどう変わるかは見通しにくい。
過激な変革を掲げて返り咲くトランプ前大統領は不法移民を国外に追放し、多くの政府機関の力を削(そ)ぎ、規制を大幅に減らし、兆ドル単位の歳出を削るという。
外交では関税を引き上げて自由貿易から「米国第一」への転換を急ぎ、戦後の「世界の指導者」の役割を減らす。政権が終わる4年後の米国の姿を予想するのは難しい。
日本の政治も大きな節目にある。1955年からほぼ政権の座にあった自民党は今や少数与党で、野党の同意なしには法案も通せず、政権の維持も危うい。石破茂政権がいつまで続き、次にどんな政権ができるかは、やはり誰も確信をもてずにいる。
ただ安定した自民党支配体制の土台は、長きにわたり侵食されてきた。その復活は考えにくく、当面、政治は揺れ動くだろう。その後、政党の再編で新しい時代に順応する体制が生まれるかは不明だ。
こうした不確かさにもかかわらず両国の行方は、慎重ながらも楽観している。
まずトランプ氏は強い大統領にはなっても、何もかも思い通りになる独裁者の誕生を米民主主義は許さない。
過激な変化を起こすのは容易でなく、政策への批判が高まれば、国民の支持と称賛を求めるトランプ氏は案外早く軌道修正するかもしれない。成果が出なければ2年後の中間選挙で民主党が挽回し、ブレーキをかけられる。
外交面でも関税を強力な武器だと信じるトランプ氏は、これを存分に使い各国に譲歩を迫るだろう。標的の筆頭は中国で、貿易戦争の危険は高まる。ただ両国とも深刻な対立は望んでおらず、どこかで手打ちを探るはずだ。
トランプ氏は日本にも防衛費の増額などを迫るに違いない。だが日本が過剰反応せず、冷静かつ巧みな外交を心がければ、長い歴史に培われた日米関係はそう簡単に揺らぐまい。絶望は不要だ。
日本の大きな問題はトランプ氏が日本に何を求めるか、ではない。彼の他国への対応が日本の国益に反した場合どうするか、だ。日米の利害は重なる面が多いが、ぴたりと一致はしない。
トランプ氏が北朝鮮の金正恩総書記と再接近する、台湾防衛に疑問を呈す、ウクライナ支援から手を引くなど心配なシナリオはあまたある。
日本は独自の戦略を真剣に考えるときだ。それには日本の未来像と、そこへ至る道筋を指し示す指導力が求められる。今の自民党にも野党にも十分なビジョンと戦略があるようには見えない。
私が半世紀以上も研究してきた日本の政治システムは変わる必要がある。世界の舞台で意思疎通し、国際政治の荒波を生き抜く戦略をもつ新たな指導者層が不可欠だ。
大学教授として最大の喜びは教え子らが良い仕事をして社会に貢献をすることだ。国会議員になった教え子らには期待したい。変化を受け入れる覚悟があれば日本の未来は明るいと私は信じている。
筆をおくにあたり、日本の方々にお礼を申し上げたい。政治家、経済人、学者、ジャーナリストからタクシーの運転手さんまで、親切さと寛大さをもって接してくれた皆様には心から感謝しています。
そして読者の皆様、思い出の旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(米コロンビア大学名誉教授)
=おわり
あすから伊藤忠商事会長CEO 岡藤正広氏
【図・写真】ニューヨーク市ロックフェラーセンターのクリスマスツリー前で
ジェラルド・カーティス(29) 引退 コロンビア大一筋47年 移籍の誘いは幾度となく(私の履歴書)[2024/12/30 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
コロンビア大にいる間、幾度となく別の仕事に誘われた。そのたびに私は残ることを決めた。
最初は助教授だった1972年だ。議員交流の仕事で東京に行く直前、米ブルッキングス研究所のヘンリー・オーウェン外交政策部長から来てほしいと手紙が届いた。研究所には日本関係のプロジェクトで助言を求められ1年ほど前から出入りしていた。
ホテルオークラのベッドに座り考え込んだ。米有数のシンクタンクの誘いは光栄だったが、今コロンビア大を去るべきなのか。もう1日よく考えて返事することにし、会議出席のため部屋を出た。
ホテル前でタクシーを待っているとコロンビア大の同僚がタクシーから降りてきた。後にカーター政権で国家安全保障担当の大統領補佐官となるブレジンスキー教授だ。
不意に「オーウェン氏から聞いたが行くべきでない」と言い、まずはコロンビア大で日本研究の第一人者として評価を得るべきだと説いた。私がまさに考えていたことで、助言はありがたかった。
教えるのは楽しかったし、大学外での活動の幅も広がっていた。翌日、私はオーウェン氏に断りの手紙を書いた。
ハーバード大のエドウィン・ライシャワーとエズラ・ヴォーゲルの両教授から熱心に誘われ、真剣に移籍を考えたこともある。研究休暇で欧州に発(た)つ直前、妻と私はライシャワーとハル夫人の自宅に招かれ他の日本関係の教授らとも会った。
だがロンドンに到着後、コロンビア大から電話があった。移籍を防ぐため政治学部が私を終身雇用の准教授にするとの連絡だった。東アジア研究所の所長就任も依頼された。思い切った対応でコロンビア大が私に期待を示してくれたのはうれしかった。
結局、私は難しい選択をせずに済んだ。採用の優先順位をめぐる意見の相違からハーバード大学長は私に正式なオファーをしなかった。
ライシャワー氏からは謝罪と大学当局への憤りをつづった手紙が届いた。私はコロンビア大にいるのが運命だと納得した。ここは私にとって知の基盤だった。ジェームス・モーリー、ドナルド・キーン、ヒュー・パトリック、キャロル・グラック教授ら国外の最高の日本専門家と働く刺激は何にも代えがたかった。
最後に新たな職の誘いがあったのは12年前だ。ある大手銀行からシニア・アドバイザー職を打診され、アジア統括のトップが面談のため香港から飛んできた。
だが会談はすぐ終わった。彼が「教授の仕事は人脈の金銭化です」と言ったからだ。私は長く日本の人々と信頼に基づく関係を築こうとしてきた。そのコネから利益を絞り出すなど論外だった。
2015年、私は47年に及ぶコロンビア大での教職を退いた。その数カ月前、私は安倍晋三首相にコロンビア大が後任の日本政治・外交の専門家を置けるよう寄付講座の創設を提案し、日本政府は500万ドル(当時で5億円弱)の拠出を決めた。
新設の講座が「ジェラルド・カーティス 日本政治・外交講座」と命名されたのは大変光栄だ。後任を探す間、私のもとで博士号をとり当時は防衛大学校にいた彦谷貴子氏を客員教授として招くことができたのも幸いだった。
私の後任が近く決まれば、コロンビア大での私の履歴書は、いよいよ完結する。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1970年代半ば、同僚のマイロン・コーエン(左)、アンドリュー・ネイサン(右)両教授と
ジェラルド・カーティス(28) 皇室の思い出 皇居で夕食、忘れられぬ夜 妻の作品を美智子さまに贈る(私の履歴書)[2024/12/29 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1408文字 PDF有 書誌情報]
長く日本と関わる中で、大きな幸運だったのは、ささやかながら皇室の方々と接する機会に恵まれたことだ。
1976年、NHKの解説委員だった友人の平沢和重氏から連絡があった。米国と欧州での日本研究の実情について、当時の皇太子、明仁さま(現・上皇さま)にお話しできるか聞かれた。私でよければ喜んで、と返事した。
当日、平沢氏に付き添われ、皇居で明仁さまに米国、英国と他の欧州各国での現代日本の研究に関し1時間ほどお話しした。明仁さまからはいくつもご質問をいただき、特に英王室には親近感を抱かれているご様子だった。
明仁さまに次にお目にかかったのは2002年だ。私は日本への海外の理解を深めた功績に対し国際交流基金賞をいただき、皇居で天皇陛下となられた明仁さまと謁見した。陛下はおめでとう、とお声をかけられ、26年前の講義に言及された。覚えていてくださってうれしかった。
その数日前の授賞式には、当時の皇太子の徳仁さまと雅子さまがお見えになった。幼少期にニューヨークにお住まいだった雅子さまは、同じ街で育った私の娘たちに英語で声をかけられ、にこやかに思い出話をされた。
信じがたいことに幸運は、ここで終わらなかった。
私は在京の英米の大使館が催す音楽ワークショップに呼ばれており、ピアノを弾かれる美智子さま(現・上皇后さま)も時折参加されていた。
美智子さまが鑑賞されていたある夜、私が演奏することになり「ニューヨークのジャズクラブに行かれることはないでしょうから、それを私が持ってきましょう」と言い、曲を披露した。演奏が終わると美智子さまはソファのご自分の側に招いてくださった。
お話しするうち妻の翠(みどり)と私を皇居での夕食に招待したいと声をかけてくださった。喜んで伺いますとお返事すると翌日、侍従から連絡が入った。
当日、車で皇居に向かった。門をくぐってしばらく走ると、手つかずの自然の森が広がっていた。何百年も前の日本へ戻るタイムマシンに乗っているような気分だった。
車を降り待機室に通された。まもなく侍従が「ご案内します」と言うので「ほかの方々は」と聞くと「お二人だけです」という。この時、私たちは招待客が自分たちだけだと知った。
応接間で、天皇陛下と美智子さまに迎えていただいた。しばらくお話しし、隣の部屋の食卓についた。
翠が軽井沢でのお二人のなれそめに触れると美智子さまは楽しそうに当時を回顧された。食後は応接間に戻りさらにお話しした。時間はあっという間にすぎた。
帰りに入り口まで送っていただいたところで、美智子さまが、版画家の翠に「食事した部屋の篠田桃紅さんの作品はいかがでしたか」と聞かれた。翠が話に夢中で気付かなかったと答えると、それならばと美智子さまがおっしゃり4人で長い廊下を戻った。
予定の時間を大幅にすぎて、翠と私は御所を離れた。忘れられない夜となった。
後日、翠が銀座で個展を開くと美智子さまが来場された。ゆっくり作品をご覧になり、ある作品の前で足をとめられた。
翠がプレゼントさせてほしいと願い出ると、快くお受けくださった。美智子様が作品をお持ちくださることを翠は大変光栄に思っている。日本の研究、音楽、芸術家の妻の、いずれが欠けても得られなかった貴重な思い出だ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】2002年、国際交流基金賞を受賞する筆者。左は当時、国際交流基金理事長の藤井宏昭氏
ジェラルド・カーティス(27) 小泉純一郎氏 妥協拒否した型やぶり 小選挙区制が強めた首相の力(私の履歴書)[2024/12/28 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1334文字 PDF有 書誌情報]
在任4年目となった小泉純一郎首相と食事したある夜、彼はしみじみこう言った。
「こんなに長く首相を続けるとは思わなかった」
2001年の就任時、彼は政権の寿命をよくて半年くらいと思っていたと言い、いつ辞めるか分からないから日々、全力投球しているだけだ、とも話した。
長年にわたり多くの首相を見てきたが、自民党有力者への妥協を拒み、それを自らの力に転化したのは小泉氏だけだ。彼は党内の抵抗勢力を攻撃し、テレビを中心とするメディアを駆使して「痛みを伴う改革」だけが日本に残された道だと世論に訴えた。
「失われた10年」のぬかるみにはまり、不人気な森喜朗政権からの変化を望んだ国民に、小泉氏は新鮮な息吹のように感じられた。
彼に驚かされたのは日本人だけでない。ニューヨークの銀行や企業の幹部が集まる外交問題評議会(CFR)での小泉氏の講演を思い出す。
笑みを浮かべながら登壇した彼はワシントンでブッシュ大統領と会った話をした後、突如エルビス・プレスリーの曲を歌い始めたのだ。
永田町政治の「型」をやぶる小泉氏が力を発揮できた背景には、皮肉にも彼が反対した1994年の選挙制度改革がある。衆議院選を中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行させたこの改革に、彼は反対だった。党内の競争が減り緊張感が失われるとの懸念からだ。私も同意見で、利益よりも害悪が勝る、との論評をいくつも書いた。
首相在任中の小泉氏とは、行きつけの赤坂の和食店「津やま」の個室で何度か会っている。食べて飲み、政治を語る彼に、選挙制度の見直しについても聞いた。
彼の見立てでは、見直しの背後にいた小沢一郎氏は新制度のもと自らが首相となり、前例のない政治支配を敷くつもりでいた。「この選挙制度の採用に私は反対した」と小泉氏は言った。「だが制度が採用された今、それを使って首相に何ができるかを私自身が示すことになった」
首相を辞めて約10年後の2017年に津やまで会った時も、小選挙区制が首相の力を強めたとの確信を口にした。
「この制度は平議員には最悪だ。派閥の長にも頼れないし、以前のように党首を批判することもできない」
中選挙区制だったら郵政改革も実現しなかっただろうとも言い、「平議員にはつらいが、行動派の首相には最高の選挙制度だ」と語った。
選挙制度が変わって30年超がたつが、期待された二大政党制は実現していない。それどころか政党すべてを弱める負の影響が目立つ。
一方、一般の議員にない知名度や地元の後援会組織、資金面の支援者をもつ自民党の2世議員の数は増えた。
かつていた起業家的政治家は見当たらなくなり、多くの国会議員が政治的サラリーマンと化した。小選挙区制が行動派の首相には有益だと小泉氏は言うが、実際に誕生したその種の首相は彼自身と安倍晋三氏しかいない。
小泉政権の実績については様々な見方があるが、国民を効果的に説得し、負けを恐れず指導力を発揮するスタイルは日本では新しかった。
小泉氏は日本の指導者が退屈で受け身とは限らないことを日本と世界に示した。問題は、果敢に変革をめざす行動派の首相が、いつ再び現れるかである。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】小泉氏と「津やま」で会食する筆者
ジェラルド・カーティス(26) 東日本大震災 「木を登る」車、今もまぶたに 政府の遅い対応に失望(私の履歴書)[2024/12/27 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
2011年5月9日、私は新幹線で仙台駅に降り立った。2カ月足らず前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を訪れるためだ。
テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」から短いドキュメンタリー撮影のため取材に行かないかと打診があり、即座に引き受けた。
日本の社会や政治に先々まで影響を及ぼすであろう歴史的な大災害の現場を歩き、この目で見て、人々に話を聞きたいと思ったからだ。
東北地方が巨大地震に見舞われたことを知った時、私はニューヨークにいた。本来は日本にいるはずだったが、4月9日に娘の結婚式があり渡航を延ばしていた。
朝、テレビをつけると震災による破壊の映像が次々と映し出された。太平洋岸の町が波にのまれ、多くの人々が海に流されたと知っていたたまれない気持ちになった。
やがて福島第1原発の爆発と住民の避難が報じられ、惨事を遠くからただ眺めるしかない自らにいらだった。
結婚式の数日後、私は東京へと飛んだ。被災地の状況や放射能汚染の全貌を知るのは容易でなく歯がゆかった。テレビ朝日から電話をもらったのは、そんな時だった。
仙台到着の翌日、車で東京から来た撮影班と合流し、3日間、宮城県の被災地を訪ね歩いた。主要道路は寸断したり、瓦礫(がれき)で塞がれたりして通れず、裏道を旅した。
その時に見た光景は、今もまぶたに焼き付いている。無数の車が田んぼの中にひっくり返り、木を登ろうとしているかに見える車もあった。
南三陸の避難所では年配の女性がぽつんと座っていた。夫はどちら? と聞くと「波にさらわれました」と言った。口元に笑みを浮かべようとしたが、目に涙がにじんだ。私は言葉が出なかった。
亘理郡の避難所で、高齢の女性に今、何が最も必要かを聞くと「村のみんなが一緒にいられること」だと答えた。
同じ避難所に、途方に暮れて座る男性らもいた。亘理名産のイチゴの生産者で、震災で温室を破壊されていた。皆、最初は口が重かったが、耳を傾けると心中を吐露した。
「私は70歳で、家も温室も失った。ローンが残る設備も壊された。さらに借り入れなどできない」
東北人の辛抱強さへの称賛を多く聞いたが、内心では皆が余震を恐れ、将来を不安視し、しゃくし定規で遅い政府の対応に失望していた。
石巻に駐在する中央省庁の職員は、霞が関の官僚らが地域事情を熟知する地方公務員に権限を譲らないと憤り、官庁を辞めて自治体のため働こうと思っていると語った。
規則と前例を重んじる日本社会の特徴は、平時には利点が多い。だが危機への対応には柔軟性が求められ、官僚的な手続きは邪魔になる。
震災は日本の人々の忍耐力と品位、秩序や共同体を守る姿勢の強さを見せつけた。
同時に当局の遅く、的外れな対応も目立ち、政治指導者が国民と効果的に対話する力を欠くことも露呈した。
ただ危機への対応を誤ったと菅直人首相を一方的に批判してはバランスを欠く。対応は確かに不十分だったが、自民党が政権党だったとして状況が違ったかは疑問だ。
自民党は電力会社、政治と官僚らによる「原発村」の中核にいた。だが折よく下野していたため責任を問われることなく次の総選挙で政権を奪回し、大きな期待をされていた民主党はやがて消えた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】被災地を取材する筆者(右)=西田恒久氏提供
ジェラルド・カーティス(25) 民主党の興亡 鳩山氏に助言、生かされず 官僚排除で政策は混乱(私の履歴書)[2024/12/26 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1354文字 PDF有 書誌情報]
民主党は2009年8月の衆院選で絶対安定多数を超える議席を獲得し、政権交代を果たした。その民主党に関わった政治家とは、党創設のずっと前から交流があった。
その一人が、民主党の源流とも言える新党さきがけを1993年に結成した武村正義元代表だ。
彼が滋賀県知事だった84年に招待されて知り合い、86年に国会議員に転じて立ち上げたユートピア政治研究会の会合では講義を頼まれた。
鳩山由紀夫氏ら10人の1年生議員とともに政治改革の必要性を訴えたこの研究会は、さきがけの母体となった。
その後、さきがけは93年発足の細川護熙政権、そして社会党と自民党が連立した94年発足の村山富市連立政権に参加し、武村氏はそれぞれで官房長官と蔵相に就いた。
彼が蔵相時代、朝食をともにした時は大蔵官僚との確執を子細に語った。気に入らない政策があると、あの手この手で妨害するという。大臣の決定には従ってもらうと強調しても官僚らは「サボタージュする」と憤っていた。
15年後に誕生する民主党政権も同じ問題に直面し、打つ手を欠いた。同党は「政治主導」を掲げ、官僚でなく政治家が政策を決めると主張したが、問題はこの過程で官僚機構を遠ざけた点だ。
ある経済産業省出身の若手民主党議員は「政権運営を助けるべき官僚らを文字通り部屋から締め出して政策を議論している」と嘆いた。「おかげで副大臣が係長のような細かな作業をしている」
政権交代が視野に入った09年の衆院選前、私は鳩山氏に3点アドバイスをした。第1に普天間基地に関し拙速な判断は避けること。第2に米国を含まず反米に映りうる「東アジア共同体」に肩入れしすぎないこと。第3に官僚機構をうまく活用する戦略を描き、決して彼らを敵として扱わないこと、の3つだ。
だが首相に就いた彼は逆のことをした。普天間基地の県外移設を唱え、東アジア共同体を支持し、官僚機構を排除した。今年6月に会った彼は「先生の言うことをもっと聴けばよかったな」と話した。
当時は、米国家安全保障会議(NSC)からも民主党政権とどう関わるべきか問われた。私は「待ち」の姿勢だと説くメモを送った。政権の本格始動には時間を要すので、早急に普天間問題で判断を迫るべきでないと書いた。
鳩山氏は反米ではなく、東アジア共同体は友好と平和への漠とした構想にすぎないので、過剰反応は避けるべきだと訴えた。だがオバマ政権も耳を貸さず、日本で政権交代が起きたからといって、米国の同意なしに安全保障に絡む政策を変えることは認めないとの姿勢を明確にした。
結局、鳩山政権は9カ月足らずで終わり、菅直人氏が後を継いだ。
菅氏のことは1970年代、彼が婦人運動家の市川房枝氏の参院選挙を手伝っている時から知っていた。
やはり民主党政権の発足直前に会い、米国よりも同じ議院内閣制の英国のほうが政策決定の参考になるので、見てはどうかと勧めた。
これに彼は興味をもち、ロンドンを訪れてブラウン首相らに会った。だが結局、民主党が官僚制度をうまく動かして政策を実現する方法を学ぶことはなかった。むしろ官僚の排除によって政策は混乱した。これが同党をつまずかせる大きな要因になった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】筆者(右)のニューヨークの自宅を訪れた菅直人氏
ジェラルド・カーティス(24) 社会党の人々 伝説の左翼、支えたバー まだ育たぬ自民に代わる野党(私の履歴書)[2024/12/25 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1373文字 PDF有 書誌情報]
かつて東京・銀座のコリドー街に「ボア」というバーがあった。ビルの地下に5人ほどが座れるカウンターと数脚のテーブルが置かれていた。
左派のたまり場で、社会党員、革新派のインテリや記者らが集まった。皆、何らかの形で「アンジン」こと安東仁兵衛氏の知り合いだった。
私も愉快で社交的な彼と1970年代の半ばにボアで会い、親しくなった。
50年代、東京大で共産党細胞を率いた安東氏は伝説の左翼だ。後に雑誌「現代の理論」を創刊し、漸次的な社会主義革命を説く「構造改革論」を掲げた。だが共産党指導部の主流派が猛反発。結局、61年に共産党を離れ、後に社会党に移った。
部数が少ない雑誌の収入は知れており、東京大時代の仲間らが寄付などの形で安東氏に小遣いを渡していた。
ある日、安東氏から、西武グループの堤清二氏に会いに行こうと誘われた。二人は東大細胞の仲間で、私も堤氏と面識があった。3人でしばらく雑談後、堤氏は安東氏に封筒を渡した。
安東家の家計を主に支えていたのはボアのママだった妻の敏子さんだ。店がいつも満員だったのは控えめで温かい彼女の人柄のおかげだ。
当時、安東夫妻はわが家の近くに住んでおり、ある日、敏子さんはビーフシチューの鍋を手に現れた。幼い娘たちの子育てに忙しい妻の翠(みどり)を料理から解放しようとの配慮だった。
共産党を去った安東氏の思想は右に振れ、やがて社会党の江田三郎氏と路線が一致した。構造改革論にひかれた彼は62年「江田ビジョン」を発表し、米国並みの生活水準、ソビエト並みの福祉、それに英国の議会制民主主義と日本の平和憲法を組み合わせた国の将来像を唱えた。
だが共産党指導部が安東にそうしたのと同様、社会党左派は江田を攻撃し書記長の座から引きずり下ろした。
76年のある夜、行きつけの神田の天ぷら店で杯を傾けた江田氏は、社会党の将来には全く期待を示さなかった。翌春、彼は急逝した。
江田ビジョンを社会党内で厳しく批判したのが中国寄りの佐々木更三氏だ。だから75年、彼が社会主義の修正を唱える「社会主義的・的政権」という名の本を出版した時には私は驚き、話を聞きに議員会館の事務所を訪ねた。
宮城のズーズー弁には面食らったが主張は明快だった。社会党はとにかく政権をとるべきで、必要なら「的」をいくつも重ね社会主義を柔軟に見直せばいいという。それがデタラメな理屈だとは本人も分かっていたと思う。
帰りに彼は一緒にエレベーターに乗り、正面玄関まで送ってくれた。議員会館には数限りなく足を運んだが、議員に玄関まで見送られたのは最初で最後だった。
96年には、土井たか子氏が党首となった。左派イデオロギーとは無縁な人で、社会民主党に名を変えた同党への国民の支持を取り戻そうとしたが、遅きに失した。
65年前、ドイツ社民党がマルクス主義と決別した時、逆に左に振れたのが致命的だった。長い歴史をもつ日本の社会主義運動には、そうして終止符が打たれた。
土井氏は2008年、私の著書「政治と秋刀魚」の出版記念パーティーで花束をくれた。その茎を翠は鉢に植えた。茎からは枝葉が伸び立派に育ち続けているが、自民党に代わる政権党になれる野党はまだ育っていない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】自著の出版記念パーティーで土井たか子氏(中)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(23) 津川雅彦氏 「知らない日本」の案内人 きっぷのいい名優の磁力(私の履歴書)[2024/12/24 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1372文字 PDF有 書誌情報]
日本政治を研究する私に、未知の日本を教えてくれたのが俳優の津川雅彦氏だ。
知り合ったのは1990年代半ば、ドラマ撮影で米国に来た津川氏を、翠(みどり)がコーディネーターとして世話したのが発端だった。画家ノーマン・ロックウェルが好きな彼を、翠はマサチューセッツ州の美術館まで案内した。
その時「夫は日本の政治には詳しいけど伝統文化には疎いので教えてほしい」と翠が頼み、後日、東京で食事した。年が一緒という以外に共通点はなかったが不思議と気が合い、よく会うようになった。
京都の芸能一家に育った津川氏は日本の伝統文化を守りたいとの強い思いをもち、落語や芝居、相撲に私を招待してくれた。若手の俳優や映画監督を連れて料亭にもよく通い、芸者さんを呼んでお座敷文化の伝承に努めた。
ご相伴にあずかった私は、お座敷には様々な作法や決まりがあり、芸者さんは厳しいけいこを積んだ接客のプロだと知って感銘を受けた。
最初は勝手が分からず戸惑った。出会って間もなく、津川氏は若手俳優や芸者さんと徳島の阿波踊りを見に行く計画を立て、私も呼ばれた。
折しも台風で飛行機が飛べなくなると彼は伊豆の旅館、三養荘を貸し切り、そこで宴会を開くことにした。
新幹線で熱海まで行って駅で待っていると、京都から来た芸者の一団が降り立った。率いていたのは、祇園でも名の通った千子さんという美しい芸者さんだった。
三養荘に着き、まず部屋割りを決めた。芸者さんの評判を守るため、3人一組の部屋にすると津川氏は言った。
宴会では歌やお座敷遊びが続き、慣れない私は落ち着かなかった。疲れ果てて部屋に戻ると10代の舞妓(まいこ)さん2人が待っていた。
同い年の娘がいる私を格好の相談相手と思ったようだ。芸者として身を立てるか、別の道を歩むか。身の上相談に乗るうち夜は更けていった。
この旅で、花柳界の厳格なしきたりに触れた。そうした伝統文化を究極の娯楽とみる津川氏が「真面目な遊び人」であることも知った。
京都嵐山の吉兆で津川氏らと昼食をとった春の日の光景も鮮明に思い出す。眼前の桂川に浮かぶ屋形船。開け放った窓から桜の花びらが風でふき込み、ひらひらと舞い降りて芸者さんの髪を飾った。美しさに思わず息をのんだ。
お座敷に通ううち多くの芸者さんと友人になった。親分格の千子さんは特によくしてくれた。津川氏が由緒ある一力亭で私の還暦を祝ってくれた時は、とっておきの豪華な着物を身につけ、祇園で最も人気の6人の芸者さんを連れて駆けつけてくれた。
ある日、久々に京都に行き千子さんに連絡すると経営するクラブに呼んでくれた。だが時間に正確な彼女が現れない。心配になりお店の人に伝えると従業員が自宅に行き、出がけに心臓まひで亡くなった千子さんを発見した。私は急ぎ津川氏に電話を入れた。悲しい出来事だった。
保守的な考えをもつ津川氏は、安倍晋三首相(当時)と親しかった。ある時、私が首相とゆっくり話したがっていると知ると、その場で秘書官に電話を入れ夕食会を設定してくれた。
当日、首相は北海道から戻る航空便が豪雨で遅れたが、深夜、羽田から西麻布まで車を飛ばして駆けつけた。温かく、きっぷのいい名優の磁力をあらためて思い知った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】津川氏(右)はお座敷文化の伝承に熱心だった
ジェラルド・カーティス(22) 月夜野の家 娘たちに別世界の体験 並んだ靴、「一員」の証し(私の履歴書)[2024/12/23 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1356文字 PDF有 書誌情報]
群馬県北部の月夜野町と出合ったのは1971年、東京在住の友人で、外国人学生に日本語を教える日本研究センターのケネス・バトラー所長が週末、別荘に招待してくれた時だ。
吹雪の舞う日で、応接間から雄大な谷川岳が一望できた。雪が窓を打ち、風で暖炉の火が赤く燃えさかった。
夕食時、周りの別荘の住人も集い愉快なうたげになった。やや飲み過ぎた私は集落に別荘をもつと宣言し、その週末のうちに180坪の土地の地主となっていた。
少ない預金をはたき、たいそうな買い物をしたものだ。何らかの形で日本に根をもちたいとの思いが芽生え始めていたのだと今では思う。それが山林の急斜面の小さな土地でも構わなかったのだ。
この土地に妻の翠(みどり)と私は85年、小さな家を建てた。完成すると地元の北小学校の校長に会いに行った。米国の小学校は日本より1カ月ほど早く終わるので、娘たちを体験留学させたいと思ったのだ。
快諾した松井校長は全校集会で娘たちを紹介し、短い間だけど仲良くしようと呼びかけてくれた。気が付くと娘たちは友達と「そうだっぺ」と方言で話していた。
小学校までは2キロほど離れていたが、松井校長は娘たちが車でなく徒歩で登校するよう求めた。体力づくりになるとの理由だったが、娘たちに山奥の村の生活を学ばせたかったのだとも思う。2人は村のほかの子どもたちと同じように歩いて登下校した。
行きは下り坂だったが、帰りはちょっとしたハイキングだった。この帰り道を、娘たちは月夜野の夏のいい思い出として記憶している。
田んぼでオタマジャクシを探したり、道で会ったおばちゃんにカイコを見せてもらったりしてうれしそうに帰宅した。ニューヨーク育ちの娘たちには別世界の体験だった。
ある日、帰宅した娘らは、その日の出来事を興奮気味に話した。長靴とゴム手袋をつけてトイレを掃除し、雑巾で床を磨いたという。清掃員がいる米国では想像できないことだ。
自ら掃除するなら、教室を散らかしたまま帰宅したり、落書きしたりする児童はいないなと納得した。清潔さと責任の共有という日本社会の際立つ特徴は、こうして育まれるのだとも感じた。
北小が夏休みに入ったある日、クラスメートらを昼食に呼んだ。坂を登ってやってきた20人ほどの子供たちが、うどんとスイカを食べてひとしきり遊んだ。
娘の一人は40年前のこの日のことを思い出し、玄関に並んだ友達の靴を見て、誇らしい気分になったと語った。
なぜ誇らしく? と聞くと「友達に受け入れられたこと、皆が来てくれたこと、そして楽しんでくれたことが理由かな」と振り返った。
登校の初日、不安がっていた娘たちのことを思い出した。玄関に並んだ靴は北小の一員になれたことの証しだったのだな、と気付いた。
多くの地方都市と同様、月夜野町も人口減が著しい。町の名前も、みなかみ町への統合で消え、北小も生徒数の減少で近く閉校となる。
北小の先生や仲間をはじめ月夜野の人々の親切さは娘たちの記憶に鮮明に残る。
「お父さん、あの家は決して売らないでね」と彼女らは私に念を押す。さあ、どうだろう。いずれ娘らが、自分の子どもたちを夏休みに連れて行く日が来るかもしれない。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】月夜野の家で玄関に並んだ北小の子どもたちの靴
ジェラルド・カーティス(21)北朝鮮訪問 全体主義の窮屈さ知る 金親子との面会は中止に(私の履歴書)[2024/12/22 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1376文字 PDF有 書誌情報]
北朝鮮を初めて訪れたのは1993年だ。東アジア専門家でカリフォルニア大バークレー校のロバート・スカラピーノ名誉教授が率いる訪問団に加わり、得がたい経験をした。
渡航前、クリントン政権からブリーフィングを受けたせいか、北朝鮮は訪問団が大統領の親書を託されたと信じた。
私たちはシェフ付きの迎賓館で要人待遇を受け、金日成国家主席と息子の金正日氏との面会もセットされた。
まず案内されたのは北東部、豆満江の河口にある羅津・先鋒の経済特区だ。経済の発展をみせる狙いだろうが、搭乗したロシア製ヘリコプターが故障し、北朝鮮軍の基地に不時着する事態となった。
案内役は基地を見せまいと必死だったが、代表団には米軍の元太平洋司令官がいて、駐機中の戦闘機は長く飛んだ形跡がないとすぐ見抜いた。
ヘリコプターの修理が終わり、やってきた給油車をみて皆はあぜんとした。兵士がクランクを手回ししてエンジンをかける旧式だったからだ。北朝鮮の装備と経済の衰えは想像以上のようだった。
特区では皆が一緒に行動するよう指示されたが、私たちは3手に分かれた。それでガイドが足りなくなり、自由に歩き回ることができた。
数列に並んだ簡素な住宅は塀で仕切られ、その上にガラス片が埋め込まれていた。
人の行き来を防ぎ情報を遮断する仕組みで、全体主義社会の窮屈さを知った。栄養失調のせいか、現地の人々の背の低さにも驚いた。
無事平壌に戻った夜10時、長く北朝鮮との裏の窓口を担っていた訪問団の一人から電話が入った。北朝鮮外務省の人々が、最若手の我々2人を飲みに誘ったという。
車に乗り住宅の前に連れて行かれた。入ると中はクラブで、きれいな女性らが接客していた。昼は高麗航空の乗務員だと後で教えてくれた。
私を接客した女性はロシア語と片言の日本語を話した。その会話を聞いて別の女性が話しかけてきた。金沢に住む在日朝鮮人で、日本の同胞の訪朝を手配する旅行会社を経営していると言う。想像もしなかった世界を垣間見た。
翌日、私たちが大統領からの親書を携えていないと知った北朝鮮側は金親子との面会を中止した。そこで面会を前提に差し入れていた贈呈品の返却を求めると、金日成氏あての分だけが戻ってきた。
オバマ政権が発足直後の2009年2月にも訪朝の機会があった。友人で駐韓国大使も務めたフレッチャー法律外交大学院のスティーヴン・ボズワース学長の誘いだ。
核問題などをめぐる6カ国協議を率いた金(キム)桂官(ゲグァン)外務次官との会食の席で、北朝鮮が柔軟な姿勢を見せればオバマ政権と関係改善の余地があると話したが、先方は無反応だった。
専門家の訪朝は北朝鮮の姿勢を探る機会になるが、核開発を断念させたい米国と自国の存続に抑止力が不可欠とみる北朝鮮は、ともに身動きがとれない状況だった。
印象に残るのは訪問団に対応した英語が流ちょうな女性。今の崔(チェ)善姫(ソンヒ)外相だ。あとは平壌冷麺が噂通り美味だったことか。
帰路、北京の空港で乗り継ぎ便を待つ間、ボズワース氏の電話が鳴った。相手はクリントン国務長官だった。北朝鮮担当特別代表への就任依頼で、彼は北朝鮮にさらに深入りすることとなった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】不時着したヘリコプターに給油するトラックは、クランクを手回ししてエンジンをかけた
谷口吉生さん死去 建築家、87歳 NY近代美術館を増改築[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 42ページ 388文字 PDF有 書誌情報]
米ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築や、東京国立博物館法隆寺宝物館などを手がけた世界的な建築家で文化功労者の谷口吉生(たにぐち・よしお)さんが12月16日午前5時11分、肺炎のため死去した。87歳だった。後日「メモリアルの会」を予定している。
東京都出身。慶応大卒業後、米国に渡りハーバード大大学院で建築を学んだ。「洗練されたモダニズム」と称され、周囲の環境に溶け込む設計で知られた。世界の名だたる建築家と競合して勝ち取ったMoMAの増改築では、大きな窓からニューヨークの街並みが見える開放的な空間設計が高い評価を得た。
資生堂アートハウス(静岡県)や東京国立博物館法隆寺宝物館で日本建築学会賞、土門拳記念館(山形県)で日本芸術院賞を受賞。2005年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞するなど多くの賞に輝いた。
2017年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(20) ニューズウィーク 立体的な視点を読者に アドバイザー、日本版を監督(私の履歴書)[2024/12/21 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1364文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流と下田会議の仕事が一段落しつつあったころ、もう一つ学問以外の仕事に関わり始めた。
日本の専門家として、これは結果的に最も興味深い仕事の一つになった。
発端は1985年、米ニューズウィーク誌のリチャード・スミス編集長からの電話だった。日本版を近く発売予定で、ダミー版を読んで問題あれば知らせてほしいという。
数時間かけ目を通せば済むと思い快諾した。この数時間は結局、5年強に及んだ。
その間、私はニューズウィーク日本版を監督する責任を負う、編集長の特別アドバイザーとして働いた。
ダミー版を読み始めると、日本版が発売できる状況からほど遠いとすぐに気付いた。
表紙の文言や見出しは日本の週刊誌のように誇張され、記事の中身とかけ離れていた。記事も直訳調で、大事な部分が削られていた。
問題点の詳細な報告をスミス編集長に送ると、彼は輪転機を止めた。そこから日本版の第1号が販売にこぎ着けるまでには、6カ月もの時間と、さらに数冊のダミー版の制作が必要だった。
私の役割はニューズウィーク日本版が、米国版を正確かつ読みやすく翻訳しているよう目を光らせることだった。
スミス編集長は表紙に記事と違う扇動的な文言が並ばないように、とも念を押した。
私の自宅にはニューズウィーク誌が運び込んだファクス機が置かれ、土曜夜は必ず10時までに帰宅して表紙が送られてくるのを待った。
たいていは問題なかったが、時折、東京にいる日本版の編集者らと遅くまで文言を調整する必要があった。このやりとりは、異文化間のコミュニケーションの難しさと醍醐味を教えてくれた。
日本側の編集者らは当初、日本のジャーナリズムには独自の流儀と基準があると主張し、米国人にあれこれ指図されることに腹を立てた。
米国側はニューズウィークは名前だけ貸しているのではないと主張し、日本版の記事が米国版のスタイルとルールに従うよう求めた。
私の役割は、ニューズウィークの見解を、居丈高に聞こえないよう気配りしながら、日本側の誇り高きベテランのジャーナリストらに伝えることだった。一方、米国側に対しては、もっと日本側の気持ちに配慮しながら接し、ニューズウィークのルールも柔軟に適用するよう促した。
ニューズウィーク日本版が成功したのは日米双方の使命が一致していたからだと思う。世界のニュースを内向きの狭い視点でなく、立体的でグローバルな視点で日本の読者に届けるという使命だ。
ニューズウィーク日本版は日本の読者に新たな視点を提供する先駆者となった。
だが私が関わった40年前と今日で状況は大きく変わった。インターネットは週刊ニュース誌の衰退を早めた。日本のジャーナリズム自体もグローバルな視点をもつようになった。フィナンシャル・タイムズを買収した日本経済新聞社は典型だ。
異文化コミュニケーションはいつも難しい。だが、ここ数十年、日米の様々な場面で深まった交流は、双方が同じ目的に向かって辛抱強く歩み続ければ、困難は乗り越えられることを示した。
しかも課題と向き合うこと自体が、関わった人々のやりがいと成長につながる。ニューズウィーク日本版での体験は、それを教えてくれた。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューズウィーク日本版・創刊号の表紙=CCCメディアハウス提供
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 1ページ 592文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。(評伝を政治・外交面、関連記事をスポーツ面に)
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(19) 日米摩擦 誤解解消に努めた80年代 米紙の偏向報道を体験(私の履歴書)[2024/12/20 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1387文字 PDF有 書誌情報]
1980年代、日米関係は戦後最悪の時を迎えた。両国の事情を知る私も、歯ぎしりすることが多かった。
米国は政府も与野党も産業界も一斉に日本を批判した。日本が自らの市場を閉ざしたまま不公平な産業政策で工業製品の輸出攻勢をかけ、米国の国際的な地位を脅かしているとの批判だ。
85年のプラザ合意で円高が進むと日本企業は米国の資産を買いあさり批判に油を注いだ。人種差別的な発言も出て双方に悪感情が募った。
私はウォール・ストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズなど米主要紙に寄稿を求められ、誤解に基づく対立激化を冷まそうと努めた。
米国に対しては、勤勉に働き安く良い製品を作る日本人を非道徳的とみなす主張のおかしさを指摘した。
一方、日本に対しては自らの保護主義的な政策を棚に上げて「日本たたき」ばかりを批判する一部の人々を戒め、謙虚に米国や諸外国の不満に耳を傾けなければ反日感情を強めるだけだと説いた。
だが当時、米メディアが注目したのは対日強硬を主張するリビジョニスト(修正主義者)らだ。彼らは従来の日本専門家を弱腰の「菊の会」メンバーだと決めつけた。
報道の偏向は個人的にも体験した。米主要紙から日本に関する電話取材を受けた後、記者は厚かましくもこう言った。「もっと日本に批判的な人を探しているので、誰か紹介してくれますか」
修正主義者の一人が「日本封じ込め」論者のジェームズ・ファローズ氏だ。
彼は子供と銭湯に行った経験を記事にした。時間をかけて体を洗い湯船に漬かると、周りの男たちが出て行ったと書き、それは外国人と一緒の風呂に入りたくないとの人種的偏見だと主張した。
私も若い頃の銭湯での経験を書いたことがある。近所の定食屋の店主がいて挨拶したら、私が日本語を話すと知った人々が語りかけてきて、のぼせてしまった話だ。
個別の出来事から日本人が友好的だとか、人種差別的だとかの判断はできない。ファローズ一家に他の入浴客は場所を譲ろうとしたのに、日本語を話さない同氏が気付かなかっただけかもしれない。
90年代に入ると日米の摩擦は和らいだ。日本でバブルが崩壊し、対日脅威論が下火になったのが一因だ。
皮肉にも、今度は日本経済の弱さが批判された。
98年、私はクリントン大統領の国家安全保障担当補佐官、サンディー・バーガー氏からの電話でホワイトハウスに呼ばれた。日本に関し少人数で議論したいという。
会議が始まるとアル・ゴア副大統領が飛び入り参加し、こうまくし立てた。「橋本龍太郎首相は十分な規模の経済刺激策をとると言ったのに、ウソをついた。彼は世界経済を危険にさらしている」
ゴア氏は2000年の大統領選出馬をにらみ世界経済の減速が自らに不利になると焦っていたのだろう。続けて、こんなアイデアを披露した。
日本を動かす200人の有力経済人を特定し、それぞれの米国内の友人を割り出す。そして、その友人らを介し、橋本首相に何をすべきかを伝える、との内容だった。
どう思うか、とゴア氏は尋ね皆を見渡した。私は現実的でないと思った。他の参加者も同じだったはずだ。誰も提案に前向きな発言はしなかった。数分後、ゴア氏は仏頂面で部屋を出て行った。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】米国では労働者たちが日本車を壊すパフォーマンスが繰り広げられた(1981年3月、イリノイ州)=AP
渡辺恒雄氏が死去 98歳、読売新聞主筆 政界に影響力[2024/12/19 日本経済新聞 夕刊 1ページ 571文字 PDF有 書誌情報]
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男、睦氏。
1950年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを歴任し、91年に同社社長、2002年に読売新聞グループ本社社長、04年に会長に就いた。
1999年から4年間にわたり日本新聞協会会長。「ナベツネ」のニックネームで知られ、政財界に幅広い人脈を築いた。
中曽根康弘氏をはじめ安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相とも親交が深く、強い影響力を持った。2016年に会長を退いた後も代表権を持ったまま主筆を務めた。
1996年からプロ野球巨人のオーナー。2004年に辞任したが、翌年に球団会長に復帰し、14年から16年まで最高顧問に就いた。
1991年から2005年まで大相撲の横綱審議委員会委員、01年から2年間は横審委員長を務めるなどスポーツ界にも大きな発言力を持ち続けた。
08年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。著書に「派閥」「ホワイトハウスの内幕」「ポピュリズム批判」「君命も受けざる所あり」などがある。
06年12月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ジェラルド・カーティス(18) 大臣の誕生 間近で見た組閣の裏側 人事や政策、崩れたシステム(私の履歴書)[2024/12/19 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1366文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏は、首相を辞めたあとも、キングメーカーとして権力を保とうとした。自らが推した宇野宗佑首相が芸者スキャンダルで2カ月余りで辞任すると、今度は海部俊樹氏をかついだ。
同氏が国会で首相に指名される直前のある朝、議員会館そばにある竹下事務所を訪ねた。彼は海部内閣の組閣をほぼ終えたが、閣僚ポストの1つをどうするか悩んでいると言い、紙に表を書いて説明を始めた。左側に派閥名、中央に派閥の人数、右側に各派閥に割り当てるべき閣僚ポストの数、という表だ。
問題は派閥間のバランスの維持と新政権のイメージ向上のため民間から閣僚を一人迎えたいが、受け手が見つからないことだという。
そこへ自民党の幹事長に就いた小沢一郎氏から電話が入った。目星をつけていた作家の曽野綾子氏に閣僚就任を断られたとの内容だった。
竹下氏は、ならば外相ポストに駐米大使の松永信雄氏はどうかと言った。本人は乗り気でないとの感触を得ている、と小沢氏が答えると、竹下氏は「私が頼んでみよう」と言い、電話を切った。
さすがに居心地が悪くなって引き揚げようとすると、竹下氏は「面白いから、いなさい」という。
夜の9時を回っていたワシントンに電話がつながると、彼は過剰なほど丁寧な言葉で松永氏の説得を始めた。
まず夜分遅くの突然の電話をわび、日本にとって今、外交がいかに大事かを説き、ほかに外相を務められる人物はいない、と美辞麗句を並べ立てた。その様子を私はただただ、感心して眺めていた。
松永氏が熟慮して折り返し電話したいと言うと、竹下氏は「大使にそんなことをさせるわけにはいかない。こちらから明日の同じ時間にお電話を差し上げます」と言って静かに圧力をかけた。そして電話を切ると、すぐ私のほうを向き「ダメだな」と言った。
1時間以上も長居して帰る時、竹下氏はエレベーターまで見送りに来てこう言った。
「カーティスさん、あなたは以前、代議士の誕生について書かれましたが、きょうは大臣の誕生がわかったね」
海部内閣が発足した数日後、私は海部邸の夕食会に呼ばれた。
この席には、まさに閣僚就任を断った曽野綾子氏と、その夫で同じ小説家の三浦朱門氏がいた。ほかに哲学者の梅原猛氏と経団連事務総長の三好正也氏が招かれていた。
海部氏は、招待者に所信表明演説の助言を求めた。驚くことに、政策に関しては官僚が演説を用意していて個人の見解を表明する余地はほぼない、と言い切った。
代わりに「日本人のアイデンティティー」について何を言うべきか意見を聞きたいという。私は「日本人にアイデンティティーの危機はない。むしろ様々な人種、民族や宗教が混在する米国のほうが問題だ」と言い、「日本人は自らの特異性を強調しすぎていないか」と私見を述べたが、反応は鈍かった。私は残りの時間、聞き役に回った。
当時は閣僚人事は派閥の力学を操る自民党内の実力者が差配し、政策は官庁が握っていた。時を経て良くも悪くもこのシステムは崩れた。
権力は首相官邸に集中し、野心ある官僚は「忖度(そんたく)」して官邸が嫌うことは言わない。派閥も解消されたが、これに変わる統治の仕組みも見えない。失敗を繰り返した政治改革の歴史から、今度は学ぶことができるのだろうか。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】松永氏(右)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(17) 竹下登氏 政治の駆け引き、楽しむ 反発招いた消費税導入に誇り(私の履歴書)[2024/12/18 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1304文字 PDF有 書誌情報]
竹下登氏との出会いは1970年代の初めだ。彼はニューヨークに来た超党派議員団の一人で、夕食会の後、社会党の河上民雄氏と3人でホテルのバーに行った。
もともと政治学者だった河上氏はコロンビア大に1年在籍したことがあり、当時、大学院生だった私は親しい友人になっていた。だが、その日は時差ボケでバーに着くとテーブルに突っ伏して寝てしまい、竹下氏と私が2人で話すことになった。
彼は政治を心底楽しんでいるのが分かった。話は明け透けで面白く、気がつくと時計の針は夜中の0時を回っていた。以降、東京で度々会うようになった。
当時、自民党では地方政治を経て国会議員となった党人派と高級官僚出身の官僚派がにらみ合っていた。
政策通を自任する官僚派は党人派を「どぶ板政治家」と蔑んだ。だが党人派には政治のプロとしての自負があり、選挙民のことを手に取るように知っていた。そして権力闘争や駆け引きを楽しんだ。竹下氏はその一人だった。
印象に残る出来事がある。78年11月、現役の福田赳夫首相が、自民党総裁選で対抗馬の大平正芳氏に敗れた数日後のことだ。大平氏の予想外の勝利に、田中派の一員として尽力した竹下氏は事務所で満面の笑みを浮かべていた。
この総裁選で自民党は党員が投票する予備選挙を初めて導入した。党の全国組織委員長だった竹下氏は、田中派議員の後援会の人々を党員として大量登録し、大平支持票の積み上げに奔走した。勝利を確信していた福田氏は油断し、大平氏に大差で負けた。
福田氏は国会議員による本選で戦う手もあったが「予備選で負けた候補は本選挙出馬を辞退すべきだ」と言っていたため諦めるほかなく、在任2年で首相も辞任した。
竹下氏は戦いのいきさつを詳細に語り、しきりに「面白かった」と振り返った。
9年後の87年に首相になった彼も、1年半あまりで辞任を迫られた。消費税導入とリクルートの未公開株をめぐるスキャンダルで、支持率が急落したのが理由だ。
辞任から数週間後の1989年6月、自宅を訪ねると竹下氏は庭に咲く蘭(らん)をじっと眺めていた。そして、運ばれてきたお茶を飲みながら、静かに心境を明かした。
消費税が国民の反発を招くのは分かっていたが財政安定には必要で、実現させたことは誇りに思う、と言った。
リクルート事件については「昔は許されたことが今は許されない。時代が変わったので、しかたがない」とつぶやいた。
それから、ふいに笑みを浮かべて、田中角栄氏と当時実力者だった金丸信氏のお金の配り方の違いを知りたいか、と私に聞いた。
いわく金丸氏は政治資金をもらいに来る議員に封筒入りの札束を渡すとじっと見つめ、議員が中の1万円札を数え、礼を言うまで待つ。
一方、田中氏は相手が封筒を開けようとするとそれを制し「よしゃ、よしゃ、これを持って帰って頑張れ」と送り出す。議員が後で封筒を開くと、予想を超える札束が入っていたという。
竹下さんはどちらですか、と私は聞きかけてやめた。彼の模範がいつも田中氏だったことは、聞かずともわかったからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューヨークの筆者の自宅を訪問した竹下登氏夫妻
ジェラルド・カーティス(16) 中曽根康弘氏 「国際的なナショナリスト」 知られざるリベラルな側面(私の履歴書)[2024/12/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1370文字 PDF有 書誌情報]
私が1966年に再来日して出会い、旧大分2区を舞台に「代議士の誕生」を書くきっかけを作ってくれた中曽根康弘氏は、その後も会いに行くと時間を割いてくれた。
出会いから16年後の82年には首相となり、5年にわたりその座にとどまった。
その間、国内では国鉄や電電公社の民営化を進める一方、日米同盟の重要性を唱えてロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築くなど外交にも力を入れた。
日米の首脳がファスト・ネームで呼び合う習慣はその後も続いたが、「ロン・ヤス」は本物だったと思う。
米国の影響下で起草された憲法の改正を主張し、首相になっても「戦後の総決算」を訴えた。右派のナショナリストとの印象があるが、私は「国際的なナショナリスト」という表現が正しいと思う。
偏屈な日本中心の視点ではなく、世界における日本の立ち位置を常に考えつつ、洗練された目で外交・国際問題を観察していて学ぶことが多かった。教養があり、哲学的に深い人物だった。
強く印象に残るのが憲法改正をめぐる考え方の変化だ。2013年2月のインタビュー時にこう発言した。
「憲法の改正はだんだん遠ざかる。一般の人たちはそれほど改正の必要を感じない。憲法の独自性とか、誕生の秘密性とか、そういう問題は我々の時代には非常に強かったが、時間がたってみたら、そのような意識はほとんどなくなって、中身が良いか悪いか(が大事になり)そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている」
日本は歴史上、外のものを多く輸入、消化し、自分のものとしてきた。憲法も誕生の過程はともかく、時を経て日本国民に受け入れられたのだから全面改正の必要はなく、不都合な部分に手を入れればいい。そういう思いなのだと私は受け止めた。
在任中の1985年、中曽根氏は首相として初めて終戦の日の8月15日に靖国神社を公式参拝した。これに関しても2006年に長時間のインタビューをした。
戦死した英霊を国として正式に靖国神社で追悼する必要から参拝したが、アジア諸国への波紋も考慮し一回限りにした、との現実主義的な判断を明かした。A級戦犯の合祀(ごうし)やアジアへの侵略戦争を正当化する神主には厳しい言葉を投げかけた。
このインタビューは予想される政治的な影響に配慮して当時はお蔵入りとなったが、19年に書籍掲載の許可を求めると、オーケーが出た。
中曽根氏には知られざるリベラルで個人主義的な側面もあった。11年、恒例の「今年の漢字」が「絆」だと公表されると残念がった。理由を尋ねると「日本には絆による悪いしがらみも多くある」と述べ、個人を過度に縛る家族や反社会勢力の絆を挙げた。
私との関係は大事にしてくれた。10年に私がアークヒルズでサクソフォーン奏者の渡辺貞夫氏とジャズ公演をすると知ると、90歳を超えた中曽根氏は観(み)に行きたいと言って足を運んでくれ、私のピアノのすぐ横の席から身を乗り出して演奏を見守っていた。
最後に会ったのは100歳の時。国際情勢への関心をいささかも失っていなかった。
翌年、101歳で大往生した。少し前にほほ笑みながら読んでくれた自作の詩を思い出した。「夢見るのは飽きた。今は寝るだけだ」
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏とは亡くなるまで関係が続いた
ジェラルド・カーティス(15) 中国訪問 鄧氏と会談、白黒の記憶 南京で迷子になり赤面(私の履歴書)[2024/12/16 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1378文字 PDF有 書誌情報]
1981年の5月、デビッド・ロックフェラー氏をはじめ日米欧三極委員会の一部メンバーと中国を訪れた。
毛沢東の死去で5年前に文化大革命が終わり、その2年後に最高権力者となった鄧小平氏が改革開放へとかじを切った大変面白い時期だった。
この訪問は私の中で白黒写真のように記憶されている。人々の服も、街も、何もかもが灰色にくすんでいた。
自転車が主な交通手段で、1人当たり国内総生産(GDP)は290ドルと日本の1万500ドルに大きく劣った。
鄧氏の登場で発展への期待は高まっていたが、現地で会った側近らは慎重だった。
彼らは58年の大躍進から文化大革命に至る経済政策の混乱を厳しく批判し、その爪痕の大きさを指摘した。同時に混乱は毛沢東への個人崇拝の副産物であり、その芽は摘まれたとも強調した。
鄧氏本人との会談は、ある午後遅く、小さく飾り気のない部屋で行われた。会談を社交行事でなく、実務的なものにしたいとの意図だろう。
鄧氏は質問に答えながら、1時間半にわたり高度な経済成長を実現する自らの計画を語った。日米欧が中国と足並みをそろえ、世界平和への最大の脅威であるソ連の覇権主義に対抗する必要があるとも強調した。小柄な体の隅々から力がほとばしっていた。
鄧氏とロックフェラー氏が並んで部屋の前に座り、残りの参加者と向き合う座席配置で、二人の間、鄧氏のそばに唾壺(だこ)が置かれていた。
時折、鄧氏がロックフェラー氏側に体を傾ける形で、その中につばを吐いた。そのたびにロックフェラー氏は小さくのけ反った。
台湾の扱いは、会談終盤に訪問団の一人が聞かなければ話題にならなかっただろう。聞かれると鄧氏は「10年、50年、あるいは100年かかるかもしれないが、台湾は本土と統一されよう」と答えた。
この問題は棚上げし目の前の課題に集中しよう、とのメッセージは明らかだった。
ただ鄧氏の言葉に訪問団の一人は反応した。後にドイツ首相となるシュレーダー氏が突如立ち上がって言った。
「10年、あるいは50年かかるかもしれないが、ドイツもいつか統一する」
そのわずか9年後、東西ドイツが統一するとは、彼も思っていなかったのだろう。
今日、台湾問題は棚上げ状態を解かれ、米中緊張の大きな要因になっている。
個人崇拝を防ぐ集団指導の仕組みも、習近平国家主席によって骨抜きにされた。そして毛沢東並みの権力者が、再び中国に誕生した。鄧氏の側近たちが心配した過ちが、まさに繰り返されつつある。
さて北京での会議後、参加者の一部は南京、杭州、上海を回った。南京の思い出は、白黒どころか真っ赤だ。自身が迷子になって赤面したせいだ。
玄武湖公園の美しい景色に見とれ、振り向くと一団が乗るバスが去っていた。
その場で待てばいいのに、私は南京駅に向けて歩いた。そこからホテルに戻ろうと思ったのだ。
だが公園を出るとすぐ方向感を失った。何とか駅に着いて途方にくれていると公安警察に発見され、ようやくホテルに戻ることができた。
旅の友の一人で、70年代前半に駐日米大使だったロバート・インガソル氏は、その後も会うと必ず南京の迷子事件を持ち出し私を冷やかした。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ロックフェラー氏らとともに中国を訪問し鄧小平氏と会談(前から2列目中央、ロックフェラー氏の後ろが著者)
ジェラルド・カーティス(14)カーター政権 日米中関係、NSCで議論 政権参加の誘いも幻に(私の履歴書)[2024/12/15 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1337文字 PDF有 書誌情報]
日米欧三極委員会は、1973年にチェース・マンハッタン銀行会長だったデビッド・ロックフェラー氏が創設した。
世界で存在感を高める日本と米欧の先進民主主義国の有力者らをつなぎ、対話を促すことが主な狙いだった。米欧の有力者らと交流を深めたい日本の経済人や政治家は、強い関心を向けた。
その三極委員会の年次総会に出席するため私は1975年5月、京都を訪れた。
ホテルから会議場に向かう貸し切りバスの中で、1人の男性が通路を歩きながら同乗する一人ひとりと言葉を交わしていた。「こんにちは。私はジミー・カーターといいます。ジョージア州知事で大統領選に立候補しています」
名前は知っている、という程度の知識しか私にはなかった。他の会議参加者も彼が次の大統領になるとは考えてもいなかったはずだ。だが三極委員会を率いていたズビグネフ・ブレジンスキー氏はそうなると信じていた。
彼は、1976年の大統領選でカーター氏の政策アドバイザーとなり、翌年カーター政権が発足すると、ホワイトハウスの国家安全保障担当補佐官に就いた。
コロンビア大の政治学部で私の同僚だったブレジンスキー氏は、ソビエト連邦の専門家ながら国際問題全般に幅広い知識を持っていた。
そして大学で研究を続けるより、ワシントンで現実の政策づくりに携わりたがっているのは明らかだった。
カーター政権の4年間、私は頻繁にワシントンに出かけた。日米の議員交流をめぐって議員らと話す傍ら、ブレジンスキー氏や米国家安全保障会議(NSC)の人々と議論する機会も増えたからだ。
NSCで特によくやりとりしたのは中国の専門家で、やはりコロンビア大の同僚でもあったマイク・オクセンバーグ氏だ。ニクソン政権が道筋をつけた中国との国交正常化についてカーター大統領とブレジンスキー氏が詰めていて、米日中の3カ国の関係について意見を求められた。
忘れられないのは最年少の35歳で東アジア・太平洋担当の国務次官補となったリチャード・ホルブルック氏で、同氏が主催する東アジア政策に関するブレーンストーミング会合は印象深かった。
国務省の名物だった彼は不(ぶ)躾(しつけ)で喋(しゃべ)りすぎ、上司がいてもお構いなしに、あらゆる議論を仕切りたがった。だが彼はとびきり頭が切れ、主張もしっかりしていた。
彼には国務長官になる明確な目標があり、クリントン政権で駐ドイツ大使や国連大使を歴任した。その間、会うことはなく、久しぶりに再会したのは2000年代初め、投資家のジョージ・ソロス氏がニューヨーク市マンハッタンの5番街にある自宅で催した朝食会でのことだった。
彼は全く変わっておらず、日本について話した私を含め数人が短いプレゼンテーションをする間、ずっと電話を受けたりかけたりしていた。
結局、彼は国務長官になる夢を達成できないまま、10年12月に職務中に倒れて亡くなった。
カーター政権の4年目、私はホワイトハウスのNSC幹部からの電話で政権に参加する意向がないかと尋ねられた。だが1980年の大統領選はロナルド・レーガンの勝利に終わり、私は決断に悩まずに済んだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】1975年の日米欧三極委員会に参加する筆者(右から2人目)
ジェラルド・カーティス(13) 三木武夫氏 電話で聞いた政争の裏側 着物にたまるピーナツの殻(私の履歴書)[2024/12/14 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
初めて三木武夫氏と会ったのは1971年だ。日本は米大統領の訪中宣言、ドルと金の兌換(だかん)停止の二つのニクソン・ショックに揺れていた。
日米関係の懸念について語った私のインタビューが雑誌に載り、読んだ三木氏から声がかかって事務所を訪ねた。話は弾み渋谷区南平台の自宅に招かれるようになった。
三木氏は戦前の37年に初当選し、戦中も大政翼賛会の公認なしで当選し続けた。そんな彼の話は、日本政治を研究する私には大変貴重だった。マッカーサー元帥から首相就任を打診され断った経緯なども話してくれた。
自宅を訪ねたある夕刻、彼は着物姿でくつろいでいた。ソファに並んで話しながら卓上の鉢に入ったピーナツを次々と口に放り込んだ。むいた殻は着物の前にたまる。それをみた睦子夫人に叱られると素直に立って殻を払った。仲睦(むつ)まじい夫婦だった。
74年、田中角栄首相が金権政治を批判され在任2年強で退くと三木氏が後を継いだ。彼のクリーンなイメージで党勢の回復を狙った自民党の実力者らは、弱小の三木派なら操りやすいとも考えた。だが思惑に反し彼は政治改革に本腰を入れ、党内に「三木おろし」の旋風が吹いた。
76年夏、東京に戻った私は三木氏の右腕になった同時通訳者の国弘正雄氏を通じ面談を依頼した。南平台の自宅前は新聞記者が集まっているため電話で話すことになった。
滞在先の宿舎には10円玉を入れて話す赤電話しかなかった。三木首相との電話は長引き、翠は押し入れにかかった背広のポケットを探り、ハンドバックをひっくり返して10円玉をかき集めてくれた。
三木氏は後釜を狙う福田赳夫氏と大平正芳氏が官邸に来て、党の支持を失ったから辞任せよと迫った、と明かした。彼はこう応じたという。
「私を党の総裁にしたのは自民党だから辞めさせたいなら辞めさせればいい。だが私を総理大臣にしたのは自民党でなく国会だ。辞めさせるなら、どうぞ不信任案を出しなさい。ただ、その場合、私はどうするか分かりませんよ」
衆院の解散や自民党の分裂を匂わせ脅かしたのだと三木氏は説明した。そして笑いの混じった声で「福田も大平も顔色が変わって、慌てて去っていったよ」と言った。
「私はずっと首相を続ける気はない。だが首相を選ぶ権利は自民党でなく国会にある。カーティスさん、日本の政治には憲政の常道が大事だ」
「憲政の常道」は明治憲法下で育ちつつあった政党政治体制の慣習を示す言葉だ。戦前からの政治家である彼にとって、戦前と戦後の政治は連続しているのだと感じた。
結局、三木氏は首相にとどまったが、衆院の任期満了に伴う12月5日の総選挙で自民党は結党以来初めて、衆議院で公認候補の当選者数が過半を割った。三木氏は辞任し福田氏が首相に就いた。
首相退任の数日後、国弘氏から連絡があり、神奈川県の真鶴にある三木氏の別荘に招待された。こぢんまりした木造の家屋で、応接間からは太平洋が見えた。
話を楽しみにしていたが、政争で疲れ果てた三木氏は食卓に座ったまま首を傾け、すぐ眠りに落ちた。睦子夫人と翠、国弘氏と私が小声で話していると彼は時折目を覚まし、ピーナツを口に放り込んではまた眠った。それが三木氏と会う最後の機会となった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】三木武夫氏の別荘で。右から三木氏、筆者、妻の翠、国弘氏
ジェラルド・カーティス(12) 国際結婚 恩師の交友が縁で出会う 夫婦げんかは「文化」のせい(私の履歴書)[2024/12/13 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
妻の翠(みどり)とは1968年に出会った。日本から来たばかりの21歳の彼女は、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで広告デザインを学んでいた。
この出会いは、コロンビア大のハーバート・パッシン教授と翠の父親、深井武夫との交友のおかげだ。
武夫は南満州鉄道に勤める技術者の息子として中国の大連で育った。立教大に入学時、初めて日本の地を踏んだ。
卒業後お見合い結婚して中国に戻り、華北綜合調査研究所に勤めた。終戦後は身ごもっていた妻の妙子と本国に引き揚げ、妙子の実家がある神戸で翠が生まれた。
「翠」は中国で重宝される翡翠(ひすい)にちなんだ名前だ。武夫が帰国時、中国人の友人は自らのつてで家財を売って必要な資金を作ってくれた。「中国人は情が深い」と武夫は翠に言っていた。
妙子も商社勤めの父の転勤先、インドの旧ボンベイで生まれ、インドネシアのジャカルタで育って11歳で日本に渡った。ともに外地育ちの両親は国際的で進歩的な視野をもち、武夫は翠に「女でも、何でも良いから自分のものを持ちなさい」と言い聞かせた。
戦後、時事通信社に入った武夫はGHQ(連合国軍総司令部)の民間情報教育局にいたパッシン氏に世論調査を学び、その推薦でコロンビア大とミシガン大に留学した。パッシン宅のパーティーに翠がいたのはそんな縁からだ。
出会った翌日、私は翠を食事に誘い、付き合い始めた。だが数カ月後、武夫のがんが発覚し帰国してしまう。
マッキャンエリクソン博報堂でアートディレクターとなった翠は働きながら弟の純とともに看病を続けた。武夫は1年後、54歳で亡くなった。
「始めたことをやり遂げなさい」との生前の父の言葉に従って翠は73年にニューヨークで復学し、2年後に卒業した。74年、私たちは結婚し、二人の娘に恵まれた。
翠は子育ての傍らコロンビア大で著名画家ジェーン・ウィルソンの実技講座を受講した。やがて芸術学部の修士課程で学びたい気持ちが湧き願書を出したが、不合格だった。
翌年、翠はバスでウィルソン氏と会い、娘たちは小学生になったか聞かれた。なったと答えると「では、また願書を出したらいい」と言われた。前回の不合格は幼児がいては学位取得は難しいとの判断からだ、との示唆だった。
願書では20の作品のスライドに、写真2点を追加した。「創造1」は8歳のエリサ、「創造2」は6歳のジェニファーだった。翠は入学を許され、講義や版画制作を心から楽しんだ。
卒業時、版画の教授は仕事を続けるならスタジオが必要だと指南した。翠はニュージャージー州に100人もの芸術家が集う元倉庫のスタジオをみつけ、子供を学校に送ると地下鉄で通った。夢だった版画家になった翠は以来、多忙な職業人生を送っている。
ある夕食会で翠の隣に座った元財務官の細見卓氏は「奥さん、良妻賢母などになろうと思わない方が良いですよ。男が『家が一番良い』と言い出したら、だめです」と言った。翠は「励ましの言葉で嬉(うれ)しかった」と振り返る。
国際結婚は大変でしょうと言われるが、他の結婚を知らないので戸惑う。どんな結婚も時折、誤解は起きる。ただ夫婦げんかを終わらせるのは楽だ。「やっぱり文化が違うからね」と、互いでなく文化のせいにすればいいからだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】結婚披露宴で妻の翠と
ジェラルド・カーティス(11) 下田会議 民間対話で理解深め合う 日米の政治学者、育んだ友情(私の履歴書)[2024/12/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1399文字 PDF有 書誌情報]
1960年代後半、日米関係は緊密さを増しつつ経済や安全保障面のほころびも目立ち始めていた。理解を深め合うには、政府間とは別に民間の対話が必要になっていた。
これを担ったのが1967年に初会合を開いた下田会議だ。以降27年間、日米の識者が両国の懸案を語り合い、政府に助言する場となった。
先にお話しした日米議員交流も第1回下田会議の席上、マイク・マンスフィールド米上院院内総務が提案して生まれた。その流れもありコロンビア大のパッシン教授が下田会議と日米議員交流の双方のまとめ役を務めていた。
だが69年の第2回下田会議では、期せずして私がその大役を担うこととなる。打ち合わせで東京を訪れた時、パッシン教授が私にまとめ役を委ねたい、と日本側の担当者を前に提案したのだ。
まとめ役の「共同エディター」は日米に一人ずついて、協力して議題の設定、会議後の共同声明の起草や論文集の編集を行う。パッシン教授は新鮮な視点をもつ若い私が適任だと説明した。
これに日本側事務局を率いる山本正氏は難色を示した。日本側エディターは私より13年も年配で、すでに外交問題の権威だった神谷不二氏。博士号もとっていない若年の私ではバランスがとれない、との言い分だった。
パッシン教授は会議前に私は博士になるし、神谷氏も賛成するはずだと応じた。結局、山本氏は折れ、神谷氏も快く提案を受け入れた。
その後、山本氏は40年にわたり付き合う親友になった。幸先の悪い出会いが深い友情へと発展しうる好例だ。彼はほどなく日本国際交流センターを設立し、下田会議や議員交流のほか、多くの民間外交の枠組みを担ってゆく。
第2回の下田会議は69年9月、静岡県下田市のホテルで開催した。初日、ひやりとする事件が起きた。
右翼活動家の赤尾敏氏が日章旗を掲げたヤクザっぽい男たちを従えてホテルのロビーに現れ、会議に参加する日本の政治家の道徳的な荒廃などを大声で批判した。その後、会議場に乱入しようとして警官隊に取り押さえられた。
翌日は日本労働組合総評議会(総評)が押しかけた。米帝国主義に反対する声明を無感情に読み上げる姿に迫力はなく、内容に説得力がないと自覚しているようだった。
無事始まった会議の焦点は安全保障問題だった。
日本側は米国の関心が中国に移り、日本との関係を十分考慮せずに同国と国交を回復させるのではと心配した。
参加者の1人は、1960年代前半に駐米大使だった朝海浩一郎氏がみたという悪夢に言及した。朝起きたら米国が日本に通告なく中国を承認していたという悪夢だ。
米側は沖縄返還が日本に及ぼす影響に関心を寄せた。返還後は日本がより防衛上の責任を果たすとの期待の一方、ナショナリズムの高まりで日本が軍事大国化をめざすのではと懸念する声も出た。
下田会議は私にとって、現実主義に徹した新世代の国際政治学者と知り合う機会にもなった。神谷氏や東京大の佐藤誠三郎、京都大の高坂正堯らの各氏で、彼らは政府に求められれば助言をしたが、御用学者からは縁遠く、必要とあれば公然と批判もした。
厳格な学術的研究を行う傍ら自らの考えを広く一般に伝える努力も惜しまなかった。私は彼らから多くを学び、新たな友情も育んだ。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】69年の下田会議で米国側のエディターをつとめた筆者(左から2人目)。左端は日本側エディターの神谷不二氏
ジェラルド・カーティス(10) 日米議員交流 貿易・外交ぶつけ合う主張 地元へ補助金誘導、どの国でも(私の履歴書)[2024/12/11 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1350文字 PDF有 書誌情報]
日米の議員交流プログラムがうまく立ち上がったのは、太平洋の反対側で力を増す経済大国をもっと知りたいと願う若き議員らのおかげだ。
その多くは、後に米政府で重責を担い、日本の政治家とも関係を保ち続けた。
トーマス・フォーリー、ドナルド・ラムズフェルド、ハワード・ベーカー、ウォルター・モンデール、ノーマン・ミネタの各氏は、日本をより深く理解したいとの思いがとりわけ強かった。
フォーリー、ベーカー、モンデールの3氏は駐日米国大使として政治家人生を締めくくった。第43代ジョージ・ブッシュ大統領のもと国防長官に就いたラムズフェルド氏も、実は駐日米国大使への指名を望んでいたとされる。
1970年代前半という時代ゆえ、日本経済の急成長がもたらす好機と課題に焦点が当たったのは当然だろう。日米の貿易摩擦や、これに伴う日本の外交戦略の変化の可能性、さらには沖縄返還や米中接近の意味合いをめぐり双方が主張をぶつけ合った。
驚いたのは、政策でなく政治に話題が移ると双方の議員の距離が一気に縮まったことだ。対照的な文化、選挙の制度やルール、慣習の違いにもかかわらず、選挙民の支持をどう勝ち取るかの手法は根底の部分でごく似通っていることを議員らは発見した。
首都と選挙区を行き来して政府の補助金を地元の開発事業に誘導し、有権者に恩を売って政治資金を集める。そうした日常は、日米だけでなく選挙で選ばれるどの民主主義国の議員でも共通だった。
会議中、ある米側議員が熱心にメモをとっていた。後ろを歩きながらのぞくと選挙区の支持者宛ての絵はがきが束になっていた。会議が米ワシントンで開かれた時には、日本側の政治家も、同じく後援会の支援者宛てにポストカードを書いていたはずだ。
会議期間中、夕食で1日の日程が終わると米側議員らは宿泊先のホテルオークラの誰かの部屋に集った。話し上手な共和党と民主党の議員が一堂に会し、ウイスキー片手に明け透けに語り合う会は、いつも大いに盛り上がった。
ある夜、ボトルも空いてきたころ議員の1人が日本の議員から「根回し」という言葉を聞いた、と話した。公式の会議前に意見をすりあわせる非公式な相談だと説明した上で、「米議会でも同じことをしているのにネマワシのようなきちんとした言葉がないのは残念だ」と言った。
「ならばネマワシを米議会でも流行らせよう」と別の議員が提案し、一同が賛同した。そのようなわけで米議会ではしばらくの間、一部議員が「この問題では、もっとネマワシが必要だね」などと言い合っていた。
結局、ネマワシの言葉は米国では浸透しなかった。50年前の私は、妥協なしに主張をぶつけ合うだけの政治がここまで米国で広がり、合意を得ようとの意志さえ失われるとは想像もしていなかった。
今日と違い、当時の議員らには所属政党にかかわらず、ある種の仲間意識があった。共和、民主の両党は政策をめぐり衝突しても互いを尊重し信用していた。妥協こそが民主主義的な政府を機能させる肝だとも信じていた。
こうした考えが失われつつあるのは残念であり心配だ。しかも事態は改善するどころか、ますます悪化しているように映る。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日米の議員交流を通じ両国の橋渡しに尽力した(奥の中央が筆者)
ジェラルド・カーティス(9) 学者の誕生 好条件の誘いに即決 コロンビア大の職員に(私の履歴書)[2024/12/10 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1351文字 PDF有 書誌情報]
衆院選が終わって半年ほどの1967年夏、皆に別れを告げ別府を去る時が来た。
私は大量のメモと研究成果をスーツケースに詰め込んでニューヨークへ戻り、早速、博士論文の執筆にかかった。
日本の草の根の政治について描きたいことの輪郭が次第に整い始めていた11月のある日、モーリー教授から連絡が入った。中西部にあるイリノイ大学が春学期に日本政治を教える教員を探していて、めったにない機会なので受けるべきだと勧められた。
講義が始まるのは、ほんの2カ月先の1月だった。博士論文の執筆にはまだまだ時間がかかると教授に伝えると、必要な書類を持って行き、現地で教えながら論文を書けばいいという。私は言われる通りにすることにした。
大学で教えるのは楽しかったが、キャンパスのあるアーバナ・シャンペーンに住むことはニューヨーク育ちの私には耐えがたかった。
端的に言えば、トウモロコシ畑の海に浮かぶ離れ小島に隔離されたような気分になったからだ。
早くニューヨークか東京に戻りたいとの気持ちが日々募り、学期が終わる頃には次の仕事が見つかるか否かにかかわらず、ここを離れようと心の中で決めていた。
ちょうどそんな時、コロンビア大の社会学者で著名な日本専門家、ハーバート・パッシン教授から電話が入った。
コロンビア大の東アジア研究所がフォード財団の支援で日米の議員交流プログラムを立ち上げる予定なので、コロンビア大に戻って手伝ってほしい、との趣旨だった。
さらにコロンビア大の政治学部が私を職員にし、当初は講師、博士号をとれば助教授にする予定だとも告げられた。あまりのタイミングと条件の良さに、私はその場で申し出を受けた。
イリノイ大学での講義が終わって数日後、私は早々に荷物をまとめるとニューヨーク方面へ車を発進させた。
早く戻りたい一心だったのだろう。気付かずに時速100マイル(約160キロメートル)近いスピードを出していたようで、そう走らないうちに高速道路で警官に止められた。地元の警察署まで誘導され、結構な額の罰金を払わされた。
そこからは安全運転でニューヨークに戻り、無事にコロンビア大学で働き始めた。1968年秋のことだ。翌年、博士論文の口頭試験を無事に通ると助教授に昇格した。
比較政治論と日本政治について教える傍ら、私はパッシン教授とともに米日の議員交流プログラムの立ち上げに奔走した。
ワシントンに行き、プログラムに参加し東京に行ってくれる議員を募った。国務省にも立ち寄り、儀礼的に日本部長に話を伝えた。
無愛想な部長は、挨拶もそこそこに思いをぶちまけた。いわく日米関係は国務省がうまくかじ取りしており、素人が首を突っ込んでくるのを快く思っていない、何もしなくて結構、とのことだった。
その姿勢と振る舞いには、占領時代の発想が滲(にじ)み出ていた。日米関係は国務省と国防総省が「占有」しており、この先もそうあり続けるべきだ、との発想である。
それでも我々はめげずに議員交流プログラムの立ち上げに力を注いだ。結果的に日米で超党派の多くの議員が関心を示し、誰も予想しない成果を生むことができた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】パッシン教授(中)と日米の議員交流に奔走した。左は日本国際交流センターの山本正氏
ジェラルド・カーティス(8) 代議士の誕生 地方の実情、「選挙の教科書」 佐藤氏の器の大きさに感謝(私の履歴書)[2024/12/08 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1349文字 PDF有 書誌情報]
成功とは能力、努力と運のたまものだという。多くの人は自らの成功を誇り、運が果たした役割を軽視しがちだ。
日本の選挙事情を追った「代議士の誕生」が1971年の出版時から注目され今も読み継がれているのは、多分に運に負う部分が大きい。
別府駅に到着した私をわざわざ迎えてくれた佐藤文生候補が寛大な人物で、選挙運動をつぶさに観察させてくれたのは大きな幸運だった。
佐藤夫人が私を一家に温かく迎えてくれたのも、中学、高校、大学生の3人の息子さんが丁寧に大分弁を教えてくれたのもそうだ。
おかげで佐藤氏の後援会の会合で挨拶を求められたときは、まず「めんどしいけんど(恥ずかしいですが)」と前置きして大分弁で話し、打ち解けることができた。
「インタビューを頼まれたら応じてやってくれ」という佐藤氏の口添えもあり、多くの支援者らが地方での政治の実情を率直に語ってくれた。
後援会の酒席でも佐藤氏に付いてお流れを頂戴し、支援者と語ることができた。内輪の会合に顔を出した外国人を警戒する人々もいたが、酔いで立てなくなるまで杯を交わすと「根性がある」と認められ仲間として迎えてくれた。
やがて選挙参謀の秘密会合にも立ち会うことを許され、票や金銭の微妙な話も見聞きさせてもらえた。
選挙が近づくと選挙区内の各所から幹部の運動員がやってきて、選挙参謀と足りない票数などについて話す。そして車に「選挙ポスター」の束を乗せて去って行く。
実際に中に入っていたのはポスターでなく100円や500円の札束だった。幹部らは自らの取り分を抜き、残りを集票担当の下位の運動員たちに「足代」として配った。
戸別訪問を禁じた選挙法をかいくぐるため当時の別府市長は故人への挨拶を装った。「ごめんない」といって支持者宅に上がり仏壇に封筒を置いて手を合わせたが、封筒の中身は誰もが知っていた。投票への事前のお礼だった。
政治家はどの国でも、政治資金の規制をすり抜ける天才だ。それ故に今日の政治改革をめぐる議論は的外れに感じる。選挙には良くも悪くもお金がかかり、足りなければ政治家は合法か否かにかかわらず何らかの手段で資金を集める。そうでなければ金持ちだけが政治を担うことになる。
むろん、どこかにタガをはめないと、米国のように事実上無限にお金を使える狂った仕組みになる。だが大事なのはパーティー券の金額上限といった規制ではなく、透明性だ。お金の出入りに厳しい情報公開を義務付けることが、後ろ暗い資金の流れを断つにはよほど有効だ。
私の幸運に話を戻せば、佐藤氏が選挙に勝ったのは何よりの僥倖だった。彼が負けていたら、私の博士論文はものにならなかったろう。
後日談になるが、この博士論文をコロンビア大出版会が書籍化した後、思いがけず日本語の訳書の話が持ち上がった。佐藤氏にこれを告げるとショックを受けた様子だったが、すぐに「君を信頼する」といって出版前に原稿を見たいとも言わなかった。
当初はサイマル出版会、今は日経BPから出ている日本語訳は、政治家にも「選挙の教科書」として広く読まれ、私の人脈も広げてくれた。
佐藤氏の器の大きさには感謝するばかりだ。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】佐藤文生氏が初当選した1967年衆院選の投票を見守る筆者
ジェラルド・カーティス(7) 博士論文 別府で見た選挙の実態 中曽根氏の紹介、佐藤邸に居候(私の履歴書)[2024/12/07 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1374文字 PDF有 書誌情報]
博士論文の調査のため日本に戻ったのは1966年、25歳の時だった。
その少し前、コロンビア大で日本語の文献講読を指導してくれた大学院の先輩、岡本俊平氏と食堂で昼食をとっていると、父親の友人の国会議員に頼まれ選挙運動を手伝った話が出た。聞くうちに「これは面白い」と思った。
当時、私は吉田茂の研究のための奨学金を得ていたが、机に座って書けるような論文には気が乗らなかった。
日本に戻り選挙を通し草の根の民主主義の実情を研究しよう。そう考え研究内容の変更を申し出たらモーリー教授の支援もあり認められた。
東京に着いてすぐ、モーリー教授の教え子で、ライシャワー駐日大使の報道官だったナサニエル・セイヤー氏に電話した。赤坂の外堀通り沿いにあったホテル・ニュージャパンで会い、論文の構想を話した。すると有力議員の秘書を紹介するよと言い、歩いてすぐの一ツ木通りにある議員事務所に向かった。自民党の中曽根康弘氏の仮事務所だった。
秘書の小林克己氏に構想を説明すると裏の部屋に消え、戻ると中曽根とじかに話してくださいと言う。案内された部屋には長身で見栄えのする48歳の中曽根氏がいた。カリスマがあり重要人物の雰囲気が漂っていた。話を聞き、すぐ協力を申し出てくれた。
当時、日本の研究者にはライシャワー氏のように戦前、宣教師の家族として日本に住んだ第1世代、そしてモーリー教授、ハーバート・パッシン教授や日本文学のドナルド・キーン教授のように戦中に米陸軍や海軍の日本語専門学校で学んだ第2世代がいた。
私は戦後の第3世代だ。米欧とは違うものの成功した日本の民主主義に好奇心を抱き、その仕組みを理解しようとの姿勢が第3世代の特徴だ。中曽根氏は、それを好意的に受け止めたのだと思う。
どの政治家を研究するのがいいだろう、と彼は数人の候補を挙げた。東北と鹿児島の選挙区も挙がったが、方言に苦労するだろうと選択肢から外した。残ったのが別府市がある旧大分2区だった。
前回の選挙は負けたが今回は有望という佐藤文生氏に中曽根氏は電話し、私の世話を頼んだ。佐藤氏が断れるはずもない。受話器を渡された私が「よろしくお願いします」と言うと「どうぞおいでください」と返事が返ってきた。
翌日、私はスーツケースと電子タイプライターを手に寝台列車に乗った。天井に頭がぶつかるほど狭い寝台で始まった酒盛りに私も交ぜてもらい、楽しい旅路となった。
翌朝、別府駅で地元新聞の取材を受けた。私にとって初の記者会見だ。掲載された記事は私を「青い目の研究者」と呼んだ。西洋から来た外国人への当時の人々の思い込みだったが、茶色い私の目が青く見えるのが不思議で、何度も鏡をのぞき込んだ。
まず直面した問題が滞在先だ。別府に温泉旅館は多いが、長期滞在できる先がなかった。困っていると佐藤氏の夫人が「うちに泊まりなさい」と言ってくれた。これは大変ありがたかった。
さらに幸いだったのは居候した部屋が応接間の隣で、選挙資金などの際どい話が筒抜けだったことだ。「どうせ聞こえるんだから来なさい」と佐藤氏が言い、金銭の授受までも隠さず見せてくれた。
こうして選挙運動を内部から深く観察できる極めて貴重で有益な一年が始まった。(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】中曽根康弘氏(右)、佐藤文生氏(左)と歓談する筆者
ジェラルド・カーティス(6) 1964年 東京 下宿は西荻窪の4畳半 銭湯帰りにスナックへ(私の履歴書)[2024/12/06 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1360文字 PDF有 書誌情報]
1963年、私は日本研究で博士課程に進み、同時に日本語を本気で学び始めた。
当時のコロンビア大には日本語の集中講義があった。
夏に初級、秋に中級、翌春に上級の講義を立て続けに履修し、1年で3年分の日本語を学んだ。寝ても覚めても日本語漬けで、ついには夢の中でも日本語を話していた。
外国語はほかにも学んだことがあったが、日本語には魅了される何かがあった。
表記の仕組みは複雑ながら面白く、文の構成は思考方法の転換を要した。角や棘(とげ)がない柔らかで丸みを帯びた音はメロディーのようで、音楽的な言葉だなと感じた。
教科書は控えめに言っても時代遅れだった。終戦から18年を経ていたが、初めて学んだ文章は「私は兵隊です」だった。それでも私の日本語は徐々に上達していった。
博士課程に進む時、モーリー教授に「1年やって自分に合わないと感じたら、ほかのことをしなさい」と言われた。その1年が終わる頃、私は続ける決断をした。
のみならず東京で日本語を10カ月間みっちり学ぶフェローシップも申請した。これが認められ、私は64年、初めて東京へ旅立った。
この年の東京は熱気に満ちていた。経済は2桁成長を続けていた。4年前に池田勇人首相は10年で所得を倍増させると言ったが、達成は前倒しになりそうな勢いだった。
所得も伸び、次の世代はさらに豊かになるとの楽観論が広がっていた。子の世代の生活に不安を募らせる人々が多い今日とは正反対だ。
政治的には当時の日本は分裂していた。60年、日米安全保障条約の改定をめざした岸信介首相は、史上最大のデモが起きるなか、国会で条約の批准を強行した。
全学連は強力で、労組活動も社会党や共産党と政治的に結びついていた。保守勢力は憲法を改正し日本が自前の軍を持つべきだと訴えていた。
つまり日本は経済が急速に拡大し、戦後の民主主義が根を張り、楽観と緊張がせめぎ合う刺激的な国だった。
同年の東京オリンピックも高揚感に油を注いでいた。オリンピックの開催は日本が民主主義国家、そして勃興する経済大国として、再び世界の表舞台に立った証し。日本の人々にとっては希望に満ちた新時代の号砲だった。
私は西荻窪に下宿した。小さな中庭に面した4畳半は入り口と部屋が狭い通路でつながれ、流しとガスコンロ、和式トイレがついていた。シャワーや風呂はなく、冬は小型石油ストーブの前で震えた。
とはいえ家賃は月3000円。1ドル360円時代だから8ドル強の格安で、文句はなかった。
スパルタ的な生活環境ゆえの楽しみもあった。冬に凍ったガラス戸を開け、庭を見ながら漢字を暗記していると、中庭の反対側の部屋に住む年配女性と世間話になり、日本の作法など教えてもらった。
銭湯の帰りにはラーメン屋や地元のスナックに寄った。すっかり日本の生活になじみ、帰国の日が迫ると、また日本に戻ることばかり考えた。1年近い滞在で学んだのは、もっともっと学びたいことがあるという事実だった。
博士論文を書くため日本に戻ってやろう、とひそかに目標を定めた。それにはまず、どんな論文を書くか決める必要があった。いいアイデアがひらめいたのは、またもや偶然だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】東京五輪は、日本の人々にとって希望に満ちた新時代の号砲だった
ジェラルド・カーティス(5) コロンビア大学 恩師は日本外交の専門家 大戦時、海軍で暗号解読(私の履歴書)[2024/12/05 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1306文字 PDF有 書誌情報]
私の人生を変えることになるゼミは、科目一覧には「米国の対外政策」とのみ記されていた。
だが、このゼミを担当するジェームス・モーリー教授は実は日本の外交史に通じた専門家だった。そしてゼミも、日米の外交関係に焦点をあてながら、米国の対外政策を学ぶという内容だった。いずれもゼミを履修した後に知ったことだ。
モーリー教授と日本との関わりは、日米開戦の直後に遡る。海軍に志願した若き日の彼は、まず海軍の日本語学校に送られ日本語をたたき込まれた。これが終わると首都ワシントンで、大日本帝国海軍が通信に使う暗号を解読する任務についた。
何年も後になるが、モーリー教授からその頃の話を聞いたことがある。
戦争初期は、暗号解読によって米軍が日本の戦艦を見つけ沈没させたとの連絡が入ると、解読チームの人員は立ち上がって歓声を上げていた。
だが戦争が長引くにつれ、モーリー青年の心境に変化が生じ「自分のせいで、どれだけの人々が犠牲になっただろう」と考えるようになった。
犠牲になった兵士らは敵ではなく、自分と同じように国のために志願したか徴兵された若者ではないかと気づき、いたたまれない気持ちになったという。
この経験から戦争が終わると彼は大学に戻って日本について学ぶことを決めた。日本人がどのような人々かを知り、悲劇が繰り返されるのを防ぎたい、との思いからだった。その情熱をモーリー教授はゼミにも持ち込み、私も大いに感化された。
だが当時の私は日本に関する知識が乏しく、研究リポートの課題が出ると何を題材にすべきか皆目見当がつかなかった。そこで教授に助言を求めると、1932年から41年の日米開戦まで駐日米国大使だったジョセフ・グルーについて調べてはどうかとアドバイスされた。
グルーは米国の厳しい対日経済制裁について、日本の文民指導者の力をくじき軍国主義者を勢いづかせるだけだ、と当初は反対していた。
だが後に翻意して制裁に賛成する電文を本国に送り、これが真珠湾攻撃の伏線にもなった。この経緯と背景をさぐることをモーリー教授は勧めたのだ。
時間をかけて多くの資料を読み込み、丹念に史実を調べた。そして成果を皆の前で発表する日がやってきた。
私が話す間、モーリー教授はせわしなくペンを動かしていた。これから容赦ない批判が飛んでくるのだろう、と私は観念した。
だから発表が終わってモーリー教授が好意的なコメントをした時は、安心すると同時に驚いた。さらに教授は私を相手に当時の日米関係をめぐって長く話し込んだ。
数日後、教授は私をオフィスに呼び、コロンビア大に残って博士課程に進み、日本語も勉強してはどうかと勧めた。
なぜだか、それが正しい選択である気がして、決断に時間はかからなかった。
博士課程に進んだ後どうするか、この時点で明確な計画はなかった。だが日本について深く知り、日本語も学ぶという考えには胸が躍った。
曲折をたどってきた道が、また大きな曲がり角にさしかかっていた。今回は、その先に生涯続く、長くてまっすぐな道が延びていた。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】日本研究への道を開いたコロンビア大の恩師、モーリー教授
ジェラルド・カーティス(4) 転校 音楽を諦め学問の道へ 夜はピアノで学費を稼ぐ(私の履歴書)[2024/12/04 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1348文字 PDF有 書誌情報]
天才とは1%のひらめきと99%の努力だ、と発明家のトーマス・エジソンは言った。
だとすれば私がピアノの天才になり得ないのは明らかだった。1%のひらめきに必要な創造性に自信はなかったし、毎日何時間も汗水垂らしてピアノに向かうほどの情熱がないことも、フレドニア校で学び始めてすぐに気付いた。
日本語に興味をもち履修してからは、むしろ漢字の練習に何時間も没頭していた。
そんな時に出会ったのがフレドニア校で歴史を教えていたカリスマ的な教授だった。私には強く影響を受けた教授が何人かいるが、その最初のひとりだ。
私が課題の一環で書いたリポートを読んだ教授は、私をオフィスに呼んだ。そしてプロの音楽家にならないなら、社会科学の教育が充実した大学に移るべきだと勧めた。
君なら最高難度の大学でも十分通用する、とまで言ってくれた。その言葉が、私に決断を迫る一押しとなった。
後に私が自身の教え子を鼓舞しようと努めてきたのは、こうした恩師の好意を払い戻したいとの思いからだ。
ともあれ私はフレドニア校を去ることにした。問題はどこに転校するかだった。
悩んでいる頃、折よくフレドニア校にいる友人を訪ねてきた音楽家と出会った。彼はかつてニューメキシコ州のアルバカーキに住んだ時の話をしてくれた。メキシコ国境に近いその街での生活は、米国にいながら外国で暮らしているようだったと言った。
彼は、私がバーやナイトクラブで難なくピアノ演奏の仕事に就けるとも太鼓判を押した。私は16歳の時からニューヨークの音楽家組合に加入しており、その組合員証が役に立つはずだという。
旅心をくすぐられた私はアルバカーキに移り、ピアノ演奏でお金を稼ぎながら学費の安いニューメキシコ大で学ぶことを決めた。こうして2年間暮らしたフレドニアに別れを告げ、私は西に向かった。
すぐにカクテルラウンジでの仕事も見つかり週4夜、演奏することになった。
ニューメキシコ大には傑出した教授が何人もいた。その一人がコロンビア大の博士号をもち、国際関係を教えていたエドウィン・ホイト教授だ。彼は、いくつか授業を履修した私にコロンビア大の大学院に進むよう勧めた。自らの恩師で、国連研究の権威であり助言役も務めるレランド・グッドリッチ教授に学んだらいい、という。
1962年にニューメキシコ大を卒業した私はウッドロー・ウィルソン財団の奨学金を得て、アドバイス通り政治学の修士号を得るためコロンビア大の大学院に進んだ。
私の初めての学術論文は64年、国際機関を扱う権威ある学術誌「インターナショナル・オーガナイゼーション」に載った。58年にレバノンで起きた政治・宗教対立と国連の役割を論じる内容で、もとは大学院の授業でグッドリッチ教授に提出したものだ。
大学院では、米外交政策に関するゼミへの参加も必須だった。いくつか候補があったが、私は深い考えもなく、時間的に最も都合のいいゼミを選んだ。ゼミの担当教授が誰で、どんな人物なのかなど、見当もつかなかった。
偶然や幸運が、人生の行方を決定づける時がある。私にとって、まさにそんな瞬間が訪れたのは、ジェームス・モーリー教授が教えるゼミに参加した時だった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ニューメキシコ大時代の筆者
ジェラルド・カーティス(3) ブルックリン 野球に熱中した少年時代 大谷活躍でドジャース許す(私の履歴書)[2024/12/03 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1365文字 PDF有 書誌情報]
今日のブルックリンは若者を中心に人気の居住区だが、1950年代は犯罪やいじめ、公立学校の質を心配する家庭に敬遠されていた。
わが家も私が9歳の時に北隣のクイーンズ区に引っ越し、私は58年の高校卒業までそこに住み続けた。
私が通ったファー・ロッカウェイ高校は公立だったが、3人のノーベル賞受賞者を出している。同時に史上最大のネズミ講詐欺で知られる金融家バーナード・マドフの出身校でもある。彼は2年先輩で、妻のルースは同級生だった。
クイーンズとブルックリンには同じくらい暮らしたが、私にとっての故郷は常にブルックリンだ。ブルックリンには下町の情緒がある。初めての東京暮らしで浅草をとても気に入ったのも、2つの全く異なる街に共通の風情を感じたからだ。
ブルックリンの一番の思い出は野球のブルックリン・ドジャースで、シーズンに何度かは、父が私をエベッツ球場に連れて行ってくれた。
今も目をつぶると、メジャーリーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンなど、1950年代初めの名選手の姿が鮮明に浮かび上がる。
私の友達はみな熱烈な野球ファンで、今の子供がポケモンカードを交換するのと同じく、ベースボールカードの交換に熱中した。
だが野球への関心が一気に冷める事件が起きた。57年、ドジャースが地元ブルックリンを裏切りロサンゼルスに移ってしまったのだ。失った関心が最近また復活したのは、大谷翔平選手がドジャースで活躍しているおかげだ。ブルックリンを去ったドジャースを、67年ぶりにやっと許せる気持ちにもなってきた。
私は6歳からピアノも習い始めた。両親がそれを教育の大事な一部と考えたためだ。
最初は友達と遊びたくて練習は最低限だった。だが、やがて楽しくなり、ポップやジャズを進んで弾き始めた。
16歳になると友人らとバンドを組み、ニューヨーク州中部キャッツキル山地の避暑地で演奏する仕事を得た。宿泊無料、演奏料は週35ドルという好条件だった。
50年代はキャッツキルの全盛期で、一帯は赤カブを使ったウクライナのスープにちなんで「ボルシチ・ベルト」と呼ばれた。東欧出身のユダヤ系移民の多くが、ここで夏季休暇を過ごしたためだ。
多くの庶民的なホテルが建ち、その一つホテル・タンズビルが私たちを雇った。高校と大学の4年間、夏はここに住み込んで演奏した。
平日はダンス音楽を奏で、土曜夜はニューヨークから来たゲストらのショーで演奏した。当日の午後に楽譜をもらい、簡単なリハーサルをして午後8時に本番となる。
ボルシチ・ベルトは歌手、コメディアン、演奏家の卵にとって訓練の場で、その多くが、きらびやかな芸能の道を切り開いて行った。
高校卒業が迫ると、大学で音楽を学ぼうと決めた。高い学費は払えなかったので、ニューヨーク州立大学のフレドニア校に願書を出した。
州の西の端、バッファロー近くの小さな町にある大学で、当時は州立大の音楽・演劇学校の一部だった。入学が認められ、1958年9月に現地での生活が始まった。
ここを2年後に去り、プロの音楽家になる道も捨てて、4年後の東京行きへとつながる道を歩み始めようとは、当時は知るよしもなかった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】ジャズバンドを組み、夏には避暑地で住み込みで演奏した(右から2人目が著者)
ジェラルド・カーティス(2) 一家の歴史 父、ウクライナ逃れ移民に ロシア侵略で重なった運命(私の履歴書)[2024/12/02 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1353文字 PDF有 書誌情報]
私はニューヨーク市のブルックリン区で1940年に生まれた。父はウクライナ生まれの移民1世、母は祖父母が東欧出身の米国生まれだ。
父は21年、祖母に連れられ5人の姉妹とともに米国に来た。その8年前、出稼ぎで米国に渡っていた祖父が、第1次世界大戦とロシア革命のあおりで帰国できなくなり一家を呼び寄せた。
当時、オデッサに近い故郷の村には帝政ロシア軍の残党が流れ込み、襲撃や蛮行を繰り返していた。ユダヤ系の祖父は、不安定な国際情勢の中で一家に危険が及ぶことを危惧してもいた。
何とかウクライナを逃れた父一家の旅路はその後も困難の連続で、ベルギーのアントワープからニューヨーク行きの船に乗るまでに約2年を要した。
2022年にロシアのプーチン大統領がウクライナを侵略するまで、同国と父の関係をそう意識することはなかった。だが多くのウクライナの人々が国外に逃れる様子を見て、100年前の父一家がたどった運命と重なった。
そしてプーチンが当時のロシアの指導者と同じく、ウクライナを帝国の一部とみなしていることを痛感した。
プーチンが理解していなかったのは、ウクライナに強いナショナリズムが育っていたことだ。さらに同国はユダヤ系のゼレンスキー氏を大統領に選ぶまでに、反ユダヤ主義を克服している。
プーチンはウクライナの領土だけでなく、同国の民主主義と近代主義の歩みも否定し抵抗に遭っているのだ。
13歳で初めて米国の土を踏んだ父は、1~2年しか米国で学校に通わなかったが、英語は流ちょうだった。一方、祖父はロシア語、ウクライナ語と東欧のユダヤ人が話すイディッシュ語を話しながら英語は学ばずじまいだった。優しい祖父だったが、言葉の壁のせいで深い会話をした記憶はない。
ただ大学でロシア語を勉強中、腕試しに手紙を書いたことがある。祖父はそれを手にロシア系ユダヤ人が集まる近所の店に出かけ、誇らしげに友人らに孫の手紙を読んで聞かせた、と父親が後に教えてくれた。
父親は電報配達員、雑貨店店員、タクシー運転手などの職に就き、短期間、ブルックリンの東欧系ユダヤ人相手の食品店も経営していた。
職がない時は母親が家計を支え、どんなに苦しくても失業保険を申請することはなかった。政府の世話になるのは物乞いと同じだと固く信じていた。70歳まで働き続け、その5年後に亡くなった。
母方の家族に父方ほどのドラマはない。母親はマンハッタン西岸からハドソン川をはさんだ向かいのニュージャージー州で育った。ポーランド出身の祖父は祖国では靴屋を営み、ハンガリー出身の祖母は郷土料理が得意だった、という程度の知識しかない。
勉強好きの母は弁護士になるのが夢だったが、大恐慌で父親の会社が倒産して大学に行けず、法律事務所で秘書の仕事に就いた。
母はこれを生涯悔やみ、私を弁護士にしたがったが、それが私の夢になることはなかった。
それでも一人っ子の私に、両親は自らが果たせなかった大学進学を強く望んだ。だから私が大学院まで進み、コロンビア大の教授に就いたことをとても喜んだ。
もっとも、私が日本を専門とする学者になろうとは彼らも、私自身も想像できなかった。そこに至るには、まだいくつもの曲折があった。
(米コロンビア大学名誉教授)
【図・写真】幼い頃の筆者
ジェラルド・カーティス(1) 曲折の道のり 間近で観察した日本政治 夢にも思わなかった学者の道(私の履歴書)[2024/12/01 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1302文字 PDF有 書誌情報]
若くして将来、何をしたいかわかっている人たちはいる。その人たちは途中で迷いや落胆があっても、人生はおおむね真っすぐの道のりをたどる。
一方、そうでない人も多いはずだ。道に悩み、仕事をしながらも満足感が得られない。仕事に対しての情熱が高まらない。
回想の冒頭からこういうことを書くのは、今回の「私の履歴書」を読んでくれる、特に若い読者にメッセージを届けたいと思うからだ。
将来、何をしたいか分からないのは、少しもおかしなことではない。不確かさ、不安、失敗は成長の通過点だ。大事なのは、情熱の対象を探し続けることだ。それを追求すること自体が、生きることに意味をもたせる。
それに運が良ければ曲がり角をいくつも曲がるうちに、自分に一番合う仕事が見つかるかもしれない。私はまさにそんな幸運な一人だ。
高校時代は一時、プロの音楽家になろうと思っていた。だが、いくら音楽が好きでもプロとして成功するだけの才能は備わっていなかった。
いや、それよりも音楽家になろうという情熱が湧いてこないことを、認めざるを得なかった。
その後、国際政治に興味をもち、大学を卒業して米コロンビア大大学院の政治学部に入ったが、将来どんな道を歩むかは迷っていた。国連で働くか、ジャーナリストか外交官になる考えは浮かんだが、学者、あるいは日本の専門家になるとは、その時が来るまで夢にも思わなかった。
詳しくは追って書くが、ひょんなことから日本語の勉強を始め、ある日、何時間も机に座って夢中で漢字を練習している自分に気づいた。
「これだ」と思ったのは日本と日本語をもっと知りたい、と迷いなく感じたからだ。振り返れば、その時から私は想像すらしなかった道を歩み始めた。日本政治を専門とする学者としての道である。
60年前、私は初めて日本の地を踏み、東京で丸1年、日本語の習得に汗を流した。
当時の日本は高度経済成長のただ中で、政治の舞台でも保守と革新の激しい闘争が繰り広げられていた。これらに東京オリンピックの興奮も加わり、大変エキサイティングな時代だった。
そんな熱気に包まれ、何か日本関係の仕事に就ければ、とは考えていた。だが、まさか47年間もコロンビア大学で日本政治を教え、ニューヨークと東京を行き来し、多くの日本の政治家と知り合うことになるとは思いもよらなかった。
日本について自分が書いたものを日本の方々が読み、評価していただき、日経新聞に私の履歴書まで書くことになる未来など想定外だったのはいうまでもない。
政治学の研究の多くは、制度とその機能に重点が置かれる。だが私の最大の関心は政治に関わる人、つまり政治家と有権者である。
幸いにも私は半世紀以上にわたり、多様な政治的信条を持つ多くの日本の政治家と知り合うことができた。おかげで日本の草の根の民主主義を自身の目で間近で観察する貴重な体験ができた。
どこまでも奥深く、しかも進化し続ける日本で、私が経験したことを、日本の皆様と分かち合う機会を得られたのは、とてもうれしい。しばし思い出話にお付き合いいただければ幸いです。(米コロンビア大学名誉教授)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
辰野勇(29)尽きぬ好奇心 人は居場所探して生きる 「峠の先の景色」を見とどけたい(私の履歴書)終[2024/11/30 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
3年ほど前から自宅に野良猫がすみ着いた。キジトラとキジ白の2匹だ。キジトラは雄で、風来坊の風(ふう)と名付け、キジ白は雌で花と名付けた。今や我が家になくてはならない存在だ。とりわけ家内は文字通りの猫かわいがりで、何事も猫中心の生活である。
奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)跡を譲り受けた自宅の庭にはエノキや紅葉が生えていて、猫たちは木登りしたり、自由気ままに庭中を走り回ったりしている。たまに小鳥やトカゲをつかまえて家に持ち込んで見せに来る以外、平和に我々を癒やしてくれている。
動物写真家の岩合光昭さんのテレビ番組「世界ネコ歩き」に出演したのが我が家の自慢だ。岩合さんとは1990年に始まったオペル冒険大賞の審査員としてご一緒したのを縁に30年以上の付き合いだ。現在モンベルクラブの会報誌の表紙に彼が撮影した野生動物の写真を使わせていただいている。世界の大自然を舞台に危険な動物を撮影するのはある意味、覚悟をもった冒険といえるかもしれない。
すみ着いた我が家の猫たちを観察していると、面白いことに気づかされる。四季折々、その季節で一番居心地の良いところを見つけて、ちゃっかり居座っている。
あるとき、映画監督の木村大作さんから映画に出ないかと誘われた。木村さんは黒澤明監督作品のキャメラマンを務め、自らも監督をして映画を製作している。「劔岳 点の記」は彼の作品だ。
2014年に公開された映画のタイトルは「春を背負って」。松山ケンイチさん、蒼井優さんが主役で、富山県の立山の山小屋を舞台に、主人(小林薫さん)が亡くなった後、都会の大企業で働いていた息子(松山さん)が山に戻って小屋を継ぐ話だ。
私の出番は山小屋を訪れる登山者で、セリフは二言だけだが、笛を吹いて亡き先代を弔う役回りだった。
撮影が順調に終わって木村さんがぽつりとつぶやいた。「人間てえのはな、居場所を探して生きてんだよ」。その言葉が妙に私の心に刺さった。「そうか、そうだよな、考えてみれば、人は誰もが自分の居場所を探して生きている」。それは猫たちを見ていると納得できる。暑いときは日陰に、寒いときは身を寄せ合って生きている。
今回、「私の履歴書」の連載で、普段は先々のことばかり考えて行動してきた私が、改めて自分の歩んできた道を振り返る機会をいただいた。
齢(よわい)77歳、考えてみれば私もまた、「自分の居場所」を探し求めてきた。自然に身を置き、家族に囲まれ、友人に囲まれ、志をともにする仕事の仲間たちとともに事業を進めてきた。
現在モンベルの社長を務める長男の岳史と長女の智代が合計6人の孫を連れて、私の喜寿のお祝いをしてくれた。
2度のがん手術で救われた私の命である。
これから先の人生で、間違いなく今この瞬間が一番若い。無論、年を重ねれば、いや応なく肉体的なパフォーマンスは衰える。しかし一方で積み重ねた経験と、尽きることのない発見がある。それを糧に今も成長し続けている。
来年はモンベルを創業して50周年を迎える。きっと50年前の私が、今の自分を見たら驚くに違いない。
「人はなぜ山に登るのか」。それは「峠の先に見える景色を見とどけたい」という「好奇心」ではあるまいか。
私のそんな思いはこれからも続く。
(モンベル創業者)
=おわり
あすから米コロンビア大学名誉教授 ジェラルド・カーティス氏
【図・写真】自宅で猫を抱いてくつろぐ
ラタン・タタさん(タタ・グループ元会長) 「ナノ」披露に秘めた決意(追想録)[2024/11/29 日本経済新聞 夕刊 2ページ 930文字 PDF有 書誌情報]
腰痛の話で盛り上がったことがある。身長の高い人間は腰痛持ちが多いというが、ラタン氏の場合、一世一代の晴れ舞台で激痛に見舞われた。2008年3月のことだ。
場所はジュネーブのモーターショー会場。10万ルピー(約18万円)という低価格小型車「ナノ」を海外で初めて披露するタイミングで不運にもまったく動けなくなった。
立てない。歩けない……。
体の位置を少しずらすだけで激痛が走る。ビデオメッセージで代用する案も検討したが「皆がプレゼンを待っているので絶対にキャンセルしたくなかった。対面で思いを伝えたかった」とキッパリ。
意を決して痛み止め注射を打ち、医者を同伴し、ストレッチャーに乗って強行軍で移動。両脇から抱えられないとトイレにも行けない状態だったが、本番では「ナノ」の脇に立ち、決死の思いでプレゼンを乗り切ったという。
面白い秘話がある。
会場で待機する間、立っているのがつらくなり、近くの部屋に逃げ込んだ。そこはトヨタ「レクサス」のブース。するとスタッフが近づいてきて新製品を説明し始めた。
「どうやら私の正体に気付かなかったらしい。でも接客があまりに熱心だからレクサスのハイブリッド車を危うく買わされそうになったよ!」
こう振り返りながら、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
身長6フィート(約183センチ)、体重83キロ――。ラタン氏に体格を尋ねると、偶然にも私とまったく同じだった。2014年7月掲載の「私の履歴書」を準備するため、私は日本とインドを1年以上往復しながら密着取材を重ねていた。
毎日、重いバッグを持ち歩き、しかもホテルの冷房が効きすぎて部屋が冷え切っていたことが響いたのだろう。取材中、私も同じようにひどい腰痛に苦しんでいると伝えてみた。
「それは大変だ。よし、私が使っている薬をあげよう。30分で痛みがなくなるよ」
ラタン氏は自分の引き出しを開け、錠剤を幾つか手渡してくれた。パッケージに入った飲みかけの鎮痛剤や胃腸薬……。結局、それらを飲む機会はなく、出張中のお守り代わりで終わったが、今ではラタン氏が残した形見の一つとして大切に保管している。
=10月9日没、86歳
(編集委員 小林明)
【図・写真】ラタン氏からもらった鎮痛剤と胃腸薬
辰野勇(28) 仲間たち 「白髪五人男」大いに遊ぶ カヌーがつないだ縁ひろがる(私の履歴書)[2024/11/29 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1429文字 PDF有 書誌情報]
1973年、平凡社「アニマ」の創刊号が自宅に送られてきた。一輪のオニユリの脇で無邪気に小首をかしげたキタキツネの表紙の写真が印象的だった。後に映画化されたキタキツネ物語の原作者、竹田津実さんの作品である。
1980年、モンベルで新しくファミリー路線の企画を進める中、あのキタキツネの写真を使わせてほしいと考えた私は北海道小清水町の竹田津さんの自宅を訪ねた。閑散とした町並みを地吹雪が吹き抜ける初冬の夕刻、チャイムを押すと竹田津さんが玄関に出てこられ、「まあ上がりなさい」と迎え入れてくれた。
庭のケージの止まり木にはシマフクロウがいた。獣医でもある竹田津さんが傷ついて運び込まれた生き物を治療しているとのことだった。部屋ではエゾモモンガが自由に飛び回っている。その光景を見て私はあっけにとられた。
写真を使わせてもらいたいと言い出せず、夜半になって宿に帰ろうと玄関に向かうと、竹田津さんから「ところで君は何しに来たの?」と声をかけられた。「実は……あの写真を使わせてもらえませんか」と思い切って伝えると、「なんだそんなこと、早く言えばいいのに」とアルバムを手渡してくれた。
モンベルを創業して5年目、まったく知名度のなかった我々を信頼し、快く受け入れてくださったことに感謝した。以来、モンベル小清水店や東川店の出店など、そのご縁は今に至るまで続いている。
作家でカヌーイストの故野田知佑さんとは、80年代に岐阜県の郡上八幡で開かれた長良川河口堰(ぜき)建設反対のシンポジウムの交流会で出会った。彼はビールを片手に、私の横にどっかと腰を下ろした。名刺を差し出し、「野田です」と挨拶された。
ヘルメットを被らず、折り畳みカヌーに荷物を積み込んで川を旅する彼を批判するカヤッカーもいた。ヘルメットを被って激流を下る私が、そんな批判派の親玉と考えていたらしい。岩だらけの激流を下るのならヘルメットの着用は勧めるが、それほどでもない流れでヘルメットを被るか被らないかは本人が決めればいい。ほんの5分、10分話しただけで意気投合した。
以来、様々な川を一緒に下った。四万十川や千曲川、さらにカナダのユーコン川など、今は懐かしい思い出だ。
カヌーイストの立場で、日本の川の環境を守りたいという思いを共有する、多くの仲間たちとの出会いがあった。C・W・ニコルさんや椎名誠さんとは、そんな価値観でつながった。
ある時、出版記念パーティーの2次会で、野田知佑、夢枕獏、藤門弘、佐藤秀明、そして私の5人が集まった。誰言うともなく「白髪五人男」を結成することになった。野田知佑と夢枕獏は作家、佐藤秀明はプロカメラマン、藤門弘はシェーカー家具を作る木工作家だ。
5人は「親父(おやじ)たちの休日」と称して度々集まった。全員が集まることは難しかったが四万十川の岩間の沈下橋の上で、歌舞伎役者を気取って見えを切った思い出は懐かしい。インドネシアのバリ島やネパール、シルクロード、新疆ウイグル、ゴビ砂漠。どの旅も、仕事にはせず、完全にプライベートの付き合いだ。
一緒にいて心地よいのは互いの距離感だ。必要な時は声を掛け合って集まるが、互いに過度の干渉は望まない。
腕白(わんぱく)な兄弟をまとめる長男格の野田さんは2022年に亡くなってしまったが、「白髪四人男」になった「親父たちの休日」はこれからも続く。
(モンベル創業者)
【図・写真】5人は毎年集まっていた(右端が筆者、高知・四万十川)
辰野勇(27) 野遊び 山で横笛・野点・俳句 世界を旅し「和の心」思う(私の履歴書)[2024/11/28 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1481文字 PDF有 書誌情報]
1996年、テレビ朝日「ニュースステーション」のディレクター、大谷映芳さんからチベットに行かないかと誘いを受けた。彼は早稲田大学山岳部出身で、世界第2の高峰、K2西稜(せいりょう)ルートの日本人初登頂者でもある。予定日をあけて待機していると「明日、出発するかもしれないから東京に来ておいてください」と連絡があった。急いで東京へ行き、指定されたホテルで迎えを待っていると、局のワゴン車が到着した。
中には番組の案内役、渡辺貞夫さんがいた。ジャズ界の大御所との対面に私は少なからず緊張したが、彼の気さくな人柄にすぐに打ち解けた。
我々はラサへの空路の玄関である中国・成都に飛んだ。チベットにカメラを持ち込んでテレビ取材することに中国政府は神経をとがらせて、なかなか許可が下りなかった。足止めをくっている間、貞夫さんと2人で街を散策した。
楽器屋を見つけて上海横笛を買い求めた。貞夫さんが教えてくれるという。こんな贅沢(ぜいたく)はない。すっかり横笛にはまってしまった。以来、どこに行くにも笛を持ち歩くようになった。山はもちろん川下りにも持参して笛を吹く。その音色には日本人の心の芯に共鳴する懐かしさがあった。
私の生まれた堺市は千利休が茶の湯を広めた地だ。茶道には茶籠という携帯型の茶道具がある。旅のつれづれに茶を楽しむ趣向である。私も登山に茶籠を持参して、野点を楽しんでいた。
陶器の茶わんは味わいがあるが、多少重いし、割れる心配もある。そこで私は、山でも気軽に楽しめる「アウトドア野点セット」を考案した。2001年のことである。
発売後しばらくして、裏千家の、現家元の弟、伊住政和宗匠から「会いたい」との連絡があった。てっきり苦言を呈されるのかと思ったら、モンベル本社を訪れた伊住さんから「面白いことを始められましたね。一緒に活動しませんか」と提案された。
その上、日本の伝統文化・産業の魅力を広める事業への協力を求められた。残念なことに2年後、44歳で伊住さんは急逝された。私はその遺志を受け継いで設立されたNPO法人「和の学校」の理事に推挙され、活動している。
この9月、5年ぶりにスイスアルプスのハイキングに出かけた。アイガー北壁を見上げる草原で一服。更にマッターホルンを掛け軸に見立て、湖畔に毛氈(もうせん)を敷いて野点を楽しんだ。正客はツェルマット村の女性村長ロミーさんだ。最近は海外でも抹茶の愛好者が増えている。野点のあとは笛を吹き、興がのれば、「野筆」を取り出して俳句など一句ひねってみる。
「野筆」は東京・浅草の書道具専門店「宝研堂」の4代目で製硯師(せいけんし)の青柳貴史さんの協力を得てモンベルが作った製品だ。その昔、芭蕉も携えた筆と墨ツボを組み合わせた「矢立」の現代版とでも言おうか、硯(すずり)石と筆、墨をケースに収納したコンパクトなセットである。
硯石に使った玄昌石の産地、宮城県石巻市雄勝町(おがつちょう)は東日本大震災で被災して大打撃を被った。復興の一助になれば幸いと考えた。筆の選定は青柳さんのお母さんにお願いした。そして、墨は私が住む奈良の油煙墨を使うことにした。山の沢水をスポイトで吸い上げ、一滴硯石に垂らして、10回程度墨を磨(す)れば十分だ。俳句でも、墨絵でも、山の思い出を描きとめられる。私は普段、どこに行くときも野筆を持ち歩いて楽しんでいる。
日本には古来「野遊び」の文化がある。世界を旅すればするほど、「和の心」への思いは募る。
(モンベル創業者)
【図・写真】マッターホルンを望む場所でロミーさん(右)と野点(9月)
辰野勇(26) 大学で教える 「憧れる生き方見つけて」 歩みを伝え学生の将来応援(私の履歴書)[2024/11/27 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1466文字 PDF有 書誌情報]
大学に行かなかった私が初めて大学の門をくぐったのは40代のことだった。京都教育大学から非常勤講師の依頼があり、カヌーや登山を教えた。剣岳の登山や四国吉野川の激流下りを共にした教え子の但馬裕子さんは、人生が変わったと感動してくれた。
そんな彼女が数年後、がんで余命宣告を受け、最後に私に会いたいと言っているとの伝言を受けた。その直前、庭仕事の最中、背骨の横突起を骨折した私は、医者から安静にするよう指示され、米国出張を取りやめて自宅にいた。彼女の思いが私の出張をとどまらせたのかもしれない。
私は患部をコルセットで固定し、車を運転して三重県名張市の病院に向かった。病床の彼女は満面の笑みを浮かべ喜んでくれた。「1週間後、三重県で講演を頼まれているからまた来るよ」というと、「ストレッチャーに乗せてもらってでも聞きに行きたい」と言ってくれた。しかし、それを待たず彼女は逝ってしまった。彼女の短い生涯の一番輝いた瞬間を共有したのだという思いがこみ上げた。
その後、多くの私立大学からの依頼で講演を引き受けた。初めて客員教授を拝命したのは、びわこ成蹊スポーツ大学で、筑波大学から移籍した、当時の飯田稔学長(故人)からの依頼だった。彼は「野外教育」という分野を確立した第一人者だ。私は、自分の経験や、その過程で得た様々な知見を学生たちと共有した。
客員教授の職は数年前に終えたが、モンベルのアウトドアチャレンジ事業を通じて今も引き続き関わっている。
大学だけではなく、大型客船の飛鳥2やピースボートにも依頼に応じて乗船し、講演した。2012年のピースボートではキューバから大西洋を横断して西アフリカのセネガルまで乗船した。キューバではフィデル・カストロ氏の力強い講演を拝聴して、歴史の一場面に遭遇した思いがした。その後、大西洋の洋上で同船の同じ聴衆に16回、毎回異なるテーマで講演した。
語ることで自らの思いを整理することができる。語る側も聞く側も、同じ時間を共有する一期一会の出会いである。私の住む奈良県の天理大学でも14年に客員教授を拝命し、講義のほかに立山連峰での登山合宿やカヤック実習など、実技の授業を続けている。
近年は京都大学の特任教授を拝命して学部を越えた学生たちに講義する。京都大はマナスル(8163メートル)など、未踏峰の初登頂や極地の学術探検のパイオニアを輩出した憧れの大学だった。高校時代、学業を怠けた私には京都大への入学など夢のまた夢だった。その大学のキャンパスで教鞭(きょうべん)をとるとは、つくづく人生の巡り合わせの不思議に驚かされる。
京都大で講義を終えた後、1人の女子学生が私に質問してきた。「私は2浪でようやく入学することができましたが、今は自分がやりたいことが見つかりません」という。大学には行かず好きな道をひたすら歩んできた私は、「どうしたら好きなことが見つかるか」という彼女の質問への答えを持ち合わせていなかった。
きっと彼女は大学に入ることを唯一最大の目標にして頑張ってきたに違いない。「本を読みなさい。たくさんの人と出会って憧れる生き方を見つけなさい」。それが私の彼女への応援の言葉だった。私がそうであったように一冊の本との出会いが、彼女の人生を決定づけるかもしれない。
喜寿を迎えた今年、北海道大学の客員教授も拝命することになった。私の生きざまに触れることが若い学生たちの将来への一助になれば幸いだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】天理大の学生とカヤックの野外実習(2024年9月、奈良・吉野川)
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(下) 修羅場くぐって脱「孤高」(私の課長時代)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1283文字 PDF有 書誌情報]
2000年に事務派遣を手掛ける神奈川県の営業部の責任者に異動する辞令がでました。売り上げ目標で未達が続く部署です。「出世コースから外された」。00年ごろには役員になることを目指していた私はそう受け止めました。
■不本意な異動も「やるからには勝ち組に」
辞令に納得ができない私に篠原欣子社長(現パーソルホールディングス名誉会長)は「(今の部署から)誰も連れて行かず、異動先の状況を変えられたら絶対にいい経験になる。修羅場をくぐるだけ人は成長する」と言うのです。
相応の修羅場はこれまでも経験してきましたし、「今さらそんなことを言われなくても分かっている」と正直思いました。3時間近く話し合い、最終的に異動を受け入れました。
やるからには「部署を『勝ち組』にしたい」という思いが強くありました。着任後はまず部署共通の目標を決めようとキックオフミーティングを招集しました。モチベーションがばらばらだった現場からは「目標を掲げる意味はあるのか」「会議に2時間も使うな」という不満が出ました。
■担当エリア総力を挙げて案件獲得
目標を打ち出すのに深夜0時まで議論する日もありました。毎週、県内計7拠点を全て回り、部下の営業に同行したり総勢70人と1対1の面談をしたり、現状の課題や部下の思いを知ることに努めました。モチベーションの向上に励み、当初の不満は徐々に減っていきました。
そうした中、ある通信系の会社から業務の一部を一括受託するビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)案件を受注する機会が訪れました。当時は会社に経験もノウハウもなく、神奈川エリアで総力を挙げて案件獲得に臨むことになりました。
「本当にできるのか」というネガティブな声もありましたが、「やらない選択肢はない」とあるマネジャー。「強い組織をつくれた」と実感しました。プレゼン内容が評価されて案件を受注でき、数期ぶりに目標を達成できました。
■未経験へのチャレンジが人を育てる
「和田さんは孤高のリーダーだ。後ろを振り向いたら誰もいませんよ」。異動を受け入れる前、そう同僚から指摘されていました。いま思えば、当時の私は全て自分一人でやろうとする傲慢な面がありました。
部署全員が一丸となって目標を達成する経験を経て、そうした部分を自分なりに改善できたと思います。もしかしたら篠原社長(当時)の言っていた「修羅場」とは、こうした経験だったのかもしれません。
会社員人生では不本意な異動もあるでしょう。私は社員に「その経験はきっと役に立つ」と体験談を交えて助言しています。それまでとは違った視点を持つためにも必要ですし、経験のないことにチャレンジすればするだけ人は育つのだと信じています。
〈あのころ〉 規制緩和の影響で派遣労働者の活用の場が広がった。派遣社員に加え契約社員も積極活用する企業が増え、雇用形態も多様化。2000年には派遣を経由し正規採用する紹介予定派遣が解禁。人材派遣各社は転職支援の人材紹介事業への進出や拡大を急いだ。
【図・写真】社内の催しに参加する和田社長(右奥、1990年代)
辰野勇(25) 経営哲学 「世界一幸せな会社」目指す 将来見据えた困難な決断こそ(私の履歴書)[2024/11/26 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1425文字 PDF有 書誌情報]
「登山」と「経営」には共通点がある。登山家は勇敢で命知らずと思われるかもしれないが、実は怖がりで、先々のことを心配して準備する。リスクマネジメントという意味では経営も同様だ。
これまで様々な決断をしてきた。日々の経営判断で「決裁」を下すのは、囲碁や将棋でいう「定石」で手を進めるようなもので、おおむね成功の確率の高い選択をする。
これに対して「決断」は、将来を見据えて、今、あえて困難な道を選ぶことだと私は思う。たとえ目先の成功確率が高くても、将来の存続が危ぶまれる道は選ばず、リスクを覚悟して決断してきた。この判断も私は登山や冒険で鍛えられてきたように思う。
私が敬愛したビジネスマンの1人に故槙英男さんがいる。彼は愛媛県松山市に生まれ、夜間中学を卒業した後、東レの愛媛工場に勤め、会社の募集に応募してアメリカ留学を果した。そして血のにじむ努力の末、首席で卒業した。
私がお会いしたのは彼が米国デュポン社の極東担当の事業部長に就かれていた時だった。折にふれ私に経営についてご教示くださった。
印象に残るのは3人のレンガ積み職人の話である。1人目に「何をしているのですか」と尋ねると「ご覧のようにレンガを積んでいます」と答えた。2人目は「レンガを積んで壁を造っています」と答えた。そして3人目は「レンガを積んで大聖堂を造っています。子供が大きくなったとき、お父さんがこの教会のレンガを積んだと伝えることを楽しみに毎日レンガを積んでいます」と答えたという。
1人目の職人はただただレンガを積めと言われて積んでいるが、3人目の職人は積んだレンガが何になるか、完成の先を思い描きながらレンガを積んでいる。
これら3人のレンガ積みの人生の質は、まるで違う。リーダーにとって一番大切な使命は、携わる仕事の目的やその意味を部下に語り続けることだと槙さんに教えられた。
ある時、四国の高松市のアウトドアショップの経営者から「モンベルも大きくなりましたね。これから先、どんな会社にされたいですか」と尋ねられた。シンプルな質問だが、一言で答えるのは難しい。こんなとき私は「あなたはどうですか」と相手に同じ質問を返してみる。
そうすれば相手がどんな答えを期待しているかおおむね理解できる。すると彼は「四国で一番のアウトドアショップを目指しています」と答えた。私はとっさに「世界一の会社にしたい」と答えた。
しかし、2人の会話の中では「何について一番なのか」は定義されていない。彼が言う「四国で一番」とは、四国で一番の規模や売り上げを意味していると私はくみ取った。ちょっと恥ずかしいが、私は「世界で一番幸せな会社」を目指したいと告げた。
頑張って、たとえ大きな会社になったとしても、その座を維持するために頑張り続けなければならない。それは私の望むところではない。「世界で一番の幸せ」は、自分がそう思えれば、この瞬間になれる。そして、考え一つでそうあり続けることができる。
無論、企業を存続するための努力はしなければならない。他者に勝つ必要はないが、会社を潰すわけにはいかないからだ。それは、登山で遭難しないための準備と努力をするのと同じかもしれない。
たとえ頂上に登ることができなくても、行為そのものが意味をもつ。好きを仕事にすることを望んだ私は、それを生業にできていること自体で目的は満たされている。
(モンベル創業者)
【図・写真】30年先を見越して経営計画を作っていた
辰野勇(24) 「岳人」 休刊予定の登山誌を継承 「山と人」「自然と文学」追求(私の履歴書)[2024/11/25 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
2014年1月、中日新聞東京本社の事業局長がモンベル本社に来訪された。そして山岳雑誌「岳人」を8月で休刊するとの説明を受けた。
「岳人」は「山と渓谷」とともに登山界をけん引してきた媒体だ。この雑誌は、私が生まれた1947年、京都大学山岳部の有志によって創刊され、49年に中日新聞が引き継ぎ、長年発行されて来た。
初心者から中級者の幅広い登山者層を対象にした「山と渓谷」に対して、「岳人」は上級もしくは先鋭的な登山情報を扱ってきた。私自身、日本アルプスの穂高岳や剱岳の岩壁に新しいルートを開拓するたびに「記録速報」のコーナーに投稿してきた。
「岳人」で紹介されることが登山家としてのステータスであり憧れでもあった。年を経て、未踏の岩壁も登りつくされ、先鋭的な登山から「山ガール」や「シニア登山」に象徴される健康志向の一般登山へ社会の関心が移行する中で、「岳人」の立ち位置が混迷していたように思える。そんな中での休刊の決断だった。
私にとって「岳人」の休刊はいわば卒業した小学校が廃校になるような、そんな寂しさがあった。私は、局長の説明をお聞きして、少し考えた後、「うちで引き継がせてもらえますか」と尋ねてみた。
確たる自信も裏付けもなかったが、今のモンベルなら「何とかなる」。そんな曖昧な直感でしかなかったが、この老舗の看板を引き継がせてもらえるなら、それは光栄なことだ。その後中日新聞の経営陣もこれを了承してくださり、引き継ぎが決定した。
中日新聞から1人、服部文祥が移籍することになった。彼はK2の登頂者でありサバイバル登山の分野で知られる登山家でもある。その他の編集メンバーを社の内外から募った。合計5人の編集体制を整え、私は編集長として雑誌の方向性を示すことにした。
当初は季刊誌として年4冊、あるいは隔月で年6冊が無難では、の意見もあったが、私はあくまで月刊、年12冊にこだわった。失速させたくないという思いがあった。
14年9月号を新生「岳人1号」として刊行を始めた。意気込みはよかったが、月々追われる月刊雑誌の編集は想像以上に大変だった。その大変さも、「好き」だからこそできる苦労には違いない。
もう一つの問題は、モンベルが発刊する雑誌には登山やアウトドアの競合他社の広告がもらえないということだ。雑誌出版事業の採算は広告収入が大きく影響するが、それをあてにできないのは大きな負担になる。
更に売れ残った雑誌の返本も問題だ。古紙として再生するとはいえ資源の無駄で、費用負担も少なくない。刷り部数の無駄をなくすため、書店での販売以外にも、モンベルの全国150店舗と年間定期購読に注力することにした。
118万人の会員がいるモンベルクラブの山岳部という位置づけであれば読者の顔も見えるし、我々が伝えたい思いも共有できると考えた。
山を登る行為には精神性があり、物語がある。役立つ登山情報とともに山や自然を愛する人たちの感性に訴える企画を1冊に込められるのも雑誌ならではである。「岳人」のテーマは「山と人」「自然と文学」とすることにした。
2024年11月号の特集は安全登山への思いを込めて「山岳遭難に備える」をテーマにした。そして今月発売の12月号のテーマは「なぜ山に登るのか」である。「そこに山があるから」と答えたジョージ・マロリーのあの名言の解釈を、私は生物学者の福岡伸一さんとの対談で語り合った。
(モンベル創業者)
【図・写真】編集打ち合わせ中の筆者(右)(大阪市西区)
辰野勇(23) 災害多発列島 東日本大震災で物資支援 津波対策のPFDを開発・提供(私の履歴書)[2024/11/24 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1432文字 PDF有 書誌情報]
2011年3月、東日本大震災が発生した。仙台市内のモンベルの3店舗も津波や揺れで大きな被害を受けたが、幸い従業員は無事だった。阪神大震災以来の大災害だ。私はアウトドア義援隊の活動開始を即決した。
翌日、まず社員2人を現地に派遣して情報収集にあたらせた。その翌日、私も単身ハイブリッド車で東北に向かった。現地でのガソリン入手が困難と予測したからだ。長期支援を覚悟して、まず支援基地を探すことにした。
最初にモンベル仙台店を考えたが、規模が小さいうえ市街地にあり基地にしづらかった。福島原発から100キロメートル以内にあることも懸念材料だった。放射能の影響が怖かった。蔵王山で隔てられた山形県側なら多少なりとも安全だろうと素人なりに考えた。
山形市役所の紹介で天童市にあるミツミ電機の使われていない建物をお借りすることになった。支援物資の集積にも十分な規模で、全国から集まるボランティアたちも持参したテントを建物の中に張って寝泊まりできる。
被災地支援は戦場のようにロジスティック(後方支援)体制の確保から始まる。これは登山で私が身に付けた知恵かもしれない。まず自分たちの安全を確保してはじめて他人を支援することができる。
全国から送られてきた物資を仕分けたうえで車に積んで被災地にとどける。天童からは国道48号線で峠を越えて宮城県側に向かう。早朝から出かけて夜遅く基地に戻る。
被災地の惨状の中で支援物資を届けた被災者から笑顔でかけられる「ありがとう」の言葉にボランティアは救われた。その1人が災害規模の大きさに対して、自分たちにできる支援の限界に焦りを感じていた。彼に私は「1人が1人の支援ができれば、それでいい。100人いれば100人の被災者を支援できる。自分たちにできることをやればいい」と声をかけた。
発生から3カ月の間に配布した支援物資はおよそ300トン、実に2トントラック150台分に相当する。
震災では宮城県石巻市立大川小学校の多くの児童が津波の犠牲になった。「ライフジャケット(PFD)を着用していれば救えたかもしれない」と考えた私は、普段はクッションとして身近に置き、いざという時はカバーを外して着用できるPFDを開発、「浮くっしょん」と名付けた。
今後起こるに違いない南海トラフ地震の津波への備えにしてほしいと考え、対象地域の知事や市町村長を訪ねた。採用するか否かは自治体が決めることだが、津波の備えとしてPFDが有効だと気づいた限り、それを首長にお伝えするのが私の責務だと考えた。
津波から時がたち、人々の危機管理意識も近年は薄らいできたように思えた。私は、高知県黒潮町や四万十市、和歌山県串本町など津波が懸念される自治体に「浮くっしょん」を寄贈することにした。まさにその矢先、日向灘沖で地震が起き、初の南海トラフ地震臨時情報が発表された。来たるべき時に怠りなく対処する準備の必要性を痛感した。
熊本地震や岡山の豪雨災害、長野では千曲川の氾濫、そして更に今年1月発生した能登半島地震、さらに追い打ちをかける豪雨災害など、近年多発する自然災害の都度、微力ながら、アウトドア義援隊の活動を継続している。
災害多発列島と化した日本で、アウトドア活動の知見を生かしたノウハウと経験を、災害時の復興支援のみならず、災害発生以前からの備えにお役立ていただきたいと願う。(モンベル創業者)
【図・写真】東日本大震災の被災家屋で泥出しを手伝った(宮城県石巻市)
辰野勇(22) 地域を元気に 人口少ない市町村に出店 アウトドア活動の拠点に(私の履歴書)[2024/11/23 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
若き日、足しげく通った大山(だいせん)は鳥取県の西部に位置する。あるとき、登山口にある、使われていない大山町の施設に出店しないかと当時の森田増範町長から打診された。その頃、広島や岡山を含めて中国地方には直営店が全くなかった。標高750メートル、冬は日本海からの季節風を受け大雪に閉ざされる立地で、採算は見込めなかったが、私の大山登山のベースのつもりで、2008年、店舗を設けた。
かつて大山寺参道やスキー客でにぎわった街並みもシャッターが下りて活気を失っていた。「出店してくれて景色が変わった」と近隣の店舗の主人に喜んでいただいた。
その後、北海道では大雪山の麓にある人口7800人の東川町、同5000人のオホーツクの小清水町、更に2300人の南富良野町には北海道最大の直営店を出店した。
東北では、秋田県美郷町、にかほ市、山梨県は富士吉田市、長野県飯山市、佐久穂町、福井県大野市、広島県坂町、高知県本山町、熊本県南阿蘇村など、アウトドアフィールドに隣接した自治体から要請を受けて出店してきた。
多くの店舗にはビジターセンターを併設し、アウトドア活動の拠点作りを目指している。この取り組みを進めていく中で少子高齢化など地域が抱える様々な問題を知った。そして、アウトドアがそれらの問題に対応するキーワードになる手ごたえを感じた。
私は、これまでかかわった取り組みを通じて、アウトドアが果たす社会的な役割をまとめてみた。「モンベル7つのミッション」である。
(1)自然環境保全意識の向上
(2)子供たちの生きる力を育む
(3)健康寿命の増進
(4)自然災害への対応力
(5)エコツーリズムを通じた地域経済活性
(6)1次産業(農林水産業)への支援
(7)高齢者・障害者のバリアフリー実現
これらのミッションの実現をテーマに現在、13の府県と市町村、大学、民間企業など156の団体・組織と包括連携協定を結んでいる。人口減少が加速する中、地域と118万人のモンベルクラブ会員をつないで、交流人口として、地域の活性化を図るお手伝いができる。
フレンドショップや06年に始まったフレンドエリアに登録いただいた店舗や施設からはモンベルクラブ会員への割引やサービスの提供を頂いている。地方の恵まれた自然環境はアウトドアを愛好する会員にとっての活動の場だ。
09年に始めた「SEA TO SUMMIT」は、海、里、山の恵みに感謝するイベントだ。開催エリアで環境シンポジウムを開いた翌日、海や川をカヌーで漕(こ)ぎ、登山口まで自転車で漕ぎあがり、徒歩で頂上を目指す。「皆生・大山」の大会を皮切りに今年も9カ所で開催した。
その素晴らしいフィールドを年間通して親しんでもらう取り組みが「ジャパンエコトラック」だ。カヌーや自転車、ウオーキングなど人力で旅するルートを全国に設定して、地方を訪れる利用者を喚起する取り組みである。
協議会の代表理事は東京大名誉教授の養老孟司さんにお願いした。現在35地域が登録されている。アプリケーションの位置情報を利用するとお薦めスポットが紹介され、楽しんでいただける。
コンテンツは日本語以外に英語や中国語などインバウンドへの対応も進めている。出店の計画は現在秋田県北秋田市、福島県三春町、只見町、茨城県大子町、岡山県矢掛町、鏡野町で具体化し、更に北海道留萌市や芽室町などとも取り組みが進行している。
(モンベル創業者)
【図・写真】大山の麓に設けた直営店(鳥取県大山町)
辰野勇(21) 障害者とともに 日本初のカヌー教室開催 可能性への挑戦を応援(私の履歴書)[2024/11/22 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1445文字 PDF有 書誌情報]
奈良市の社会福祉法人「青葉仁(あおはに)会」の榊原典俊さんは、アウトドアを愛好する教育者で、障害を持った人を入所で支援する施設を運営している。就労支援の一環でモンベルの商品を扱ってもらっており、そのご縁で、私は同会の理事を拝命したこともある。
同会の懇親会で、ポリオの障害のある青年が私にビールをつぎながら「カヌーを教えてください」と話しかけてきた。以前、京都府笠置町の木津川を楽しそうに漕(こ)ぎ回っているカヌーを見て、自分でもやってみたいと思ったらしい。
まひで歩行も困難な彼がカヌーを漕げるだろうか。一瞬戸惑ったが、考えてみれば、下半身が不自由でも、手が使えればパドル操作はできるかもしれない。私はその可能性を見極めてみたいと考えた。
早速榊原さんと相談して障害者カヌー教室を開催することにした。それは社会貢献などという高尚な動機ではなく、彼らの可能性を見極めたいという個人的な好奇心から始まった。
1991年、奈良県五條市を流れる吉野川で日本初の障害者カヌー教室「パラマウント・チャレンジ・カヌー」を開催した。河原には15人の障害者とボランティアのスタッフ100人が集まった。体を艇にフィットさせるためにスポンジの詰め物を用意するなど、障害の部位に応じて工夫をこらした。パドル操作の基本を教えた後、彼らの乗った艇を水面に送り出した。
しばらくすると参加者の1人、吉田義朗が叫んだ。「俺、障害者やったん忘れてた!」。彼は18歳の時、事故で脊椎を損傷した。中途障害で歩けなくなった人は、歩けていた頃の夢を見る。そして朝、目を覚まして、歩けない現実にがくぜんとするという。
水の上で自由にカヌーを漕ぎまわっているとき、夢に見たあの光景のように、つい自分が障害を持っていることを忘れていたというのだ。これこそ障害を持った人たちに新たな可能性を開くスポーツだと私は確信した。
ただ、「パドルは腕だけではなく体全体を使って漕ぎなさい」と吉田に教えても、車いすで鍛えた腕力が邪魔をして正しいパドル操作ができなかった。そんなある日、室内プールで開いたカヌー教室にサリドマイド胎芽症の少年が参加した。この少年は四肢の末梢が欠損する先天異常で上腕が10センチほどしかなかった。
さすがに無理かと思ったが、「パドルを顎に挟んでください」という。すると、短い腕を使って器用にパドルを操作しながら艇を漕ぎ始めた。30分ほどで左右のターンもできるようになった。
それを見た吉田が再び声を上げた。「そうか、体で漕ぐとはこういうことか」。腕のない少年は体を使って漕ぐしかない。立派な腕を持った大人が腕のない少年に漕ぎ方を教えられたのだ。障害を持たない私たちが、与えられた、あるいは残された機能のどれだけを使い切っているのか、改めて自分に問い返した。
吉田はその後モンベルに入社し、直営店の店長を務め、日本障害者カヌー協会を設立して、初代の会長になった。「障害者にカヌーをさせても大丈夫ですか? けがでもさせたら大変」と忠告する人もいた。しかし私は、彼らの可能性への挑戦を応援したい。
16年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックのカヌースプリント競技で、瀬立(せりゅう)モニカさんが8位の成績を収めた。更に、東京では7位、今年開催されたパリでは6位と、成績を伸ばしている。それは他者との競争というよりも、自分自身との闘いのように私には思える。
(モンベル創業者)
【図・写真】障害者のカヌー教室で教える筆者(右)
辰野勇(20) 阪神大震災 アウトドア義援隊を結成 倉庫の全寝袋とテント提供(私の履歴書)[2024/11/21 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1436文字 PDF有 書誌情報]
1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が発生した。堺市の自宅で経験したことのない強い揺れで目を覚ました。立ち上がることができず、家具が倒れてくるのを足で支えようと身構えた。幸い、家屋に大きな被害はなかった。
テレビをつけると、緊急速報が流れていた。当初は「2名が亡くなった」との報道だったが、画面に映るヘリコプターからの映像にはあちこちから煙が上がる様子が映し出されていた。時がたつにつれて犠牲者の数は増えた。
そんな時、神戸市に住む商社時代の上司の麻植(おえ)正弘さんから電話があった。家の屋根が壊れたのでブルーシートがほしいという。その時点では、まだ電話が通じていた。ピックアップトラックに息子らを乗せ、ブルーシートや水を調達して現地に向かった。
武庫川の橋を渡ったとたん、街並みが一変した。倒壊した家屋からはガスの匂いが充満して、まるで爆撃を受けた戦場の風景だった。幸い麻植さんは無事で、家の全壊は免れていたが屋根の瓦はずり落ちていた。更に、神奈川の友人からも電話が入り、魚崎のアパートに住む両親と連絡がつかないから確認してほしいと頼まれた。引き続き彼の実家に移動した。到着した時は、すでに夜になっていた。暗闇の中にたたずむ人がいた。友人の父で、アパートの2階にいて難を免れた。
しかし、お母さんの部屋があった1階は押し潰されていた。何度も呼びかけたが応答がない。がれきの間に手を入れて探ってみると寝袋とおぼしき感触にふれた。お父さんに聞けば日頃からモンベルの寝袋で寝ていたという。膨大ながれきを手作業で取り除くのは不可能だった。翌日、消防の協力を得て、お母さんを搬出することができたが、すでに亡くなっていた。
ご遺体を収容する場所を探したが、どこもいっぱいで、ようやく診療所の建物を開放した仮の安置所にお連れした。室内には、布切れ一枚かけられていない多くの遺体が並べられていた。私は、一旦車に戻って仮眠をとろうとしたが眠れなかった。
許容を超えた現実を目にして、悲しいという感覚はまひしていた。なぜか涙がとめどなく流れた。せめてご遺体を寝袋に入れて差し上げようと思いついた。しかし、家を失った人たちが路上でがれきを燃やして寒さをしのいでいる姿を見て、寝袋は「生き残った方々に使ってもらおう」と考えを変えた。
会社の業務を一旦停止し、支援に専念することを決断した。早速、倉庫にあったすべての寝袋2000個と500張のテントを被災地に運び込んだ。しかし、我々にできる支援には限界がある。私は、支援活動を「アウトドア義援隊」と名付けて、知人や企業に被災地支援を呼びかける文書をファクスで送信した。
「人=ボランティア、物=義援物資、金=義援金」のいずれかを協力してほしいと訴えた。すぐに全国各地から協力を申し出る返信があった。インターネットのない時代、素早い反応に私は感銘した。そこには、日本人が祖先から培ってきた共助の精神がある。同時に、登山を実践するなかで身に付けた危機管理が有事の対応力を発揮し、テントや寝袋などのアウトドア用具が役立つことを実感した。
その後、新潟県中越地震など頻繁に起こる災害に対してアウトドア義援隊の活動が引き継がれていった。
そして、2011年3月、日本列島を揺るがす「東日本大震災」が発生した。モンベルはアウトドア義援隊の活動を通じて被災地の支援に専念することになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】被災者に使ってもらった(神戸市灘区)
辰野勇(19) モンベルクラブ 会員100万人の予言実現 モノからコトへ一貫サービス(私の履歴書)[2024/11/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1405文字 PDF有 書誌情報]
「自分たちの欲しいものを作りたい」。そんな思いで創業したモンベルは登山やカヌーに必要な道具や衣料を開発してきた。そして、「こんなものが欲しかった」と共感してくださるお客さまに支えられてきた。私にとってお客さまは同じ価値観を共有する同志のような存在だ。そして、自然を愛し生きる喜びを共感する仲間だとも考えている。
私が所属した社会人山岳会「大阪あなほり会」ではガリ版で刷り上げた手作りの会報誌を発行していた。会員の山行記録や登山情報を共有することで互いの連帯が強まった。モンベルでも同様に、お客さまとの情報交換や価値観の共有をはかりたいと考え、1986年「モンベルクラブ」を立ち上げた。そして、その運営資金として年間1500円の会費をお預かりすることにした。当初はカタログ送付以外に何の特典やサービスもなかった。それでも一人また一人と入会者が加わった。
私は山岳会と同様に会報誌の必要性を感じていた。しかし人手がなくて実現には時間を要した。そしてようやく会報「OUTWARD」の発刊にいたった。「外に出かけよう」の意味を込めて私が命名した。創刊号には山岳雑誌「山と渓谷」の編集長と私の対談や、山や川の情報、道具の手入れ方法など、読者に身近な話題を掲載した。
山小屋やペンションオーナーに「モンベルフレンドショップ」として会員に宿泊割引や飲み物のサービスなどをしてもらえるようにお願いした。その後、この取り組みはキャンプ場や温浴施設、飲食店などに拡大した。更に村や町、島など地域ぐるみで複数の施設を一括して登録するフレンドエリアに参加する自治体も増え、現在2300を超える店舗や施設が参加している。
事業も、製品の販売だけでなく、旅行業の認可を得て、会員を山や川にご案内する「MOC=モンベル・アウトドア・チャレンジ」のイベント業も始めた。まさに「モノ」から「コト」の提供まで一貫したサービス事業である。
登山用具は使い方を間違えれば事故につながりかねない。お客さまに正しい使い方を知っていただくための取り組みでもある。更に、社員らが直接ガイドすることでお客さまとの親睦もはかれる。もちろん、私自身もガイドとして会員の皆さんをご案内する。ガイド業は、私が高校を卒業した時、なりたくてなれなかった山の生業(なりわい)だった。つくづく望みは、思い続ければいつかかなうものだと思う。
2001年からは、管理システムもでき、会員へのポイント付与を始めることができた。お買い上げ金額に応じてポイントを付与する。
徐々に会員への特典も増え、モンベルクラブの会員組織は拡大していった。
05年、創立30年の記念式典で私は社員に思いを告げた。「創業した時、30年後のモンベルを私は想像した。今、ほぼそれが実現している。さらに30年後にも会社が存在しているとしたら、やはり私には想像できる。要素は二つ。モンベルが社会にとって必要とされ続けていること。そしてその事業の経済バランス、すなわち採算が取れていることだ」
当時、モンベルクラブの会員数はおよそ8万人だった。私は「30年後、きっと100万人になる」と予言した。それから16年後の21年には100万人を突破し、現在120万人に近づきつつある。モンベルクラブ会員の支持こそが企業存続を占うバロメーターだと私は考えている。
(モンベル創業者)
【図・写真】会員向けのカタログや会報誌
パーソルホールディングス社長 和田孝雄氏(上) 取引先を倒産危機に、クビ覚悟(私の課長時代)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 15ページ 1367文字 PDF有 書誌情報]
■夢は起業から「分社のトップ」へ
勤務先の輸入商社が1990年に倒産し、91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)に入社しました。人材派遣会社の起業を志し、ノウハウを学ぶためです。技術者を派遣する部署などで新規開拓に励みました。
ほどなく技術者派遣の全国拠点をまとめるエリアマネジャーとなり、大きな予算と権限が与えられました。人材派遣事業の成長には基盤と資金力が必要です。エリアマネジャーの仕事を通じ、ゼロから立ち上げる難しさに気付きました。当初の起業の夢は「技術者派遣事業を分社化し、その会社のトップになる」という夢に変わりました。
■「二股をかけるのか」激怒した大口顧客
それから数年後のある日、大阪出張中に「すぐ東京に戻ってこい」と上司から電話がありました。顧客のA社が激怒しているというのです。A社とはIT(情報技術)支援系の合弁会社の設立を進めていました。
慌てて東京に戻り、A社の担当者と話すと、問題は合弁会社の前から取り組んでいた同業のB社との共同プロジェクトでした。報道で計画を知ったらしく、「敵対する会社と二股をかけるのか。我々かB社か、どちらを選ぶか決めてくれ」と迫ってきました。
A社はB社とも取引していますし、同業とはいえ上場大手のA社に対してB社は未上場の新興です。競合になるとは全く思っていませんでしたが、大口顧客であるA社を優先し、B社とのプロジェクトを中断する苦渋の決断をしました。
当初は「どちらを選ぶのか」と迫ってきたA社ですが、それでも怒りは収まりません。合弁会社の話を白紙にした上、B社との取引も停止してしまいました。
■リスクヘッジの大切さ学ぶ
B社への影響は深刻でした。プロジェクトに投じた資金が無駄になった上、A社との取引停止で収益が大幅ダウンし、倒産危機に。自分のせいでB社は潰れるかもしれない――。それまで味わったことのない怖さと申し訳なさを感じました。
テンプスタッフからの資金援助もあってB社は倒産は免れましたが、私が大きな仕事を2つもダメにした事実は変わりません。「会社を辞めた方がよいでしょうか」。当時の篠原欣子社長(現名誉会長)にそう尋ねると、「自分の利益のためではなく、事業を伸ばそうとしたのでしょう。二度としてはいけないが、1度目は仕方がない」と返ってきました。その後の奮起を支える言葉になりました。
今思うと、テンプスタッフと万全の体制を築きたいA社と、A社ともB社とも良い結果を生みたいという私と認識のズレがありました。「千丈の堤も蟻(アリ)の穴より崩れる」。このトラブルの渦中で、A社の担当者から聞かされた言葉です。あらゆる事態を想定することの大切さを学んだ経験でもありました。
〈あのころ〉 1986年に労働者派遣法が制定され、人材派遣業界は90年代に黎明(れいめい)期から成長期への過渡期を迎えた。バブル崩壊後も派遣社員の需要は高く、業界への新規参入が相次いだ。96年には派遣労働の対象が広告デザインやアナウンサーを加えた計26職種になった。
わだ・たかお 1986年(昭61年)立命館大法卒。91年にテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)入社。IT(情報技術)部門などに従事。パーソルHD取締役執行役員などを経て21年4月から現職。61歳。
辰野勇(18) 海外の川下り レジェンドらと激流へ 夜は満天の星、夢のような時間(私の履歴書)[2024/11/19 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1442文字 PDF有 書誌情報]
1982年、米国のヨセミテ渓谷を流れるトゥオルミー川を私は3人の友人と下った。パタゴニアの創業者イボン・シュイナード、ノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンス、彼はアイガー北壁の米国人初登攀(とうはん)者で、ノースフェイスの名はこれに由来する。そしてヨセミテの岩壁登攀ルートを開き、自らの名をブランドにして立ち上げたロイヤル・ロビンス。
いずれも米国を代表するアウトドア企業の創業者であり、クライミング界のレジェンドでもある。川の難易度を表すグレードは1級から6級まで。最も困難、あるいは不可能とされるのが6級だが、この川のグレードは5級。巨大な落ち込みが連続する。
皆でコースを下見するためにカヤックから降りたが、ただ1人ダグは下見せずに飛び込んでいった。そのガッツに私は驚かされた。ちなみに彼は自家用小型飛行機を1度ならず2度もガス欠で不時着させている。そんな伝説の冒険家たちがアウトドアフィールドの時代をリードしてきた。
彼らが用意してくれたカヤックは当時の日本にはなかったポリエチレン製で、岩にぶつけてもびくともしない。この驚異的なカヤックを製造するパーセプション社から1艇買い求めて日本に持ち帰り、その後モンベルで輸入販売することにした。
米国のグランドキャニオンを流れるコロラド川のリーズフェリーからダイヤモンドクリークまでの364キロメートルを3週間かけて下った。ちなみに日本人としては初、その後を含めて3度も私はこの川を下った。川を下るには許可がいる。個人が申し込めば10年以上待たねばならなかったが、割り当てを持ったツアー会社やパーセプションの創業者ビル・マスターのチームに私は加わらせてもらった。
大半は穏やかな流れだが、毎秒1500トンの激流は尋常ではない。夜は満天の星を仰ぎながら砂浜で寝る。そんな夢のような時間を過ごした。
中米コスタリカで開催された「プロジェクトRAFT」の世界大会に誘われ、世界中のゴムボートやカヤックを愛好する仲間たちと熱帯雨林の川を下ったこともある。RAFTはゴムボートを意味するが、R=ロシア、A=アメリカ、F=for、T=チームワークの略でもある。国際関係が難しい時代の民間交流の企画でもあった。
ネパールのトリスリ川やマルシャンディ川はヒマラヤの雪解け水を源流とする激流だ。私はカヤックに食料や装備を積み込んで数日かけて下った。カナダのユーコン川は、全盲や脊椎損傷などの障害をもった仲間たちと一緒に1週間かけて下った。きっと彼らにとって忘れえぬ思い出になったに違いない。
オーストラリアのタスマニアの海では、オランダ人タスマンがこの島を訪れた大航海期の先住民アボリジニの数奇な物語に思いを巡らせた。
90年代から2000年代はこんな川や海をカヤックの旅で満喫した。
チベット高原を西から東に流れる全長2900キロメートルのヤルツァンポ川が、ギャラペリ山(7294メートル)とナムチェバルワ山(7782メートル)に挟まれた大峡谷に流れ込み、180度方向を変える「大屈曲点」の踏査は冒険家たちのロマンだ。川はやがてインドのプラマプトラ川となりガンジス川に続く。
テレビ局からこの川の番組取材の誘いを受けて同行することにした。「未踏の激流をカヤックで下れるだろうか」。その可能性を見極めたいと願っていたが、圧倒的なパワーの激流を前にして私はなすすべがなかった。
(モンベル創業者)
【図・写真】グランドキャニオンのコロラド川も下った
辰野勇(17) 直営店 価格リストラ断行を決断 値引き競争回避、専門店歓迎(私の履歴書)[2024/11/18 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1422文字 PDF有 書誌情報]
現在全国に127の直営店を展開しているが、第1号は1991年、JR大阪駅の商業施設「ギャレ大阪」に開設した店舗だった。当時モンベルは「グレートアウトドア」をキャッチフレーズにして商標登録していた。JR西日本から、新設する商業施設のコンセプトにこの言葉を使いたいという依頼があり、併せて出店も要請された。
創業以来、商品は問屋を通して登山専門店で販売しており、直接消費者には売っていなかった。数百種類の製品があっても店頭に並ぶのは店のフィルターを通して選ばれた商品に限られていた。確実に売れる商品しか扱ってもらえない。これを米国では「チェリーピッキング」と呼ぶ。熟れて食べられるサクランボしか摘まないという例えだ。
登山という専門的な分野では、少数であっても必要な品物はある。まして新しく開発した実績のない製品を消費者に知ってもらうには、自分たち自身の費用とリスクをかけて直営店を出すしかないと考えていた。そんな矢先のこの提案に私は出店を決断した。
1日20万人以上利用者がある大阪駅の立地は申し分ない。しかしモンベルの隣に大阪で最も大きな我々の取引先が出店するという。大口販売先との取引を失うことをも覚悟して出店に踏み切ったが、その販売会社との取引は途絶えることなく続けられた。
しかし、また新たに別の問題に直面した。「値引き販売」である。市場ではモンベルが提示した「希望小売価格」から30%近くの値引きが常態的に行われていた。他店の価格と見比べて自店の販売価格を決める価格競争が行われていた。本来の顧客サービスとは違う煩わしさがあった。
一方、メーカーの我々は希望小売価格を明示している限り、値引きはできない。我々の直営店で買った商品が隣の店では約3割引きで売られているのを見て、返品されるお客様も少なくなかった。
そこで、私は次なる大きな決断をすることになる。卸価格は据え置いたまま、メーカー希望小売価格を一気に3割程度引き下げるという前代未聞の決断だ。実現すれば小売店間の販売価格差がなくなり、ユーザーの不公平感も解消される。私は全国の販売店を回って理解を求めた。
そのころ米国では大型アウトドアショップがプライベートブランド品を自社で企画し製造販売して消費者から支持されていた。いわゆる「ダイレクトマーチャンダイズ」である。いずれ彼らも日本の市場に参入するかもしれない。護送船団方式ともいわれる旧来の「メーカー、卸、小売り」の流通構造では対処できなくなるだろう。それに備えた価格戦略であることを取引先のオーナーに説いた。
私は、この身勝手な価格リストラを受け入れてもらえないことを覚悟していたが、ほとんどの販売先が取引を継続してくれた。丁寧な商品説明をモットーにする登山専門店は「他店との値引き競争を意識せずに丁寧な商売ができる」とむしろ歓迎してくれた。しかし、定価からの「値引き」を唯一の販売手段にしてきた大型ディスカウントチェーン店は、その優位性が無くなって取引から撤退した。
まもなくして、米国の大型アウトドアチェーン店が1千坪の巨大な規模で東京都町田市に進出してきた。「黒船の到来。来るべきものが来た」と覚悟を決めたが、わずか1年後、彼らは採算が見込めないことを悟って撤退し、モンベルがそれを引き継ぐことになった。価格リストラがなければこの展開はなかったに違いない。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪駅近くにできた最初の直営店
辰野勇(16) 冒険大賞 成果ではなく計画を評価 リスクとる若者らを支援(私の履歴書)[2024/11/17 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1463文字 PDF有 書誌情報]
人はなぜ冒険するのか。時には命のリスクをかけても他人のやらないことに挑戦する、そのモチベーションはどこからくるのか。ゴリラ研究で知られる山極壽一さんは「どのゴリラも登ったことがないという理由で、危険を冒して岩壁を登るような酔狂なゴリラはいない」と断言する。
すなわち冒険は人間に与えられた特性だというのだ。それが事実なら、我々が享受する文明の起源は、限界を超えてきた冒険の歴史のたまものなのかもしれない。これを「リーディングエッジ」と称して、欧米人は敬意を表する。
1992年、米国で開催された「冒険大賞」の選考委員を依頼された。世界中から寄せられた冒険の計画を審査して、優れた企画に資金を授与する。「なし遂げた結果」に対して贈るのではなく、計画を実行するために必要な支援をするのが目的だ。
若き日に海外渡航費で苦労した私はこのコンセプトに共感した。ある時、選考委員の一人である米国の心理学者に「人はなぜ冒険をするのだろう」と投げ掛けた。すると彼は「命を懸けて冒険しようという人間はせいぜい全人口の0・3%だ」と言う。
そしてそれは、登山や川下りなどの野外活動に限らず、医療や先端技術の開発などあらゆる分野で、人間の限界を押し広げてきたという。7人の選考委員は、米国、英国、カナダ、イタリアなど世界各国から集められていた。
ドイツ人のニコが「今年の応募者の内、何人が命を落とすと思う?」とつぶやいた。応募者は自己責任で行為を実践する。事実、チベットの大峡谷にカヤックで挑んで行方不明になった応募者もいた。
選考会は毎年場所を変えて開催された。各地で用意されるアクティビティーも楽しみだった。98年は北イタリアのドロミテ山麓の町コルチナで開かれた。まとめ役のジョン・ハーリンjrが、「岩登りに行こう」と提案した。
彼は米国人で、アイガー北壁に直登ルートを開拓中に滑落死したジョン・ハーリンの息子だ。我々が出かけたのはビアフェラータと呼ばれるドロミテのユニークな登攀(とうはん)システムで、岩壁の取り付き部から頂上までの標高差500メートルにワイヤロープが固定されていて、登山者はハーネス(安全ベルト)を装着し、ワイヤにカラビナを掛けながら登っていく。
万一落下しても杭のところで止まる。無論、まったく危険がないわけではない。熟達した経験者だからこそ楽しめるアトラクションだ。
私は、日本でも冒険を志す若者を応援したいと考えて、「モンベルチャレンジ支援プログラム」を立ち上げた。我々も「成果にではなく計画」を評価して対象者を選んだ。更に2005年には、実績を含めて継続する素晴らしい取り組みに贈る「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設した。
手作りボートでスイスから日本を目指した中島正晃さん、がんと闘いながら自転車で世界一周に挑むシール・エミコさん、日本人のルーツを探る3万年前の航海の再現プロジェクトなど、これまで多彩な挑戦に賞を授与したが、ほとんどのプロジェクトは完結していない。犬ぞりによる北極圏での環境調査を続けていた山崎哲秀さんは北極海の流氷の割れ目に落ちて消息を絶った。
さらにアフガニスタンの人道支援団体、ペシャワール会の代表、中村哲さんはテロの凶弾に倒れた。最新の受賞者は、旅の途中2人の子を産み育てながら13年間、世界を自転車で旅するスイス人家族のパシュさんたちだ。これからも冒険を志すチャレンジャーを支援したいと考えている。(モンベル創業者)
【図・写真】イタリアの農場で審査委員らと(右から2人目が筆者)
辰野勇(15) 黒部峡谷初下降 「いける!」難所脱出し完遂 足かけ4年がかり、カヤックで(私の履歴書)[2024/11/16 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1477文字 PDF有 書誌情報]
黒部川は北アルプスの鷲羽岳(2924メートル)を源にして日本海に注ぐ全長85キロメートルの河川だ。世界でもまれにみる急峻(きゅうしゅん)なこの川を源流部から河口までカヤックで下る挑戦を始めたのは1987年だった。
チャンスは残雪が消える8月から新雪が降り始める10月までの3カ月足らずしかない。峡谷の上部、「上の廊下」の初下降に挑むため、9月、ヘリに7艇のカヤックと装備をつり下げて薬師沢が合流する河原に降り立った。
モンベル社員の有志を中心に総勢7人のメンバーがカヤックを漕(こ)ぎ出した。源流部に近い最初の数キロは水量も少なく、積み重なった大きな岩と岩の間を縫うように川は流れていた。漕ぎ下るというよりも岩の間を滑り下りていくような感覚だった。
たびたび行く手を遮られて、艇を担ぐポーテージを余儀なくされた。テントや食料などを積んだカヤックは重い。徐々に水量も増し、落差2、3メートルの滝が連続する場所もあったが、流れの勢いはさほど強くない。この日は突然の増水にそなえて河原から離れた台地でビバークした。
翌朝漕ぎ始めたが、次から次に滝が現れ、そのつど艇から降りて偵察するので時間がかかった。日没後の暗闇の中を漕ぎ、ダム湖畔に上陸してこの年の挑戦は終わった。
黒部ダムの下流、「下の廊下」と呼ばれる峡谷の下降は2年がかりになった。
88年10月、ダムの大量放水がないことを確かめて7艇のカヤックをダムの直下に下ろした。流れは速く、転覆する艇が相次いだ。
継続を諦めた2艇を樹林帯に縛り付けて野宿。翌朝、残りの5艇で川下りを再開したが、落差4、5メートルの滝が連続する。流れが穏やかになったかと思うと突然、川が消えて滝が現れる。緊張のあまり口が渇いてつばがはけない。精神的な疲労の限界を感じた。この年はここで引き揚げて翌年下降を続行することにした。小高い岩盤にハーケンを打ち込んで5艇のカヤックを縛り付けて下山した。
翌89年、雪解けを待って現地に行くと、縛り付けておいた艇はすべて雪に押しつぶされていた。前年に離脱して樹林帯に縛り付けた2艇が無事だったのでそれを使うことにした。白竜峡と呼ばれる峡谷には落差15メートルの滝がある。
まるで竜が炎を吐き出しているように見えるところから、私は「竜の炎」と呼ぶことにした。「15メートルの落差を落ちて無事に着水できるだろうか」。当初は艇を担いで迂回するしかないと考えたが、流れを見て観察するうちに、「下れるかも」と思い始めた。
別の仲間はやめておきますと言う。私は一旦カヤックに乗り込んだが心を決めかねていた。「やめろ、死ぬぞ」と「大丈夫だ」という心のささやきが頭の中で交錯した。「いける!」と思った瞬間、私は迷いなく漕ぎだした。
滝つぼに5メートルほど潜っただろうか。浮上したらパドルが3つに折れていた。1人になった私は最後の核心部S字峡の返し波につかまり転覆してしまった。エスキモーロールと呼ぶ技で起きようとしたが岩に押し付けられて上がれない。諦めて一旦艇から抜け出したが、周りに助けてくれる仲間はいない。
水中で息をこらえ、艇が岩から離れるのを待って再びロールを試みた。数十秒間の判断だった。ロールに成功して窮地を脱した。そしてようやくこの年のゴール仙人谷ダムまで漕ぎ下ることができた。
その翌年、仙人谷ダム下の欅平から仲間と一緒に漕ぎ下り、全員で日本海に到達した。足かけ4年のカヤックによる黒部川初下降が完結した。
(モンベル創業者)
【図・写真】「下の廊下」の落差5メートルの大滝をカヤックで下った
辰野勇(14) パタゴニア 登山家創業者と出会う 自社ブランド構築に注力(私の履歴書)[2024/11/15 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出会ったのは1980年、ドイツの登山用品店シュースタのパーティー会場だった。彼はヨセミテ渓谷などの大岩壁を初登攀(とうはん)した著名な登山家でもある。登山や創業の話を交えて互いにものづくりに対する考えを交わした。
30分足らずの会話だったが、意気投合した。ちょうど同社の製品を扱う日本の代理店との契約が終わるとのことで、「やってみないか?」と尋ねられた。他社のブランドを扱うことには、まったく興味はなかったが、イボンの人柄に興味を持った。
彼は日本に来るといったがかなわず、逆に私が米国を訪ねることになった。ロサンゼルスの空港に、Tシャツと短パン姿で彼が迎えに来てくれた。さびだらけのワーゲンの砂まみれの後部座席にはワインの空き瓶が転がっていた。
彼の家は太平洋を見渡すベンチュラの海岸に立っていた。カヤック2艇を並べ、「波乗りしよう」という。サーフィンの経験はないが、カヤックならできる。しばらく一緒にサーフカヤックを楽しんだ後、心地よい波音を聞きながら商談を始めた。それまでヨーロッパアルプスに親しんできた私は、自由で開放的な米国人の気質と風土に一種のカルチャーショックを受けた。
悲惨なベトナム戦争を体験した米国の若者たちが興した自然回帰のムーブメントが登山界においても「クリーンクライミング」という新しい登山スタイルを作り上げていた。ハーケンやボルトを岩場に残さず、登った痕跡を一切残さない「LEAVE NO TRACE」のコンセプトである。イボンもまたその先駆者の一人だった。
彼の別荘のあるワイオミング州に聳(そび)えるグランドティトンの岩壁に新しいルートを2人で開いたり、ヨセミテの岩場を一緒に登ったりした。ビジネス以前に、良き山仲間としての交流が深まった。パタゴニア製品の日本での販売を手伝う一方、モンベルが得意とする新素材の分野で彼らの商品開発をサポートした。デュポン社のハイパロンを使った雨具もその一つだった。乾燥したカリフォルニアに比べて、夏は高温多湿の日本で開発した商品は、米国内でも高く評価された。
他方、木綿で作られたラグビージャージーやショーツなどのパタゴニア製品は日本の登山市場になかなかなじまなかった。その後、ポリエステルのフリース、「シンチラ」が発売されるやいなや多くの支持を集め、一気にビジネスが拡販していった。パタゴニアの製品が売れれば売れるほど、私の中で釈然としない気持ちが芽生えた。
自分たちが欲しいものを作り、消費者から共感を得る喜びを、モンベルというブランドに重ねて進めてきた我々のアイデンティティーが薄らいでいくような不安が膨らんだ。そのころパタゴニアの売り上げは、モンベル全体の約4分の1にもなっていた。M&A(合併・買収)が日常的な米国で、もし経営体制が代わったら、販売権は保証されない。たとえ今の売り上げを失っても、モンベルブランドの構築に注力すべきだと考えた。
折も折、来日していたパタゴニアの副社長、クリス・マックデービッドさんに思い切って切り出した。「クリス、日本での販売は自分たちでやってくれないか」。突然の申し出に驚いた彼女に、私は思いを打ち明けた。そしてパタゴニアの日本法人設立と責任者の採用面接を手伝った。それは互いに遺恨のない爽やかな別れだった。
(モンベル創業者)
【図・写真】イボン(右)と一緒にヨセミテの岩壁を登った
辰野勇(13) 海外進出 寝袋を西ドイツに初輸出 売り残した冬物、南半球へ(私の履歴書)[2024/11/14 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1458文字 PDF有 書誌情報]
「登山家は怖がりだ」こういうと、「怖いのなら、山になど登らなければいい」と返される。しかし「まだ見ぬものを見とどけたい」という好奇心がその恐怖心を抑制する。怖がりが故に最悪の状況を想像して準備する。晴天でも雨具は携行するし、日帰りの登山でも懐中電灯を持っていく。これが登山家のリスクマネジメントである。
3人で登山用品メーカー、モンベルを創業したが、恒久的に事業を続けられるだろうかという不安があった。創業メンバーも年をとる。常に若い仲間を迎え入れなければ平均年齢が高くなり会社は競争力を失う。平均年齢を若く保つために毎年社員を増やせば会社の規模は大きくなる。
少なくとも最初のメンバーが定年を迎えるまでの30年間は成長しなければならない。無論これは終身雇用の日本型経営に基づく考えだ。山仲間でもある創業メンバーとは生涯一緒に仕事をしたいと思っていた。当時、日本の登山市場の規模は500億円程度と推定されていた。30年後にその20%、100億円まで業績を伸ばせる可能性を目安と考えた。しかし、国内にそれだけの市場がなければ海外に販路を広げる必要がある。
創業3年の78年の夏、商品サンプルを携えて西ドイツのケルンで開催されていた国際的なスポーツ用品の展示会を視察した。その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訪ねた。ここは私がアイガー北壁を登るとき装備を買いそろえた店でもある。
店員に「日本から商談に来た」と告げると、役員室に案内された。部屋に入ると初老の紳士が迎えてくれた。「ダクロンホロフィル2」の寝袋を広げて、「私はアイガー北壁を登った。私の作った寝袋を買っていただきたい」と片言のドイツ語で告げた。
紳士の表情が少し緩んだ。「北壁に登ったのか」。紳士は、そう言って寝袋を手に取ってくれた。彼の名はケレン・スペーガー。ヒマラヤの8千メートル峰にも登頂した登山家だった。製品を丁寧に見たうえで「検討させてもらうよ」とやさしく返答してくれた。
ミュンヘン駅裏の木賃宿に戻って、きしむベッドに横たわり、アイガー北壁の実績が認められた喜びをしみじみかみしめた。
朗報が届いたのはその年のクリスマスイブだった。寝袋100個と防寒衣料などの注文書が送られてきた。欧州の老舗専門店にモンベルの品物が並べられることを想像するだけで心が高ぶった。
79年は暖冬で大量の冬物商品を売り残してしまった。資金繰りを考えれば、価格を下げても量販店に買い取ってもらうのが常套(じょうとう)手段だが、それをすればブランドのイメージを貶(おとし)める心配がある。
「南半球はこれから冬が始まる。今からでも買ってもらえるかもしれない」という単純な発想でニュージーランドに飛び立った。文字通りの飛び込みセールスだ。クライストチャーチのホテルで電話帳に記載されたスポーツ用品店に片っ端から電話して訪問した。製品の評価は高かったが、輸入するにはライセンスが必要で、高額の関税がかけられていた。そんな事情も知らないまま、思いつけばすぐに行動する私の性格を象徴するエピソードだ。
空港で南極が上に描かれた世界地図を見つけた。北半球に住む我々がいかに自分たち中心の既成概念にとらわれているのかを知る機会でもあった。ニュージーランドでは少量だが注文をいただいた。その後、スイスと米国に現地法人を設立し、40カ国のビジネスパートナーとの取引が始まることになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】最初に商品を売り込んだ西ドイツのスポーツ店「シュースタ」
辰野勇(12) カヤック 新しい自分の居場所に 判断力と決断力、山と共通点(私の履歴書)[2024/11/13 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1430文字 PDF有 書誌情報]
カヤックを始めたのは1974年。丸正産業の上司、麻植(おえ)正弘さんから「面白いからやってみないか」と誘われた。場所は琵琶湖から流れ出る瀬田川だ。艇を浮かべ、見よう見まねにパドルを漕(こ)ぎ出した。流れは見た目以上に複雑で、転ばないようバランスを取らなければならない。目の高さで水面が流れていく感覚が新鮮だった。
初心者の段階で出場した「第3回関西ワイルド・ウォーター競技大会」でまさかの優勝をしてしまった。いわゆるビギナーズラックである。それで、すっかりカヤックの面白さにはまってしまった。当時、カヤック人口は少なく、新たな可能性を予感した。
多くの仲間を山で失った喪失感もあり、ここに新しい自分の居場所を見つけた気がした。危険な山登りに没頭していた私の興味を「山からそらせよう」とカヤックに誘った麻植さんの術中にまんまとはまってしまったのである。
この頃、アイガー北壁登攀(とうはん)者の高田光政さんや大倉大八さんなど、往年の登山家たちが期せずしてカヤックを始めていた。私は高田さんから使わなくなったファルトボート(組み立て式カヤック)を譲ってもらい、あちこちの川に出かけるようになった。
カヤックとロッククライミングには共通点があるように思えた。難しい瀬を越える時、一瞬の判断力と決断力が求められる。そして一歩踏み出せば後戻りはできない。クライマーたちがカヤックを志向する感性が理解できた。「昔六甲、今琵琶湖」。高校時代は毎週のように六甲山のロックガーデンに通い、今は琵琶湖から流れる瀬田川に通っている。そんな私を妻があきれてそう言い表した。
登山を愛好するモンベルの社員たちにもカヤックを勧めた。77年、初めての社員旅行は、琵琶湖に浮かぶ竹生島にカヤックでツーリングすることにした。総勢7人で湖北の菅浦(すがうら)から漕ぎ出して竹生島に上陸。宝厳寺(ほうごんじ)の参拝をすませて、カヤックで戻り始めた頃から、琵琶湖特有の伊吹颪(おろし)が吹いて三角波が立ちだした。
とめどなく襲ってくる波に翻弄されてタンデム艇(2人乗り)1艇が転覆してしまった。起こして2人を再び乗艇させようとしたが、波に揉まれて這(は)い上ることが出来ない。その時、遠くを航行していた遊覧船が方向を変えて近づいてきた。「救助してほしいか?」と拡声器から呼びかけがあった。申し訳ないとは思ったが、結局、全員引き上げてもらった。初の社員旅行はそんな強烈な思い出を残した冒険旅行になってしまった。
翌78年秋には富山県の黒部ダムに組み立て式のファルトボートを持ち込んだ。静かな湖面から紅葉を楽しみながらのんびり漕ぎ進んでいると、監視艇が近づいてきて「すぐに上がりなさい!」と拡声器から怒声がした。「河川をせき止めたダム湖に艇を浮かべるのに規制があるのか?」。道のない未踏の岩場を登ってきた私には素朴な疑問だった。
社員数が40人を超えた年には長野県の飯田市を流れる天竜川に出かけた。前日の豪雨で川は増水していたが、私を含む7人が「いける」と判断してカヤックを漕ぎだした。ところが私以外の全員が転覆してしまい、1人で他のメンバーの救助と艇の回収をしなければならない羽目に陥ってしまった。何とか全員を無事に川岸に上げることが出来たが、この時はともに行動する仲間の技量を見極めておく必要を痛感した。
(モンベル創業者)
【図・写真】社員旅行でも楽しんだ(和歌山県の北山川。後列左から5人目が筆者)
辰野勇(11) 新素材 軽量・小型寝袋、業界に反響 機能追求の先にこそ「美しさ」(私の履歴書)[2024/11/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
1975年、登山用品の開発と製造販売を目指してモンベルを創業したものの、新しく市場に参入するのは容易ではなかった。工場にお願いして作ってもらった寝袋を登山専門店に飛び込みで売り込んだが、実績のない我々に与えられた注文はわずかだった。
そんな時、スーパーマーケットの商品企画を任された企業に勤める友人から、新規に企画したショッピングバッグの製造を依頼された。商社時代の人脈や経験を生かして生地を調達し、縫製工場を手配した。バッグは予想を超える売れ行きで、納期に間に合わせるため、社員の真崎文明、増尾幸子と一緒に徹夜でホック打ちや梱包の作業をした。
このショッピングバッグのおかげで初年度、1億6千万円の売り上げを達成することができた。この利益を使って登山用品の開発を始めることになる。この仕事で得た実績は、繊維メーカーや縫製工場との関係を構築する上でも大きな役割を果たした。
モンベル最初のヒット商品開発のきっかけになったのは丸正産業時代の上司、麻植(おえ)正弘さんがくれた新素材の情報だった。米国デュポン社が開発したダクロンホロフィル2という中空の化学繊維である。軽くて暖かく、ぬれてもすぐに乾く。寝袋の中綿としては画期的な素材だ。
当時、暖かく軽量でコンパクトになるダウンの寝袋は高価で庶民には高根の花だった。一方、化学繊維の中綿は安価だが重くてかさばり、持ち運びが不便だった。
早速、新素材の原綿を米国から輸入し、奈良県桜井市のふとん工場、北西商店で試作を始めた。シリコン加工した表面が滑って打綿するのに苦労したが、何とか製品化に成功した。製品は保温力や軽量コンパクト性に加え、ダウンにはない速乾性を備えていた。更に、表地に帝人がコンピュータのリボンテープ用に開発した極薄で高密度の素材を使用することで軽量化と接触感も飛躍的に向上した。
ところが、試作品を大阪市の登山用品専門問屋に持ち込むと、「こんなに小さいのに価格が高いのはおかしい」と取り扱ってもらえなかった。当時、化繊綿の寝袋の価格は中綿の重さで評価されていた。新素材の機能を評価してもらえなかったのである。
仕方なく東京の問屋を訪ねて性能を説明すると、「わかりました。うちで扱わせてもらいます」と、一挙に2千個の注文をもらった。この新しい寝袋は米国デュポン社の知名度を追い風に登山業界に大きな反響を巻き起こした。
この成功を受け、次に雨具の開発を進めた。雨が多い日本の気候で雨具は登山者にとって最も重要な用具である。素材に選んだのはこれもデュポン社の合成ゴム、ハイパロンだった。改めて同社の開発素材を研究したところ、防水性と耐久性に優れた素材の存在に気づかされた。
76年に製品化した「ハイパロンレインウェア」は、デュポン社の知名度もあり、長く売れ続けるモンベルの代表的な商品になった。「自分たちのほしいモノを作る」という我々の熱意が認められ、創業して間もない零細企業のモンベルに対してデュポン社はダクロンホロフィル2の寝袋使用に関する独占使用権を与えてくれた。
LIGHT&FAST(軽量と迅速)とFUNCTION IS BEAUTY(機能美)。無駄なく機能を追求したものこそ美しい。創業以来求めてきた商品開発のコンセプトである。
(モンベル創業者)
【図・写真】初のヒット商品となった
辰野勇(10) 独立 28歳を機に山仲間と創業 自己資金ゼロ、社名は無国籍(私の履歴書)[2024/11/10 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1456文字 PDF有 書誌情報]
丸正産業では製品企画など新しい事業を試みたが、すべてがうまくいったわけではない。当時、アルミのフレームにザックを取り付けた「バックパック」が米国で流行し始めていた。米国からの引き合いもあり、国内で製造して輸出する企画を立てたが、フレームパイプの製造や型代の償却など、新規投資の回収が不確実だと上司に却下された。
新素材を開発して販売先の企画担当者に提案したものの、価格が合わないと取り合ってもらえなかった。時間をかけて開発した素材も取引先の担当者の考えでボツになる。商品開発の決定権が自分にないことへのもどかしさが募った。登山の経験を生かして、自分たちのほしいものが作れる会社を立ち上げようと強く考えるようになった。
高校時代から、将来は山に関連した仕事に就きたいと考えていた。すし屋を営んでいた両親の後ろ姿を見て育った私にとって、仕事に就くことは、すなわち自らが事業を起こすことだと考えていた。「20歳では早すぎる、30歳では遅すぎる」。いつのころからか、28歳がその潮目のように考えるようになっていた。
ただ、会社を辞めるにあたって、気になることがあった。それは、丸正産業への就職を世話してくれた麻植(おえ)正弘さんとの約束だった。入社の前に「一生、ここで働く気はあるのか?」と聞かれ、私はその場で「はい」と答えていた。それは決してその場逃れの偽りではなかった。その時は将来の自分の夢の実現に確信を持てていなかったのだ。
28歳が近づいた5月の連休、麻植さんに誘われて、2人で石川県の白山に春山のスキーツーリングに出かけた。宿の湯船につかりながら、そろそろ退職の思いを打ち明けようかと口を開こうとしたとき、逆に麻植さんから「お前、会社を辞めたいと考えているのか?」と切り出されてしまった。「許さんぞ。でもな、もし家業のすし屋を手伝うというのなら致し方ない。ヨーロッパにでも行って勉強してくるのもいいかも」と、理解に苦しむ言葉をかけられた。
翌日、2人で残雪の稜線(りょうせん)をシールと呼ばれる滑り止めをスキーの裏に貼り付けて歩きながら、前夜の麻植さんの言葉の真意を考えていた。そして、私は気づいた。彼は私の考えていることなどすっかりお見通しだったのだと。先を行く麻植さんの後ろを追いかけて「俺、家業のすし屋を手伝います。会社を辞めさせてください」と告げた。麻植さんは「そうか」と一言。それ以上の言葉はなかった。
28歳の誕生日、1975年7月31日付で丸正産業を退職した。翌、8月1日、大阪市西区の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業した。わずか7坪の小さなオフィスだった。設立に最低必要な資本金200万円を母から借りて銀行に預け、預かり証明書を持って設立登記を済ませた。その1週間後には全額を銀行から引き出して母に返済した。創業時の資金は正真正銘ゼロからの出発となった。
私の独立を知って大阪あなほり会の真崎文明と増尾幸子が、在籍していた会社を辞めて創業メンバーに加わってくれた。2人はヨーロッパアルプス遠征から帰国した1カ月後、正式に入社した。
社名のモンベルは真崎と考えて決めた。MONTBELLの最後にEを付ければフランス語で「美しい山」を意味する。あえて発音しないEを取り除いたのは、これはフランス語でも英語でもない言葉であり、将来グローバルな市場に参入するには特定の“国籍”を持たない社名にするのがいい、と考えたからだ。
(モンベル創業者)
【図・写真】創業メンバーは山仲間ばかり(中央が筆者)
吉田簑助さん死去 文楽人形遣い 人間国宝、91歳[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 42ページ 415文字 PDF有 書誌情報]
文楽界をけん引した人形浄瑠璃文楽の人形遣いで人間国宝の吉田簑助(よしだ・みのすけ、本名=平尾勝義=ひらお・かつよし)さんが11月7日、死去した。91歳だった。告別式は11月12日正午から大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館。喪主は妻、匡子さん。
大阪市生まれ。人形遣いだった父、二代目桐竹紋太郎に連れられて幼い頃から大阪・四ツ橋の文楽座に通い、1940年に6歳で三代目吉田文五郎に入門。43年初舞台。61年に三代目吉田簑助を襲名した。
初代吉田玉男の相手役として存在感を高め、「曽根崎心中」のお初や「本朝廿四孝」の八重垣姫など女形の多くを当たり役とした。
98年に脳出血で倒れ、リハビリを経て翌年に舞台復帰。後進の育成にも熱心で、三代目桐竹勘十郎ら多くの弟子を育てた。94年に人間国宝、2009年文化功労者。07年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
【図・写真】吉田簑助さんの真骨頂は女形だった(2018年)
辰野勇(9) 商社へ 繊維部配属、素材に出合う 仲間の死、世の無常を実感(私の履歴書)[2024/11/09 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1461文字 PDF有 書誌情報]
就職の声を掛けてくれたのは商社、丸正産業の営業幹部の麻植(おえ)正弘さんだった。関西学院大の出身で、南米アンデス山脈にも遠征経験のあった登山家だ。大阪・梅田の白馬堂の店舗の近くに会社があったので、よく店に来られ、顔なじみになっていた。
1970年12月、同社に入り、繊維部産業資材課に配属された。この部署は繊維や人工皮革といった素材をメーカーから仕入れて靴やカバンを製造する2次メーカーに納める仕事をしていた。スポーツ用品を取り扱う企業とも取引があった。以前から営業の柱になってきた製品や大口の営業先との取引を引き継ぐ傍ら、採算が取れるなら、社員が企画した事業を新規に開拓することも許された。
私は夢中になって登山用具の開発に没頭した。その過程で織物の糸の特性を学んだ。とりわけ、水を含まず軽量で強靱(きょうじん)な合成繊維に興味をもった。雨具や寝袋、テントにいたるまで、これまで使ってきた製品の弱点や欠点を補う魔法の素材のように思えた。
すでに取引のあった神戸市の住友ゴム工業には、植村直己さんとともに日本人で初めてエベレストに登頂した平林克敏さんがおられた。ポリエステルのフィルムにアルミを蒸着した登山用の緊急保温シートを提案すると、採用していただき、ラテン語で命を意味する「スピロー」という商品名を考えてくださった。さっそく特許を申請し、後に丸正産業の社長賞を頂いた。
同じ神戸市でテントの縫製をされていた友光幸二さんが考案した画期的なテントの商品化も提案した。高強度で軽量のジュラルミンのパイプを曲げてテントをぶら下げる。シンプルで組み立てが容易な自立型のテントで、これまでの常識を覆すものだった。
商社で勤務する中、山に行く機会は少なくなった。一時は世界の登山界の先頭を走っている自負さえあったが、その後、計画したヒマラヤ登山は実現できず、気が付けば周回遅れのランナーのような、そんな焦燥感を覚えていた。
74年1月、なまけた体を鍛えようと、自宅から金剛山までの往復70キロを歩いた。疲れて帰宅した翌日、大阪あなほり会の仲間の一人、唐津誠が滑落事故を起こしたという知らせが入った。兵庫県西宮市の仁川渓谷にある三段壁と呼ばれる岩場での事故だった。
さっそく病院に駆け付けた。内臓破裂の重傷で、私が面会した数時間後に彼は息を引き取った。10代の若い命が消えていく姿を目の当たりにして、人の世のはかなさを痛感した。前年の12月にも、山仲間の一人が四国石鎚山の岩場で疲労凍死していた。
事故が続いたため登山の自粛を皆で決めたが、翌2月、あろうことか、別の仲間が交通事故で亡くなった。悪い流れを断ち切ろうと皆で話し合い、登山を再開することにした。すると3月、今度は一緒にザイルを結んだこともある亀井庄吉が奥穂高岳の滝谷で雪崩に巻き込まれて行方不明になった。
その日の夜行列車で現地に向かった。雪が降り積もる中での捜索は困難を極めた。捜索隊が再び雪崩に遭う二重遭難の危険と向き合いながら、5日後、捜索の打ち切りを決断した。新穂高温泉の宿で待機していた亀井のお父さんに「生存の可能性は厳しい」と告げると、「ありがとうございました」と頭を下げられた。断腸の思いでその場を去らざるを得なかった。
5月の連休明け、雪崩発生地点からかなり離れた残雪の中から亀井の遺体が発見された。極限の登山を続けていれば「いつか死ぬ」。徐々に山への思いが薄らいでいった。
(モンベル創業者)
【図・写真】会合で他社の担当者らと懇談(右から2人目が筆者)
辰野勇(8) 登山教室 技術教える合理性に共感 新婚旅行の3日後に退職(私の履歴書)[2024/11/08 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1382文字 PDF有 書誌情報]
アイガー北壁の登攀(とうはん)に成功した中谷三次と私は、次の目標マッターホルンに向かった。ツェルマットに聳(そび)えるこの山は英国人、エドワード・ウィンパーによって初登頂されている。我々が挑んだ北壁は、アイガー北壁に並ぶアルプス三大北壁の一つとして登山家たちの憧れの的だった。
登攀の途中、少なからず危うい場面にも遭遇したが、幸い一夜のビバークで登頂に成功することができた。期せずして我々は、1年のうちに2つの北壁を登った最初のパーティーとなった。残る一つはフランスのシャモニーにあるグランドジョラス北壁だ。
既に9月半ばにさしかかっていたが、最後の望みをかけて挑戦した。結果は、風雪の嵐に見舞われ、命からがら退却を余儀なくされた。アイガー北壁の日本人第2登と、史上最年少の記録を成果として、21歳の私のヨーロッパ山行が終わった。そしてこれが、まさに私の将来を決定づける「原点」となった。
シャモニーでは「登山学校」の存在に驚かされた。日本で登山技術を習得するには、山岳部か山岳会の先輩から指導を受けるしかなかった。少なくとも金銭を支払って登山技術を習得するという概念がなかった。山岳部や山岳会は厳格で、個人の山行にも規制があった。一方、経験を積んだ熟練の会員も、後輩の指導に時間が取られ、自分が山行する時間が制約された。
そんな中、一定の技量を持った仲間が同等の立場で山行を行う「同人」が台頭し、新しい形態の山岳会のありようとなってきた。私は仲間と大阪あなほり会を結成し、自由で開かれた組織を目指した。
基本技術は登山学校で習得してから会に入る。この合理的な考えに共感した。日本でも登山学校を立ち上げたいと考えた。勤務していた白馬堂の友田彦士社長に日本初のロッククライミングスクールの開校を提案した。講師は中谷三次と私に加え、高田光政氏にもお願いした。アイガー北壁を登った3人である。
最初の講習会は1970年5月、登り慣れた御在所岳の藤内壁で開催した。公募と同時、真っ先に申し込んできたのが、当時高校生で、後に一緒にモンベルを創業することになる真崎文明だった。あどけない少年だったが、山に対する思いは人一倍熱かった。
10月、高校時代の同級生、喜代子と結婚した。ところが、新婚旅行から帰って3日後、上司との意見の食い違いから白馬堂を退職することになった。想定外の出来事だった。帰宅して妻に伝えると、「そうですか」と一言。泰然とした表情でうなずいた。
翌日からおよそ一月の無職の間、妻を勤務先に送り迎えする日々が続いた。不思議なことにこの間、有り余る時間がありながら、一度も山には登らなかった。生活を支える仕事があって初めて、山に登る思いが湧いてくる。「自分の山好きも大したことはない」のだと気づかされた。
70年にはいろいろなことがあった。大阪で開催された万博で私はネパールのナショナルデーに他の登山家と一緒に太陽の塔のあるお祭り広場の大屋根からロープで降りるパフォーマンスを披露した。社会は熱気に満ち、様々な新しい試みが生まれていた。
新たな就職先を探す中、白馬堂の常連客から「うちに来ないか」と声をかけられた。繊維に強い中堅の総合商社だ。この転職が新たな方向の道につながっていく。
(モンベル創業者)
【図・写真】大阪あなほり会の仲間と(右から2人目が筆者)
辰野勇(7) アイガー北壁 雪崩に遭遇、九死に一生 氷河の先に次の目標望む(私の履歴書)[2024/11/07 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1465文字 PDF有 書誌情報]
冬の屏風岩でザイルを結び合った中谷三次とは、その後名だたる北アルプスの岩壁の登攀(とうはん)に挑戦した。そんなある日、高校時代から抱き続けてきたアイガー北壁登攀の夢を打ち明けた。彼は一瞬驚いた様子だったが、「お前が行くなら一緒に登ろう」とその場で同意してくれた。
実現への準備を始めた。日本人として唯一登攀を果たした高田光政氏から情報を聞くことにした。彼は登攀中に滑落事故でパートナーの渡部恒明氏を失うという壮絶な経験をされている。岩壁を登る好機や天候条件など、貴重な話を聞くことができた。
1969年6月、横浜から船でナホトカに渡り、シベリア鉄道で欧州に向かった。出航の前夜は70年安保闘争でバリケードが張り巡らされた横浜国立大学の学生寮のおいの部屋に宿泊した。旅の途中のチェコスロバキアでは、列車に自動小銃で武装したソ連の兵士が乗り込んできて乗客を厳しく検閲した。「プラハの春」が終わり、世界が騒然としていた時代でもあった。
ようやくたどり着いたスイスのグリンデルワルトでは、温かく迎えられた。槇有恒氏ら日本人登山家が残してくれた友好の証しと感謝した。アイガーの麓の牧草地アルピグレンでホテルを経営するネビカ夫人に牧童のわら小屋を格安で借りて拠点にした。
近くの岩場でのトレーニングを怠らず、村の通りに設置された気圧計で天候を予測しながら登攀の好機をうかがった。登攀の成否は天候が左右する。大陸と大西洋の高気圧が帯状につながった時、1週間の好天が約束される。
7月21日午前2時、暗闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りに北壁の取りつき点に向かい、いよいよ標高差1800メートルの大岩壁に挑む。困難な割れ目と呼ばれる岩壁帯を登り切れば、一枚岩をザイルにぶら下がって振り子のように横移動する「ヒンターシュトイサートラバース」と呼ばれる核心部を突破する。
アイガー北壁の登攀の歴史では数々の悲劇が繰り返されてきた。ここは、2008年に製作された映画「アイガー北壁」の遭難の舞台だ。その後、「第1雪田」「第2雪田」を越えて「死のビバーク」と名付けられた狭い岩棚に着いた。ここを越えると退却が困難になる。まだ日は高かったが、翌日の天気を確認することにしてビバークした。
翌朝、観天望気(空を見て天気を予測する)で登り続けることを決意した。荷物を1グラムでも軽くして一刻も早く登り切るために退却用のロープや食料、カメラは置いていくことにした。「ランペ」と呼ばれる岩溝から先は中谷にリード(先頭)を譲る。
「神々のトラバース」を越え「白い蜘蛛(くも)」の雪壁にさしかかったとき、先頭を行く中谷を岩雪崩が襲った。「手を隠せ!」。私は怒鳴った。中谷は突き刺したピッケルを握って必死で耐えた。ザイルで結んだ二人の距離は約20メートル。落石がザイルを直撃して、あわや切断される寸前だった。
高校の国語の教科書で読んだハラーの著「白い蜘蛛」の場面が脳裏をかすめた。「頂上への割れ目」を抜けて最後の氷壁を登り切ったら頂上だった。狭い雪稜(せつりょう)の上に立ち、見渡す限りの山並みの先にマッターホルンの頂を見た。アイガーに次いで困難とされていたアルプス3大北壁の一つである。
登攀の最中「成功したら、後は地中海でも旅して、うまいものを食べよう」と励まし合っていた。が、頂を踏んだ途端、次の目標が眼前の氷河の先に現れた。「マッターホルン、次はあれかな……」。2人で顔を見合わせた。
(モンベル創業者)
【図・写真】北壁登攀中の筆者。撮影できたのはこの1枚だけ
辰野勇(6) 登山熱 前穂高の屏風岩を登攀 ひどい凍傷、装備の大切さ痛感(私の履歴書)[2024/11/06 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1446文字 PDF有 書誌情報]
高校を卒業後、住み込み店員として就職した玉澤スポーツでは開店前の掃除から閉店後の防火バケツの設置まで、様々な仕事を任せられた。主力商品は野球用品で登山用具の取り扱いが少なかったので、責任者にお願いして、少し売り場を拡張して頂いた。
休日には三重県鈴鹿山系の御在所岳の藤内壁に出かけた。岩場はクライミングに適した花こう岩の一枚岩だ。休みの前日、仕事を終えてから最終電車に飛び乗って湯の山温泉駅で下車、藤内壁の基地「藤内小屋」を目指した。
暗闇の中、ヘッドライトの光を頼りに黙々と歩を進めるのだが、毎週通ううち、道端の石や立木を見るだけで小屋までの距離が予測できるようになった。小屋の前のベンチで仮眠して、日の出とともに行動を開始した。高低差150メートルの垂直の岩場では、単独で滑落してもザイル操作で自己確保をする方法など、様々な登攀(とうはん)技術を習得した。
熱心に山に通う姿を見た社長から「両親から預かった子に危険なことはさせられない」と岩登りを自重するように注意を受けた。社員の体を心配しての忠告だったが、こればかりは従うわけにいかず、退職することを決意した。わずか7カ月の勤めではあったが、社会人としての基本や仕事の多くを学ばせていただいたことを感謝している。
堺市に戻った私は高校時代の恩師、副田欽一郎先生の紹介で大阪駅の近くにあった登山用品店の「白馬堂」に勤めることになった。これまでの登山経験を生かして品物を販売するのは楽しかった。登山の専門店ということで、山登りに対して会社の理解があり、山への挑戦は加速した。
そんななか、西穂高岳の岐阜県側にそびえる笠ケ岳の錫杖(しゃくじょう)岩に厳冬期、1人で挑む計画を立てた。その話を聞きつけた友人の中村幸男から「一人で登るのはむちゃだ。死ぬぞ」と脅された。たまたま彼の義兄の中谷三次も相棒がいなくて、同じ時期に1人で前穂高岳北尾根の末端にある屏風岩に登る計画を立てており、一緒に登れと勧められた。
中谷は私より10歳年上で、既に多くの困難な岩場を登った実績があり、登山界では一目置かれる存在だった。ほとんど面識のなかった彼とは電話連絡で計画を進めた。
ところが計画を実行する直前、以前から入院していた父が危篤状態に陥ってしまった。中谷には「父が危篤で、もし亡くなったら行けるが、危篤状態が続けば行けない」と告げた。後に中谷から「あんな罰当たりなことを言う男はおらん。見込みがあると思った」と当時の心境を教えられた。父は12月29日に息を引き取り、翌年1月5日から屏風岩の登攀を実行した。
厳しい冬期の屏風岩登攀中、安価なアクリル製の手袋が災いして左手の中指と薬指が凍傷にかかって感覚を失ってしまった。この時、装備の大切さを肌身で実感した。この体験がその後、私が登山用品を開発する会社を興す動機付けになったのは確かだ。
生きて帰ることさえできれば指を失ってもいいと覚悟したが、なんとか登り切って下山を果たし、上高地の木村殖(しげる)さんの小屋に駆け込んで、凍傷の指を、塩を入れたぬるま湯でほぐしてもらった。
松本市の病院で診察を受けると、応急処置がよかったおかげで指は切断しなくてもいいと告げられた。ようやく「屏風岩冬季登攀、初下降」の記録を達成した喜びを実感した。
この登攀を通じて中谷三次との信頼関係が確立し、その後、彼との様々な岩壁への挑戦が始まることになる。
(モンベル創業者)
【図・写真】穂高岳北尾根にある屏風岩を登攀する筆者